第三章 海運の都シシカ その4
「あ、兄貴ぃ……」
建物の外から顔をのぞかせた商人たちが変わり果てた姿になった仲間の下に駆け寄った。
表面に貼り付いた氷を払うと、目を見開いたまま動かなくなっている男たちが現れる。しかし目の前で手を振っても、瞬きひとつしない。
「彼らは神の奇跡を受け、天に召された。その魂はゾア神によって許され、永遠の安息を過ごすだろう」
トドーマ司教は再び掌を合わせた。
突っ立ったまま死んだ仲間にすがり付き、商人たちはぎゃんぎゃんと泣き始めた。そんな彼らも外に避難していた衛兵によって連れ出されてしまった。
なんて力だ。これが神の奇跡なのか?
リーフの雷以上にぶっとんだ出来事。もはや想像も常識も及ばぬ神の境地。
真正ゾア神教という俺とは相容れなさそうな集団の人間であっても、信じられない光景を前にしてはこの醜悪な司教がやけに神々しく思えてきたのだった。
「オーカス、床が冷たい。立たせてくれ」
俺が覆いかぶさっていたためにうつ伏せになっていたリーフが途切れ途切れに言った。
無意識のうちに自分が片膝を立てて司教に跪こうとしていたのに気付き、俺は慌てて立ち上がった。
俺が体を伸ばすと外套や帽子に降りていた霜がぱらぱらと落ち、氷のように冷たくなった床からリーフが跳び上がった。
「さ、寒いー! あの司教様がこんな力を持っているのか?」
身体中に付いた霜を払い落とすため、リーフは頭にかけていたスカーフを外した。
そして左右に頭を振ると、乱れた金髪からきらきらと細かい破片が飛び散った。犬かこいつは。
それだけ騒々しければ周囲の注目を浴びるのは当然。外から二人の衛兵が駆けつけ、リーフと俺に肩を貸してくれた。
「逃げ遅れましたか、災難でしたね。今温かい飲み物をご用意しますので、こちらへ」
親切な兵士たちに連れられて建物の外へ案内される俺とリーフ。だが、その様子をちらっと見た司教の眼がすぐに見開かれると、驚愕の表情でリーフを指差したのだった。
「キ、キミ、なぜここにいるんだ?」
「へ、私のことか?」
寒さに震えながらリーフが答える。
「司教様、この娘に見覚えがあるのですか?」
俺は衛兵の肩を借りながらも一歩前に出た。
「知っているとも、この娘は我々の同志、真正ゾア神教の一員だぞ。見覚えがある」
なんということだ、リーフを知る人物と出会ってしまった。それも相手はこのトドーマ司教だ。
この時の俺にはこれでリーフを元の居場所に戻せるという安心感よりも、漠然とした失望感の方が強く押し寄せていた。
リーフが真正ゾア神教の関係者であることはわかり切っていたが、俺はどうしてもそう信じたくなかったのだ。こんな極端な連中に、リーフが関わっていてほしくないと心の底では願っていた。
だがそれは所詮、無駄な願望に過ぎなかった。
「確かキミはマグノリア君の部下だったろう? 彼は部下全員を連れてカルナボラスに帰ったと聞いたぞ、何でここに残っているんだ? それにその髪、なぜ切ってしまったのだ? 前までキミは腰までその金髪を伸ばしていたじゃないか、神の教えはどうしたんだ?」
トドーマは矢継ぎ早に尋ねながらリーフに詰め寄った。
小男とはいえずんずんと迫られると少々怖いようで、リーフはたじろいで脇で支えていた衛兵に身を寄せた。
「だ、誰のことです? 私には本当にわからない」
「とぼけるな、兵長のマグノリアに決まっているだろ!」
リーフ小さく飛び跳ね、衛兵の腕を強くつかみ寄りかかった。その震えは寒さのせいか、司教の気迫に押されているためか。
「司教様、リーフ……いや、この娘は俺が東の砂漠で倒れているのを拾ったのですが、その時には過去の記憶を失っておりまして。一体この娘は何者なのです?」
俺が横から割って入ると、司教は足を止めて俺とリーフの間で目を何往復もさせた。
「記憶を失っているだと? それに東の砂漠? 馬鹿な、一体全体どういう……」
その時、司教ははっと何かを思いついたようで、すぐさま後ずさりした。
「そうか、キミたちプラートの差し金だな」
また新たな人物の名だ。
「なるほど、嗅ぎつけたか……そして油断させて殺すつもりか」
司教はブツブツと何かつぶやきながら頭を押さえた。よく通る声はなりを潜めたが、心中は穏やかでないようだ。
「いかがなさいました司教様。マグノリアにプラートとは一体?」
