第三章 海運の都シシカ その2(挿絵あり)
思えばこのシシカに来てモスクへと直行したため、この都の今の状態をろくに見ていなかった。
内海の最奥に位置するシシカは、航海術の乏しい時代は船で行ける最東端だった。そのために西の商人は船で、東の商人は陸路で商品を運んでは、互いに交換をして祖国に持ち帰る物流の拠点となり、やがて帝国首都へと発展した。
5年前には世界各地様々な民族の旅人が行き交う世界の縮図のような都で、俺自身何を見たのか詳細すら思い出せないほど生まれて初めてのものが多すぎた。それでも、かつての繁栄を知る老人によるとすっかり寂れてしまったのだという。
だが、今のシシカにその時の面影は無い。
道を行く人々の服装はほぼ同じ、白一色で統一されている。稀に異国の旅芸人だろうか鮮やかな見慣れぬ衣装の者が通りかかると、皆がそちらを向いてしまうほどに目立っている。
ただでさえ白い壁の家屋が密集するこの都でなのに、人間まで真っ白になってしまったら明るさで目がやられてしまいそうだ。
「なんか私たちもじろじろ見られていないか?」
リーフが俺の耳元に顔を近づけ、小声で言った。
背の高い俺は周りから注目されるのは慣れっこだが、普段は感じないほどの視線を浴びることにリーフは戸惑っていた。
俺の羽織る茶色の外套も好奇の目で見られるようになるとは、世も末だ。
「よう異国の旅人さん、腹減ったろ。サバサンド食ってかない?」
軒先のカウンターから男が顔を出し、俺たちを呼び止めた。
「わ、すごいにおいだな。何だこれ?」
気になる視線はどこへやら、リーフはくるりと方向転換すると一目散にカウンターまでとんで行った。
カウンターの奥には巨大な鉄板が見え、その上には頭だけ落とされた魚が二十尾以上所狭しと並べられ、じゅうじゅうと音を立てている。シシカは海運の要衝だけでなく、良質な漁港としても有名だ。
焼かれたサバの半身から立ち込めた白い煙は路上へと溢れ出し、香ばしいにおいを街角に届けていた。
「今朝漁師が獲って来たばかりの新鮮なサバだぜ。お嬢ちゃんかわいいから特別にでっかいサバ入れちゃうよ」
「本当か? じゃあ―—」
「じゃあ、じゃねーよ。誰の金で食ってると思ってんだ……と、確かに美味そうなにおいだな。せっかくだし昼飯にするか」
「まいどー。ひとつ銅貨3枚だよ」
ずっと内陸を歩いてきたから海の魚は久し振りだ。身からしみ出した油の焼けるにおいを嗅いでそのまま素通りするなど、まず無理な話だ。
「なあ、この都はどうなっちまったんだい?」
アツアツのサバをパンにはさんでいた店主に俺は尋ねた。
「ああ、アラミア教が国教から外された途端、ゾア神教の連中がのさばり始めたんだ。元々裏で信者を増やしていたみたいで、自由が認められたと同時にみんな白い服を着るようになっちまったんだよ」
ついさっきの威勢の良い掛け声とは真逆に、店主は淡々と答えた。店主の服装は質素なものだったが、赤く染めた上着が話しかけやすい印象を与えている。
「ここらへんは貧民街も近いから、特にな。貴族や商人でもゾア神教にはまっちまって、毎日聖堂で祈りに来る奴もいるらしいぜ」
確かに、かつての喧騒はどこへやら、15万もの人間がここに住んでいるのかと疑うほど街はおとなしかった。以前は市場でなくとも少しでも空いた場所があれば行商人が屋台を構えていたというのに、一軒も見当たらない。溢れ返っていた乞食もすっかり身を潜めて、今は清潔なターバンを巻いた爺さんが軒下でうつらうつらとまどろんでいる。
「なあ、気になるんだが、あのモスクはどうなっちまったんだ?」
サバにレモンをかけていた男の手がピタリと止まった。そしてカウンターから頭を出し、周囲を確認すると小さな声で話し始めたのだった。
「消されたんだ、神の力で」
小さいながらも力強い、そんな声だった。
「神の力?」
男の手元のサバサンドにずっと見入っていたリーフもこれには反応する。
