第90話 吸血の代償
2023年12月9日pm2:05 紅魔館 (木島三尉視点)
ニーナ少尉の首筋に牙が埋め込まれてからおよそ10分が経過したころ、今まで声を押し殺しながら体をくねらせて何かに耐えていた少尉から力が抜けた。時折ばたつかせていた手足も今ではダラリとして動かない。
何か異常があったと感じた俺が少尉のもとへ駆け寄るのと、レミリアさんが首筋から牙を抜くのはほとんど同じタイミングだった。
「美味しかったわぁ。生きた人間の血を吸うのは久しぶりだったけれど、やはりいいものね」
俺と目が合うなり彼女は満足そうな表情でこちらをそう口にした。吸いきれなかったのであろう血が口元から滴り落ち、フリルのついた可愛らしい衣装を真っ赤に染め上げていく。
そこには普段のお嬢様然とした彼女は無く、畏怖と恐怖の対象として語り継がれる吸血鬼の姿があった。
「彼女は……ニーナ少尉は無事なんですか?」
だが、俺の視線は彼女の腕の中でぐったりとして動かない少尉に向けられていた。
「心配ないわ。今は貧血で一時的に気を失っているだけだから」
そのことに気づいたのだろう。レミリアさんも少尉に目を向けながら優しげに答える。
「と言うことは彼女が吸血鬼になったりも……」
「しないわよ。眷属が増えるのは嬉しいけど、あなたから大切な人を奪ったら面倒くさそうだもの」
大切な人といえば確かにその通りなのだが……レミリアさんの言い方だと部下に余計な想像をさせかねない。現に勘違いした山本一曹とアルチョム伍長が興奮した表情でヒソヒソと話し始めているし……
この件が片付いたらアイツら二人共まとめてぶっ飛ばしてやる。
「それにしてもこの娘……ニーナ少尉の胆力には驚いたわ。何度か逃げる機会を与えたというのに動じることなく自分が信じた事を最後までやり遂げた。まさしく称賛に値するわ」
レミリアさんはニーナ少尉の行動に素直に感心している様子だった。そこには先程までの敵意は微塵も無く、少尉がしっかりとレミリアさんの信頼を勝ち取ったことが伺えた。
だが、俺の内心は複雑だった。
自分の指揮下にあった人間が身の潔白を表明する為とはいえ、あのような辱めを受けることになってしまったのだ。年頃の娘であるニーナ少尉にとって、あのような場面を俺達に見られたのは屈辱だったはずだ。
それに、どんなリスクがあるか分からない状況下での吸血だ。怖かっただろうし、苦しかっただろうことは容易に想像がつく。
任務達成のためとはいえ、年端もいかない少女を犠牲にしてしまったことへの罪悪感が俺の胸の中を覆いつくしていた。
「三尉、ニーナ少尉のバイタルチェックを行いたいのですが……」
思わず押し黙ってしまった俺は背後に控える部下から上がった声で現実に戻された。一呼吸して振り返ると、そこにはファーストエイドキットを手にして不安そうな視線を向ける松本二曹の姿があった。
「あぁすまん。レミリアさん、ニーナ少尉の健康状態を確認したいので彼女を引き渡してください」
「あら失礼したわ。血を吸ったから、多少貧血気味だとは思うけども大きな怪我や後遺症はないはずよ」
レミリアさんはそう言いながら、ぐったりとしたままのニーナ少尉を抱き抱え俺に差し出した。年頃の娘らしく華奢だとはいえ、レミリアさんよりも体格が大きいニーナ少尉を軽々と持ち上げてしまうのだから吸血鬼とは恐ろしいものだ。
考えてみれば吸血中のニーナ少尉はかなり暴れていたはずだが、レミリアさんは仮にも軍人である彼女の抵抗を受けても、全く動じずに吸血を続行していたのであるから見た目詐欺もいいところだ。
幼女の見た目をしているからと言って油断すると泣きをみることになる。
「どうも」
意識を失った人間は力が入っていないから通常よりも重く感じるものだが、レミリアさんから受け取ったニーナ少尉は予想よりも軽くて拍子抜けだった。レンジャー訓練の時に背負った背嚢より少し軽いくらい……などと言うと彼女は怒ってしまうだろうから口には出さないようにしておく。
一応外傷の有無だけでも確認しようと彼女に視線を落とし、吸血された首筋を覗き込む。すると、さっきまで2本の八重歯が埋まっていた場所に小さな刺傷が見えた。
首から上には太い血管が多いことも相成って、止血には時間が掛かるものだが驚くべきことに既に血は止まっていた。
