第二章 豪商の都サルマ その6
アコーンは全力で駆けた。本来ラクダの苦手な石畳も踏みしめ、転がる瓦や飛んでくる角材を機敏に避けながら、懸命に脚を動かしている。
だが、吹き荒れる風はさらに勢いを増し、視界の数メートル先さえも舞い上がる砂で見通すことすらできない。
砂嵐が俺たちとの差を縮めているのは明らかだった。
リーフは俺の背中のパンパンに膨れ上がった鞄にしがみつきながら、しきりに後ろを振り向いていた。
「アコーン、頑張れ!」
口を開けるのも辛かろうこの砂嵐の中、リーフはアコーンを励ました。
俺は歯を食いしばり、強風で自分とリーフが振りほどかれないよう手綱を握りしめていた。
宿の前から続く大通りを抜け、ようやく広場までたどり着いた。ここはセリム商会本部にも面したこの町で最も人通りの多い場所なのだが、今のような砂の舞う中では廃墟のようにも思える。
アコーンもここは少しばかり走りやすいらしく、今までよりスピードを速めさらに北へと向かった。
「オーカス、セリム商会が!」
背中でリーフが叫んだので、俺も思わず振り向いた。
なんということだろう、荘厳なセリム商会の商館が、無残にも崩壊していく。
壁面を覆う青いタイルは強風で剥がされ、下地の白色が露出していく。さらにどこからか飛来してきた瓦礫や砂塵が建物の表面を傷つけ、ついには柱の一本を倒してしまった。
それをきっかけにしてか、ついに商館の屋根は崩れ、引っ張られて壁も瓦礫へと姿を変える。
この町一番の名士の威光は、この無情な砂嵐によって脆くも崩れ去ってしまった。
「冗談じゃない、急ぐぞ!」
血の気が引いて手綱を危うく手放しそうになったものの、俺は前を向き直して走り続けた。
風は一層強くなり、アコーンも何度も足をすくわれかけたものの、どうにか踏ん張ってくれた。
途中、逃げ遅れた何人かを追い抜いた。中には小さな赤子を抱いて必死に走る母親の姿もあった。
彼らを追い抜いてしばらくすると、吹き荒れる風の中から人間の叫び声が聞こえてくることもあった。耳を押さえたかったものの、この手綱を離したら俺が同じ目に遭う。
わざと聞こえないふりをして、無心のままに走った。
ようやくモスク前広場に到達する。砂嵐はもうすぐそこに迫っていた。
だがこんな時だというのに、モスクの重厚な扉は開け放たれ、中に入らんと多くの人々が押し寄せていたのだ。
石造りのモスクなら砂嵐をやり過ごせると思ったのだろう、避難してきた人々が殺到している。だが、あまりにも人の数が多すぎて入り切らないのだ。
「もう中は満員だ、この扉は閉める!」
「そんな、この砂嵐じゃ死んでしまう、入れてくれ!」
「悪いが他の建物に隠れてくれ」
何十もの人々が外で泣き叫んでいるというのに、扉は僧侶の手によって無情にも閉ざされたのだった。
「うわあああ、おしまいだ!」
扉に身を叩きつけて泣きわめく男。目の前で生存の道を断たれたのだ、同情せざるを得ない。
しかしこの砂嵐の威力が桁違いなのは先ほどのセリム商会の崩壊を目にしたら子供だってわかる。モスクに逃げ込んだところで助かる見込みは無い。
この砂嵐の前では、建物の外だろうと中だろうと変わらないのだ。
道を埋め尽くさんとする巨大な砂の壁が迫り、怯え逃げ惑う人々。それが邪魔でアコーンも本来の脚力が出せない。俺たちが逃げ続けるのももう限界だ。
万事休すか。
ああ、昨日盗賊に襲われたときと同じだ。金に目が眩んだためにまたも命を失おうとしている。しかも今度は前回とは比べものにならないほど絶望的だ。
結局俺は金のために最も大事な命をも捨ててしまう愚者として地獄に落ちるか。卑しい商人らしい最期だ。
「オーカス!」
リーフが俺の鞄でなく、首に手を回して力強く抱き着いた。
ここで俺は奮起した。せめてリーフだけはどうにかしないと。こればかりは商人云々というよりも、男として人間として最後の意地だった。
なんとかリーフ一人だけでもこの砂嵐をやり過ごせそうな場所を探し、きょろきょろと頭を動かす。だが、周囲にモスク以上に堅牢そうな建物は無い。それならば酒樽を保存しておくための地下室でも無いものかなどと考えながら、目に映るあらゆる物に気を配る。
その時目に飛び込んできたのは、巨大な砂嵐を背に敢然と広場に立ち尽くす男の姿だった。
マホニア司教だった。その脇には大柄な僧侶と若い僧侶の二人が控え、足の不自由な司教を支えている。
「皆さん落ち着いてください、この砂嵐は人々の争いにゾア神が怒ったため、引き起こされたものなのです!」
風吹き乱れる轟音の中だというのに、司教の声はまっすぐ伝わっていた。逃げ惑う者は皆足を止め、怯えて伏せた者はちらりと司教へ目を向けた。
