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葉子の名字

作者: nakano

葉子の名字


七月


 真夏の夕方は、日中の暑さを吐き出していた。アスファルトの熱、西日が乱反射するビルの窓、エアコンの室外機からの排気。雨でも降れば、暑さがリセットできるけど。

 一人の幼い少女が、フラフラと千鳥足でスーパーマーケットに入ってきた。少女は日中の暑さで体力を奪われていたが、店内はクーラーが効いているので少し回復した。ベーカリーコーナーから漂う、バターの焼ける香ばしい狐色の匂いに誘われた。

 ベーカリーコーナーには、トレイに何種類ものパンが並べられている。少女は自分の手の届く下の段のパンを取って、食べ始めた。

 ベーカリー専用のレジにいた女子大生アルバイトが気付いて、少女に近づいてきた。

「お嬢ちゃーん、このパンは売り物だから、勝手に食べちゃダメだよ」

 幼児相手にパン一つで目くじら立てても仕方がないので、店員は甘い声で注意した。少女はみつかっても動じずに、キョトンとしていた。

「ママはどこにいるの?」

 少女は答えなかった。女子大生はバックヤードから同僚を呼んで、迷子案内の手配をお願いした。

「迷子のお知らせを致します。幼稚園児くらいのお年の、青いワンピースを着た女の子が、お父さんお母さんを探しています。お心あたりの方は、一階の正面玄関の案内所までお越しください」

 何時間待っても、誰も迎えに来なかった。


 水上(みなかみ)アカリは幼い頃からサリヴァン先生に憧れていた。教育大学を卒業して、特別支援学校で働き始めて四年目だ。

 一学期の終業式。窓から見える空は真っ青で、活力に満ちていた。セミの声よりも元気な生徒達の声が、教室から響いている。

アカリは少しおしゃれをしていた。

いつもはTシャツにスエット、ひっつめ髪にすっぴん、眼鏡。連日の残業でくたびれた顔をしていた。仕事を始めてから十キロも太ったので、独身なのに二人の子供を産んだお母さんのような体型だ。「あの先生も当時二十代だったんだよな」と大人になって思い出すタイプの雰囲気だった。

今日はスカートを履いて、髪を下ろし、化粧もしていた。学生時代に着ていたお気に入りの服を引き出してきて、サイズがちょっとキツイけど、少しだけ若さを取り戻した。

「水上先生お疲れ様」

 校長の里中が、アカリのデスクに来た。里中は五十才にしてはスマートで若々しい。エネルギーと正義感が瞳に満ち溢れている。好青年のまま年を重ねたのが、誰の目にも納得できる人物だった。

 アカリは今日のおしゃれを見せるように、立ち上がった。

「お疲れ様です、校長」

「水上先生、夏休み中のセミナー予定を入れすぎじゃないか? 勉強家なのはいいけど、せっかくの休みなんだから」

 特別支援教育は様々な生徒達に対応する為、常に広く深く新しい情報を勉強しないといけない。今アカリが受け持っているのは知的障害を持った中学生で、少人数クラスとは言え、個々の生徒の教育や家族へのフォローが必要だ。教育大学での講義と、四年の勤務で、アカリはかなり勉強して、日々の仕事には慣れてきたけど、まだ充分とはいえない。

「いえ、校長みたいな立派な教育者になる為に、少しでも努力しないと」

「無理はするなよ。あと、今日は一学期の打ち上げの飲み会があるから、いつもみたいに残業にはならないようにね」

「大丈夫です。今日の飲み会をすごく楽しみにしていたんです」

 会話中にアカリの携帯電話が机の上で振動していた。無視しようとするアカリに、里中が電話に出た方がいいよと目配せした。

「もしもし。うん、仕事中。え? お母さんが死んだ?」

 大きい声を出してしまい、里中と目があった。アカリは眉間に手を当て、深いため息を吐いた。

「うん、わかった。ちょっと今なんとも言えないけど、後で電話する」

 里中に早くフォローしたくて、アカリは早く電話を切った。

「水上先生、大丈夫? 今日はもう上がっていいから」

「あの、いえ、でも・・・・・・」

「早く行ってあげた方がいいよ」

「あ、あ、あ、はい」

 里中は職員室を出て行った。アカリは帰る支度をしながら、落胆した。


 校舎の外に出ると眩しく、開放的な青空が広がっていた。

 兄の隆が学校までハイエースで迎えに来てくれた。隆は三十六才で、アカリとは十才離れている。仕事の途中で急遽抜け出して生きたので、作業着を着ている。

ハイエースの車内は、クーラーをかけていても、少し蒸し暑い。アカリは助手席でむくれて、ヘアゴムで髪を束ねた。

「お母さんが死んだって言われても。私が物心つく前に出て行って、一度も会ったことないし」

 隆は、アカリがなぜ機嫌が悪いか分からず、なだめた。

「あーちゃん、そんなこと言われても。俺だって、一人で警察になんて行きたくないよ。だからって、父さんに行かせるわけにもいかないし」

 二人の母は二十五年前、アカリが一才の時に、父と離婚して家を出て行った。アカリには母の記憶がない。隆は当時十一才だったから、状況は詳細に覚えているが、一切語りたがらない。父も同じだった。いきなり死んだと言われても、アカリの感情が追いつかない。憎んでないけど、腑に落ちない。


 警察署に着いた。警察署は慣れていないと、緊迫していて居心地が悪い。高木という男が会議室に案内してくれた。高木は白髪交じりのえびす顔で、警察官にしては腰の低い男で、明るく申し訳なく喋った。

「突然すいませんね。町田治子(はるこ)さんの件ですけど、昨日マンションで亡くなっているのを発見されまして。死因はまだ不明ですが、多分事件性はないかと思われます。まだ六十才でお若いですが、孤独死でしょうね」

「こちらこそ、ご迷惑をおかけしまして」

「お母さんのご遺体ですけど、正直あまりご覧いただける状態ではないんです。死後数週間くらい放置されていまして。どうされます?」

 アカリと隆は顔を見合わせた。互いに自分の意見が浮かばない。ネガティブな回答は、高木に対して体裁が悪いので、顔をしかめた。

「お母さんとは生前ご連絡は取っていたんですか」

「いえ、全く」

「妹さんは?」

「母とは一度も会ったことがありません」

 アカリがきっぱり言うので、会議室に静けさが走った。高木が頭をかきながら、言い出しにくそうに、話を切り出す。

「そもそも、今回の話ですけどね。葉子ちゃんはご存知ですか?」

「いえ」

「私も知りません」

 高木がため息をつき、頭の中で整理して、話し始めた。

「葉子ちゃんって五才の女の子ですけど、ユカリさんの娘さんなんですよ」

「ユカリの?」

 隆が大声を出した。隆は一瞬の驚きの後で、アカリを見た。

「ユカリって誰?」

 アカリがユカリを知らないのを、高木は不審そうな顔をしている。隆が思考停止してソワソワしているので、高木が話し始めた。

「ユカリさん。今は結婚されていて、島ユカリさん。お二人のご兄弟ですよね。水上隆さんの妹さん、水上アカリさんのお姉さん。私達が知っている情報は、戸籍謄本を取り寄せて調べた所までですが。

で、ユカリさんの娘さん、それが葉子ちゃん。その葉子ちゃんが、なぜだか治子さんの養子に入っているんですよ。そのご事情は・・・・・・ ご存じない。私達もわかりませんが。

その葉子ちゃんの万引き事件をきっかけに警察が動き、今回のお母さんが発見されまして」

 アカリは知らない名前がどんどん出てきて、結婚、養子、万引き、という二転三転に、どう飛び火してくるか、わからない。

 高木が戸籍謄本を見せた。

「あ、葉子って子、私と同じ三月五日生まれなんだ」

「そっか、養子だから戸籍上は俺達兄妹なのか。実際は姪っ子だけど。僕達はこの後どうしたらいいですか?」

 二人は戸籍謄本を見て、それぞれ胸騒ぎが鎮まらなかった。アカリは高木に頼んでコピーをしてもらった。

「ユカリさんのご連絡先はわかりますか?」

「いえ」

「お母さんのお葬式は、またご家族で話し合ってください。あと、本来でしたら、葉子ちゃんはユカリさんに引き取っていただくのが筋ですが、連絡取れなかったら、ねえ。施設に入所するしか、ねえ」

 高木は一旦会議室の外に出て、葉子を連れて来た。

 葉子はやせ細っていて、衣服も汚れて臭かった。カメラレンズのような目をして、こちらを見ていた。

「こんばんは」

 葉子から挨拶をしたので、慌てて二人も挨拶をした。

 アカリは葉子に近づいて、抱き上げた。

「軽い」

 葉子は「ん~」と唸って、むずがりジタバタするので、葉子を降ろした。アカリがしゃがんで、下から葉子を見上げた。レンズの瞳が眠そうにしていた。


 警察を出ると、もう午後八時だった。今夜は家族で話し合うので、一人暮らしをしているアカリも、ハイエースに乗って実家に向った。車に乗ると、アカリは隆を問い詰めた。

「たーくん、なんでお姉ちゃんがいるって隠していたの?」

「知る必要ないだろ」

「なくはないでしょ。お姉ちゃんとは本当に連絡とってないの?」

「絶対ない。それより、あの状況で抱っこはまずいだろ。情が移るぞ」

 隆は、アカリが葉子を抱くのを見兼ねていた。黙っていてもよかったけど、アカリに責められ、切りかえした。

「情が移るって何よ。野良犬みたいな言い方」

「かわいそうじゃないか、期待させたら」

「期待って?」

「お前には責任のとれる話じゃないだろ」

「え? たーくん、あの子を施設に入れるつもりじゃないよね?」

「当然だろ。俺もお前も面倒みられないだろ」

「家族だよ? 私、家族をそんな施設に入れるなんて、教育者として絶対できない」

「お前が働きながら子育てできないだろ」

「たーくんは、いつだって家族をなかったことにできるのね」

 隆は言い返せなかった。普段は仲のいい兄妹なので、ケンカになると互いにズバスバ言ってしまう。隆がユカリのことを言わないのには、理由があるだろうことも、アカリは分かっている。正しさを楯に言い過ぎてしまうのは、アカリの悪い癖だった。

