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絶望の商人と奇跡の娘  作者: 悠聡
第一部 救済の神託
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第二章 豪商の都サルマ その5

 広場の衛兵は護民官を取り囲みながら退散した。


 集った民衆は守りの手薄になったモスクに流れ込んだ。


 兵士は鎧を着こんでいるがあまりにも相手の数が多すぎた。自制の効かなくなった男たちは一人の兵士に数人がかりでとびかかり、アラミア神の名を叫びながら殴りつけていた。


 すっかり地面に伏してしまい、あまりの悲惨さに見ていた者によって安全な場所へと引きずられている兵士もいた。


 モスクからは今までおとなしくしていたアラミア教の僧侶たちも飛び出し、民衆に混じって兵士へのリンチに参加していた。


 ある者は尖塔に登り、アラミア教特有の祈りを声が枯れてもなお大声で唱え続けている。


 その祈りを聞いて、民衆はさらに高揚した。祭りに来ていた異教徒にも手を出し始めたのだ。


 まず狙われたのははるか東方より参った旅芸人一座だった。女が肌と髪を出しているのを見るや神に背く愚か者だと言いがかりをつけ、街角のテントに男たちが押し寄せた。一座の者が近くの建物に逃げ込むと同時に、仮初の柱で支えられたテントは押し倒されてしまった。


「地獄のようだ、この有様は心が痛みます」


 窓から人々を覗き込む司教はぼそっと呟いた。その手はぶるぶると震えていた。


 俺とリーフも司教とは別の窓から外の様子を眺めていた。この広場だけでなく、別の方角からも人々の叫びやざわつきが聞こえる。町中で同じような混乱が起こっているのだろう。


 帝国として、このような事態は簡単に予想できたはずだ。この国の民はアラミア教信者がほとんどで、国家行事と宗教行事は切っても切り離せない関係にある。


 ゾア神教が帝国に取り入ったのは事実だろうが、どうして今アラミア教を国教から外す必要があったのか?


 そんなことすれば、民の怒りが暴発するのは当然のことなのに。


「あなたもこのような騒ぎに巻き込まれて大変だったでしょう。ご安心ください、ここは安らぎの場所。

例え彼らがここを攻撃しようとしても我々は全力で信者の皆様を守ります」


 大柄な男が俺たちの傍に立ってほほ笑んだ。力比べでは俺でも敵うかわからない恵体だが、不思議と敵意を感じない穏やかな雰囲気を漂わせていた。


 ふと大男とリーフの目が合った。少し気まずくなったのか、リーフは目をそらしたが大男は気にする様子もなく微笑んでいた。


 リーフのことは知らないようだ。


 やがて部屋の外が騒がしくなり、男たちが流れ込んできた。先ほど広場で言葉を交わしたゾア神教信者の貧民たちだった。


 しかし貧民たちの服装は元よりもさらにぼろぼろに引き裂かれ、中には裸同然の恰好の者もいた。


 そして彼らは数人がかりで一人の男を運んでいた。その男は頭から血を流しており、陽に焼けた顔もすっかり蒼白くなっていた。


 その様子を見てリーフが「ひっ」と小さく叫んだが、ただそれだけであとは彼らから目を反らすことは無かった。


「殴られたんだ、アラミア教の僧侶に!」


 男の一人が逆上しながら叫んだ。


「司教様、お助けください!」


 窓際に立っていた司教が若い僧侶に目配せする。若い僧侶は無言で頷き、奥の部屋へと駆け入った。


 司教と大男が男たちに駆け寄ると、怪我人を手近な長椅子に寝かせて皆で呼びかけた。男は流血がひどく意識も朦朧としているようで、仲間たちの呼びかけにも唸るような返事しかできていない。


