第二章 豪商の都サルマ その8
長い一日だった。
国を守る兵たちはもはや婚礼の儀どころではなく総動員されて民衆の救助に当たり、広場は怪我人と帰る家を失った人々で溢れていた。
そんな民衆に率先して施しを与えたのはゾア神教だった。
あの宿のどこに隠していたのか、マホニア司教と僧たちが備蓄していた食糧や衣服を引っ張り出し、広場で炊き出しと配給に勤しんでいる。
そして被災者に物資を手渡すのは他でもない、貧民街に暮らす信者たちだった。
自身が着ている服よりも新しく、清潔な衣類を次々と配るその目は一切の曇りなく澄みきっていた。
ある者がなぜ信者でもない自分達にこんな上等な衣類を与えるのかと尋ねたところ、信者の男はこう答えた。
「ゾア神は神を愛するあらゆる人に救いを与えてくださる。ゆえに絶望にうちひしがれた者がいたときには、我々が神に代わって救いを差し伸べる」
その様子を指をくわえて見ていたのは、アラミア教の僧達だった。
よりにもよってモスク前の広場で炊き出しを催された上に、多くの信者がそちらになびいて行くのだ。これ以上面白くないことも無かろう。
自分達もモスクの前で炊き出しを行っているというのに、こちらに来る人数は相手の半分にも及ばない。
司教の起こした奇跡の影響力は絶大だった。アラミア教の支配下において、あっという間に多くの人心を捉えてしまったのだ。
一方、俺たちは被害の無かった町の北側へと移動し、食堂で時間を潰していた。小さな窓からわずかな光が差し込む薄暗い食堂、その隅っこの席で隠れるように俺たちは座っていた。
「退屈だ、いつになったら陽は沈むのだ?」
机に顎を乗せて突っ伏すリーフの手には、すっかり空っぽになったグラスが置かれていた。
「まだまだだ。せっかくの静かな場所なんだし、昼寝でもしてろ」
「もう四回も寝ては目覚めてを繰り返している。これ以上は眠りたくても眠れないぞ」
リーフは目をぱっちりと開かせ、暗い中でも分かるほどに輝かせた。
宿を失ったものの財産は無事だった俺たちは、炎天下の中夜まで待つのは流石に辛いと思い、この店に逃げ込んだのだった。あまり流行っていないのか、昼過ぎには客もすっかりいなくなり、広い店内には俺たち以外誰の声も聞こえない。
町の者から聞いたところ、酒場『魔法のランプ』はこの付近にあるようだし、あっちの混乱と砂にまみれた地区よりは落ち着いて過ごせるだろう。
それ以上にこの辺りではアラミア教信者による異教徒への攻撃が激しい。南側のようにマホニアの奇跡を目の当たりにしていない上に、ここらは貴族や大商人といった金持ちの屋敷が集中する地区で保守的な思考が強い。
俺たちがモスク前広場で目撃したような暴動は町中あちこちで大なり小なり起こったようで、落ち着きを取り戻した今でもなお異教徒を見かければ襲ってくるまでは無いにしろ、文句の一つや二つ言われるのは目に見えている。
だからこそ、俺たちはここを離れられなかった。せっかく見所も多い町なのに、外を歩けば余計に危険な目に遭う。
そうこうしている内に夕方になり、やがて夜が訪れる。時間の流れは遅いのか速いのか、そんな感覚さえもマヒしてしまいそうだった。
暗くなると俺たちの顔も見えづらいだろう、俺とリーフはアコーンを連れて表へと出てまっすぐと『魔法のランプ』へ向かった。
その酒場は塀に囲まれた大きな屋敷の裏手にあった。石灰岩を組んで作った巨大な塀に押しつぶされそうな小さく、粗末な店。入口には布が掛けられているだけで中はテーブルが二脚とカウンターがあるだけの酒場だ。
この周りに住む金持ちが利用するとは思えないような店だ。見かけは悪くとも料理と酒の味には自信のある隠れた名店とも言い難い。現に酒場の稼ぎ時の夜だというのに、店内には俺たちとカウンターで面倒くさそうに肘をつく店主しかいなかったのだから。
「あんんたたち、見ない顔だね」
この店では誰の顔も見ないんじゃないか。そう突っ込んでやりたかったが、俺はあの手紙の内容を思い出し、わざとらしく言ってやった。
「ああ、昔懐かしの思い出の酒を飲みに来たのさ」
途端に、店主の眉がピクリと動き、がたっと音を立てて立ち上がった。そして周囲をキョロキョロと警戒しながら、俺たち以外誰もいないことを確認するとカウンター奥の扉をゆっくり開いた。
「お客さん、特等席はこちらだよ」
店主の手招きに誘われ、俺たちは店の奥へと進んだ。