 

 水上家は代々「水上製菓」という豆菓子工場を営んでいた。現在、六十三才の父・(たけし)が社長、隆が副社長、四十才の隆の妻・宏美が経理部長と、慎ましく家族経営をしている。

 十四年前、隆の結婚を機に、家を建て返して、二世帯住宅にした。一階には、父、祖母、そして、当時はまだ学生だったアカリが住んでいて、二・三階は隆家族が住んでいる。

 隆には二人の息子がいて、長男・太地(たいち)と次男・太朗。二人とも中学一年生だ。とはいえ、双子ではなく、太地が四月生まれ、太朗が翌年三月生まれだ。見た目はそっくりだけど、太地はおとなしく、太朗はお調子者だった。

 アカリと隆が帰ってくると、太朗が野球の素振りをしていて、それを見て太地がアドバイスをしていた。

「こんばんは。太地くんも太朗くんも、野球部に入ったの?」

「うん。俺はマネージャーだけどね」

 太地が口早に答えた。すると太朗も矢継ぎ早に言った。

「俺は普通に選手希望だけど、一年だからまだ試合に出られないんだ。基礎練習ばっかりだよ」

「がんばってね」

 アカリと隆は家に入った。二階のキッチンでは、宏美が夕飯の後片付けをしていた。

「アカリちゃん、ご飯食べたの?」

「俺も何も食べてないから、二人分なんか適当に作ってよ」

「宏美さん、すいません」

 宏美がきつねうどんを作っている間に、隆は武を二階のダイニングに呼んだ。武は小柄で髪もかなり少なくなっている。既に一人で晩酌を始めていて、やや酒臭い。生真面目で小心者なので、一日の終わりに酒を飲んで憂さを晴らしていた。宏美は武の為に、焼酎とかきの種を用意した。豆菓子工場なので、かきの種はたくさんある。

「イタっ」

 隆はイスに座ろうとして、痛がりゆっくりと座りなおした。

「あなた、また?」

「たーくん、どうしたの?」

「なんでもない」

「この人ね、ストレスや疲れが溜まってくると、急におしりにオデキができるのよ」

「イボ痔? 大丈夫?」

「違うよ、ただのデキモノだ。すぐ治るから」

 患部に当たらないよう、隆は浅く座った。

「根っこがいつまでも残っているから、お医者さんに取ってもらえって言っているんだけど」

「たいしたことないから。こんな場所を医者に見せられるかよ」

「それより、たーくん」

 隆は咳払いをして、改めた。

「あぁ。母さんのお葬式だけど、簡易な火葬だけうちで出そうと思っているんだけど。父さんはどう思う」

「んー。いいんじゃないか」

 武は自分の意見を聞いて欲しくなさそうだった。口をふさぐ為に酒が進んだ。

「お墓はどうするの? お母さんは水上の墓に入りたいのかな」

 武と隆は黙ったままだった。武がコンコンとダイニングテーブルに人差し指の爪を打ち続けている。隆は何度もイスを座りなおした。男達が口に出せない事情を、アカリが知らないのが気にくわない。

「宏美さん、ユカリって知ってる?」

「ひぇ?」

 宏美が変な高い声を出した後、隆と目配せをした。

「さぁ、ユカリさんって?」

「あぁ、知ってるのね」

 武のコンコンという音が早くなる。音と音の感覚が狭まり、つながり始めた頃、バンと両手でテーブルを叩いた。

「ユカリが、何を言ってきたんだ。金か?」

 三人は驚いて、武を見た。

「お父さん、もしお金の話なら出すの?」

 ダイニングには、さっきのテーブルを叩いた音がまだ残っているようだった。

「出すわよね、当然。私にはわからないけど、出しそうな気がする」

「アカリちゃん、ちょっと」

 武の酒が進む。

「父さん、気にすることないよ。あーちゃんは、すねているだけだから」

 アカリは感情的になったけど、すぐに反省した。一応八つ当たりができたから、気が済んだ。もう二十六才だから、こういう家庭の事情にへそを曲げるトシでもない。

「ごめんなさい」

「で、ユカリは何を言ってきたんだ」

「知らない。私もまだ会ってないもん」

 隆は伸びてしまったうどんをズズズとすすった。うどんの滑り込みが悪い。七味をたくさん入れた。

「たーくん、刺激物は、その、よくないよ」

「だから、痔じゃないから」

「アカリちゃんも、無理して食べなくていいのよ。ゼリー食べる? おミカンいっぱい入ってるの」

 アカリは正直お腹がすいていたので、ミカンゼリーが欲しいけど、宏美に悪いから、うどんを食べながら、もごもご話した。

「ユカリお姉ちゃんの子供、私引き取るから」

「だから、お前」

 隆を宏美が止めた。

「まぁ、今日はここまでにしましょ」

 もう午前0時になっていた。アカリは一階の元自分の部屋に泊まった。


 翌朝、アカリは始発で自宅マンションに帰り、学校に出勤した。夏休みでも、作業は山のようにある。毎年、当番の日以外もほぼ出勤していた。

「水上先生、昨日は大丈夫だった?」

「すいません、なんとか大丈夫です」

 里中との会話が短く終わりそうだったので、アカリは慌てて続けた。

「校長先生にご相談したいことがあるんですが」

「それじゃ、私の部屋で」

 アカリはデスクの下で、ガッツポーズをした。

 校長室のソファーでアカリと里中は向かい合って座った。さっき付けたばかりのクーラーが勢い良く部屋を冷やしていく。

「仕事のことじゃなくて、個人的なことなんですが」

「いいよ。私でお役に立てるなら」

「私、物心ついた頃には、両親が離婚していて、母の顔も知らずに育ったんです。昨日の母の死をきっかけに、私に姉がいるのが分かりまして。しかも、姉の子は、母が養子縁組しているんです」

「複雑だね」

「姉とは連絡が取れなくて。それでその子を私が引き取りたいって考えているんですけど、どう思われます?」

「いやぁ、お姉さんとの話し合いでしか、答えが出せない話だと思うけど」

 正直、賛同してもらえると思っていた。そうじゃなくても、もっと含蓄のある話を期待していた。突き放されたような答えをくらって、アカリは残念だった。

「でも、その子、施設に入れられちゃうんです。私、教育者として、そんなことは」

 里中は立ち上がり、パソコンから何かプリントアウトした。その紙をアカリに渡した。

「ここに里親の基準が書かれているんだけど、水上先生は独身だろ。まぁ、親族だから里親とは違うけど。子供を育てる環境としては、適していないんじゃないかな?」

「でも・・・・・・」

 アカリは里中にこんなにも食い下がったことはなかった。いつだって里中は、絶対的で力強い味方だったのに。この相談も、里中の後ろ盾を期待したのと、評価して欲しかったのだ。

「家族のことは家族で決めるべきだけど、一言アドバイスするなら、大人の事情で子供の環境が転々と変わるのはよくないから。施設自体は決して悪い所ではないから、じっくり家族で話し合った方がいいよ」

 アカリは何度もお礼を言った。里中が賛同してもらえなかった分、お礼で埋め合わせようとした。

 確かに、昨日は感情的で意固地になっていた。知らない姉の子供を、一人で育てる自信はない。ただ、単純に葉子がかわいかった。

 クリアファイルに入った戸籍謄本を眺める。無機質な文面なのに、どんどん母性が溢れてきた。


 仕事終わりに、アカリは昨日の警察署に寄った。受付の女性に、事務的な対応をされた。

「あ、町田葉子さんなら、今日から施設に入っていますよ」

「え? そんな勝手に」

「一時入所と書類には書かれていますが」

 アカリは施設の場所を確認して、その足で訪問した。

 施設の入り口で、戸惑っていると、用務員のおじさんが声をかけてきた。

「どなたさん?」

「あ、水上と申します」

「事前に連絡もらってる?」

「いえ、突然すいません。今日から、姪が、町田葉子という女の子がお世話になっていまして」

「ちょっと待ってて。園長呼んでくるから」

 おじさんが施設の中に入り、しばらくすると、ふくよかなお母ちゃん体型の園長がやってきた。

「いらっしゃい、葉子ちゃんの」

「突然、すいません」

「いーの、いーの。子供達がね、訪問者には敏感になってるから。一応事前に把握はしておきたいだけ」

 あかりは応接室に通された。

「葉子ちゃんね、朝からテスト、テストで疲れちゃっていて。今寝てるのよ」

「テストですか?」

「まぁ、健康診断とか、知能検査とか」

「で、どうでしたか?」

「今日の今日ではわからないわよ。ちょっと一時的に栄養は足りてなさそうだけど、多分問題ないと思うわ」

 アカリは安心した。

「そうですか。あの、一時入所ってどういう感じなんですか?」

「まぁ、単純に一時的に預かっているのよ。例えば、親が病気で子供の面倒を見れなくなった子とか、虐待を受けている子とか」

 病気や虐待という言葉と、葉子を一緒にしたくなかった。

「葉子はどうなるんでしょう」

「逆に、ご親族のご意見は」

「まだ、まとまっておりませんで。母親である姉とも連絡がとれていなくて」

「警察からも急なお話だったと聞いてます」

「でも、私は葉子を引き取りたいって思っています。独身で一人暮らしだけど。それって、無責任でしょうか?」

「どうして、そう思うんですか?」

 園長の言葉は禅問答のようだった。

「わかりません。直感的に手放したくないんです。昨日会ったばかりの葉子を」

「お優しいんですね」

 アカリの意見を受け止めてくれる園長は、話をはぐらかしているようだった。だんだん、自分の意見に自信がなくなってきた。

「葉子ちゃんの寝顔だけでもご覧になりますか」

「はい」

 葉子は別室で寝ていた。タオルケットを蹴飛ばしていた。園長が直すかしばらく待って、アカリがタオルケットをかけた。そのまま、頭を撫でた。

母性と同じだけ、不安が溢れ出した。

 離れがたい気持ちを断ち切って、施設から家に帰った。


 アカリは自宅マンションで、旅行ガイドブックを眺めていた。里中は、明日から十日間、家族とイタリア旅行だ。

 アカリのマンションは、学校から徒歩五分の場所にある。いつもキレイに片付いていた。期待とは裏腹に、誰も訪れない。

 もともとモテないのに、仕事を始めて太ったのが気になり、女としては自信がなかった。その分、仕事だけは一生懸命に頑張ってきた。

 やっと最近仕事に慣れてきた頃に、友達は一人、また一人と結婚していく。不倫ですらない関係、かすりもしない片思いに疲れていた。

 ガイドブックを本棚に戻すついでに、子供の頃から何度も読んだ「ヘレンケラー」を取り、ペラペラと浅くめくる。自分の夢が叶ったというには、サリヴァン先生は偉大すぎる。かと言って、夢の為に全てを犠牲にするような職業でもない。満たされない気持ちを葉子で埋めるのは、正しいのか?


