第三章 海運の都シシカ その3
「役所って……」
「これ、宮殿じゃないか!」
道行く兵士に教えられた役所とは、なんと皇帝の宮殿だった。聞けば建物の一部を役所として開放しており、住民からの要望を常に聞き入れているのだという。
当然、皇帝陛下は一般人の入れない安全な場所におられるそうだが、やはり不安だ。
だがそれ以上に、俺はらしくもなく浮かれていた。今にもスキップで歩きそうな勢いだ。
「おいおい、宮殿だぜ。一般庶民が入ったらたちまち晒し首なのに、今日は堂々と入れるぜ」
「オーカス、楽しそうだな」
アコーンの手綱を引くリーフの目は冷めきっていた。
俺たち下賤の者が城門をくぐってこの空間に入ることなどかつては許されなかった。俺も様々な国を回ってきたが、王宮に入ったのはこれが初めてだ。この興奮を抑えられるはずがない。
シシカ宮殿は海に突き出た岬の上に佇んでおり、夜は灯台のようにきらびやかだという。
岬は落差50メートルの崖になっており、海からの襲撃を自然の要塞で防ぎつつ、市内を一望できるので陸からの敵にも睨みを利かせている。
宮殿の城壁は都市の外壁のように積まれた石の継ぎ目が見えるものではなく、雪色の漆喰と極彩色のタイルで飾られていた。
蛇の細工の施された重そうな城門は開け放たれており、俺たちはちょうど見るからに食うものに困っていそうなよぼよぼの爺さんが出てくるのとすれ違った。
城門をくぐった先には広大な庭園が待ち構えていた。
何台もの馬車を並走できそうな一本道の両脇には、世界中の色彩豊かな花が絨毯のように咲き乱れている。この季節は滅多に雨も降らないのに。地下水をくみ上げているのだろう。その証拠に中心部には噴水もあるが、今は干上がっている。
この景色から連想されるものはただひとつ、絵に描かれた天国そのものだった。衛兵がいなければ、草の上に寝転がっていただろう。
「すげえな、善人は死後こんな場所に誘われるのか?」
「うーん、私はこういう静かすぎる場所は嫌だな。グランドバザールみたいに賑やかな方が良い」
「お子ちゃまだなあ。こういう趣も感じ取れるようになってこそのレディーだぞ」
「趣も何も、ここは人の営みというか、活気が感じられないじゃないか」
リーフは頬を膨らませた。人の営みって、つまり食い物が無いからじゃないのか?
役所として使われているのは一軒の離れ―—と言っても普通の家屋5軒分くらいの大きさは超えているかなり立派なものだ―—だった。ここで住民に関する手続きを行っているという。
厳かな王宮でも、この建物中からだけはワイワイと人の話し声が聞こえる。俺たちと同じく用事があって来ている住民だろうか。
中に入って真っ先に目に飛び込んできたものは、ずらっと横に長いカウンターだった。そのカウンターに十人以上の職員が立ち並び、あれこれと申請に来る者の相手をしている。
「私スラムに住んでいるんだけど、食糧が少ないの。小さい子供もいるし、もっと良い物食べさせたいんだけど」
「予めお伝えくだされば小さなお子様のための食糧を準備いたします。お母さまにも母乳がよく出るような食品を用意しましょう」
「この前のアラミア教徒の反乱で怪我をしちまってよぉ、その治療に金がかかったんだけどさ、なんとかならない?」
「それならば国が費用を負担します。アラミア教徒の反乱を防げなかった我々が責任を負いますので、ご安心ください」
本当に、いろんな奴らが相談に来るな。特に金に関しては皆シビアで、少しでも損得がはたらくと我先にとカウンターに押し掛けている。
それにしても、このタルメゼ帝国の財政は行き詰っているというのに、こんなにサービスして大丈夫なのだろうか。真正ゾア神教がバックアップに回っているのか?