「ああ、三日前だ。国教から外された後、アラミア教の僧侶は信者たちとモスクに立てこもった。隙あらば役所や聖堂を襲撃しようと計画していたらしい。だが、結局その計画はばれて、兵士やゾア神教の僧たちが一斉に攻撃を仕掛けたものだから、モスクはあっけなく落ちちまった」
「ふうん、でもそれなら……あの有様は一体?」
直接口にはできなかったが、俺の言いたいことは伝わったようだ。
「ゾア神教の大男のせいだ。そいつが手を当てると、モスクの壁が霞みてぇにふっと消えちまったんだ。俺も見ていたが、あれは恐ろしい光景だったよ」
にわかには信じがたい話だが、瓦礫一片も含め地下室までごっそり無くなっていたあの状態を見るに、間違いではないようだ。
「おいおっさん、俺にもサバサンドくれよ」
後ろで待っていた客が話し込む俺たちに声をかけると、店主ははっと我に返り俺たちにサバサンドを手渡した。
湯気立つサバの身にピリ辛のソースとレモンをかけ、玉ねぎのスライスといっしょにパンではさむ。それだけのシンプルなレシピだが、口に入れた瞬間にサバから油が溶け出し、さらにソースの辛みとレモンの酸味に乗せられて喉の奥まで旨みがしみ出す。甘い、辛い、酸っぱい、あらゆる味が絶妙なバランスでブレンドされ、新たな味覚を創り上げていた。
だが、どれだけ美味いものを前にしても、俺たちの気分は晴れなかった。
「なあオーカス、真正ゾア神教はアラミア教を撲滅するつもりなのか?」
一口だけ齧ったサバサンドをのみ込むと、リーフは俺に尋ねた。
「そうだろうな。会長から聞いた話では、奴らの目的は全人類の救済だ。つまり地上のすべてがゾア神を崇拝するまで、世界中でこの都と同じことを繰り返すだろう」
俺は頬張ったサバサンドを噛み砕きながら答えた。そのまま少しずつのみ込んで口の中を空にする。
「タルメゼ帝国は既に落ちた。奴らはこれを足掛かりに、もっと東にも……と、これ思った以上に辛いんだな」
のみ込んだ後もいつまでも残る舌の上の痛みに、俺はつい声に出してしまった。胡椒がメインか、ソースの風味がいつまでも鼻まで突き抜けていた。
市場に着くと、すっかり萎んでいたリーフの目にも再び光が戻り始めた。
石造りの巨大アーケード、その壁一面に技巧を凝らした彩色豊かなタイルが張り巡らされている。半円状の天井を支える柱を境目に陶器や宝飾品を並べた商店が両壁を埋め尽くし、道行く人々を呼び込んでいる。
ここは交易都市シシカでも最も多くの人と商品が行き交う巨大市場、シシカグランドバザールだ。港にほど近いこの場所では、積み下ろしたばかりの商品がすぐに店頭に並べられる。
厩舎にアコーンをつなぎ、俺たちは市場に繰り出した。
リーフは何を見ても「うわあ」と声を漏らしていた。派手な衣装や金銀細工を身に付けてすれ違う人々の全てが、童話に出てくる王様のように見えているのだろう。
外はすっかりおとなしい街になってしまったが、このバザールのアーケードの下だけは相も変らぬ熱気が残されていた。俺にとってはこちらの方がシシカらしくて落ち着く。
「ここはすごく華やかだし、とても賑やかだな」
花の刺繍の施されたスカーフを広げる店員にリーフはふらふらと足を向けたが、俺はその腕を掴んで手繰り寄せた。
「こんなの五年前に比べたらまだまだ閑散としているよ。五年前は人がぎゅうぎゅうで、抜けるだけでも一苦労だったんだぜ」
半ばリーフを引きずるようにして俺は目的地へ向かった。このバザールは区域ごとに売られる商品に違いがある。陶器や宝飾、絹織物といった贅沢品は入り口付近に固まっているが、奥に進むほど食料品や生花、羊毛といった日用品がやり取りされている。
その中の一店舗、香辛料を乾燥させたものを木箱に詰めて店先にずらりと並べている店にリーフを案内する。
「ここは香辛料の卸問屋で、俺みたいな個人規模の商人はここで商品を売って金に換えるんだ。で、別の商人がここで香辛料を買って貴族や町人に売りつける。結構良心的な価格で買い取ってくれるから、商人仲間での信頼も厚いんだぜ。俺のも金貨120枚くらいはもらえるだろう」