 サマータイムという言葉が似合う夕暮れのメインストリート。オープンテラスのイタリアンの食堂でアカリと宏美は食事をしていた。

「うわぁ、お酒ってこんなにおいしかったっけ。それに素敵なメニューばっかり」

 宏美はおしゃれな食事は久しぶりだった。水上家の男達は外食といえば、中華・焼肉・食べ放題だった。

「好きなの頼んで。今日は私がおごるから」

「悪いわね」

「宏美さんしか味方がいないの。お願い」

「どうしたの? アカリちゃん」

 正直、宏美は見当が付いていた。

「私、実家に帰って、葉子を育てたいの」

「お仕事はどうするの?」

「片道一時間だけど、通えなくないから。宏美さんには迷惑かけると思うけど」

「私は大丈夫よ。うちは男ばっかりだし、女の子が欲しかったし」

 宏美が気楽に賛成してくれて、アカリは安心した。それより料理に夢中だ。二人の男の子を育てている母親は頼もしかった。

「お父さんとたーくんを説得して欲しいの」

「わかった。一応話はしてみるわ」

「ありがとう」

「もし、うまくいったら、月に一回こういう所にご飯連れてってね。約束よ」

 アカリは改めて、宏美とはうまくやっていける自信を持てた。


 その夜宏美は、隆の晩酌に付き合った。宏美は、隆が何本缶ビールを飲んでも何も文句は言わない。いつも隆の飲んでいる缶ビールをちょこちょこ横取りして飲んでいた。

「今日は私も一本開けちゃおうかな」

 宏美は三五〇ミリの缶ビールを開けて飲んだ。よっぽど今日の食事が楽しかったので、お酒が進んだ。

「あーちゃんは、なんて言ってた?」

「実家に戻って、葉子ちゃんを育てたいって」

「お前はなんて言ったの?」

「私は賛成よ」

「なんで?」

「逆になんでダメなの?」

 宏美はこういう会話の交わしが上手だ。人と衝突しないで、円滑にコミュニケーションをとる。

「そりゃ、あれだろ。太地とか、太朗とか、工場も」

「いざとなったら、女の子もう一人育てるくらいのお金はあると思うけど。太朗が二才になる頃には、私もう働きながら二人を育てていたし」

 宏美の実績に、隆は言い返せなかった。隆にも、葉子を拒んでいる理由が分からない。いや、直視するのが怖い。

「アカリちゃんの子供なら同じことを言った?」

 宏美は見抜いていた。正確にじゃなくても、隆の幼くて恥ずかしい感情を。

「俺は別にダメだって言ってないだろ」

「さすが、私の素敵なだんな様」

 二人は缶ビールを乾杯して、あと一本ずつ飲んだ。隆はいつもよりも酔いが早くて、その後すぐに眠った。


八月


 アカリは引越しの準備をしていた。家具などはリサイクルショップに引き取ってもらって、洋服・仕事道具・本を箱詰めした。最初のボーナスで買ったセミダブルのベッドは、その大きさが必要な日が来ないまま運ばれていった。

 引越しと役所手続きなどが整ってから、葉子を迎え入れる予定になっていた。

アカリの引越しの他に、治子のマンションの退去手続きも任された。言い出しっぺなので、家族の手を煩わせてはいけない。

詰め詰めに入れていた教育セミナーの予定も、少し減らした。残念な反面、少しほっとしていた。教育、教育の毎日から少し距離を置くと、少し女性らしくなれた気がした。

治子の遺産は遺書がないので、隆・アカリ・葉子・ユカリに権利がある。治子の口座には数百万の預金があるけど、ユカリの実印を押さないと処理できない。

誰も急いでお金が欲しいわけじゃないし、絶対にユカリに渡したくないとも思っていない。ユカリと連絡が取れるまでは、遺産も、葉子の戸籍の話もお預けだった。特に戸籍は葉子が理解できる年齢まで待ってもよかった。

荷物が運び出されて、何もなくなった部屋は清々しかった。

新しい家族と、新しい毎日が始まる。


 葉子を迎えに行く朝。アカリは二階に上がっていった。

「おはようございます」

「おはよう」

 ソファーで隆は新聞を読み、太地と太朗は一部のスポーツ新聞を分けて読んでいた。

「ここってスポーツ新聞を取ってるんだ」

「俺たち中学に入ってから、二人でお小遣い出して、契約してるんだぜ」

 太朗が説明した。宏美も口を挟む。

「スポーツ新聞って下品な記事もあるでしょ」

 隆が男代表として弁解した。

「中学生の男なんだから、普通だろ」

「男の子だからエッチなのはいいのよ。でも、スポーツ新聞の記事って下品でドギツイのよ」

「わかる、わかる。でも、宏美さん、よく許しているわね。偉いわ」

「最初は検閲入れて、切り取っていたわよ。でも、下品な記事を切り取っている姿って、私がコレクションしているみたいじゃない。イヤんなっちゃって。アカリちゃん、やっぱり女は女同士よ」

 太地が口を挟む。

「エロ記事の裏にだって、大切な情報があるんだから」

「二人とも野球少年だからね。将来は野球選手かな?」

 アカリの無責任な言葉を、太地は即否定した。

「俺は選手になるのは諦めたけど、将来は球団職員になるんだ。栄養士とかスポーツドクターとか」

「もうそんなに具体的にビジョンがあるんだ。太朗くんは将来の夢は?」

「俺は工場継ぐよ。楽して社長だし」

「たーくんも、宏美さんも将来安泰だね」

 隆は準備を整えて、二人は施設に向かった。


「さぁ、葉子。今日から、ここがあなたの家よ」

 裏の工場からはピーナッツを()った香ばしくて甘いにおいがする。アカリ自身も家に帰ったと実感した。

「おじゃまします」

「違う、違う。『ただいま』よ」

「ただいま」

 葉子は挨拶をきちんとできるけど、機械的だった。あかりは「焦りは禁物」と自分に言い聞かせる。


 家族を紹介しようにも、家には祖母・町子しかいなかった。町子は九十才で、体は不自由とはいえ、自分で起き上がり、手すりのバーをつかまってなら歩ける。家を建て替えた時に、一階はバリアフリーになっている。外出はできないけど、自分でトイレくらいは行ける。

 町子の部屋にはダブルデッキのラジカセがあり、延々と般若心経がオートリバースで流れていた。

隆との約束で、町子には「アカリの子」として葉子を紹介するよう言われた。相変わらず、理由は教えてくれない。そんなにユカリは家族から嫌われていたかと思うと居たたまれない。少しだけユカリに味方した。

「おばあちゃん、私の子供。葉子よ、葉子」

「おぉ、隆の子か。かわいいな、よしよし」

「おばあちゃん、わ・た・し・の・子」

「そうか、隆に似てかわいいな」

 町子が「私」と「隆」の音を聞き違えているのに、アカリは気付かず諦めた。隆の子供の方が自然だ。

「葉子、ひいおばあちゃん」

「こんにちは」

「おや、偉い子だね」

「お婆ちゃん、私達買い物に行ってくるからね」

 今でこそ、おとなしくなったけど、水上家は町子中心の家庭だった。アカリが生まれる前に祖父が死んだと聞いている。工場の経営や孫達の子育てに常に隙がなく、家族は町子の側では息が抜けなかった。

もし、アカリが未婚の母になっていたら、町子は許しただろうか。絶対に無理。

町子は、隆に対しては工場を継ぐという具体的な要求があったから、甘かった。日曜日に隆がちょっと工場のお手伝いをするだけでも喜んでいた。

でもアカリには、漠然とハードルの高い要求をしてきた。勉強について、女の子として、時にはヒステリー任せの説教。幼い頃からアカリは割りと期待に添って育ってきた。だから頭の固い子になってしまった。アカリは近所でも勉強ができると知られていたので、その点では町子の自尊心を満たした。最後の最後、特別支援学校ではなく、普通の教師になってほしかったらしく、アカリが勤務前に引越しするギリギリまで反対された。

 町子との生活再開は少しだけ憂鬱だった。


 アカリは夕飯の買出しにスーパーに出かけた。今夜、葉子の歓迎パーティをするから、材料を買わないといけない。

支払いは当然アカリだ。出費は全然負担ではないけど、食材の料が全く分からない。アカリは料理をしないので、焼肉に決めたけど、男の子はどれくらいお肉を食べるんだろう。葉子に好き嫌いがあった時の念のための食べ物は? 

色々考えていると、大量に買ってしまった。両手が買い物袋でふさがってしまい、葉子と手を繋げない。でも、葉子の歩行スピードに合わせて歩いていると、ちゃんと葉子は着いてくる。アカリは、少し不憫に思った。

「あ、ケーキを忘れてた」

 帰り道にケーキ屋はあるけど、葉子に持たせるのは心配だ。一度家に帰って、荷物を置いた。葉子は疲れていて眠そうだったけど、置いていけないので、アカリがおんぶしてケーキ屋に向かった。葉子は強くつかまらないし、アカリもおんぶに慣れていないので不安定だった。葉子はすぐに寝てしまい、少し体温が上がった。

「この子はあまり抱かれていないのかも」

 ゆっくり不安定なおんぶで、ケーキを買って帰った。


 夜になって、家族全員が一階のダイニングに集まった。八人がけのダイニングテーブルに、ホットプレートが二つ並んでいる。その隙間に、出来合いのから揚げやサラダなどが並んでいる。それぞれの座る前にはご飯とタレが置かれていた。

「葉子、いらっしゃい! いただきます!」

町子だけはいつも通り、茶粥と漬物を食べていた。食べ盛りの太地と太朗は競うように肉を焼いては食べた。武と隆は缶ビールを飲んでいる。

アカリは葉子との初めての食事なので、試行錯誤している。葉子は、大人サイズのイスに座布団を重ねて座っていた。小さな葉子はホットプレートが届かず危ないので、アカリが取ってあげた。

 箸は使えるのか? 食事の好き嫌いは? 少食か大食いか? 