「松本、ちょっと見てくれ。お前の見解を聞きたい」
「どうしました?」
駆け寄ってきた松本二曹にも傷口を見せると、彼も首をかしげてみせた。
「……妙ですね。ご存知のように首から上の出血は、なかなか止血することができないんです。それがこの短時間で塞がるなんてことは万に一つも有り得ないことですよ」
「そうだよな? 考えられる原因としては、吸血の際にレミリアさんから何らかの抗体ウィルスを貰ったとかか?」
「まぁ憶測で議論しても始まりませんから、それも含めて詳しく検査しましょうか。車両から担架を持ってこさせてますんで、落ち着いた場所に彼女を移動させましょう」
「わかった。担架はどれくらいでここにつく?」
「先ほど今川一士と柳田士長が96式装輪装甲車に取りに行ったのでもう間もなくです。こっちへ」
そう告げると松本はテーブルをどかして作ったスペースを指して進み始めた。
幸いにもレミリアさんからニーナ少尉を受け取った方法が、いわゆるお姫様抱っこの状態だったこともあり移動が苦になることはなかった。
「んっ……」
担架まであと一歩という時、不意にニーナ少尉の体が揺れた。
「気が付いたか?」
彼女の顔を覗き込み問いかける。よく見れば顔も赤いし呼吸もいつもより荒い。吸血の後遺症があるのかもしれなかった。
「木島三尉……」
「喋らなくていい。意識も戻ったし大丈夫だとは思うが一応、バイタルチェックをやらせてもらう。こんな体勢で悪いが担架が来るまでじっとしていてくれ」
目が覚めたばかりで意識が定まっていないらしく、イマイチ焦点の合わない瞳が俺の言葉に反応して視線を動かした。
彼女の体に失われていたはずの力が宿ったのはこの直後だった。
「…ッ降ろして下さい! もう大丈夫ですから!」
彼女はさっきまでとは打って変わって俺の腕から降りようともがき始めたのだ。理由は分からないが目も泳いでいるし心なしか顔も赤いように見える。
「大丈夫なわけないでしょう! 一度にかなりの量の血液を吸われたんだから、貧血の症状が出て倒れるかもしれないでしょう。何と言おうと降ろすわけにはいきません」
俺としては担架が来るまで彼女を抱えていなければいけない状況で、急に暴れ始めたのだからたまったものではない。彼女を何とかして諌めようと四苦八苦していると見かねた松本が近づいてきた。
「ニーナ少尉、落ち着いてください。貴方の身体は今、血を抜かれた影響が出ているんです。今立てば確実に倒れますよ」
「す、すみません……」
普段おっとりしている松本が真剣な表情で訴えたのが功を奏したのか、ニーナ少尉の抵抗は急速に萎んでいった。
「担架設置完了しました」
担架を下した今川と柳田からの準備完了の報告を受けて、少尉を降ろすべく動こうとした時、目の前にいる松本の存在に思い立った。
「ちょうどいいな。松本、足持ってくれ」
松本はその一言で全てを察したらしく、俺に背中を向ける形で彼女の両足をクロスさせて脇に挟み足を大きく開いた。俺もそれに倣って足を開くとすかさず柳田が足の間に担架を滑り込ませる。
「よし、3カウントで降ろすぞ。イチ! ニ! サン!」
無事に担架に降ろすことができた訳だが本番はここからだ。すぐに松本がファーストエイドキットを手に少尉の隣に膝をついた。
「大丈夫だとは思いますが一応、血中酸素濃度の検査と一通りのバイタルチェックを行います。あと、今回は吸血に伴う感染症の検査もしたいので採血もさせて下さい」
「それは全然大丈夫なんですけど……」
落ち着いた口調で今後の動きに関する説明をした松本二曹に対して、ニーナ少尉の返答は意外にも歯切れの悪いものだった。
「ん? 何か?」
「その……言いにくいんですが、お手洗いに行かせていただきたくて」
彼女は数秒掛けて悩んだあと、羞恥と躊躇いが混ざり合った複雑な表情で理由を告白した。なるほど、彼女の顔が朱に染まっていた理由がよく分かった。
「すまん、気付かなかった。トイレまで運ぶからちょっと待ってくれ」
「はぁ……」
盛大な溜息が室内に響いたのは、俺が慌てて対応策を提示した直後だった。
「……もう見てられないわ。咲夜! 後を引き継ぎなさい」
