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絶望の商人と奇跡の娘  作者: 悠聡
第一部 救済の神託
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第三章 海運の都シシカ その1

 いくつもの禿山を越えて俺たちは西へ西へと向かった。


 はじめは牧草程度しか生えていなかったのが、より丈の高い草花やオリーブ、ザクロといった果樹も見かけるようになった。海が近付いてきたのだ。


 街道に石畳が敷かれ始め、家畜小屋だろうか小さな家屋も見かけるようになった。手の付けようもない荒野とは違い、ここには生活の香りがある。


「シシカでは変な酒を飲んだことがあるぞ。最初は透明なんだが、水を入れると真っ白に濁るんだ」


「嘘つくな、そんな酒があるものか!」


「本当だって。しかもすっげー甘いのなんの、あんな風味の酒は初めてだったぜ。シシカは世界の珍味の博物館、なんてよく言ったもんだ」


 リーフがじゅるりと舌なめずりした。世界の珍味に反応したのだろう。


「そう言えば、次に行くシシカとはどういう都なんだ? タルメゼ帝国の首都なのだろう?」


「ああ、人口はサルマ以上に多い。古代パスタリア帝国の成立当初から交易で栄えていた港湾都市で、昔は東方への玄関口にもなっていたんだ」


 取り留めも無い話をしながらも、俺は内心不安で仕方なかった。


 カシア・セリム会長が話していたように、シシカはかなりゾア神教化が進んでいる。それも一日ごとに改宗者の数は増しているらしい。


 特にアラミア教が国教から外されてから五日も経っている今、シシカはどう変わってしまったのだろう。


 宗教云々抜きにして、あそこまで美しい都市は世界中を探しても滅多に無い。あの城壁は、街並みは、モスクは、俺の知るままの風景を残しているだろうか。


 その思いが伝わったのか、アコーンの歩調はいつもより速足になっていた。




「わあ、都の外壁が見えてきたぞ!」


 オリーブの木々の群生する丘を登ると、遠くの山の斜面に石灰岩を切り出して並べた雪のような白さの壁が現れた。シシカの都を数百年外敵から守ってきた総延長二六キロメートルの大城郭だ。


 この城壁は陸路から出入りのできる門が一つしかなく不便だが、その面倒な構造のおかげで都市域15万の人口を守ってこられたのもまた事実だ。


 サルマの時のように身体を揺らして感激するリーフ。だが、俺はどうも胸騒ぎを抑えられなかった。


「おかしい」


 そう俺が呟くと、リーフは揺らすのをやめて「どうした?」と訊いてきた。


「この位置からならシシカモスクの尖塔が六本、全部くっきり見えるはずなんだ。でも、今は一本も見えない。いや、尖塔だけじゃない、モスクのドームもちらっと見えるはずなのに、城壁以外何も見えないぞ!」


