第二章 豪商の都サルマ その7
異教の僧が砂嵐を止めた。その事実は恐怖に駆られた人々の心をいとも簡単につかんだ。
茫然としていた人々は男の呟きに感化され、一斉に司教をたたえ始めた。
「奇跡だ、司教様は奇跡を起こしたのだ!」
「司教様、ありがとうございます! 我々はあなたのおかげで助かりました!」
「ああゾア神よお許しください。我々が間違っておりました!」
静寂からの熱狂に俺とリーフはすっかり言葉を失い、砂に汚れていることもすっかり忘れてしまった。
寸でのところで砂嵐の直撃を免れたモスクの扉がゆっくりと開かれると、内側から恐る恐る僧侶が顔をのぞかせた。
アラミアの僧はすっかり平穏を取り戻した風に驚き、そして外にいた人々が皆ゾア神教の司教に頭を下げていることにまた驚いた。
「お前、よくも俺をモスクに入れなかったな!」
モスクの扉の傍にいた男が乱暴にアラミアの僧を外に引っ張り出した。僧は激しく抵抗したが、近くの者たちも男に加わって三人がかりで僧をつかんだので、たちまち僧侶は砂の積もった地面に押し倒されたのだった。
「何がアラミア神はお救いくださる、だ。俺たちのことなどどうでもいいと思っているのだろう、許さん!」
男たちは僧侶を取り囲み、その指をパキパキと鳴らす。地面に伏せた僧は頭を押さえ、震えながら縮こまってしまった。
「おやめください、暴力は新たなる争いを生み出すだけです。あなたたちは誓ったでしょう、もう争いは起こさないと。それよりも今やるべきことは、この町を早く元に戻すことではありませんか?」
司教が後ろから男たちの肩を叩き諭した。
その言葉に男たちははっと我に返り、砂嵐の通ってきた南側へと目を移す。
城門からまっすぐに伸びる大通りは砂に埋もれ、巻き上げた瓦礫が散らばり道を塞いでいる。両脇の家々は屋根が落ち、小さなものは基礎だけを残して木端微塵に吹き飛んでいた。
あまりにも悲惨で、胸の痛くなる有様だった。
「そうだった、逃げ遅れた奴らを探さないと!」
男の一人が慌てて走り出した。
「命拾いしたな」
遅れて走り出した男は僧侶にそう言い残し、先を行く者を追った。
「神の奇跡か。やはりゾア神は我々を見守ってくださるのだな」
周囲につられてか、リーフも神妙な面持ちで掌を合わせる。伝統的な感謝の祈りだ。
「おいおい待てよ、今のは本当にゾア神の行いなのか?」
俺はリーフの肩を揺さぶった。リーフは口をとがらせて言い返した。
「何を言う、オーカスはゾア神を信じていないのか?」
「いや、そういう意味ではなくてだな。今の砂嵐は本当に神が怒ったために起こされたのかということだ。あまりにも都合よく発生し過ぎだろう」
「それだからこそだろう、司教がゾア神に祈ったから止まったではないか」
返す言葉が無い。この災害が単なる偶然ではなく、何らかの意図に従って引き起こされ、同時に鎮められたのは確実だろう。そんな超常的な力を奇跡と言わずして何と言うか。
だが、俺にはどうしてもゾア神の行いには思えなかった。この程度の異教徒狩りなど、歴史の中で幾度となく繰り返されてきたはずだ。その場にはマホニアのようにゾア神教の高僧が居合わせたこともあり、それらの多くが異教徒により処刑された。
その時、神は助けてくれたか?
俺の知る限りでは高僧は殺され、信者たちの間で殉教者として語り継がれる程度の存在となるに過ぎない。
それでは、何故今回に限って神はこのような奇跡を起こしたのか?