部屋の中は食材や酒樽を積み上げた倉庫で、とても人を招待する場所には思えない。だが、その奥からはうっすらと灯りが漏れており、床の辺りが赤く光っていた。
地下への階段だった。木箱や酒樽に囲まれて目立たないが、確かに地下へと伸びる石造りの階段が存在していた。
暗い倉庫の中を俺はリーフの前を進み、足場に注意を払いながら急な階段を下りた。
狭い上にらせん状になっているため歩きにくいことこの上ないが、このような小さな酒場が地下室を備えるなど不自然だ。この奥には大切な何かがある。
かなり深くまで階段を下りると、白いレンガを張り巡らせた小さな部屋へとたどり着いた。
部屋の真ん中にはテーブルが置かれ、その上には三本の蝋燭を乗せた金属製の燭台が置かれている。この蝋燭の炎が階段の壁を反射して、上の階まで光がわずかながらに届いていたのだ。
「よくぞおいでになられました」
突如、狭い部屋に男の声が響いた。壁に反響しているものの、柔和で落ち着いた声だ。
眼が闇に慣れたところで蝋燭の強い炎を見たせいではじめはよく見えなかったが、燭台をはさんでテーブルの向こう側には何者かが座っていた。
「カシア・セリム会長……」
「オーカス様にお嬢さん、さあ席におかけになってください」
酒場の地下で待っていたのはセリム商会会長ことカシア・セリムだった。立派な髭には宝石や金属が飾られ、赤い炎に合わせて表面を揺らめかせている。
今日はずっと宴席の準備に追われていたはずだが、どうしてこのような場所に。
俺とリーフは並んで椅子に座った。
会長は金属製の水差しからこれまた金属製のコップ二杯に水を注ぐと、俺とリーフそれぞれの前にぽんと置いた。
「よろしければどうぞ」
物腰柔らかく、会長は水を勧めた。だが、その目からは人当たりが良いという昨日の雰囲気は抜け落ち、戦場に発つ兵士のような固い決心がにじみ出ていた。
「かたじけない」
この水は安全だろう。事情はわからないが、それだけは感じ取れた俺はコップを持ち、そのまま喉に流し込んだ。
氷のように冷たい水が金属のコップを冷やしていたため、俺はこの上無い清涼感を味わうことができた。
「美味い、これほどの水は初めてです。ところで会長、どうしてあなたのようなお方がこのような酒場の地下に? あなたのような身なりのお方がこのような店に入るのを見れば、誰でも怪しむでしょう」
昼間随分と待たされたために、少しばかり気が立っていたのかもしれない。やや強い口調になってしまった。
会長は軽く周囲の壁を見渡すと、にこりと微笑み返した。
「ここは私の屋敷の地下ともつながっています。実はあの店主は私の古くからの友人で、重大な話を行う際にはこの部屋を使っているのです」
なるほど、この店の前にある塀で囲まれた豪邸は会長の屋敷だったか。
会長ほどの身分になると賊から命を狙われることもある。いつでも容易に逃げられるよう、屋敷には従者さえも知らない秘密の通路が巡らされているに違いない。
そういった通路の一部は外部の人間との密談にも利用されているのだろう。
「さて、今日あなた方をお呼びしたのは理由があります。オーカス様には是非ともお伝えしたいことがあるのです」
「どのような用件でしょうか?」
「実は……この国に混乱を招いたのは、他でもない私に原因があるのです」
俺は言葉を失った。しばし部屋の中は炎のパチパチという音だけが鳴り続いた。
ようやく重くなった口を動かし、なんとか話を続ける。
「つまり……アラミア教が国教でなくなったことですか?」
「はい、そうです」
「ゾア神教を招き入れたのも?」
「はい、私です」
会長はまっすぐ俺たちを見つめたまま答えた。その炎を映し込んだ目には、うっすらと涙がたまっていた。
「どういうことですか、このタルメゼ帝国はアラミア神に仕える信心深い国民によって支えられていたはずです! なぜ、そんなことを!」
俺は身を乗り出し、強く怒鳴った。俺自身はアラミア教徒ではないが、長い旅の中で民族や宗教の垣根を超えて親しくなったりお世話になった人は数知れない。タルメゼ帝国の中にも旧知の友人のような間柄になった人物はいる。
そんな彼らのことを思うと、わざわざ国を危機に晒すような行いをした会長について、俺はまったく理解できなかった。
「話すと長くなりますが、しっかりとお聞きください。元はこのセリム商会、強いては国を立て直すための最後の手段だったのです」
会長は机に目を落とした。声が震えている。