「承知しました。ニーナ様、私がお手洗いまでお連れ致します」
声の主は屋敷の主でこの状況を作り出した張本人。レミリアさんその人だった。
「ちょっと待って下さい! 彼女は私の指揮下にあるんです。私の部下を勝手に連れ去ることは許しませんよ!」
「連れ去るも何も、これはデリカシーの問題よ。忘れてるようだから教えてあげるけどニーナはレディなのよ。それを男どもで囲んで手洗いに連れて行こうだなんて、彼女への配慮が足りてないわ」
抗議の声は正論を持って叩き潰された。この状態からの反論はもはや負け惜しみ以上の意味をなさないだろうことは容易に想像できた。かといって小隊にはニーナ少尉以外の女性はいない。選択の余地は無かった。
「わかりました。咲夜さん、申し訳ありませんが彼女を頼みます」
「承知しました。ニーナ様は私が責任を持ってお連れしますのでご安心ください」
咲夜さんはそう言って微笑むと次の瞬間にはニーナ少尉共々俺達の前から姿を消した。例の能力を使ったのだろうが、わかっていても心臓に悪い。
「木島、この中に医者はいるかしら?」
レミリアさんの問いは唐突だった。松本に目配せをすると彼も頷き手を挙げた。
「医者ではありませんが、それに近い資格は持っています」
「ふーん。じゃあ貴方と木島に話があるわ。ついてきなさい」
そう一方的に言い放つとレミリアさんは部屋を出ていった。
「小隊はその場で待機。松本は俺とこい」
「了解」
レミリアさんの後を追うべく慌てて部屋を出ると、意外にも彼女は俺達を待っていた。
「こっちへ」
その一言だけ告げると、レミリアさんは踵を返し廊下の奥に進んでいった。俺達も彼女に遅れまいと後に続く。
改めて見てみると、この洋館は外から見るより広く感じる……いや、広く感じるなどと言う生易しいものではない。目線の先にある廊下は無限に続くかのように錯覚してしまう程、長く終わりが見えない。
明らかに異常だ。
「改めて言うのもなんですが、随分と広いお屋敷なんですね。こんなに広いと掃除も大変そうだ」
「咲夜が能力で空間を拡張しているからね。私は広く使えていいけれど、貴方が言う通りで咲夜は掃除が大変だってボヤいてたわ。自分で広くしたというのに面白い子でしょう?」
マジか……時間停止にくわえて空間拡張まで使えるなんて反則にもほどがある。彼女だけは敵に回したくない。
「着いたわ」
レミリアさんがそう言って歩みを止めたのは、他の部屋の扉とは一線を画した高級感が漂う立派な木製扉の前だった。
彼女がおもむろに扉をあけ放つと、そこに広がっていたのは2台の革製ソファーとシンプルだが実用的なデザインの執務机。外を見渡す大きな窓から差し込む光がそれらを美しく照らし出していた。
シンプルでいて高級感が漂う調度品の数々が並ぶ部屋。この配置は日本でも駐屯地は勿論、民間企業でもよく見ることができる『応接室』に他ならなかった。
「そこにかけて」
そう言ってレミリアさんが指したのは下座のソファーで……ってまぁ当然か。上座は館の主たるレミリアさんが座るべきだろう。
「んで、要件は何です? わざわざ場所を変えないと話せない内容なんですよね?」
示されたソファーに腰かけながら口にした問いかけに、レミリアさんは呆れたように首を振った。
「ニーナの件に決まってるじゃない。この状況で他に何があると?」
「まぁ、そりゃあそうですな。……それで私の部下に何か?」
レミリアさんの瞳を凝視するような形で回答を待つ。ことわざにもある通り、目は口程に物を言う。目を通してでも彼女の本心が知りたかった。
「私が血を吸った時に彼女が悶えた理由について……いえ、吸血の副作用についてと言った方がいいかしら?」
「なっ!? 後遺症は残らないはずでしょう!」
わざわざ俺達を別の場所に移したのは、ニーナ少尉を生涯にわたって蝕む後遺症の話をする為だったのか? いったい彼女にどれだけの犠牲を払わせれば気が済むというのか……彼女の献身に付け込む行いに沸々と怒りが沸き上がってい来る。
「落ち着きなさい。私は何も後遺症の話はしていないわよ」
だから、レミリアさんの口からその一言が出たときは虚を突かれた。
「言っている意味が分からない」