解答は何も思い浮かばなかった。
タルメゼ帝国を裏で操っているというゾア神教に、奇跡を起こす司教。最早一介の商人の理解の範疇を超えている。
そしてつい忘れてしまいそうだが、ゾア神教にやたら詳しい記憶消失の娘。しかもこいつは雷の力をその身に宿している。
「ひどいな、これは……」
砂嵐の通過した跡はこの世の地獄と言うのがぴったりだった。
うず高く積もった砂から柱とわずかな壁だけを残した建物が頭を出し、無事だった者はかつて自分の住んでいた家の変貌ぶりを見て落胆していた。
あちこちで家族の名前を叫びながらそこら中の砂を掘り返す者すれ違った。あの旋風だ、どこまで飛ばされたかわかるものではない。それでも彼らは必死に、当ても無いままに砂を掻き出すのだ。
瓦礫の中から人の声が聞こえると誰かが叫べば、周囲にいた皆が一斉に駆け寄って急いで瓦礫の撤去にかかる。しかし瓦礫の多くは砂に埋まり、掘っても掘っても周囲の砂が崩れてせっかく開いた穴へと流れ込む。
俺とリーフもアコーンから飛び降り、救出作業に参加した。手で砂を掻き、瓦や木材をどけていく。
しばらくすると、砂の中から小さな手が飛び出した。
「女だ、女がいるぞ!」
住民たちも作業の手を一気に早め、あっという間に砂に埋もれた女を引っ張り出すことができた。
「オーカス、この人って……」
リーフがぼそっと尋ね、俺はようやく気付いた。
意識を失いながらも、その胸には赤子がしっかりと抱きしめられている。そうだ、俺が逃げる途中で追い抜いたあの女だ。
ぐったりとはしているが親子ともども呼吸もあるし、命に別状は無いだろう。
その場にいた全員が歓喜して生存を祝い、誰かが即席の担架を作って女と赤子を安全な場所へと連れて行った。
大通りはどこもそのような惨状だった。災害に居合わせたのは初めてではないが、どうしても慣れるものではない。
砂に埋もれた歩きづらい道をしばらく進み、やっとのことで俺たちは中央広場まで着いた。
元々平坦だった広場は完全に砂に埋もれ、周囲の家もほぼ薙ぎ払われたために一面砂の海となっていた。町の中だというのに、ここにまで砂漠が生まれたようだ。
そして砂の中から数本、装飾の施された柱が墓標のように頭を出している。この青いタイルに赤の顔料で描かれた花の絵は間違いない、セリム商会の商館を彩っていたものだ。
「オーカス、本当に……これは神のやったことなのか?」
俺の背中から尋ねたリーフの声は震えていた。つい先ほどまで神に感謝を捧げていたというのに。
「そうなんだろうな。ゾア神は乱暴だよ」
かつて荘厳な屋根を支えていた柱を見据え、呟き返した。
「オーカス、そういう口ぶりは良くないぞ」
リーフは鋭く反論した。だが、それくらいなんだ。
俺は振り返り、じっとリーフの眼を見つめ返した。神への一切の信頼を委ねた、澄んだ瞳。
リーフの信念は神という絶対的な支柱により強靭なものとなっている。だが、それは行き過ぎた妄信をも招きかねない諸刃の剣だ。
「リーフ、大事なことだからよく覚えておけ。神は死後、人間に救済を与えてくださる。もちろん悪いことをしたような奴はだめだ、善行を積んで神に貢献した人間だけが天国に迎えられる。生前はいわばテストだ、どんな状況でも神への信仰を忘れず、最後まで尽くせるかどうか俺たちは常に試されている。それを乗り越えられた者だけに救済が与えられるんだ」
「そんな、神は困った人を助けてくださるのではないのか?」
リーフの声には少しいらだちがこもっていた。だが同時に、うろたえてもいた。
「そうだ、神は祈った人間すべてを助けてくれるとは限らない。そうでなければゾア神教徒なら誰も天災で死ぬことは無いだろう?」
振り返らず、俺は答えた。
