第二章 豪商の都サルマ その4
時が止まった。その場に居合わせた誰もが言葉を失い、ピクリとも動かなかった。
ただ風の吹く音だけが広場に鳴り渡り、人々の静寂をより一層引き立てていた。
しばしの沈黙。ようやく壇上の護民官が額に浮かんだ汗を拭い、再び口を開いた。
「我々は―—」
「どういうことだ!」
誰かが叫んだ。それに呼応するように人々が騒ぎ始めた。
「なんてことをするのだ!」
「皇帝陛下はご乱心か!?」
「国教から外すなど、アラミアの神への冒涜だ!」
「うわああああああ、神よ!」
堰を切ったように口々に話すため、誰が何を言っているのかさっぱりわからない。中には取り乱してその場に倒れ込んでしまう者や、口にするのも憚られるような罵倒を繰り返している者もいる。
「静まれ、静まれ!」
護民官を取り囲むように並んだ兵士たちが槍を突き立てて聴衆を威嚇するが、その喧噪は一向に止まない。
「神を裏切ったな、この野郎!」
群集の中から若い男が飛び出し、兵士の間をすり抜けた。そして護民官めがけてとびかかる。だが、すぐに脇に控えた兵士に捕まり、背中を槍で小突かれ地面に倒れてしまった。
その様子を見て人々はさらにヒートアップした。
屈強な男たちが前に出て、次々と兵士にとびかかる。兵士も応戦するが、いくら武器があっても人数が多すぎて分が悪い。たちまちモスクの前では乱闘が開かれ、砂埃と殴りつける音とで満たされた。
後方にいた男たちも乱闘に加勢するため走り始めるが、女や子供、居合わせただけの旅芸人一行は巻き込まれまいとそれとは逆方向に逃げ始める。
俺たちはその両者に挟まれて自由に動くことすらできず、リーフの肩をつかんで離れまいとするだけで必死だった。
「な、なんかすごいな」
「感心してる場合じゃねえ、さっさとここを……ん?」
リーフの肩を引き寄せてなんとかその場に踏みとどまっていた俺は、あっちへこっちへ走り行く人々の向こうで、平然と立ち止まっている者たちがいることに気付いた。
先ほどの貧民たちだ。すぐ側の乱闘などお構いなしの様子で、皆じっと目を閉じて掌を上に向けたまま天を仰いでいる。人々は彼らに気付いていないのか、激流の中を突き抜ける岩のように周囲の騒乱からは浮きあがっていた。
そして貧民たちは皆が皆同じ方向を向ていたが、それは護民官がいた方向でもモスクの方向でもなかった。広場の端にある比較的背の高い建物へと体を向け、まるでそちらに何かがあるかのようだ。
視線を建物へ移すと、建物の三階の窓から何者かが顔を出していた。
頭にターバンは巻いておらず黒色の髪をさらけ出し、上半身だけを見る限り白い服を着た男だった。髭は生やしていない。地元の人間には思えない風貌だ。
その男は広場を見渡しながら微笑んでいた。まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。
怪しい。あの男、この暴動を予期していたかのようだ。そして暴れもせずただ祈る貧民たち。1000年もの間帝国の基礎となり歴史を積み上げてきた国教が否定されたばかりなのに、この者たちはどうしてこうも落ち着いていられるのか?
