第十八章 黄昏のピラミッド その1
石材を隙間無く積み上げたピラミッドの内部は焦熱地獄の地表とは異なり、冷たい空気に満たされていた。
とても3500年以上前の建築とは思えぬほどに緻密で丁寧に作られている。壁画の顔料も鮮やかなまま残っているのは、ここがひとえに砂に埋もれていたからだろう。
歴史家ならば感涙して人生をここの研究に捧げようと決心するかもしれないが、生憎俺にはそこまでの情熱は無い。そもそも今はそれどころの場合ではない。先を行くクリシスとカーラを追わねば!
外見は小さなピラミッドだったが、中はとてつもなく広かった。俺たちが見ていたのはほんの先端だけで、地下にはさらに巨大な空間が続いていた。
スロープ状の石畳を俺は剣を、リーフは松明を持ってアコーンを走らせた。石畳を踏み屋内を駆け抜けるアコーンの頼りがいは本当に並外れている。だが先のほとんど見えないこの地下道は、俺たちに焦燥を募らせた。
長い長い通路を進み、目の前が開ける。何本もの石柱が高い天井を支える大広間だ。王と下僕たちだろうか、大きく描かれた人物に数多の人々が跪いている壁画が鮮やかに残されている。その王の手の上には光の球が描かれていた。
「きっと神の力を得た王だ、もしかしたらここは王族の陵墓なのかもしれない」
アコーンで通り過ぎる際に、リーフが壁画を睨みながら言った。
その時、突如アコーンが足を止めた。前傾姿勢になっていた俺たちは放り出されそうになりヒヤッとしたものの、踏ん張ったので落下は食い止められた。
「おい、何立ち止まってんだよ!」
俺がアコーンを小突こうとして前を見た瞬間、なぜこいつが足を止めたのか理解できた。松明の灯りに照らされながら、不気味にうごめく巨大な影がすぐ目の前にあったからだ。
巨大な肉の塊のようなそれは、表面の至る箇所に何かが貼り付いており、炎を照り返して赤く輝いている。その正体は眼球だった。溶けた巨大な肉塊に、人間の眼球がびっしりと埋め込まれているあまりにも恐ろしい姿のバケモノだった。
「うっぷ、何だコレ!?」
リーフが口元を押さえた。生理的に嫌悪感を催すようなほど、この異形は醜悪だ。
「クリシスも趣味が悪いな。叩き切ってやる!」
俺はアコーンから飛び降り、道を塞ぐ異形に走り寄った。そしてブヨブヨとした肉の塊を断つ勢いで、剣を振り下ろす。
ぶにっと柔らかい感触が俺の腕にも伝わり、剣はずぶずぶと肉に埋もれた。だが、おかしい。切断した手ごたえも無ければ、血の一滴すら噴出さない。
剣を引っこ抜くと、確かに俺の剣を入れた形に肉は変形していた。しかしそれは単に肉を押しどかしただけだったようで、すぐに元の形へと戻ってしまった。
俺の剣が効かない。大体のことを腕力と剣で解決してきた俺にとって、この状況はかなりまずかった。
そしてこの異形も反撃を開始する。何百もの目玉が一斉に俺に黒い瞳を向けると、肉壁の一部に亀裂ができてそこから大きく開いたのだった。
その中は何百本もの鋭い牙があらゆる方向から生えた、巨大な口だった。強烈な腐臭と緑の消化液にまみれ、あらゆるものを吞み込もうとしている。
そんな口の中から緑色の気体が吹き付けられ、同時に俺の目が鼻が喉が、激しい痛みに襲われた。
「ぐふぅ!」
まともな声すら出すこともできず、俺はうずくまった。粘膜を刺激するこのガスに、俺は完全に当てられてしまった。神経もダメージを受けたのか、腕の力もろくに入らず、振り回していた剣さえも持てない。
そんな俺のすぐ目の前に、異形の巨大な口が迫る。このままだと呑み込まれてしまう、まさにその時だった。
「この野郎、オーカスから離れろ!」
リーフが駆けつけ、手に持った何かを異形の口の中に放り込んだ。直後、異形の口の中から巨大な火柱が吹き、爆音を立てて身体の内部から飛散したのだった。
リーフは俺を爆風から庇う形となり、二人とも吹き飛ばされる。そろって石畳の上を転がったが、互いに大きな怪我は無さそうだ。
異形へと目を遣ると体の内側から炎を上げ、全身の肉が目玉がただれながら地面に広がっていく。そんな異形の欠片もやがて炎に包まれ、消し炭となった。
「ナズナリアの……火薬瓶か」
俺が訊くと、リーフは「ああ」と拳を振り上げた。それ以上異形は動くことは無かった。