「お客様、どういったご用件で?」
入口の近くで突っ立っていた俺たちに衛兵の一人が声をかけた。
「ああ、カルナボラス行きの船に乗りたくてな。ここで申請しなきゃならんと聞いてここまで来たんだ」
「さようでございますか。それではあの端のカウンターにて受け付けておりますが……他の方もご利用中ですので、今しがたお待ちください」
腰の低い衛兵に案内され、部屋の隅の椅子に腰かけて待つことにした。
多くの国々は軍事、警察、公共事業程度しか関心を示さないというのに、この国は随分と住民に気を遣っているようだ。貧民にも施しを与えるなど、まるで僧のようではないか。真正ゾア神教によって、国の責務に貧民の救済が加わったのだろう。
そんな風に考え事をして時間を潰していたが、先に相談に来ていた一団が随分とごねている。後ろで待ってる奴もいるのに、いつまで粘るつもりだ。
「おいおい、うちは家族全員病気で倒れているんだぜ。俺だって伝染病で歩くこともままならない中、這ってここまで来たってのに」
お前、歩いてんじゃねーか。しかもピンピンしてるだろ。
「その伝染病については既に流行地区に医者を派遣しております。食料と薬も現地で配給しております」
「あんなんじゃ足りねえよ、うちには食欲旺盛な子どもが五人もいるんだぜ」
その子供は伝染病で倒れていたんじゃないのか?
そんな時だった。建物の中に10人ほど、男たちの一団が入ってきたのだ。
無言のままずかずかと上がり込んだ男たちは目に入る人々すべてを睨みつけて回っていた。俺と目を合わせた奴もいたが、その時はこちらも負けじと睨み返してやった。
「お客様、他の住民もおられますので……」
腰の低い衛兵が立ち塞がるが、一斉に全員が「あん?」と低い声で答えると、さっさと道を開けてしまった。弱すぎるぞ、衛兵。
とうとうカウンターに立っていた住民たちも押し退け、一人の職員に詰め寄った男たち。
「ど、どういったご用件でございましょう?」
哀れ一人で10人以上の男を前にした職員は気丈にも対応するが、その声は震え今にも泣き出しそうだった。
「責任者を出せ!」
「商人への税金が重すぎる、何とかしろ!」
「働かない貧民どもに金を与えておいて、何が公平だ! それなら俺たちにも金を寄越せ!」
口々に騒ぎ始める男たち。どうやら全員商人で、この都の統治に不満があるようだ。まあ、税金が上がったのは同情するが、ここまでがなり立てる必要は無かろう。
男たちは皆が皆興奮していて、もはや誰が何を言っているのかわからない。こんな連中相手にして職員も大変だろうが、順番待ちしている俺にはこいつらが邪魔者以外の何物でもない。
少し文句言ってやろうか。席を立ち上がろうとしたその時だった。
「まあ落ち着きなさい、諸君」
いつの間にやら、集団の後ろに中年の小太りの男がちょこんと立って、両手を広げて男たちを宥めていたのだ。
てかてかの黒い髪を油で固め、白いローブを床にひきずらせているその風貌から真正ゾア神教の僧だろう。だが純粋さを醸し出すマホニアとは違い、この小太りの僧は世俗に入り浸っているようないやらしい目つきを振りまいていた。
「と、トドーマ司教様ぁー」
すっかり小さくなってしまった職員が涙ながらに助けを求める。うん、お前はよく耐えた。
それよりも驚いたのはこのトドーマとかいう小太りの僧が司教と呼ばれたことだ。皇帝はゾア神教の言いなりだとすれば、シシカの都はこの男が実質権力を握っていることになる。
そんな雲の上の存在が、俺たちと同じ部屋で商人たちと会話を交わしている。しかも相手は血気だった複数の男たちだ。以前なら権力者が目にすることも無かった相手なのに。
「おう、あんたが司教か。突然やってきて支配者面ふりまきやがって」
特に大柄な男が前に出て、その太い腕を司教の前でさらけ出した。司教のいやらしい目つきはぴくりともせず、そのまま男に向けられていた。