「だまらっしゃい!」
司教に聞く耳は無い。太った身体からの大怒号には俺もリーフも、衛兵たちもたじろいだ。
「私は騙されん、ここで死んでもらうぞ! 聖歌隊で鍛えた自慢の肺活量、とくと味わえ!」
トドーマ司教が再び息を深く吸い込み始めた。俺たち二人をしっかりと目でとらえたまま腹だけがどんどんと膨らんでいく。
その目は本気だった。先ほど商人を殺した時をはるかに超える殺気に満ちている。
「逃げろ、俺たちも巻き添えだぞ!」
衛兵が俺たちを捨てて外に飛び出したので、俺は床に片膝をつき、リーフはまたも地面に倒れてしまった。
床一面にできた霜が服の上からも分かるほどに痛く冷たい。
「話の通じる相手じゃない、逃げるぞリーフ!」
俺は渾身の力で立ち上がると床からリーフを担ぎ上げ、そのまま扉の外へと逃れた。
その直後、背中から凄まじい暴風が吹き付けた。もちろんトドーマ司教の冷気だ。
生身の手や首筋に猛烈な痛みが走り、体の力が抜ける。それでもなおリーフだけは離すまいと、俺はより一層腕に力を込めた。
その吹雪が追い風になって、俺とリーフは建物の外に放り出される。落ちた場所は花畑で、柔らかい草の葉がクッションになって俺たちを受け止めてくれた。
踏みつぶしてしまって申し訳ない。そう思った瞬間、扉から吹き出す冷気を浴びて残りの花たちも一斉に凍結し、白い氷の結晶に包まれたのだった。
「リーフ、無事か?」
立ち上がると、踏みつけた花がパキポキと折れる音がする。
「私は大丈夫だ。だが、王宮が……」
目を滲ませてリーフが顔を上げた。
トドーマが冷気を吹きかけたせいで、王宮の庭園にはすっかり霜が降り、鮮やかな花の色彩の中に一部だけ白い絨毯が敷かれていた。
直撃していたら俺たちも凍り付いていた。
「逃げるぞ、あんなの相手にできない!」
「逃げるって、どこへ!?」
手を掴んだリーフがよろよろと立ち上がりながら言うと、俺は庭を見渡した。既に先ほど逃げ出した住民や商人の仲間、それに衛兵までもが城門の近くまで逃げ、こちらを見守っている。
司教の攻撃は声とともにはじまり、その範囲はとても広い。このだだっ広く隠れる場所も無い庭園では、あいつにとって俺たちは格好の的だ。逃げた衛兵もそのことは理解しているようで、下手に助太刀しても巻き込まれるだけだと理解しているのだろう。
「とにかく、あの冷気をやり過ごせる場所を探さなきゃ」
ああ、剣はアコーンに縛り付けたままだ。厩舎の見張りが荷物番は任せろとえらく張り切っていたが、頼ったのが仇になった。
そもそも王宮に剣なんか持ち込んだら即刻牢屋に放り込まれるだろうが。
「待てい、死ぬまで逃がしはせんぞ!」
あまり機敏でないが司教はてとてとと走りながら開け放たれた入り口から建物の外に出る。そして凍結した花畑に佇む俺たちを見ると、にたっと笑いながらまたまた息を吸い始めたのだ。
まだ凍っていない花々が風に揺れ、木の葉が舞い上がる。あの冷気から隠れる場所などここには無い。
目の前の司教は扉の前で
もう腹をくくるしかない。最後の瞬間に賭けてみよう。
「リーフ、建物の裏に逃げろ!」
俺はリーフの手を離し、背中を強く叩いた。
よろめきながらもリーフは「わかった」とだけ言うと、花を踏みつけて走り出した。
そのリーフを目で追いながらも息を吸い込み続ける司教。やはり狙いはリーフ、となると俺への注意は逸れた。
今だ。俺は司教めがけてまっすぐに走り出した。
腰を低く落とし、地面に胸が擦れそうな体勢のまま一直線に、猛牛のように。
司教がこちらに気づく前に、俺は司教の膝を狙ってタックルをかました。
肩が司教の太ももに食い込むと、そのまま膝に両腕を回してがっちりと固め、そのまま押し倒す。
その刹那、風の音が止んだ。司教が息を吸い込むのをやめたようだ。顔は見えなかったが、目を飛び出させて驚いているに違いない。
全力の一撃で司教を背中から床に叩きつけた。凍結した床は氷のようで、司教は背中が、俺は膝の皿を床にこすらせながら滑った。
膝がヤスリをかけられているように痛い。だが、司教の肉まみれの身体を強くつかみ、俺は必死に耐えた。
そして俺たち2人はそのまま床を滑り、そのまま建物の中に戻っていったのだった。
仰向けになったまま、司教は何が起こったのかわからないといった風に目と大口を開いていた。