 とりあえず一番レベルを下げて、プラスティックのフォークに肉を刺して、食べさせてあげた。葉子は表情を変えずに、肉を食べた。何回も肉を咀嚼している。飲み込めないのか? 肉を嫌いなのか? 四十回くらい咀嚼すると飲み込んだ。

 色々試す為に、次はキャベツを取ってやった。タレをつけると、フォークの柄を握らせた。するとキャベツを普通に口に運び、またしっかり咀嚼した。

 もう一度肉を取り、タレ皿に入れた。葉子の持っていたフォークをプラスティックの箸に持ち替えさせた。すると、葉子は握り箸で肉を刺した。アカリはだいたいのレベルは分かった。

「葉子ちゃん、オレンジジュース飲む?」

 宏美が優しく話しかけた。

「すいません、宏美さん。この後ケーキもあるから、糖分取りすぎなんでお水を飲ませます」

 子供用のコップにお水を入れると、葉子は飲んだ。

「ごちそうさまでした」

 食事が始まって三十分くらいで、葉子から「ごちそうさまでした」を言われたので、家族は戸惑った。

「葉子、もうおなかいっぱい?」

 アカリの問いかけに、葉子は答えない。ただじっとアカリを見つめていた。気付けばもう午後八時。寝る時間なのかもしれない。

「宏美さん、ちょっと私、お風呂の準備をしてくるから、葉子見ててもらっていい?」

「私がお風呂の準備をしてくるわ」

 宏美は箸を置いて、風呂場に行った。


 お風呂を上がると、葉子はすぐに寝てしまった。しばらくは一枚のふとんでアカリと葉子は一緒に寝ることにした。葉子にはタオルケットをかけ、アカリは隣で添い寝をした。


九月


 アカリと宏美は、海鮮居酒屋で飲んでいた。約束していた月一の食事会を、宏美は楽しみにして、日々の活力になっていた。

「宏美さん、明日からよろしくお願いします」

 アカリは宏美をもてなした。

九月から二学期も始まるので、葉子は駅前にある保育園に通い始める。朝は宏美に頼んで送ってもらい、夜はアカリが迎えに行くことになっていた。

「葉子、保育園は大丈夫かな?」

「大丈夫よ」

 お刺身の盛り合わせが運ばれてきた。魚に詳しくない二人は、何か分からない白身のお刺身を食べて、嬉々とはしゃいだ。

「うちのヒト、最近女と会っているのよね。すごく派手できれいな女性」

「えぇ? たーくんに限って」

「見ちゃったのよね、喫茶店で一緒にいるの」

 宏美はジョッキを真上にして、ビールを飲み干した。

「宏美さん、どうするの?」

「どうもしないわよ」

 アカリはにわかには信じられなかった。ただ、自営業の隆が女性と外で会う機会は少ない。

 浮気の「う」の字も出さない宏美はたくましかった。


 九月半ばの午後四時。アカリは授業が終わって、職員室に戻ると、宏美からメールが届いていた。

『時間ができたら、お電話ください』

 アカリは、胸騒ぎをしながら、宏美に電話をした。

「もしもし、宏美さん?」

「あ、ごめんね。今お仕事大丈夫なの?」

 宏美が意外に明るい声で安心した。

「さっきね、保育園から呼び出されて、葉子ちゃんがおたふく風邪にかかっちゃったのよ。保育園で流行ってて。一応、ご報告だけ」

 宏美は、おたふく風邪は子供の成長の一場面なので、気にはしていなかった。でも、アカリはわが子の初めての病気に気が気でない。

 夏休みは葉子にかかりっきりだった。二学期が始まると、葉子に心が流されないように、仕事と葉子の両立に、気を引き締めたばかりだった。

 里中に相談しようと思ったけど、夏休みに相談してやや反対されてから、報告をしてなかったので、「それみたことか」と思われたくない。

 保健室に行って、保健の先生に相談した。

「すいません」

「あら、水上先生」

「あの、ちょっと相談なんですけど、うちの子がおたふく風邪で」

「水上先生ご結婚されてたんですか?」

 保健の先生とは、深い付き合いじゃないので、説明が面倒だった。でも、学校はアカリにとって誇りを持っている職場だし、人間関係も良好だった。葉子のことは誰に話しても、恥ずかしいことじゃない。

「いえ、複雑な事情で、姪っ子を預かってて。今は義姉(あね)が診てくれてるんですが」

「姪っ子ちゃんが、かわいいのね。でも、お母さんが一緒なら大丈夫でしょ」

 アカリのシナリオでは「それは大変、早く帰った方がいいわよ」が正解だったけど。

 二学期も忙しく、今週は生徒が夏休みに作った工作の展覧会、十月にある運動会の練習、十一月には文化祭がある。授業が終わったからといえ、自分からは帰りにくい。涙を飲んで、仕事に励んだ。


 家に帰ったら午後八時を過ぎていた。

「宏美さん、すいません」

「いいのよ。葉子ちゃんおとなしく寝てるから。おたふくは小さいうちにかかっておいた方がいいんだから」

 夫婦のベッドで寝ている葉子は、あごのラインが膨れている。かわいそうに、今まで予防接種をちゃんと受ける環境じゃなかったからだ。


 一週間、葉子は保育園を休んだ。アカリは面倒を看られないのが心苦しかった。宏美の仕事は経理なので、別に事務所じゃなくても作業はできるから、自宅の一階に仕事を持ち込んで、看病した。

 葉子は熱にうなされるものの、泣いたりぐずったりしなかった。アカリは夜しか一緒にいれないので、毎晩、葉子を抱きしめて眠った。感情表現の乏しい葉子の苦しみを、少しでも分かち合いたかった。

 その甲斐もあって、朝起きると葉子が回復していた。アカリは嬉しくて、葉子を抱きかかえて、二階に報告に行った。

「宏美さん! 葉子が治ったよ」

「アカリちゃん!」

 宏美と隆は驚いて、素っ頓狂な声を出した。

「おい、あーちゃん、鏡見たか?」

「たーくん、どうしたの?」

 アカリは、二階の洗面所を借りて、鏡を見た。アカリの顔がおたふくになっている。

「うわぁ」

「アカリちゃん、おたふく風邪まだだったの?」

「あーちゃん、まだだっけ? 俺らはかかったの覚えてるけど」

「俺ら?」

 隆はすぐにごまかした。

「まぁ、あーちゃんは女でよかったよ。成人男性だったら、タネナシになる危険もあるから」

 もし、アカリが子供を産めない体になったら、色んな言い訳に使ってしまうだろう。使えば使うほど、空しくなるバリアみたいに。


 学校に報告して、一週間ほど有給を使った。運動会本番と重ならなかったのが不幸中の幸いだった。

 いい機会なので、一緒にいる為に、葉子は保育園を休ませた。アカリの布団の傍らにいさせた。

最近、葉子はクレヨンでのお絵かきが大好きだった。何かを描いているつもりかもしれないけど、まだ塗りつぶしレベルだった。

広告の裏に、黄色のクレヨンをぐるぐる塗っていた。

「葉子それ、何描いてるの?」

「あーちゃん」

 横たわっているアカリの目には熱っぽい涙が溢れた。葉子が始めて名前を呼んでくれた。アカリの姿を描いてくれている。それだけでも、おたふくの神様に感謝した。

 この一週間、葉子が隣でお絵かきをしているか、抱き合って眠るかのどちらかだ。アカリにとって、この上ない幸せな時間だ。


 アカリは完治して、職場復帰した。学校では一日謝り倒して、間近の体育祭の準備に人一倍働いた。

 病み上がりと気疲れ、長い通勤でくたくたになって家に帰った。

 葉子は既に、明かりの部屋で寝ていた。

 お風呂に入ろうとすると、宏美が一階に下りてきた。

「今朝葉子ちゃんね、保育園に行く時に、珍しく号泣しちゃって。子供だから、よくあることだけど、一応ご報告」

 アカリは不安でいっぱいになった。葉子が感情的になるのを見たことがない。何があったんだろう。


 翌朝、アカリの出勤時間に合わせて、葉子を起こした。午前五時。幼児の起きる時間にしては、早すぎる。でも、どうしても今日はアカリが保育園に連れて行きたかった。葉子を預けている保育園は二十四時間営業なので、追加料金を払えば、早く預けても問題ない。