「タルメゼ帝国はここ数十年で一気に衰退しました。領土の大半を失い、海への進出機会も失った帝国の財政はひっ迫し、多くの商会が潰れました。私たちはあの手この手で商売を続けてきましたが、もう限界でした。セリム商会が倒れれば多くの社員が仕事を失い、やがて国民が飢える。その危機感だけが私たちを駆り立てていたのです」
会長の握った拳がわなわなと震えている。
長い歴史を持つタルメゼ帝国が最後には財政で苦しむなど誰が想像できようか。だが、会長の話が事実ならば、既に破綻まで秒読み段階であったと言える。
「そんな時、転機が訪れたのです。三年前、パスタリア王国の首都カルナボラスを訪れた際に、マホニア司教と出会ったのです」
マホニア司教にか。俺がカルナボラスから東へと向かったのがちょうど五年前だから、それよりも後のことだ。
「司教は当時、カルナボラスの民衆に慕われており、これまでのゾア神教が及ばなかった現世での救済を実現しようとしていました。そこには身分の差はありません、貧しくて寄進のできない者や、商人であっても救いを与えられると説いておられたのです」
「商人でも救われる、ですと? 馬鹿な、私はまったく逆のことを教えられてきました。商人は死後地獄に落ちると」
俺は机を叩き、立ち上がった。だが、すぐに横からリーフに袖をつかまれたので、我に返り再び椅子に座りこんだ。
「ええ、私も驚きました。私もゾア神教ではそう信じられているとばかり思っていましたので。アラミア教では商人であっても差別はしません。もちろん不道徳な稼ぎをした者は罰せられますが、その分寄進をしたり貧しき者を助ければ神に許されると教典の『アラミア白書』に書かれています」
アラミア教はそのような教えのために長い歴史の中で商人が活躍してきた経緯がある。中には商人から成功を収め、一国の主として独立した者もいると聞いている。
「司教の話は実に意義深いものでした。情けない話ですが、私は司教に心をつかまれてしまったのです。同時に、商売を通じた国の活路を、ゾア神教に見出したのです」
会長はここで話を一旦中断し、自分のコップに水を注いだ。そしてそのまま一気に飲み干し、小さくため息を吐くと、再び話し始めたのだった。
「ほとんどのゾア神教国家はアラミア教国家の商人の出入りを制限しています。まあいずれにせよ我々が直接商売をしに行った場合には、異教徒と罵られて商売になりません。西方の国々が東方と直接貿易できる独自の航路を開拓した20年ほど前からはより一層、顕著になりました。かつて帝国の一部だった国々とも国交を断絶しているため、タルメゼ帝国は完全に行き詰っていたのです。そこで我々は考えたのです。ゾア神教国家との国交を活発にし、商売を通じて帝国にかつての栄光を取り戻そうと。そのためにはタルメゼ帝国の内部から変革し、ゾア神教を受け入れていかねばならない」
「なるほど、そして司教をこの帝国に招き入れたのですね」
「ええ、友人の高官を通じ、王宮に呼ばれた司教と一行はたちまち皇帝や貴族を虜にしました。話術に秀で交渉にも長けていたのでしょう、司教は高貴な身分の方々にも慕われました。それがあれよあれよという間に国を乗っ取ってしまって、ついにはアラミア教が国境から外されてしまったのです。私はただゾア神教を受け入れるだけで良かったのに……こんなはずでは」
会長は頭を抱えた。気付いた頃には自分の力ではどうすることもできないほどに事態は進展していたのを悔やんでいた。
「なるほど、おおよそは理解できました。ただひとつ、どうしてもわからないのですが……何故司教たちはそうも簡単に皇帝の心を掴めたのでしょう? タルメゼ帝国はずっとアラミア教を信奉してきた国です。その皇帝が簡単になびくようなことは無いと思いたいのですが」
ここで会長はぎろっと一瞬俺を睨みつけた。初めて見せる会長の目付きに俺は少しばかりひるんでしまったが、会長はすぐに辺りを見回すと、今までよりも声を小さくして話し始めた。
「それについては……オーカス様なら信じてくださると思います。そのお嬢さんとも関係があると思いますので」
「え、私が?」
今までずっと口を閉ざしていたリーフに話題が及び、自分を指差すリーフ。その頭の上には大きなクエスチョンマークが浮かんでいた。
「はい、彼らは皆、神の力を一部受け継ぎ、この世に奇跡を及ぼすことのできる選ばれた人類なのです」