 こういうのが一番きつい。今まで死体は何度も見てきたが、まだ生きているという状態がより一層痛々しく感じられるのだ。


 奥の部屋から若い僧侶が清潔な布と水を汲んだ桶を持って帰ってくると、司教は自ら床に膝をつき、受け取った布を水に浸し始めた。


 普通高位の司教ならこのような汚れ役は部下に任せるものだが、この男はそういったことは考えないようだ。


「くそ、俺たちが異教徒だと襲い掛かってきやがった。あんな奴らに」


 怒り狂う男たち。誰かが口を開くと、口々に僧侶たちをののしり始めた。


「そうだそうだ、自分たちが神に仕える身分だからと俺たちをバカにしやがって!」


「それは違います」


 男たちの足元にしゃがみこんで布を絞りながら、司教が静かに、よく通る声で言い放った。


 部屋の中は一瞬で静まり返った。聞こえるのは布から滴る水の音だけ。


「この世を統べるのははゾア神のみ、アラミア神という存在はありません」


 司教は男の傷口を布で優しく押さえていた。その手には硬い肉刺がいくつもできていた。


 傷口から血が滲み出し、白い布がたちまち赤く染まる。司教の指先にも赤い血が到達するものの、その手が布を離すことは無かった。


「ゾア神は唯一にして全能の神であり、それ以外の存在などあり得ないのです。ゆえにアラミアの僧は虚構の存在にすがっているのです」


 とんでもねえことを言ってのけるものだ。


 ゾア神教の信者ならば誰だってそう思うだろう。だがここはタルメゼ帝国、周りにはアラミア教信者しかいない。この部屋にいる貧民だって、少し前まではアラミア神に朝昼晩の祈りを捧げていたはずだ。それをこうもばっさりと切り捨てるとは、商人の俺にはとてもできない。


「ゾア神は信じる者全てをお救いします。我々も現世においてあなたたちが報われるよう尽力しましょう。そしてこの傷はあなたたちがゾア神への信仰を貫いた、名誉の負傷になるのです」


 司教は布を縛りながら詰まることなく言った。その言葉を聞いて、怪我をした男も体を震わせながら口角を少しだけ上げた。


「異教徒はこの国から出ていけぇ!」


 窓の外から何百もの人々が叫んでいるのが聞こえ、その大音量に造りの古いこの建物はわずかに揺られた。


 モスクを占領した民衆は今や祈りの言葉を一斉に唱え、年に一回の預言者の生誕祭をも超える一体感と熱狂を醸し出していた。すべての尖塔に僧侶が上って祈りの言葉を町中に響かせ、集まった信者たちはいつも以上に力のこもった祈りを繰り返している。


「この国はアラミア神の加護を受けた神聖なる国家であり、神の意志を最も順守してきた。それなのに国教から外すなどという横暴が神に許されるわけが無い。この国から異教徒を追い出し、この国にはアラミア神無くしてなり得ないことを思い知らせるのだ!」