 葉子は寝ぼけているので、自分では歩かない。アカリがダッコして、保育園に向った。家を出る時には、昨晩宏美が言っていたように、ダダをこねたり、泣いたりはしなかった。

たまたま、機嫌が悪かったのだろう。

 保育園に着いて、保育士に預ける時になって、急に葉子が大声で泣き出した。

「イヤ!」

「葉子どうしたの?」

 宏美の言っていた通りになって、不安になった。

「イヤ! イヤ! イヤ!」

「何が嫌なの?」

「バカ!」

「何てこと言うの」

 怒るアカリに、保育士が「まあまあ」と止めに入った。一人の保育士が葉子の面倒を見て、もう一人がアカリを外に連れ出した。

「すいません。あんなに反抗的な態度を」

 落胆するアカリを、保育士はなぐさめた。

「子供にとってバカは流行語みたいなものですから。使いたがる時期なんですよ」

「でも、今までこんなことなかったから」

 今までと言っても、一ヶ月ほどのことだ。環境の変化が葉子のストレスを与えたのかも、と責任を感じた。

「よっぽどお休みしていた二週間が楽しかったんじゃないですか?」

 アカリには意外な答えだった。

「今日おうちに帰ったら、いっぱい愛情をこめて葉子ちゃんを抱きしめてあげてください」

「でも、あのトシの子って抱き癖がついたら」

「子供は愛情が満タンになったら、他の世界に興味を持つんです。満たされない子供は、家のこと、お母さんのことが気になって離れたがりませんから」

 出勤時間が迫り、アカリは保育園を出た。保育士の言っていた「アカリとの時間が楽しかった」という言葉が、心を躍らせた。


十月


「葉子、はい、これプレゼント!」

 アカリはぬりえブックを買ってきた。二、三才児向けの、単純で塗りやすく、果物やお花の絵が描かれていた。

「りんごは赤色ね」

 クレヨンの赤を取って見せて、最初の一ページ目はアカリが見本にキレイに塗った。

 次のページのチューリップを葉子に塗らせた。ピンクを取って、線を無視して、絵の周りを塗りつぶした。

「上手、上手。でも、次のページはこの線からはみ出ないように塗ってみよ」

 次のページのヨットは帆の一つを塗る時、アカリが葉子の手をとって、はみ出ないように塗った。   

もう一つの帆は葉子が一人で、ゆっくり慎重にはみ出さないように塗った。部分の一つ、一つを塗るたびに、葉子はアカリの顔を見る。アカリは笑って手を打って褒めた。色はでたらめだけど、葉子は楽しそうにぬり絵で遊んだ。


葉子は五才児にしては、少し発達が遅れている。多分その原因は経験不足だと、アカリは考えていた。来年の春から小学校に通えるレベルにする為、日常生活の色々なことを教えていた。

言葉の遅れは一朝一夕には無理なので、できるだけ毎晩葉子とおしゃべりをするようにしていた。手先の不器用さ、運動神経のなさは、隆もアカリも一緒なので、あまり期待はできないし、支障がないことも納得していた。大好きなお絵かきを楽しませて、成長させたかった。

 

 秋の夕暮れは急に不安になる。午後六時で既に暗くなっていると、季節の移り変わりを確認する。残業ばかりだったアカリは、いつもより早く仕事が終わったので、この感覚が久しぶりだった。授業カリキュラムでしか、季節を感じられなくなっていた。仕事も家族もなかったら、すぐにトシをとってしまいそうだ。

 保育園に葉子を迎えに行っていた。最近、帰り道では「色クイズ」をしながら歩いていた。

「りんごは?」

「赤」

「お空は?」

「青」

「車は?」

「白」

「お手々は?」

「・・・・・・」

「お手々は肌色」

 葉子は合っていても、間違っていてもすぐに答えた。頭の回転が速い、とアカリは親バカになっていた。ただ、葉子がわからないものは答えない。会話のキャッチボールが成り立たない。解答用紙みたいだった。

アカリは、次は何をクイズにしようと辺りを見回した。昔からある駅前の喫茶店を見ると、お茶をしている隆を見つけた。知らない女性と一緒だった。

 女性は、少し茶色に染めた髪にフワフワのパーマがかかっている。目鼻立ちがくっきりしたメイクで、華やかだった。

「あの女性、誰?」

「ママ」

「ママ?」

 さっきのクイズの流れで、葉子は淡々と答えた。

 あの女性が島ユカリ? ガラス越しには分からないが、もっとアカリに似ている外見を想像していた。

 アカリは葉子の手をギュッと握って、喫茶店に勇んで入った。思ったよりドアが軽く、空気が逃げるように勢い良く開いた。カランコロンと古臭い鐘の音が、アカリの入店を際立たせた。薄暗いオレンジの照明とダークブラウンの店内が、気持ちを重くさせる。

 長年店の前を通っているけど、この店に入るのは初めてだった。時代遅れの店内はコーヒーの湯気で、誰かの回想シーンみたいだった。アカリはずっと嘘をつかれ、除け者にされていたのが、余計に腹が立った。

「どうも、初めまして」

 アカリの声は気丈に振舞ったけど、手は震えて、葉子の手を強く握って、平静を保った。

「あーちゃん!」

「葉子!」

 隆とユカリは四人がけのテーブルに向き合って座っていた。アカリはユカリの隣に座りたくないし、葉子をユカリの隣に座らせるのもイヤだったので、立ったまま話した。

「初めまして、水上アカリです」

「あなたがアカリ? お久しぶり、です」

 そりゃ、フランクには話せない。

「あの、おいくつですか?」

「私? 三十二」

 外見や、高めの声で甘えた話し方なので、もっと若く見えた。並べばアカリの方がくたびれて老けて見える。

「お兄ちゃん、アカリと二人で話したいんだけど」

「わかった、葉子は俺が連れて、先に帰るから」

 アカリは隆の席に座り、ブラックのアイスコーヒーを頼んだ。

「葉子のこと、面倒見てくれてありがとう」

「いえ、当然のことです。葉子は施設に入れられそうだったので」

 葉子がいなければ、再会を喜べたのか? 葉子を取られたくないし、葉子を見捨てた怒りを抑えられない。

「アカリ、赤ちゃんだったのに、立派になったのね」

「私、あなたの存在を知らなかったんです」

 ユカリは飲み終わったアイスコーヒーの氷を凝視して、ストローでガランガランかき回した。ハッと顔を上げると喫茶店の店員と目が合い、アイスコーヒーをもう一つ注文した。

「みんな、私のことそこまで嫌いだったんだ」

「何があったんですか?」

 アイスコーヒーが運ばれてきて、ミルクを小瓶からグラスのギリギリまで入れた

「お兄ちゃんに聞いたら?」

「教えてくれません」

「そう。じゃぁ、まだお兄ちゃん、私を許せないのね」

 グラスのフチまで並々入れたミルクは、ストローでかき混ぜるとこぼれそうなので、褐色のコーヒーの中で、白いミルクがゆっくり沈殿していった。

「おばあちゃんがお母さんを大嫌いだったのよ。だからおばあちゃんは、お兄ちゃんを独占して、お母さんをお兄ちゃんに近寄らせなかったの。お兄ちゃんから見たら、お母さんは私ばかりかわいがっているのが許せなくて。おばあちゃんはお母さんを、お兄ちゃんは私をいじめていた。地獄だったな。で、おばあちゃんは今度、お母さんからアカリを奪ったの。それで、お母さんはもうイヤになって、私を連れて家を出た」

 アカリは自分の知っている家族と知らない家族のいさかいを知らされ、寒気がして気分が悪くなった。町子に育てられたようなもんだ。町子は厳しい人で、頑固な性格は少しアカリも似ていた。

 隆とユカリの仲も、最近の隆の動揺を見れば少しわかるけど、隆がいじめていたなんて想像できない。公平じゃないけど、ユカリにその原因があるように考えてしまう。葉子を捨てるような女だから。

「なんで、葉子を引き取ろうって思ったの?」

「教育者として、親族として当然だと思います」

「ご立派なのね」

「あと、私と誕生日が一緒だったのが、奇跡みたいで」

「奇跡かぁ」

 ユカリは頬杖をしてため息をついた。二杯目のアイスコーヒーはユカリの胃を痛めた。

「あのね、葉子の出産は帝王切開だったの。だから、出産日はお母さんが決めたの。アカリの誕生日に」

 アカリの心がジワっと温かくなった。離れていても、母が自分を愛してくれていた。生まれて初めてその確認ができた。その嬉しさを、葉子への愛情として注いであげたい。

「葉子をご自分で育てないんですか?」

「アカリ、結婚は?」

「まだです」

「じゃぁ、言ってもわからないわよ」

 勝手なことをしておいて、突き放されると、アカリの癪に障った。

「ねぇ、口座教えて、お金送るから。月に二十万円で大丈夫?」

「結構です」

「私のこと許せないのはわかるけど、葉子名義の口座作って貯めておいてくれたらいいから」

「お金があるなら、ご自分で・・・・・・」

「私のお金じゃないもん。面会権のお金だと思ってくれたら」

「葉子をあなたに会わせたくないなんて思っていません。でも、あなたの気まぐれで会うのは・・・・・・ もう少し大きくなれば、葉子は全てわかりますよ。どうして、葉子を捨てて、今のご家庭を選んだんですか?」

「捨ててなんかないわ。お母さんが死ななければ、アカリには関係なかった話じゃない。今は感謝しているわよ。でも、別の話。今までバランスが取れていたの。お金がなくて、母子心中していたかもしれない。ダンナには感謝している。ダンナに生かされていたのよ。アンタ大学でてるんでしょ、イイとこ勤めているんでしょ。幸せなアンタには想像できないわよ」

 ユカリは派手なメイクの眼力で、アカリを睨んだ。アカリは一瞬ひるんで言い過ぎたと反省した。でも、理不尽な言い分だ。アカリは何も言い返さなかった。

「でも、アカリにはホントに感謝しているのよ。私がひどい母親としか思えないのは当然だわ。こんな一時間くらいで、この五年間、二十五年間を理解してもらえないわ。葉子をよろしくお願いします。葉子を失ったら、私の人生なんの意味もなくなっちゃう」

互いに疲れて、今日一日では分かり合えない。ユカリが支払伝票を手に取った。

アカリが財布から千円を出すと、ユカリが拒んだ。今回はユカリが払うのが当然だ。実の姉を突っぱねる必要はない。

支払いを済ませて、店を出た。もう、辺りはすっかり暗くなってしまった。打たれた心に秋風が染みた。


「なんか、大岡裁きね」

 アカリは家に帰ると、二階に上がって、宏美と飲んでいた。アカリがコンビニで甘い缶チューハイとおつまみを買って持ち込んだ。

 大岡裁き。産みの母と育ての母が、子供の取り合いをした時に、大岡(おおおか)越前(えちぜん)(のかみ)が二人の母に子供の手を両方からひっぱらせて、引き勝った方が母親だと提案した。