5年間、ゾア神教から離れる内に、俺は神の存在に関して少しばかり疑問を抱くようになっていた。なぜ、全能のはずのゾア神は東の国々では信ぜられていないのか。信仰の形態が土地土地によって何もかもが異なっているように、ゾア神教もそういった信仰形態の一種に過ぎないのではないのか。
かつての俺ならば絶対的なゾア神に反するものは見聞きもしなかっただろうが、異教の地を歩き続ける内に自分の考えもすっかり変わってしまったようだ。
しかし俺の肉体には代々ゾア神を信仰してきた民族の血が流れている。ゾア神がいないなどと口にするのは、本能が否定していた。やはり俺は身も心もゾア神に尽くしている一信徒なのだ。
「神は残酷なのか。なぜ、そのようなことをなさるのだろう? 死後の安寧のために現世の苦難に耐えるなんて、ただ褒美のために仕方なく従っているようなものじゃないか」
リーフが考え込んでいる。
確かに、その思考なら現世で悪いことする奴も少なくなるだろうな。ただ、既に死後の救済を諦めた人間は神をも恐れず非道の限りを尽くすかもしれないがな。
「あ、オーカスの旦那! 無事でしたか!」
突如、男の声が聞こえ俺とリーフは振り返った。
砂に埋もれた大通りの北側から、一人の男が息を切らしながら走ってきている。目を凝らして見ると、あのセリム商会の小太りの男だった。
盗賊の襲撃を受けて生き延び、さらに砂嵐も凌いだとは幸運なのか不運なのか。
「お嬢さんも、怪我はありませんかい?」
ずっと走ってきたのだろう、アコーンの傍で立ち止まると肩を激しく上下しながら息を整えている。
「ああ、おじさんこそ無事で良かった」
「でも、あんたらは不幸だったな。セリム商会は……」
俺は目をちらっと崩れ去った商館の跡地に向けた。
小太りの男の眼から涙がどっと溢れ、砂で汚れた袖で顔を拭った。
「うう、セリム商会も今度こそ本当に終わりです。まだ仲間が何人も見つかっていませんし、倉庫や工場も多くが砂に埋もれました。ただ、会長がご無事だったのが唯一の救いです」
「カシア・セリム会長は無事なのか?」
「はい、本日は結婚式のために領主の館におられましたので、砂嵐に巻き込まれなかったのです」
男は泣きながらも丁寧に答えた。
会長には桁違いの報酬をもらった恩がある。もう無くなってしまっただろうが、今俺の泊まっている宿を手配してくれたのも会長だ。
「はい、宴のために多くの社員が商館を離れていたのは不幸中の幸いでした。ほとんどは今、領主の館におりまして、被害状況確認のために私が遣わされたのです。あ、そうだ」
小太りの男は何かを思い出したようで、不意に服の内側をごそごそと探り始めた。そして取り出したのは書簡と言うにはあまりに粗末な、羊皮紙の切れ端を小さく折り畳んだものだった。
「会長からオーカスの旦那にこれを、と。ずいぶん慌てたようすで、周りに誰もいない所で読むようにと申されていました」
あの大富豪が一介の商人の俺に何の用だろう?
訝しく思いながらも、俺はくたくたの羊皮紙を受け取った。
その後、やはり崩れ去っていた宿に戻った俺たちは、ちょうど建物の壁が残されてできた日陰に腰を下ろし、例の羊皮紙を広げた。
よほど急いで書いたのだろう、走り書きで字も崩れているが、なんとか読める。
「何て書いてあるんだ?」
リーフが俺の顔をしげしげと見つめる。そう言えばこの娘は文字が読めないらしい。
「ええと、何々。本日の夜、酒場『魔法のランプ』にて店主に『昔懐かしい思いでの酒』を注文しなさい、だと?」
「どういうことだ?」
リーフが首を傾げた。
だが、俺の直感は告げていた。これは大変なことになった。
「リーフ、これは何かの合言葉だ。俺たちはもしかしたら大層な面倒事に巻き込まれたのかもしれん」