 リーフの目つきが変わった。


「まさか、そんなまさか……」


 最悪の想像図が浮かび上がるが、俺は首を振り必死になって否定する。


 俺とリーフ、そしてアコーンはまっすぐとシシカの都へ向かった。




「止まれ!」


 背丈の何十倍はあろうかという石の城壁。それを大きく穿つ木製の城門。


 シシカの都唯一の出入り口である城門前には、銀白色に輝く鎧を着込んだ兵士が何人も並んでいた。


 城門に近付いた俺に、兵士の一人が槍を突き出した。普通の馬やラクダならここでびびって声を上げるところだろう。


 だがうちのアコーンはそんなやわな性分ではないようで、歩みを止めただけで先端の刃には目もくれず、兵士をギロリと睨み返した。


「おうおう、こちとらただの旅の商人だよ」


「荷物を見せろ」


 俺はアコーンから飛び降りると積荷をほどき、兵士に中を覗かせた。


「東国で香辛料を買ってきたんだ。これから市場で売ろうと思っている。ほれ、ギルドの商売許可証だ」


 鞄の奥から羊皮紙の巻物を取り出し、兵士に突き付けた。くたびれて文字も一部擦り切れているが、これは西方で商売をするためにはどうしても必要な書類なのだ。


「用事が終わったらどうするつもりだ?」


「何日かここに滞在したらパスタリアの首都カルナボラスへ行くよ。俺たちは西の人間なんでね」


 兵士は俺と許可証、そしてアコーンの背中に座るリーフをじろじろと見比べる。


 そして大きく頷くとさっきの険しさはどこへやら、割ときさくな表情で俺に許可証を返した。


「うん、このギルドなら大丈夫だ、入っていいぞ。あ、それとパスタリアへ行きたいなら必ず許可を貰うんだぞ」


「許可?」


 何のことだろう。以前はこの許可証があれば提携する客船には当日でも乗れたはずだが。


「ああ、法律が改められてこれから国外へ出る者は公的な許可が必要になった。申請は役所でできるから、早めにしておいた方がいいぞ」


「わかったよ、ありがとう」


 親切な兵士はアコーンによじ登る俺の背中を押し上げ、城門の中へと俺たちを誘導した。


 城壁を越えた先は石畳で舗装されており、ラクダのアコーンは歩きづらいようだ。


 リーフはアコーンを一旦降り、徒歩で市内を回ることにした。もちろんアコーンも手綱を引っ張って連れ歩くが、こいつに関しては引っ張るというよりもただ握っておくだけで後ろからついてくるので安心している。


 俺は目前に広がる大都市に改めて目を向けた。


 白いレンガと大理石の家屋で都全体が白に染まり、彼方に広がる海の青とコントラストを成している。その中に赤い瓦や鮮やかなブルーのタイルがちらほら混じり、西の文化と東の文化を見事に融合させている。


 ここがシシカ、1500年以上の歴史を誇る物流の要衝、タルメゼ帝国首都シシカだ。


 そして再度、改めて確認し、最悪の予想が的中していたことを嘆いた。




 ただ真っ平らに石畳だけが敷かれた広場。その中心部には不自然にもぽっかりと大穴が口を開けていた。


 穴は一つの城がすっぽり収まるくらいに巨大で、深く暗い。穴の壁は長年埋もれていた土が露出し、まるで何かを掘り返してそのまま引っこ抜いたような状態だった。


 そこにかつて何があったか、俺とリーフはわかっていた。


 俺が穴を覗き込んでいると、リーフとアコーンは静かに後ろに立った。


 そのまま全員しばらく黙り込んでいたが、俺はゆっくりと口を開き、呟いた。


「ここにはな、あったんだよ。そりゃあでっかいでっかいモスクがさ」


「無くなって……いるんだな?」


 そう、かつてここに鎮座していた勇壮かつ優美な外観の巨大モスクは跡形もなく消されていた。瓦礫の一片すら転がっていない。


 胸が締め付けられる思いだった。


 五年前はゾア神教徒以外は神に対する反逆者だと考えていた俺の前に悠然と現れ、その考えを全て吹き飛ばしてくれたあのモスク。ラピスラズリの群青に彩られたあのモスクが、今はこの世から消え去っている。


 輝くように青いドームが、力強く天を支える六本の白い尖塔が、壁面を埋め尽くすタイルの品の良い色彩が。もう二度と見ることはできない。


「ああ、完全に。でも、おかしいだろ!」


 怒りが込み上がり、叫びながら振り返る。リーフは一歩後ろに下がったが、その視線はまっすぐ俺に向けられていた。


 商売で相手に騙された時よりも腹立たしい。これ以上の感情は人生でも滅多に湧き立つものではない。


 真正ゾア神教の連中め! そう怒鳴ってみたかった。


 だが、ここでそんなことを叫べば絶対に俺は捕まる。それにリーフも傷つけてしまうかもしれない。


 ギリギリの理性で破裂しそうな感情を抑え込み、石畳を拳で何度も何度も殴りつけた。


 指の皮がめくれて地面に血がこぼれ、それを見たリーフは「落ち着け!」と繰り返して俺を背中から抱きしめた。


 その温もりのおかげか、肩で息をしながらも規則正しく呼吸ができる程度までに戻ると、俺はすっと立ち上がり、リーフの頭を軽く撫でてやった


 一人ならばどれだけ取り乱していただろう。

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