「ひゃ、120枚? 香辛料って高いんだな」
「香辛料は西の国じゃあ寒すぎて栽培できない。それでも肉の保存には欠かせないし、貴族は贅沢にもお湯に混ぜて飲んだりもする。タルメゼ帝国でも栽培できるのは一部の種類だけで、庶民じゃあなかなか口にできないんだぜ」
覗いてみると、店主がしゃがんで胡椒を布袋から箱へと入れ替えていた。
「親父、これを買い取ってくれ」
俺は店主を呼び止め、持っていた香辛料の詰まった布袋を高く掲げた。ずっとアコーンに縛り付けていた大切な商品だ。
「オーカスじゃないか、お前よく帰ってきたな」
「覚えていてくれたのかい、嬉しいね」
「当たり前よ。客の顔は一発で覚えるのが商人の必須スキルだからよ」
店主は俺から香辛料を受け取ると、種類ごとに天秤ばかりで重さを測り始めた。手際よく作業を進めたので、あっという間に終わってしまった。
「ふむ、この重さなら金貨90枚てところかな」
あまりの少なさに目玉が飛び出しそうだった。金貨90枚だと、予想の四分の三しかない。
「え……おかしいだろ? ナツメグがこれだけでコショウもこんなに。どう考えても120枚は貰ってもいい量だぞ?」
「ちょっと前ならそうしていたよ。でも、今は仕方ないんだ。ゾア神教の連中が入り込んでから、物価が大きく変わっちまってねぇ」
店主の表情も沈んでいた。確かに、改めて商品の値段を見直してみると5年前よりもかなり安くなっていた。栽培の容易な種類に至っては半額以下になっているものもある。
「皇帝陛下がすっかりゾア神教にはまってから、貴族や高官に質素倹約を勧めたんだ。そしたら高級品が売れなくなって、価格もだだ下がりだよ。現世での救済とか言って、貧民を無税にして、更に物資や金まで分け与え始めた一方で金持や商人には重税が課せられて、俺たちも参っちまってるんだ」
そうか、さっきのサバサンドのソースが辛かったのも、香辛料の価格が下がったせいだったのか。かつて金と同等の価値があるとも言われた香辛料だ、以前ならばあの店主が手に入れることは不可能だっただろうが、今は無理すれば手が届く程度の値段にまで落ちている。
周りの店からも物価の変動は見て取れる。
穀物のようなどの階層でも買えていた品は高騰、逆に余裕のある者だけが買う高級陶器や宝石は軒並み値段が落ちているようだ。
店主が提示している金貨90枚も、かなり奮発しての結果だ。
「でもなあ、それじゃあ俺大損じゃあねえか。どうしたものかなぁ」
「オーカス、金に換えたいならもっと西の国で売ったらどうだ? ここよりも高くなるぞ」
「おいおい、西の国じゃあ香辛料は王家公認の商人しか取り扱いできないだろ?」
高価な品は権力者が一部の商人と結託して取引を制限していることが多い。香辛料はその典型的な例で、一部の商人が権利を独占する見返りに金を渡して、互いに莫大な利益を得ているのだ。
当然ながら俺たち零細の商人には付け入る隙が無い。
「いや違う。最近は西の国はゾア神教が政治を乗っ取っちまって、賄賂が禁じられたんだ。香辛料も誰が売ってもかまわないようになったから、うまくいけば大儲けできるぞ」
「なんだって、それは本当か?」
あまりに美味しすぎる話。俺は詰め寄った。
「嘘だったらお前の香辛料をそんな大金で提示するものか。最近じゃあうちの店にもお前みたいなのがやって来て、西に持って帰るために商品を買うんだぜ」
この親父は嘘を言うような、いや、言えるような奴じゃない。西でも価格は普段より下がるだろうが、シシカよりは高く売れるだろうし、どこかの金持でも見つけて売り込めばボロ儲けも夢じゃない。
「教えてくれてありがとうよ。それじゃあ早速西へ行く準備をしないとなぁ」
俺はくるりと向きを変え、人々を押しのけながら元来た道を戻った。兵士が話していたように、役所で乗船許可を申請しに行くために。
しかしあの店主、気前は良いが、商売には向いてないんじゃないか?
サバサンドは本当に美味しいですね。
家庭でも簡単に作れるみたいですよ。




