第三章 海運の都シシカ その6
「にわかには信じられませんが……どうやら本当のことのようですね」
仮面の男オーランダーは丁寧な口ぶりで話した。トドーマを殺したときの鬼気迫る形相は消え失せている。
あの後王宮の本館に案内された俺とリーフは、オーランダーはじめ数人の真正ゾア神教の僧とテーブルを囲んでいた。
元はちょっとした会食にでも使われていたのだろう、色彩を控えつつも細かいタッチの花の壁画に囲まれ、つやのある木製の食卓が置かれている。
なおトドーマが暴れまわったせいであの離れは使い物にならなくなったようで、職員たちは急いで新しい役所を準備しているらしい。
「ああ、俺がリーフ……いや、セチアを拾ってからの話はそんなところだ」
俺はここでリーフとの出会いからこれまでのことについて、端折りながら説明した。
どうやらリーフの本名はセチアというそうで、かつては本当に真正ゾア神教の一員だったようだ。
真正ゾア神教では女は髪の毛を伸ばすのが決まり事のようで、リーフも以前は髪の毛はもっと長かったそうだ、だが、俺と出会ったときには既にバッサリと短くなっており、その原因も謎だ。
そもそもリーフがあの砂漠で眠っていたことさえも謎なのだから、そんなものは大した問題にならない。
一通りの説明を終え、俺はガラス製の杯に注がれたワインを舌で転がしていた。ガラス製品はパスタリア王国の一部でしか製法が伝えられていない超高級品だ。否が応でもここが王宮であることを思い知らされる。
「セチア、本当に……私のことも忘れてしまっているの?」
俺の隣に座るリーフ、もといセチアの手を握って、スレインはぼろぼろと涙を流していた。
「すまない、何も思い出せないんだ……」
くしゃくしゃになった美少女の顔を向けられて、セチアは申し訳なさそうに答えた。
すぐさまスレインの眼から一際大粒の涙が溢れ、細く白い両手で自分の小さな顔を押さえた。
「スレイン、弱音を吐くな。セチアはすぐにでもカルナボラスに向かわせる。プラート様ならば良き知恵をお持ちだろう」
オーランダーが一喝した。
すぐさまスレインは目を指でこすり、真っ赤になった目を俺に向けてぺこりと一礼した。
「あの、オーカスさん、私、さっきは、疑ったりしてしまって、ごめんなさい。セチアが本当に、き、記憶を失っていたなんて、知らなくて、つい……」
言葉に詰まりながらたどたどしくしゃべるスレイン。
「気にすんな。とりあえずセチアが仲間に会えて俺はほっとしたよ」
俺は軽く手を振って笑いながら答えた。
実は先ほどスレインがリーフと対面した時、俺はセチアを誘拐した変態だと勘違いされたのだ。偶然出会った旅の商人だと何度説明しても興奮したスレインは聞く耳を持たず、危うく水の縄で絞め殺されそうになったところで「間にオーランダーが入ってようやく話を聞いてくれた。
「ところでオーランダーさん、あんたら真正ゾア神教てのは一体何なんだ? 俺はずっと旅に出ていたから何のことやらわからんのだ」
「真正ゾア神教とは、預言者であるプラート様に下された神の教えを広め、すべての人間に救済を与えるために身を捧げる我々のことです」
預言者プラート。これが真正ゾア神教の開祖であり最高司教だ。
オーランダーの話によると、このプラートという男はパスタリア王国に住む貧民だったが、4年前のある日唯一神ゾアから預言を与えられ、同志を募って真正ゾア神教を結成したという。
「ゾア神教は歴史の中で成立当初の志は失せ、金と権力にまみれた集団になってしまいました。ある国の王は教団に賄賂を贈り、神より王権を授かったと主張しました。寄進をせねば地獄に堕ちると宣伝して免罪符を民衆に売りつけてもいました。このような連中、神が断じて認めるはずがありません!」
オーランダーの声にも熱がこもり、拳を強く握りしめているのがわかる。
真正ゾア神教の教えは、旧教、つまりこれまで信じられてきたゾア神教の否定だった。正確には新たなる預言を受け、神の教えを刷新するという内容だが、実情は大きく異なっている。
ゾア神教の僧たちが腐敗して民衆を食い物にしていることは多少世間に詳しい者なら誰でも知る常識だった。奴らは無知で純朴な人々を騙してうまく金を吸い上げるシステムを確立しており、そこで得た経済力で各地の権力者をも言いなりにしているのだ。
そんな腐敗した旧教に代わり、表立って政治に関わり現世での救済を民に与えることが彼らの務めである。救済の範囲は異教徒を含めたあらゆる人間であり、地上のすべてに改めてゾア神の教えを広めるまで積極的な布教に励むのだという。
ここで俺は反発した。
「地上のすべてにゾア神の教えを、ねえ。俺が東方で見てきた国はどこもかしこもゾア神教とはまったく違った信仰があったが、あれをどうにかするのは難しいぞ。そもそも国や地域で違った教えがあったからこそ色んな技術や商品が生まれてきたんだ、全部を同じにするなんて俺にはただの押しつけにしか思えないのだが」
異教とはいえ、シシカモスクをあんな風にしたことを俺はまだ根に持っていた。
オーランダーの肩がピクリと動き、緩んでいた頬がこわばった。
「誤解されては困りますが、我々が行うのは単なる布教ではありません。神の意思による人類の救済です。このシシカも東方の玄関口として商業の栄える一方で、的外れな教義を押し付ける異教に染まっています。これでは現世でも、死後でも救済は訪れません。そんな哀れな民も等しく導くのが我々真正ゾア神教の役目なのです」