「私は副作用とは言ったけど後遺症なんて一言も言っていないってことよ。松本さんだったかしら? 医者の貴方ならこの二つが必ずしも=にならないって事はわかるでしょう?」
レミリアさんからの問い掛けに、松本はチラリと俺を見てから口を開いた。
「ええ、勿論です。ですが副作用となるとニーナ少尉が気がかりです。歯を体内に埋め込める事による感染症のリスクは高いはずですから、副作用もその類のものかと思いますが」
「んー私が説明しなきゃいけないのは、感染症なんてまどろっこしいものじゃなくてもっと即効性のあるモノの話よ。あなた達に分かりやすく伝えるならば『毒』って表現になるのかしら」
毒……聞き捨てならない言葉だが、ある意味想定内だ。血を吸ったり噛みついたりする生き物は概して毒を持っているものだ。
現に彼女から解放されたニーナ少尉はどこか挙動不審だったように思う。それが毒に侵された事による影響だとすれば説明がつく。
「吸血とは体に歯という異物を挿入して血液を吸い取る行為よ。当然、そのまま吸ったんでは痛みからの抵抗を受けてしまうし、場合によっては獲物を逃がしてしまうわ。だから、吸血鬼は血を吸う時に体に毒を流し込んでいく抵抗を排すのよ」
「なるほど。確かに蚊なんかの吸血生物も、針を刺していることに気が付かれないように痛み止めの効果がある毒を流すって聞いたことがある。それと同じ原理か」
「……蚊如きと同列に扱われるのは癪に触るわね」
レミリアさんの頬が引きつっているのが分かる。分かりやすく説明したと思ったが、今のは失言だったらしい。
「こりゃ失敬。そんで毒の効果は何なんですか?」
「まぁいいわ。この毒の効果は2つ。1つは吸血終了後に止血しやすくなること。2つ目は吸血されている人間に強烈な快楽を与えることよ。だから、吸血された人は抵抗するどころか更に行為を求めるようになるわけ。合理的でしょ」
快楽……なるほど確かに合理的だ。一度八重歯を突き立ててしまえば、後は獲物の方から求めてくるのだからこれほど楽な事は無い。
ん? 待てよ。と言うことはニーナ少尉が吸血中に上げた嬌声はつまり……そういうことなのだろうか。
「ちょっと待って下さい。レミリアさん、その強烈な快楽が吸血対象を襲うのは行為中の間だけですか? まさかその後もってことは無いですよね」
松本二曹が慌てたように確認をとった。だが、答えは聞くまでもなく分かってしまった。
「まぁ快感が伴うのは吸血中だけだけれど、快楽を求める中毒症状は今も健在よ。だいたい吸血してから30分~1時間は毒の効果が持続するはずだから、私が顔を出すとニーナが吸血を求めて大変なことになるわ。そういう訳だから今ニーナちゃんに会いに行けば彼女の相当積極的な姿が見れるはずよ」
「勘弁して下さいよ。野郎だらけの自衛隊であんな姿を晒されては……いや待てよ。その快楽ってもしかして」
「そうね。貴方が今想像した行為で得られる類の快楽よ。だから、ニーナが積極的になるのは別に私相手だけの話じゃないわ。わざわざこの部屋に通したのはそれを説明するためよ」
最悪だ。要するにニーナ少尉は今正気じゃないと言うことだろ? そんな爆弾みたいな状況で男所帯の自衛隊に戻ってしまったら……警務隊が出動する大事件が起こるのは目に見えている。
「マズいなぁ……松本二曹、急ぎニーナ少尉を確保するぞ。鎮静剤を用意しとけ」
「あら? ニーナちゃんを大の男2人がかりでどうこうするのかしら? ニーナは強い子だけれども、初めてで2人を相手にさせるのはちょっと可哀そうじゃない?」
「しねぇよ! ……失礼。ご心配痛み入りますが、彼女には薬で眠ってもらいますからご安心下さい。目が覚めた時には元通りになってますよ」
「あら残念。ニーナちゃんは咲夜が部屋で保護しているから安全よ。咲夜を部屋の前に立たせておくから早く行ってあげなさい。快楽に身をゆだねるのは楽だけど、抗うのは苦痛だから」
「ご忠告どうも。いくぞ松本」
事態収拾は迅速かつ隠密にて行わなければいけないらしい。レミリアさんに敬礼し速足で扉に向かう。
「ニーナちゃんによろしくね」
背後から響いた声に、扉を開けながら声の主に視線を向ける。
「目が覚めたら自分でお伝えください。お嬢様」
フッと笑った彼女に送り出される形で、俺達はニーナ少尉のもとに駆け出した。