 祈りの声をバックに、最も広場を見渡しやすい尖塔に立った僧侶が人々を見下ろしながら高らかに演説している。


 広場の人々は祈りながらも静かに聞き入っていた。


 そんな様子を窓から見ていたマホニア司教の頬には、一粒の涙が伝っていた。


「嘆かわしい……このような争いはさらなる混乱を生み出す。人々は互いに民族や国家を超えて助け合うべきなのに」


「司教様の仰る通りです。我々はこの国にそのことを伝えに来たのに、まだ多くの人々が気付いていません」


 若い僧侶が血で染まった布を水に浸しながら相槌を打った。


 白々しい奴らめ。お前らが何かしないと、タルメゼがこんな状態に陥るものか。


「私たちは司教様の言葉を信じています。貧しくて何もできなくてこの世界に絶望していたのに、あなたたちと巡り合えたから現世でも救われることに気付いたのです」


 貧民の一人が司教に跪いた。


 それを見て司教は少し驚いた顔を向けると、すぐに優しく微笑み返して涙を拭いた。


「あなたたちには感謝し切れません。清貧に暮らしてきたからこそ真理に気付けたのです。皆さんはこの国の良心です」


 貧民たちの顔に光が戻った。疑いの念など一切無い、純粋なまでの信心だった。


 その傍らで、大柄な僧侶が窓の外をのぞきながら不穏な表情でつぶやいた。


「ですが……人々は皆救いを求めているというのに、祈る相手をはき違えている。このままではいずれ神から罰が下されるでしょう」


 妙な寒気を覚えた。リーフも同じようで、一瞬ぶるっと身震いさせている。


「司教、大変です!」


 突如、先ほど俺たちを部屋に案内してくれた顔中傷だらけの男が部屋に慌ただしく飛び込んできた。


 一気に階段を駆け上がってきたのか、ひどく息を切らしている。


「砂嵐です、巨大な砂嵐が町の南方より迫ってきています!」




 全員が別の部屋に駆け入り、急いで窓の外を眺めた。


 目に入ったのは青い空まで一本に伸びた砂の柱。それがゆっくりと、確実に大きくなりながらこちらに近付いている。


「な、なんだあれは!」


 リーフが窓から身を乗り出して驚愕した。


「塵旋風だ、つむじ風が砂を巻き上げて動いているんだ。だが、あんなにでっかいのは見たことがねえ!」


 俺はリーフがあまりにも前のめりになっていて危なっかしいので首根っこをつかんで支えてやったが、視線だけは迫りくる砂嵐から外すことができなかった。


 この町の南側には正門があり、大半の人々がこの門から出入りしている。古くからサルマは城壁に囲まれた都市で、その中心部に領主の住まいがあり、そのやや南側にモスク広場、つまり俺たちが今いるこの建物のある地区が広がっている。セリム商会や俺たちの泊まる宿があるのはさらに南側だ。


 今日は風も弱く天気も安定していると思ったのに、何故突然あんなものが?


 だが疑問に思っている暇は無い。まだ砂嵐は町の外にあるようだが、ここまで巨大な塊なら近付いただけでも被害は甚大だ。もしこのまままっすぐ町に向かってきたら、何もかも砂に埋まってしまう。


「まずい、急いで宿に戻るぞ!」


 俺はリーフの服の首元を引っ張って走り出した。集まった貧民たちを掻き分けて階段を落ちるように駆け下りた。


「痛いじゃないか、何をする!」


「宿には俺の全財産に、それにアコーンもいる!」


 ぷりぷりと怒っていたリーフだが、そう言われてようやく気付いたようだ。俺が手を離した後も一緒に走ってついてきてくれた。


 暴れる信者に代わり、今度の広場は突如現れた砂嵐を前に逃げ惑う人々で溢れていた。少しでも砂嵐から逃れようと皆一斉に北側へと向かう。南へと走る俺たちとは真逆なこともあって、走りづらいことこの上ない。何度もすれ違いざまに肩をぶつけ、転びそうになった。だが俺も相手も振り返ることなく、ひたすらに走り続けた。


「オーカス、こんな状態じゃあもう無理だ。私たちも逃げよう!」


 後ろから必死でついてくるリーフの声が聞こえるが、俺は何も答えずただ前に進んだ。


 ようやく宿の前までたどり着く。ここまで来ると人もまばらで、後ろからリーフが走ってくるのも見えた。


「リーフ、厩舎のアコーンを放してここで待っていてくれ!」


「わかった。だがオーカス、アコーンは良いとして荷物は後でも何とかなる。今すぐ逃げよう」


「ダメだ、ここで全財産を失っちゃ、何故商人になったかわかったもんじゃない!」


 俺は吐き捨てて宿に飛び込んだ。


 中は既にもぬけの殻で、しんと静まり返っていた。皆慌てて逃げだしたのだろう、食堂の床には食べかけの食器やかじった肉が散乱していた。


 俺はまっすぐ自分の部屋へと戻り、予備の財布に貴重な香辛料にと荷物一式を鞄と袋に詰め直して背負った。当然、護衛の報酬の絨毯もしっかりと抱えている。


 窓から外を見てみると砂嵐がさらに大きくなり、いよいよ城門を突破していた。屋根瓦やテントの布が巻き上げられ、空高くへと回転しながら昇ってゆく。


 急がないとあれに飲み込まれる。普段アコーンに括り付けている荷物も背負っているため動きづらいが、俺は全力で走り外へと出た。


 町の空気はすでに砂っ気がひどく混じっていた。強く吹つける風には砂粒を含み、肌にぱちぱちと打ち付けている。


 そんな中でリーフは手綱を握りしめ、アコーンに寄り添いながら待っていた。


「リーフ、すまない!」


 俺はアコーンをしゃがませると巨大な荷物を背負ったままアコーンに跨り、その後ろにリーフを乗せた。


「アコーン全力疾走だ、とにかく砂嵐から逃れるぞ!」

夜勤あると生活リズムが不規則になって辛いですね。

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