「子供が痛いと言った時に、手を放した方が本当の母親って」

「アカリちゃんはどっちだと思う?」

「痛いって言ったら、手を放しちゃうかな」

「私なら、痛いって言っても、泣いても絶対子供を手放さないな」

 アカリが何度も経験した失敗だった。自分が正しい意見を言っても、相手がストレートに我を通されると、負けてしまう。アカリは人の心をわからないのかも、と不安になる。痛くて泣いても、力づくで奪ってくれた方が、子供も嬉しいのかもしれない。

「複雑な家庭で育ったから、葉子は感情表現が苦手な子になっちゃったのかな?」

 アカリの言葉に、隆が口を挟んできた。

「あーちゃんの子供の頃だって、あんな感じだったぜ。ドライで動じない子供」

「そうね。アカリちゃんよりあなたの方が『泣き虫の甘えたちゃん』っぽいわ。アカリちゃん、子供の性格を親があまり悩みすぎるのもよくないわ。第一葉子ちゃんはまだこれからだし」


 その夜、アカリは興奮して眠れなかった。怒りが込み上げてくる。ユカリが葉子を引き取っても、引き取らなくても、アカリの気持ちが納まらなかった。

 今、葉子を奪われると淋しい。まだ葉子とはトラブルがなく、かわいくて楽しい。これまでアカリの生活になかった、人との深いコミュニケーションや愛情を味わえた。

 逆に、葉子との生活は二ヶ月しか経っていない。アカリの功績は一時的なものだ。まだリセットができる。葉子がアカリを「一番大好き」と思っている自信もない。自信がないから、葉子の一番はユカリに思えてしまう。

 だけど、ユカリは葉子を引き取らず、葉子優先には見えない。正直、葉子は取られないと安心している前提で、アカリのお得意の「頭でっかちな正義感から来る攻撃的な感情」がフツフツと沸いてくる。ユカリに心を許していいのか、まだ定まらない。葉子を通してしか、ユカリを捉えられない。会わなければ酷い人でよかったのに。

 いつか奪われてしまうかもしれない子、ずっと覚悟して育てないといけない子。ユカリを悪者にしてでも、葉子を守っていかないといけない。覚悟が揺れた。

 バッグに入れたクリアファイルを取り出し、戸籍謄本を眺めた。指で「任務」と書いて消した。「愛情」と書き直した。

 葉子はアカリに似ているのか? 子供は自分でも知らないうちに、大人の無意識を汲み取っていく。複雑な環境で育った葉子を、ただ「おとなしい子」と片付けていいのか? アカリと似ているからって安心していいのか? 今やアカリだって、普通の家庭で育った子供じゃなかったのだ。


十一月


「ご家庭でのご指導よろしくお願いしますよ」

 島スミレは放課後の教室で、担任から説教を受けていた。保護者のユカリも呼び出されている。

 鳳凰院(ほうおういん)女子中学は由緒ある名門校だ。スミレは中学受験をして、この春から通っている。合格した時にはそれは喜んで、有名デザイナーがデザインした制服を、入学前から何度も着ていた。

 それが二学期に入ってから、スミレの素行が乱れ始め、遅刻早退、授業をサボり始めた。ユカリは度々担任から呼び出されていた。担任に平謝りをするしか思いつかず、怒りが静まるのを待った。

 オールドミスの担任はヒステリーだった。彼女は鳳凰院大学の教育学部卒業で、バリバリの鳳凰院イズムをコンコンと語った。ユカリは彼女の語る「淑女」に共感できなかった。


 説教が終わって、スミレと一緒に帰った。名門校の校内は美しく、庭園のような庭造り、近代的な建物もあれば、古風なものもある。

「ねえ、ユカリさん」

「なに?」

 スミレはホールのような建物を指差した。

「あの建物、室内プールなんだけどね。同級生のお父さんが寄贈したの」

「すごいわね」

「名門校って、名門なのよ」

「そうなんだ」

「うちのパパみたいな支店長レベルって実はたいしたことないのよ」

 ユカリは夫をかばう気力がなかった。ユカリは嫌なことがあると、すぐに頭痛がした。頭の中で小石が神経を傷つけているような痛みに襲われる。

ユカリが白けているので、スミレは話題を少し変えた。

「シタカラってわかる?」

「わからないわ」

「ワタクシ、幼稚舎からですのよって意味」

 ユカリは公立高校中退なので、レベルが違いすぎるけど、学歴コンプレックスと一緒にしていいものなのか、わからなかった。

「大変ね」

「そうなの! 私、大変なのっ!」


 島家は、夫の帰りが遅いので、長男の森一と妹のスミレ、ユカリの三人でご飯を食べる。

「ユカリさん、年末年始の塾の合宿あるから、お父さんに言っておいてください」

 森一は中学受験の時に、第一志望の沖中学に落ちてしまい、今は滑り止めで受かった私立中学に通っている。この三年間は仮面浪人のように、「仮の人生」を送っていた。中学三年生になり、年が明けてリベンジ受験だ。

 森一は食事中も携帯音楽プレイヤーのイヤホンをしている。英会話や歴史講座の音が少し漏れている。

 食事中に携帯電話の着信音がなった。

「あ、ママ?」

 毎晩七時頃に、スミレの携帯電話に、前妻から電話がある。スミレはいそいそと部屋に戻り、料理は冷めてしまう。

 二人の子供達とユカリはドライな関係だった。ユカリがこの家に来た時が、小学四年と二年。母親ヅラをせず、家政婦に徹していたので、衝突はしなかったけど、距離が埋まらないままだった。

 森一は神経質で、事務的な会話しかない。特に受験に失敗してからのこの三年間は、腫れ物に触るように接していた。

 スミレは懐いてきたと思ったら、突き放してきて、気まぐれだった。母親や女友達のように慕ってきたり、他人である事を強調してきたり。

 ユカリは正直、この二人との正面からの心の触れ合いなんて、どっちでもよかった。無難、円滑が一番。それを二人にも悟られているので、よそよそしく時間は過ぎていった。

 もし、この中に葉子がいたら。

 葉子は愛していても、葉子との日々を思い出すと、心が歪んだ。本当に惨めで地獄だった。


 六年前、ユカリが当時の恋人に妊娠を告げた途端、連絡は途切れた。結婚したって幸せになれたとは思えない。その程度の男とは言え・・・・・・

派遣社員として働いていた会社は、時給制で臨月まで働いた。周囲に結婚の報告もせず、ユカリのお腹と、周囲の違和感はどんどん大きくなった。

正直、治子を見ていて、母子家庭なんて適当にできると思っていた。

でも、実際は治子の母子家庭と、ユカリの未婚の母とでは全然違っていた。まず、ユカリが水上の家を出たのは小学二年生なので、学童保育に預ければ、手を放していても大丈夫な年齢まで育っていた。また、父から毎月数万円の養育費も振り込まれていた。未婚の母と同じに考えてはいけなかった。

 治子とは高校を勝手に辞めてから、疎遠になった。絶縁じゃないけど、治子といると居心地が悪い。治子はいつだって、遠い水上家に心が向いていた。

 妊娠した時、治子の元に帰って、一緒に暮らすのが一番かもしれない、と考えた。子供がいれば、やっと治子がユカリを見てくれるかもしれない。

 でも違った。

「帝王切開なら、三月五日にしてね」

 やっぱり、治子はアカリや隆のことばかり考えていた。

 治子のお金の一部は水上のお金。そう思うと悔しくて、お金の相談はできなかった。たいした貯金もないユカリは、安易に消費者金融から出産費用を工面した。

 金融の取立てと、葉子の泣き声。脳内をループする「お金さえあれば」という叫び。

 未だに葉子を見ると、あの地獄絵図が思い出すので、愛していても、近づくのが怖い。


 島森夫(もりお)は、ユカリが出産以前に働いていた派遣元の会社の支店長をしていた。出産後、派遣の相談に行った時に出合った。

 森夫の一目ぼれだった。森夫は、頭も薄く、中年太りで当時三十五才にしては、老けて見えた。ただ、この若さで支店長をしていて、年収も眩しかった。

 森夫は結婚を条件に、ユカリの借金の清算してくれた。

 結婚のことを治子に相談すると、賛成してもらえなかった。

「あんたはいつも行き当たりばったりで、勝手なことをして、大事なことは事後報告。これじゃ葉子がかわいそうよ。あんたに振り回されるなら、葉子は私が育てるから」

 誰かと衝突したら負けてしまう。ユカリは幼い頃からそんな意識があった。こびても、チヤホヤされても、突き放されてしまう。最終的に誰かの一番にはなれないという諦めがあった。

 一時的だとしてもニコニコ接して、一緒にいる時はできるだけ相手の意向に合わす。ダメになったら切り捨てる。

 今回も治子の言いなりに、葉子を預けた。森夫は、葉子を引き取ってもいいと言ってくれたけど、治子が育てるなら、養育費を工面してくれた。


 水上家の夜。宏美は缶ビール片手に、ダイニングのカウンターから、キッチンを見ていた。

「お兄ちゃーん、ねぇ、お兄ちゃん」

 隆はキッチンで揚げ物をしている。宏美はふざけて声をかけるけど、隆は真剣で、料理に集中をしている。

「いいお兄ちゃんだこと。実の息子の運動会や遠足にも、お弁当なんか作ったことないのに」

 揚がったばかりのから揚げに爪楊枝を刺して、カウンター越しに宏美に渡した。

「おいしいよ、お兄ちゃん」

 隆は「お兄ちゃん」と呼ばれるのが大嫌いだった。昔、治子から「お兄ちゃんだから我慢しなさい」と言われたのが未だに忘れられない。アカリにも「たーくん」と呼ばせている。次男の太朗にも、兄の太地を呼び捨てにさせている。

 この話を知っているのは、宏美だけだった。隆は姉さん女房をもらって、本当によかったと思っている。母に愛されず、いつまでもウジウジとした幼い部分も、宏美は明るく受け止めてくれている。


 隆は昔のことを鮮明に覚えていた。

 治子を思い出す時、シンナーの臭いと血の赤色が交差した。

 治子は食品工場の嫁なので、爪は短く切って、マニキュアは塗ってはいけなかった。なので、お出かけの時だけマニキュアを塗っていた。

 鼻歌を歌いながら、治子の近くからシンナーの匂いが漂っていた。小学生の隆にとってシンナーの臭いといえば、油性マジックの臭いと同じだった。新学期に教科書や持ち物に油性マジックで名前を書くあの緊張感と一緒だ。シンナーの臭いはワクワクする臭いだった。