そして滑る勢いが弱まると、俺は司教の両足をつかんだまま横へと半回転し、無理矢理うつ伏せにさせた。
顔面を凍りついた床にぶつけ、司教は堪らず立ち上がろうともがいている。
だがそんなことはさせない。とにかくあの口を俺たちに向けて開かせてはならない。
俺は司教の両膝を抱え込むとすかさず背中を踏みつけ、そのまま関節を逆に曲げさせた。分かりやすく言えば逆エビ固めの要領で、司教の口を完全に俺とは逆の方向で固めたのだ。
これには司教もついに痛みの声を上げた。
「いでぐおおおおおおおお!」
溜めに溜め込んだ空気が超低温の冷気となって司教の口から逆流する。
だが、顎を床に着けた司教の吐いた冷気は床にぶつかった。司教の鼻先を中心にバキバキと凍りつき、霜が同心円状に広がって、やがて石造りの床一面を白く染めたのだった。
床から上る冷気は厳冬の夜以上で、狼でも死に絶えてしまいそうだ。
その冷気をまともに受けたのはうつ伏せになっていた司教自身だった。
凍りついた湖面のようになった床に密着していたせいで、司教の体やには床からどんどんと小さな氷の粒が付着し出し、ついには全身白い霜で覆われてしまった。
背中を踏みつけている俺のブーツにも霜が上り、あっという間に両足の脛まで氷を纏ってしまった。
しかし、そこまでだった。
床を走る白い氷が壁を上り始めた頃には、司教の自慢の肺活量もとうとう底を尽きた。
氷の結晶のこびりついた俺の両足の下には、雪の中でガチガチに凍結した生肉のようになってしまった司教がいた。
目を開きカエルのように口を開いたまま、人形のように固まっている。
やった、司教を倒したぞ。俺の全身から力が抜け、その場にへたり込んだ。床に思い切り尻を置いたために、床からの猛烈な冷気で尻がナイフで刺されたように痛んだのですぐに跳び上がってしまったが。
「オーカス、無事か?」
リーフが入口から顔をのぞかせた。俺は力なく片手を振った。
「死ぬかと思ったが、なんとかな」
安心感のせいか、どっと疲れた。なんとかリーフの傍まで歩くも足元はフラフラだ。
「まあこいつのやることは恐ろしいが、体力は俺の方が上だったな。こいつの息も俺の力でねじ伏せて」
強がりながら笑っていると、後ろから突然ピシッと何かが割れるような音が起こった。
振り返ると、さっきまで完全に固まっていた司教が両手を床に着き、ゆっくりと立ち上がろうとしていたのだ。少し動く度に身体にまとわりついた氷が割れ、ガラスのような破壊音が発せられている。
「な、あれで死なないのか?」
俺はリーフを背に回し、再び低く身構えた。
司教の身体から氷の破片がぼろぼろと崩れ落ち、ついには瞼も自由に動かせるまでになると、その目をこちらに向けて不気味に笑いかけたのだった。
心の奥まで見透かすかのような、いやらしい笑みを。
「私は神から奇跡の力とそれに耐えうる肉体を与えられたのだ。自分の息で死ぬなど笑止千万」
司教はすっかり立ち上がると、下品な高笑いで腹を震わせた。
背は俺たちよりもずっと低いのに、見下された気分だ。
「さあ今度こそ最期だ。キミたちは神によく殉じた、救済を祈って殺してやろう」
司教がまたも息を吸い込み、部屋の空気が一気に肺に流れ込んでいく。
万策は尽きた。
俺はリーフを抱え込むと司教に背中を向けて屈んだ。少しでも冷気の直撃からこの娘を守るために。
「オーカス、諦めるな!」
リーフは俺の腕から離れようと抵抗するが、もう遅い。
俺は目を閉じ、死を覚悟する。
その時だった。何の前触れも無く地面が揺れる衝撃と爆発音が同時に起こり、司教が息を止めてしまったのだ。
俺もリーフといっしょに音のした方向に目を移すと、石造りの建物の壁の一部にぽっかりと大穴が開いていた。散らばった瓦礫からは煙が立ち上り、所々小さな炎も燃え移っている。
そして今しがた開いた穴の外から、一人の男がゆっくりと中へ入ってきたのだった。
燃えるような真っ赤な髪の毛に、目元だけを覆う金色の不気味なマスク。そして白のローブに真っ赤なマントを羽織った、ひょろりと背の高い男だった。
「オ、オーランダー…」
赤髪の男を前にして、トドーマ司教は口から白い息を吐き出しながらわなわなと震えていた。
10万文字まであと一息!
一気に新しい人物の名前が複数登場しましたが、本格的な登場はもうしばらくお待ちください。