「的外れな異教って、アラミア教のことか? 商人も農民も同じように教義さえ守れば死後救われるってところで俺たち商人にはウケが良かったけどな」
突如、オーランダーのマスクの隙間から鋭い眼光が向けられ、俺を貫いた。
「オーカス殿、あなたはアラミア教を信じているのですか?」
明らかに雰囲気が変わった。さっきのトドーマと対峙していたときと全く同じだ。
慌てて俺は首を横に振った。
「いいや、俺はアイトープ出身だ。ゾア神教に背くと分かりながらも生きる糧を得るために商売に精を出しているよ」
「そうですか……」
ここでオーランダーは元の穏やかな表情に戻った。
「ところでオーカス様、あなたは商人です。旧来のゾア神教にすがる世では辛かったでしょう。ですがご安心ください、ゾア神は商人にも貴族にも等しく救済の手が差し伸べられます」
オーランダーは優しく語りかけたが、俺はワインを口に含み、その仮面の奥から突き刺さる不気味な視線から気を逸らした。
地獄に堕ちるはずの商人も救われるとは、何とも嬉しい教えではないか。だが、こいつらを信頼することは俺にはどうしてもできなかった。
その後も話を続けてわかったことだが、現在真正ゾア神教はパスタリア王国を中心に内海沿岸部で定着し始めているようで、現在は北方への進出も計画しているそうだ。
故郷のクーヘンシュタットにも布教には出向いているが今一つ広まっていないと聞いて、俺は心底安心した。
プラートを含む真正ゾア神教の僧侶たちは貧民を中心に支持を得て、その後国を乗っ取り神の教えに従って民衆を導くのだという。
だが、西の国々で生活に根差している旧教をぶち壊すなど、一代では到底不可能だ。普通、教えというものは何百年もの時間をかけて広がっていくものだ。
それなのに真正ゾア神教が短期間でここまで広がった最大の理由には、奇跡の力がある。
「プラート様は預言とともに、ゾア神より奇跡を与えられました。プラート様により祝福の儀を受けた者は、神の奇跡を代行できるように、つまり人知を超えた神の力を行使できるのです」
リーフの雷の力やトドーマの吹雪はこれが正体らしい。
司祭以上の僧や優れた神団兵、プラートが特に熱心だと認めた信徒には神の祝福を受けるの。それによって奇跡を起こせるようになり、人心を掴めたという。
「セチアは元はカルナボラスの貧しい家の娘で、食べる物にも困り盗みに走ったこともあります」
「泥棒なんて悪い奴だな……あ、私のことか」
やっぱこいつの抜け目の無さは筋金入りじゃないか。
「ですがプラート様と出会ってからは神の教えを熱心に学び、そして天性の格闘の素質を見込まれて祝福を与えられたのです。セチアは我々の仲間として、神に尽くす役目にあったのです」
「そうよ、私が何度もセチアに教典を読み聞かせたのだから。これからは筆記も頑張ってお勉強しましょう!」
スレインがセチアの背中から肩に手を乗せ、嬉しそうに言った。セチアがやたらとゾア神教に詳しかったのは、このスレインのおかげだろう。
「オーカス、待ってくれ!」
「おうリーフ、いや、今はセチアか」
俺が宮殿を出たとき、太陽は西の水平線スレスレまで下降し、都中を夕焼けの赤に照らしていた。城門を抜けてアコーンの縄を解いていると、城の中からセチアが走って出てきたのだ。
緑のシャツに白いズボンはそのままだが、ズレ落ちた月桂冠を頭に載せている。真正ゾア神教では儀式の際には頭に植物の冠を載せるそうで、もしかしたらお祈りを抜け出してきたのかもしれない。
俺の姿を見かけてからずっと走ってきたのだろう、ゼエゼエと呼吸を繰り返しながら俺の目をまっすぐ見つめ「これでお別れなのか?」と尋ねた。
「元々シシカまでっていう約束だったし、お前も元の仲間たちと再会できたみたいで万事解決じゃないか」
「オーカス、スレインたちがいくら私のことを話しても、私は自分が何者だったのかまるで思い出せないんだ。セチアと呼ばれても違和感しか残らないし……ここにいると皆を悲しませてばかりだから辛い」
「何くだらねーこと言ってんだ。んなもんすぐにどうでもよくなるさ。それに奇跡の力を与えてくれるプラート様って人なら、きっとお前の記憶も取り戻してくれるんだろう? それならお前、今やるべきことは何だ?」
「それは……とりあえず本部のあるカルナボラスに行くことだろう」
そう言いながらセチアの目は地面へと逸れていった。
「そうさ、お前にはやるべきことがある。俺だってこれから香辛料と絨毯をどこかで売りつけなくちゃならねえ。お互いやるべきことをやるように、元に戻っただけじゃねえか」
「でもオーカス、お前とはもう会えないと思うと、私は寂しい」
俺の身長が高いのでセチアはどうしても上目遣いになるが、その角度で覗かれながらそんな風に言われると少しドキっとする。だが、いくら足掻いたって仕方ないものは仕方ない。
「そら別れってのは寂しいものさ。でも俺は旅の商人、何か縁があったらいつか必ず思いがけない所で出会えるってもんさ」
「そうかな?」
「そうさ、いつもゾア神に祈っておくといい。お前も信心深い性分なんだし、きっとゾアの神はお前の願いを叶えてくれるよ」
俺はアコーンの手綱を握ると、わざと後ろを振り返らず足早にこの場を離れた。
城に続く道をまっすぐ進み、うんと距離をとってからちらっと振り返ると、城門の前には小さくなったセチアがまだこちらを向いたまま立ち尽くしていたのだった。