 治子のマニキュアの光沢が好きだった。新しいミニカーの輝きに似ていた。

 治子がきれいな人だったとは聞いているけど、当時はそういう感覚はなかった。小学生男子には三十才前後の女性の美人度なんてわからない。工場パートのオバちゃんに聞いた話だと、治子は若い頃に少しだけタレント活動をしていて、箸にも棒にもかからなかったらしい。治子の顔は覚えていない。思い出したくない。

 原因が何だったかは覚えていない。子供の頃、ユカリともみ合いのケンカをした。幼い頃はケンカが日常茶飯事だった。ユカリが母にこびて、甘やかされている言動が癇に障って、すぐに殴りあいになっていた。

 ユカリが隆の腕に噛み付いてきて、痛さのあまり隆は腕を勢いよく振り払った。ユカリはバランスを崩して、後頭部を本棚の角に打ち付けた。

 治子の悲鳴が今でも焼きついている。

「あんたは悪魔に育てられたから、こうなるのよ」

 救急車を待つ間、隆は治子から散々ヒステリーに罵倒された。

 隆は両親と一緒に救急車に乗ると思っていた。まさか、治子に振り払われるとは。

 隆は一人で家に残された。血の付いた床や本棚を雑巾で拭いた。血を拭き取り終わっても、流れ止まない悔し涙をずっと拭っていた。

 そのまま、治子とユカリは出て行ってしまった。

 武から聞いたのが、ユカリは数針縫っただけで、大げさな怪我ではなかったらしい。でも、それを確認せず生き別れてになってしまった。死んだも一緒、もっと大げさに言えば、殺したようなものだ。

 葉子を引き取りたくなかったのは、あの記憶を直視したくないからだった。治子を憎んでない。ユカリをもう嫌いじゃない。ただ、目を伏せないと、拒絶しないと正気が保てなかった。

 当時七才だったユカリと、今五才の葉子。見た目が似ているとは言い切れないし、性格は全く違う。「化けて出てきた」なんて言うと、バカバカしいけど、未解決の心の問題を処理する為に、水上家に来たと思えて仕方がなかった。


 平日の朝。ユカリは葉子と水族館に行く約束になっていた。島の家族には秘密なので、夕方までには戻らないといけない。葉子は保育園を休んだ。

 午前十時。駅前で待ち合わせていた。宏美が葉子を連れて駅に着いた時には、すでにユカリは待っていた。

「これ、今日のお弁当です。何かあったら、私の電話番号このメモに書いていますので、連絡くださいね」

 宏美は大きな紙袋に入った重箱を、ユカリに渡した。


 水族館へ入ると、まず水槽のトンネルをエスカレーターで上って行った。ビル三階分くらいの高くて長いエスカレーターをゆったりと移動する。青とスケルトンの幻想的な水中世界。葉子は水槽を見上げて、ひっくり返りそうだった。

 エスカレーターの中腹で、ユカリの携帯電話が鳴った。

「はい、島ですが」

「鳳凰院女子中学の山口と申します。スミレさんの件でお話があるんですが。すいません、お母さん。学校まで来てもらえませんか?」

 見上げる葉子と、電話中のユカリ。二人とも上の空だったので、葉子はエスカレーターを降りる時に転んでしまった。

 起き上がり途中の葉子を、ユカリは抱きかかえて、そのまま下りエスカレーターに乗りかえた。


 午前十二時。予想外に早いユカリからの呼び出しに、宏美は昼食も食べずに、駅に向った。

「急用ができまして、申し訳ございません」

 バツが悪そうに恐縮しまくるユカリに、宏美は訳を聞かず、笑顔で葉子を迎えた。母親の急用なんて大概が家族のことで、他人が踏み込んではいけない。


 鳳凰院女子中学では、また担任からこってり絞られた。スミレは授業中に居眠りをしていて、注意した教師と口げんかになったらしい。

 残念な気持ちからどっと疲れてしまった。夕飯は返し忘れたお弁当を広げた。

 宏美から預かった重箱を開けると、二段重ねになっていた。上段には卵焼き、から揚げ、ウィンナー、プチトマトなどが、サニーレタスに仕切られて、彩りよく詰まっている。下段には、俵型のおにぎりがあり、玉子のふりかけが混ぜられたものと、シソのふりかけが混ぜられたものが二個ずつあった。その横に、浅い容器にミカンの寒天ゼリーが二個あった。

一方、ユカリが作ったサンドイッチが、紙のお弁当箱に入れていた。

「あれ、ユカリさんのおにぎりって三角じゃなかった?」

「ちょっと気分転換」

 三人分でちょうどいい量だった。食後、森一はさっさと部屋に戻ったが、スミレは食卓にいた。今日は前妻からの電話がなかった。

 スミレは、ユカリがいつもより機嫌がよくないので、珍しく自分から紅茶をいれた。さすがに、義理の子供の学校に何度も出向かせるのは、申し訳ない。

「あのね、スミレさん。私、高校の時、先生とケンカして中退したの。スミレさんと違って、偏差値の低い公立高校だけどね」

「そうなんだ」

 珍しく、ユカリが説教めいたことを言うので、スミレは真剣に聞いた。ユカリは投げ捨てるように言った。

「大概の出来事は、修復しないで時間が置き去りにしていくから」


十二月


 水上製菓は年末年始が大忙しだ。十二月に入るとお正月の黒豆パック詰め、一月は節分豆の出荷で、通常より生産量が上がる。

 いつも働いてくれている十数人の主婦パートさんだけでは間に合わず、短期バイトも募集している。バイトは近所の人や知人が多く、何度も来てくれている人も多い。


 アカリはアカリで、二学期末の忙しい時期だ。学校では保護者面談が夕方までかかってしまうので、デスクワークは家に持ち帰って、遅くまで仕事をしていた。

 アカリは学期末の保護者面談が苦手だった。なかなか保護者に自分の考えを理解してもらえない。もっと子供を愛してあげたらいいのに、と親に対して思うこともある。

 ただ、今回は母親代わりをしているから、教育者として深みがでたのでは、なんて自惚れたりもしていた。

 そんな自信もくじかれて、午後九時。アカリはぐったりして、職員室に戻った。

「水上先生、時間かかったね」

 他の教師はもう帰ってしまい、里中だけが残っていた。

「遅くまですいません」

「どうしたの?」

 里中を待たせた以上、理由を説明しないといけない。重々自己防衛を張って、面談の内容を報告した。

「私が悪い話なんですけど、山本君のお母さんとちょっと言い合いになってしまいまして。山本君のお父さんのご親戚に、障害を持った方がいらっしゃるらしくて。お母さんが、その方と山本君の障害の因果関係を執拗に尋ねてくるものですから。最初は私も『デリケートな問題ですし、遺伝とは断言できかねます』って丁寧に答えていたんですけど。ただただ、ご主人やご親族の悪口を延々とおっしゃっていて。山本君の話が全く出てこないんです。私も色々お伝えしたいこともありましたので。本当に失敗したんですけど、言っちゃったんです。『そんなことより』って。当然お母さんは大激怒されて」

 アカリは大きくため息をついた。

「あぁ、そりゃ、水上先生が悪いな」

「でも、あれじゃ、山本君がかわいそうです。お母さんも現実逃避をしないで、山本君と向き合ってほしいんです」

「水上先生は生徒思いだし、勉強家だよ。でも、水上先生の正しさは息が詰まる。教育だけじゃなくて、人間関係全てに言えるけど、正しさだけはなくて、正しさと許しが必要だと思うな。許しがないと、みんな離れていくよ」

 アカリは「あ」と言葉をこぼしたまま、何も言えなくなった。里中が戸締りを急かすので、思考が停止したまま学校を出た。

 携帯電話を見ると、着信が三件あった。保育園からだ。アカリは葉子を忘れていた。慌てて保育園に電話すると、宏美が迎えに行ってくれたらしい。

 宏美にお礼の電話を入れた。疲れていたので、今夜はビジネスホテルに泊まると伝えた。

 アカリは母親失格だと落胆した。葉子のことなんてすっかり忘れていた。まだ電車で帰れる時間なのに、一人になりたい。母親なら許される行為ではない。

 でも、それくらい「許しがない」という言葉がショックだった。


 ビジネスホテルの部屋は遮光カーテンが外を閉ざしていた。オレンジの照明が薄暗い。設置されたテーブルに座って、カップラーメンをすすった。目の前のミラーがくたびれた姿を映している。

 「許しがない」の奥底には「許せない」という感情があった。幼い頃から。


 島家では、カニ鍋をしていた。鍋の中ではカニの足や白菜、豆腐がグツグツ煮えている。ユカリ、森一、スミレは個々にカニの足をほじっている。

明日から森一は受験の強化合宿で、民宿に缶詰になる。

「寒波が来るらしいから、森一さん、風邪に気をつけてね」

 いつものように、食事中にスミレの携帯電話が鳴った。

「ママ! 今度のクリスマスのやくそ」

 通話中に、さっきと同じ着信音が、また鳴った。スミレの携帯電話から。ユカリの違和感に耐え切れず、スミレは電話にも出ないで、八つ当たりに、リビングのドアをバンと大きな音を鳴らして出て行った。

「ユカリさん、気付いてなかったんですか? あれ、食事前に携帯のアラームが鳴るようにしているんですよ」

 森一はイヤホンを外した。

「でも、スミレさん、お母様と・・・・・・」

「男作って出てった女と、繋がっているわけないじゃないですか」

 ユカリはカニ鍋のお汁でオジヤを作った。森一は黙々と食べた。冷めてしまうとオジヤはおいしくない。一応、スミレの部屋の前まで行き、オジヤのお誘いをしたけど、返事がない。ダイニングに戻ってきたら、森一が全部平らげていて、鍋が空っぽになっていた。