「この嵐は人間同士の争いが原因で起こったのです。つまり我々が今後一切争いなどしないと誓えば、ゾア神は我々を許してくださりこの嵐を鎮めてくださることでしょう」
「そんなことがあるものか、異教徒のくせに!」
モスクの壁につかまりながら、やっとのことで立っている男が叫んだ。
「それでは本日皆さんが争っている時に、なぜこうもうまく砂嵐が起こってまっすぐこちらへと向かってくるのでしょう? これには神の意志がはたらいているとしか思えませんか?」
「そ、それは……」
「それにあなたはアラミア教徒のようですが、その様子ではモスクに入れてもらえなかったのでしょう。自身の信じてきたアラミア教の僧に裏切られて、なおアラミア神にその身を捧げようと思うのですか?」
司教の鋭い指摘に、男は黙り込んだ。
「この嵐を鎮めるには皆さんの協力が必要です。さあ、ゾア神に誓いましょう。もう我々は争わず、互いに助け合いながら生きていくと」
司教が呼びかけた。すでに砂嵐は司教の背後すぐまで迫り、頭に置いた植物の冠も風に巻き上げられていった。
もはや逃れる方法は無い。人々は皆すがりついた。
「ち、誓う! なんでもいいから、とにかく助けてくれ!」
「もうゾア神だって何だっていい、誓うから、どうか!」
口々に人々が叫び出す中、司教は微笑んだ。この地獄絵図の中、この男はどれだけ肝が据わっているのか。
「皆さんの誓いは確かにお聞きしました。それでは、その誓いを神にもお伝えしましょう」
司教はくるりと振り返る。
目と鼻の先に渦を巻く砂の流れが迫り、地面から舞い上げられた木材が身体をかすめている。そんなものなど一切気にする様子もなく、司教は掌を合わせ、ゆっくりと瞼を閉じたのだった。
「全能にして全知の神ゾアよ、我々はお誓い申し上げます。虚構の神を創り上げ、それを奉るような愚行を止め、ゾア神に寄与することを……」
司教が祈りの言葉を唱える。
途端、砂嵐の前進が止まった。徐々に迫ってきていた巨大な塵旋風が、その場で回転を続けるだけでそれ以上動くことを止めたのだ。
それだけではない、風の勢いも弱くなっている。身体を打ち付ける砂の痛みも徐々に弱くなり、視界もどんどんと元に戻っていく。巻き上げられた瓦や木材もそれ以上の上昇を止めた。
風が勢いを失うと、今度は宙を舞っていた瓦礫が雨のように地面へと降り注ぐ。
「頭を守れ!」
俺はアコーンをしゃがませた。そして背中の巨大な鞄を持ち上げ、その下に俺とリーフ、そしてアコーンの二人と一頭の頭が隠れるようにして身を寄せ合った。
直後に、バラバラと木片や瓦の欠片、それに何かの布やらが雨あられと降り注ぎ、地面や建物の屋根を激しく打ち付ける。俺の鞄にも大きな瓦がぶつかってきたようで、体重をかけて殴られたような衝撃を頭の上の鞄越しに何度も感じた。
広場にいた全員が伏せるなり物陰に隠れるなりして瓦礫から頭を守っていた。だが、誰しもがその光景を目撃し、その事実に関して疑念など持たなかった。司教が祈った瞬間に、明らかに砂嵐が収まったのだ。
やがて大きな瓦礫が一通り落下し終えると、今度は大量の砂が町中に雪のように降り注ぐ。太陽に炙られて熱を持った砂が喉の中に入りそうで、こちらの方がむしろ辛い。これは瓦礫のようにすぐ終わるのではなく、かなり長い時間かけてゆっくりと降り積もるのだ。
いつの間にやらようやく普通に呼吸をしても平気なくらいにまで元に戻ったころには、俺の脛の辺りまですっぽりと砂で封じ込められてしまっていた。
ふと司教に目を向けると、三人は相変わらず並んで祈りの姿勢を保っていた。髪や衣服に白い砂がこびり付いていたが、三人はそろって直立不動の状態だった。
そして当の砂嵐はというと、砂を巻き上げる力さえも失った嵐は小さな旋風へと姿を変え、そのまま掻き消えてしまった。
やがて風も止み、辺りは静けさに包まれる。ここでようやく司教は祈りを終え、衣服に付いた砂を払ったのだった。
しばらくの間、誰も声を上げられなかった。あまりに現実離れした一連の出来事に、放心していたのかもしれない。
だが、俺はそれだけでないと考えている。今目の前で起こったことを表現するに相応しい言葉は皆簡単に思い浮かんだのだが、それを口にする勇気が無かったのだ。
リーフの雷の力を目撃した俺でさえも言葉が出なかった。今までアラミア教を信じていたところに、突如やって来た異教の僧侶に助けられたこの国の人々はどう思うだろうか。
「奇跡だ」
誰かが呟いた。そう、これ以上に相応しい言葉は無い。