「税金の上に寄付を収めろ、だあ? 皇帝陛下のお気に入りだからって度が過ぎるぞ!」
「そもそも俺たちはあんたらのことなんか信じちゃいねえ。商売に有利になるからって聞いて改宗しただけだぞ!」
「我々は神の意志に従い貧民を助けているのだ。キミたちのお金は無駄にしていない、きちんと現世の救済に、世のためになっているよ」
トドーマ司教はにこやかに答えたが、商人たちの怒りは一向に治まる気配は無い。
「そんなこたぁどうでもいい! 税金安くしろよ」
ここでトドーマ司教はふうとため息をついた。
「なおもわかっていないか。キミたちも見ただろう、ゾア神の奇跡の力を授かった者たちを。それでもまだ、キミがその歳になるまで何の奇跡も起こしてくれなかったアラミアの神を信じるのかい? いいかい、アラミア神は虚構の存在、つまり妄想の産物なんだよ。奇跡も起こせないどころか、存在すらしないわけだ。この世は全知全能のゾア神のみが世界の理を司っているのだよ」
「そのご高説は聞き飽きた、貧民を救うために商売やってるんじゃない!」
「寄付とか言って、本当はお前がちょろまかしているだけじゃないのか?」
ここで司教の耳元がピクリと動いた。
「祝福を受けたこの私にそのような口を利くか。これ以上の横暴は神への冒涜として受け入れるぞ」
「知ったものか、ゾア神でも悪魔でもなんでも来やがれ」
この一言はさすがの俺でも腹が立った。リーフも同じようで、椅子から立ち上がろうとしていたが、すかさず俺が腕をつかんで制止した。
一方のトドーマ司教は怒鳴り返すことも無く、不気味に微笑むと、両手を組んで祈り始めたのだ。
「神よ、この哀れな者たちをお許しください。制裁は私が代行しますので、どうか死後の救いを」
「おい、何祈ってやがる」
商人の一人が一歩前に出る。
その時、司教は大きく息を吸い込んだ。ローブの上からでも腹が肥大するのがわかるほど膨張し、周囲の空気が全て司教の口へと流れ込んでいくのがわかる。
「皆さん、外にお逃げください!」
衛兵が叫んだ。他の住民は慌てて出口に殺到し、職員は全員急いでカウンターの下に潜り込んだ。
商人集団からも何人かが逃げ出したが、それでもなお5名の商人が動かずに残っていた。
「おいおい、何しようってんだ?」
大柄な商人が粋がって司教に向かい合うが、その頬には冷や汗が伝っていた。
「もしかしたら、あの司教!」
俺は勘づいた。もしやあの男、リーフと同じような神の奇跡の力を持っているのかもしれない。
「私と同じ力の持ち主なのか?」
リーフも俺と同じことを考えていたようだ。
俺たちは外に逃げ出さず、部屋の隅で身を屈めた。司教が力を使う瞬間を、どうしても見たかったのだ。
「ぶおおおおおおおお!」
ついに司教はカエルのように膨らんだ腹から、一気に空気を吐き出した。
戦場に鳴り響くラッパのような大音響と猛烈な風が部屋に吹き荒れ、俺は帽子を押さえながらリーフに覆いかぶさった。
羊皮紙が天井まで舞い上がり、木製の小物が倒れ床を転がる。人間の吐息のレベルをはるかに超えている。
そして身を切るようなこの冷気。この部屋で巻き起こる風は、まるで真冬の吹雪のように冷たく俺たちの身体を突き刺すのだ。
夏だというのに気温がぐんぐんと下がり、露出していた俺の手がかじかむ。目の上にも冷たい何かが貼り付いている感触があり、どうやらまつ毛につららが生えてきたようだ。
ほんの数秒間ほどのはずだが、随分と長く感じられた。ようやく司教の起こした吹雪が治まると、床には小さな氷の欠片が散らばっていた。
これほどの吹雪、寒村である俺の故郷でも年に一回吹くかどうかだ。それをまともに受けた商人たちはと言えば、見るに堪えないひどい状態だった。
荘厳な装飾に囲まれた部屋の中、小さな氷が身体中にびっしりと貼り付き、樹氷のように突っ立った五本の雪柱が残されていた。