「まさか、あの男が司教様か?」
直感だが、ほぼ確信したようなものだった。異国からやって来て貧民から慕われている人物と言えば、真っ先に思い当たるのがゾア神教の伝道師である司教だ。
「リーフ、あの男に見覚えは無いか?」
俺は建物の窓を指差し尋ねた。
「いや、知らない。記憶は無い」
それもそうか。自分の本名すら忘れているのに、知り合いかどうか分からない男のことなど知るはずもない。
ただ、何かしら手掛かりを握っているかもしれない。それにタルメゼにゾア神教を広めて何をしようと言うのか。
セリム商会の商人が言っていたように、ゾア神教が皇帝に取り入っているというのは間違いなさそうだ。さもなくばタルメゼ帝国がアラミア教を蔑ろにするはずが無い。
俺はリーフの肩をしっかりと掴み、あっちこっちへ走り回る人々を避け、時には押し退けながらなんとか進む道を確保した。人とぶつかるたびにリーフの身体が俺に押し付けられ、普段ならばその感触を楽しめたかもしれないが今はそんなことに気が回らなかった。
まっすぐのつもりが人の波に押されて何度も進路を乱されたものの、なんとか建物の入り口までたどり着くことができた。ドアの脇には看板が掛けられていた。どうやら宿屋らしい。
ドアの中はすぐにカウンターになっていて、普段なら宿主が出迎えてくれるはずだが、この時は誰も出てこない。店先で起こった暴動を恐れて身を隠しているのだろうか。
ようやくリーフの肩を離し、群集から逃れた安心感でどっと疲れが押し寄せてきた。だが俺たちは階段を見つけると、休むことも無く速足で上った。
あの男は三階だ。表の騒ぎのせいか、不思議な焦燥感があった。
一階は宿主家族の部屋で二階は小部屋が複数ある造りだが、三階だけは特別で、階段の先にはドアがひとつ待っているだけだった。
一つの階そのものが一部屋になっていた。金持ち向けの特等室だろう。
「この部屋だな」
俺は帽子をかぶり直し、リーフをちらっと見た。
リーフは祈っていた。ゾア神教信者らしく目を瞑り手を組み、少し背中を丸めている。
あの男が本当に司教であることを祈っているのか、それとも自分の出自が分かることを願っているのか、それはわからない。だが、決して迷うことの無い芯の強さが祈りの姿からは滲み出していた。
確かにこれから聖職者に会うのだ。なんだか俺も祈らなくてはならないような気分になって、軽く目を閉じ指を組む。
五年もの旅のせいで祈る機会はめっきり減ってしまったが、俺の奥底には未だにゾア神への崇敬が根付いているのだろう。
「何かご用ですかな?」
突然の声に心臓が口から飛び出しそうになった。
リーフに至っては「うひゃっ!?」と可愛げの欠片もない悲鳴を上げてしまっている。
振り向くと白い服を着て、茶髪を束ねて後ろで括っている若い男が鋭い眼光でこちらを睨んでいるのだった。
男は顔中に赤やら白やら痛々しい傷跡が走っており、目付きの不気味さを一層引き立てていた。
そして何より、この男はいつの間に俺の背後を取ったのか、それが気がかりだった。
この三階は階段を昇ればすぐに部屋の扉があり、ろくに隠れるスペースなど無い。階段を昇ってくるような気配も音も察知できなかった。
「お見受けしたところ、この町の方ではありませんね、旅人ですかな?」
「ああ、俺は西から来た商人だ。あんたたちも俺と同じ西の人間のようだが?」
「ええ、我々はパスタリアから参りましたゾア神教の宣教師一行です。先ほどの祈りの作法、あなたもゾア神教でしょう。せっかくの旅の途中にこのような暴動に巻き込まれて災難でしたね」
男がにやっと笑った。傷のせいで実際そうだったかは分からないが、確かにそう感じた。
「ここで立ち話も何でしょう、さあ中にお入りください。我々は来る者を誰も拒みませんから」
男が俺の背後に回り込んでドアノブをつかみ、木製の扉を引き開けた。
「さあ、どうぞ」
男が手招きして俺たちを案内する。
扉の中はさしずめ小さな礼拝堂だった。不揃いの椅子や木箱が所狭しと並べられ、これまた木箱を組み合わせてこしらえた祭壇には太陽の紋章が描かれ、その脇に教典を広げたままの机が置かれている。
室内にいた人物は三人。祭壇に向かった状態で長椅子に座り、じっと祈りを続けていたのだ。全員後姿しか見えなかったが、皆白いローブを着ており、横顔から見える肌は白い。この町の人間ではないのは一目瞭然だった。
表の混乱とは窓一枚を隔てただけなのに、まったく聞こえていないような静けさに包まれていた。
「司教様、お客様です」
部屋に踏み込むのをためらう俺たちを見かねて、ドアを押さえたまま男が呼びかけた。
そして三人の内真ん中に座っていた人物がすっと立ち上がり、こちらを振り向いた。
思った以上に若い男だった。乱れた黒髪にかつて皮膚病でも患ったのか、頬には斑点が浮かんでいる。所々ほころびの見えるローブの上からでも四肢は細くやせ細っているのがわかり、貧民に混じっていても気付かないような身なりだった。
ただ黒髪の上には様々な植物の葉や蔓を編んで作った冠を被っており、不思議な存在感を放っている。
この男が本当に司教なのか?