思わぬタイムロスとなったが、炎も鎮まり俺の毒も和らいだので、俺たちはさらに奥へと進むことにした。大広間の奥には通路へとつながっていたのだが、これが人一人ようやく通れる程度の狭さなので巨体のアコーンは広間に残すことにした。
今度は俺が松明を手に先を行き、後からリーフが続く。狭いので背中に両手剣を収め、ナイフを抜いた。
下り坂になった通路の向こうからは明かりが漏れ出ていた。どうやらようやく最奥までたどり着いたようだ。カーラだろうか、女の声も聞こえる。
自然と足が速まった。石畳を踏む音が狭い空間に響く。
そしてついに通路を抜けた。灯りに目を眩ませながらも、眼前のクリシスとカーラをとらえる。
「早かったな……」
そこは小さな玄室のようだった。石壁に四方を囲まれ、中央には棺のような石の箱が置かれている。しかし中に入っていたのは王の遺骨ではなく、びっしりと文字の書かれた薄い石版だった。
その石版を手に取り、ブツブツと不思議な言葉を唱え続けるカーラ。それを見守りながら脇に立つクリシス。
それこそまさに原初教典だった。クーヘンシュタットでゾア神の大いなる知恵をリーフから奪ったカーラは、神の言葉で書かれたこの書を解読していたのだ。
「今すぐ解読をやめろ!」
俺とリーフははナイフを突き立ててとびかかった。だが、クリシスがこちらに手を向けると俺たちの身体がピタリと動かなくなる。二人ともに走り出す格好のまま、静止してしまった。
「慌てるな、解読はもう少しで終わる。今すぐにも世界の理は書き換えられる。そしてこの世には永遠の平和が訪れるのだ、この世の生みの親としてこれ以上の幸福は無い」
ふざけるな。そんなことさせてたまるものか。
強く思っても口は動かない。その間もなおカーラは解読を進めている。倒すべき相手のすぐ目の前にまで来ているのに、もどかしさとやるせなさに俺は身体を震わせることもできない。
「クリシス、もうやめろ」
リーフの声だ。この動けない中、視界の端にわずかばかり映り込んだリーフが、顔だけをクリシスに向けて口を動かしていた。だが目の焦点が定まっていない。そして何より、その全身が弱々しくも淡い光に包まれていた。
「ゾアか……貴様がこの世界に降臨できるのも今日で最後だ。よく見ておくがよい、俺がこの世界に平和をもたらし、永劫に繫栄する人類を。俺は神としての命をこの世界に捧げるのだ」
クリシスは顔を反らし、ひたすらに教典を唱え続けるカーラに目を向けた。
「最早この世に神の干渉は必要無い。我々は人類を生み、知恵を与えた。あとは人類自ら発展を遂げ、長い歴史の中でこそ真の平和を手に入れるのだ」
「馬鹿言うな、その試行錯誤のために死んでいく者たちは何のための人柱だ! 大いなる犠牲の上で成り立つ平和など、俺は待てない! 人類は俺の生み出した子供のようなものだ、子供が死んでいく姿を見て悲しまぬ親などおらぬ!」
声に力が込もる。こちらに伸ばした腕も、小さく震えている。
「神という信仰の対象を無くした時、世界はどうなる? 第二第三の神を名乗る輩が現れ、やがて世界は混乱に陥るだろう。だが、長い歴史の中で起こった悲劇を学んだ者は決して同じ轍は踏まない。それこそ人類が最終的な真の平和を得るための最善の手段なのだ」
「そのセリフは聞き飽きた!」
クリシスが叫んだ瞬間、空気が大きく動いた。室内なのに強い風が起こり、俺の帽子が外れた。
「貴様がそう言うので俺はずっと黙っていたが、この数千年間、何も人類は変わらないではないか! 今だに信仰の違いで争い、憎しみ合い、殺し合う。権力を持った者によって貧者は泥水さえもすする。そんな世界、これ以上見たくはない!」
ついにカーラの身体が輝きだした。教典を一通り読み終え、この世の理を書き換えるつもりだ。
「待て、この世の理は互いに複雑に絡み合ってできている。それを弄れば、何が起こるか分かったものでははないぞ! それもそのような不完全な神の言葉ならなおさらだ!」
「貴様の言葉など聞く耳も持たぬ!」
リーフの身体を借りたゾアは慌てて答えるが、クリシスは否定した。
全身を黄金のように光り輝かせたカーラは、なおも呪文のように言葉を紡ぎ続けていた。神殿が揺れ、天井からパラパラと砂埃が落ちる。
「ついに……ついに読めたか」
にたっと笑ったまま、クリシスは人間を超越しつつあるカーラを見守る。俺は口答えのひとつすらできず、その様子をただ見続けるしかなかった。