司教と言えばゾア神教においてその都市の数ある礼拝堂、聖堂を束ねる地域のトップだ。この下には何十、大きな都市では何百という司祭が控えている。
僧侶は何十年にもわたる修行を経て、人生の後半でようやく司教の座を得るのが通常なのだが、この男はどんなに高く見積もっても30前後にしか見えない。俺より少しばかり上なくらいだ。
「初めてお会いになりますね」
司教は澄んだ声で話し始めた。
「西方の国から来た商人だそうです」
司教がこちらにゆっくりと歩いてきた。ずるずると足を引きずっている。
「司教様、ですか?」
俺よりも先に、後ろで隠れていたリーフが尋ねた。
司教は目を細めてリーフを見返すと、リーフは一瞬体をこわばらせた。だがすぐに俺の前に歩み出て、頭の布を脱ぎ去った。
司教は柔和な笑顔を返し、部屋へどうぞと手で案内する。
俺とリーフは司教の導きで部屋に入り、適当な椅子に座った。簡易とはいえ久々のゾア神教の礼拝堂だ。張りつめた空気を前に、俺は軽口のひとつも叩けなかった。
「初めまして、私はサルマの町の司教マホニア。パスタリアから派遣されてここにゾア神教を広めに来ました」
マホニアと名乗った司教は軽くお辞儀をした。
「随分と驚いたお顔をされていますね」
「も、申し訳ありません! その、思っていたような方とはあまりにも違っていたので」
俺は慌てて頭を下げた。
マホニア司教はふふっと笑うと、不自由な足を引きずって祭壇の前に屈んだ。ゾア神教では祭壇に高僧などの聖人像を飾ることが多いが、ここには肖像画も木彫り像も、一切の偶像が置かれていなかった。
見れば見るほど、司教とは思えぬ質素ななりだ。俺の知るパスタリア国の司教と言えば赤く染められたマントに貴金属の冠をかぶり、シミひとつも無い純白のローブを羽織っている。そして平民と直接声を交わす機会など無いに等しく、祭礼での説教くらいでしか姿を見ることはできない。
そして頭に植物の冠を被るような風習は、俺の知る限りゾア神教には無い。
このマホニア司教は既存の司教のイメージとはまるで異なっていた。
マホニア司教に並んで座っていた二人の男も立ち上がり、こちらに目を向けた。
一人は俺と同じくらいの身長に加え熊のような太い体躯の大男、もう一人はまだ10代の若者で、カールのかかった金髪にそばかすが特徴的な小柄な男だった。
二人ともさわやかな微笑みを蓄えている。薄汚れた白いローブを着て頭に植物の冠を載せているあたり、僧侶だろう。
「ここはこの町のゾア神教信者の集う場所となっています。この町には恵まれない境遇の方も多く、そういった方々が救いを求めて神を頼ってくださるのです」
部屋の外から付き添っていた傷だらけの男が頼んでもいないのに説明してくれた。
「アラミア教は平等でない。この町には多くの理不尽が溢れている。富める者はさらに富み、貧しいものは何世代経っても苦しみから抜け出せない。この国は既に病んでいる。我々はこの国をゾア神教の力によって導いていこうと思っていただけなのです。その甲斐あってか、この国は今日ついに病から立ち直る道を選んだようですね」
傷だらけの男はにやりと笑ったまま淡々と言った。
俺は確信した。貧民たちの言っていた司教様とはマホニアのことだ。そしてこの連中が貧民の支持を得て、この暴動の裏で糸を引いていたのだと。