 スミレはユカリに気をひきたかったのだろうか? 音信不通の母親と話しているフリをして、空しかったかもしれない。いじらしく、包んであげたくなった。

 でも、スミレを葉子に重ねて考えると残酷で、娘をこんなに傷つけていると、罪悪感でいっぱいになった。


 アカリは帰りに、おもちゃ屋に寄った。葉子のクリスマスプレゼントをそろそろ用意しないといけない。

 アカリはプレゼントにはぬいぐるみをあげようと決めていた。

 葉子は早生まれの五才児なので、来年から小学校だ。でも、言葉が遅くてまだ単語でしか話さない。

 施設で行った知能検査では問題なかったし、吃音もない。もし、問題があれば、年明けに就学前検診があるのでそこで分かるかもしれないけど、その点では問題ないとは思っていた。

 挨拶は状況をみて自分から正しく言えるし、物の名前も割りと正しく覚えている。多分コミュニケーション不足からくる言葉の遅れとアカリは解釈した。

 ぬいぐるみを使ったごっこ遊びなどは情操教育にいいと聞いていたので、ぬいぐるみを二つ買ってあげて、冬休みは一緒に遊ぶ予定だ。

 おもちゃ屋で女の子の人形と猫のぬいぐるみを買って、駅のロッカーに保管した。葉子を迎えにいって家に着いた後、こっそり駅に戻ってプレゼントを取って、家に隠した。これが娘のいる生活。このイベント感がアカリの心を温めた。


 二十三日の朝。祝日で休んでいたアカリの元に宅配便が届いた。ユカリからだった。ダンボールをあけると、包装紙でラッピングされたプレゼントだった。

『葉子にあげてください』

 さて、サンタさんはイブの夜に、どちらのプレゼントを葉子の枕元に置くのだろう。


 クリスマス当日、葉子は保育園で作った工作を、アカリにプレゼントした。ピンクの色画用紙を円錐にして作った三角帽子には、葉子の絵がいっぱい描かれている。

「ありがとう。いっぱいお絵かきしたのね。上手になったね。これは何の絵?」

 帽子には肌色と黒で人らしい絵がいっぱい描かれていた。

「あーちゃん」

 アカリの絵は黒髪にメガネをかけている。

「これは?」

「おばちゃん」

 宏美はエプロンをしてニコニコしている。

「これは?」

「ママ」

 ユカリは茶色の髪に、リボンをしていた。

 アカリは嬉しくて、三角帽子を一日中かぶっていた。葉子の頭に合わせたサイズなので、アカリの頭に角のように乗っかり、ゴムもアゴに食い込んだけど、嬉しくて仕方ない。

 ユカリからのプレゼントをサンタさんからのプレゼントとして無名で渡して、ぬいぐるみをアカリから直接渡そうと考えていた。

 でも、三角帽子をもらって、それはフェアじゃないと気付き、どちらもサンタさんからとして、枕に添えることにした。

 ぬいぐるみのプレゼント包装の方が大きく、ユカリのプレゼントの中身はわからないけど、薄い箱だった。並べてみると、舌切り雀の大きいツヅラと小さいツヅラを思い出した。でも、そのたとえは大きいツヅラが不利なのでかき消した。


「サンタさん!」

 翌朝、葉子の明るい声で、アカリは目覚めた。

「まぁ、いつの間にサンタさん来たのかな? よかったね」

 さて、葉子はどちらから開けるか。葉子が先に手にしたのは、ユカリのプレゼントだった。

「開けて」

 葉子に頼まれ、アカリは悲しい気持ちで包装をはがした。

「色鉛筆!」

 ユカリからのプレゼントは三十六色の色鉛筆だった。アカリは、その手もあったかと悔しく思った。

「葉子、もう一個プレゼントあるよ」

 アカリは自ら誘導する。

「開けて」

 アカリは「喜んでくれ」と切に願いながら自分のプレゼントを開けた。

「猫! ルビーちゃん!」

 アカリは一応ほっとした。葉子はまずルビーちゃんという女の子の人形をダッコした。アカリが猫のぬいぐるみを使って話しかける。

「葉子ちゃん、葉子ちゃん、遊ぼうよ」

「お絵かき」

 葉子は色鉛筆を使って、猫とルビーちゃんを描き始めた。これは引き分けだろうか? ちょっとアカリの方が、分が悪いかもしれない。

「じゃあ、葉子。今度はこの紙に、ママの絵を描いてみて」

 アカリの渡した小さな紙いっぱいに、葉子は色鉛筆のたくさんの色を使ってユカリの絵を描いた。


一月


 島家の元旦の朝。森一はまだ合宿中なので、森夫、ユカリ、スミレの三人だけだ。毎年、お雑煮だけ作って、百貨店で買ったできあいのおせち料理を並べている。

 互いに、おはよう代わりの「おめでとう」を言って、朝食と変わらないテンションでおせち料理を食べた。

 市販のおせちは習わしは程々で、豪華さ重視だった。森夫がいると、食事中あまり会話をしない。

 スミレは同級生が言っていた「宮内庁御用達のおせち」のことを考えていた。でも、森夫の前で話題に出すのは遠慮した。目の前にあるおせちは現代人向けに作られていても、スミレの口に合わない珍味も多い。宮内庁御用達のおせちは、きっと産地と料理人がすごいけど、スミレの口には合わない。すっぱいブドウだった。

 ユカリはおせちの単価を頭で計算していた。三日間の朝昼晩、三人前と考えると、そんなにも贅沢ではない。それでも、真ん中でドンと構える伊勢えびの赤さが、心を豊かにした。

 治子と二人暮らしの時は、正月らしいものといえば、切り餅とミカンだけだった。せめて鏡餅が欲しいな、という願いを思い出す。

ユカリはいつも食事の手伝いをしていたけど、三が日は治子が全部用意した。

「三が日に包丁を持ったら、縁が切れちゃうから」

 古臭い迷信も、治子が言うと真実味を帯びていた。


「お父さん、お兄ちゃん、お父さん、私、お父さん」

 食後、スミレは届いた年賀状を分けていた。森夫以外は、あまり年賀状が来ない。森一もスミレも学校での付き合いは希薄だった。スミレは小学校時代の友達に年賀状を送ったけど、あちらからは届いていない。

「あ」

 スミレは驚いて声を出した。

「どうした?」

 森夫が覗き込もうとしたので、すぐにスミレの分を分けた山に隠した。

「いや、友達から年賀状来てただけ」

 スミレは分けるスピードを加速して、分け終わると自分の年賀状を持って部屋に戻った。


 三学期が始まってすぐの土曜日。月曜が成人式の為、三連休の初日。太地と太朗は午前中に野球部の練習を終えて、家に帰るところだった。

 家の玄関に誰かが立っている。鳳凰院女子中学の制服を着たスミレだった。

 太朗が声をかけた。

「何? なんか用」

「ねぇ、葉子って子いる?」

 スミレが遠慮なく喋るので、太朗は少しカチンと来た。

「葉子になんの用だよ」

「これ」

 スミレは二人に年賀状を見せた。年賀状には、幼児のダイナミックなタッチで女が描かれ、下手な字で「ママ」と書かれている。

「私、鳳凰院女子中学一年、島スミレ。島ユカリの再婚相手の娘」

 男二人はぽかんとしていた。

「誰?」

「ほら、多分葉子のお母さんだろ。苗字は初めて聞いたけど」

 太地は冷静に答えた。

「どこ中って?」

「さあ。多分、校区外だろ」

 アカリは男の子と話すのは久しぶりで、苛々した。

「鳳凰院の制服は有名でしょ?」

「うるさい女だな。同い年だろ」

「アンタ達、双子?」

「違うよ、俺が三月生まれで、太地が四月生まれだよ」

「え? 一ヶ月違い?」

「バカかよ。一ヶ月で子供が生まれるわけないだろ。十一ヶ月違い!」

 太朗とスミレが言い合いになったので、太地が冷静に話しかけた。

「で、何の用?」

「葉子に会いに来たの」

「葉子は今、出かけているから。まぁ、ウチに上がれよ」

 葉子はアカリと出かけていて、他の大人は工場で働いている。他の部屋でスミレを一人にするわけにもいかないので、三人は三階の太地の部屋に行った。

 太地の部屋は、野球選手のポスターが貼られ、本棚には野球の解説書、野球雑誌、スポーツ新聞のスクラップファイルが並んでいた。

 女子中のスミレは、男の子の部屋にいることで、他の同級生よりも優位に立っていると、嬉しくなった。

「私、この三連休は家出してきたの。かくまってもらうわよ」

「先に言えよ。勝手な女だな。ダメに決まってるだろ。帰れよ」

 太朗は怒鳴った。

「いいじゃない、遠縁なんだから」

 勝手なスミレに、太地が冷静に返した。

「血は繋がっていないだろ。家出の理由を教えてよ」

「言えるような理由じゃないわよ」

 スミレはまさか、今思いついたとは言えなかった。ユカリを困らせてやりたい。ちょっとそう思っただけだった。当然追い返されるのも承知で。

「わかった。三日間だけだぞ。俺は太朗の部屋で寝るから。トイレは三階にもあるし、食事はなんとかする。風呂は我慢しろよな」

 太地が受け入れてしまったので、スミレもびっくりして、少し怖くなった。思春期の男が二人と気付いた。でも、引き返せない。

「ありがとう」

「その代わり、その年賀状は預かるからな」


 水上家の夕食中、スミレは部屋に一人だった。今頃、ユカリは困っているのかな? 囚われのお姫様気分だった。窓を開けて、感傷的に月を見上げる。

 実の母のことを思い浮かべてみた。母は優しい人だったけど、具体的な記憶が薄い。怒られた覚えはないけど、本当に優しかったのかも定かじゃない。

 ユカリは「母親代わり」としては合格点を与えてもよかった。本当のお母さんになってもらう必要もないから、ドライな関係で満足していた。

 でも、葉子にユカリを奪われるのはイヤだ。その理由を作ろうとしても、よく分からない。愛情ではなくて感情的な問題だ。

「早く、三連休終わらないかな」


 夕食後、太朗は部屋に戻った。太地はお風呂に入ると、スミレに伝えた。

 太地は一階のアカリの部屋に行った。ちょうど、アカリは風呂上りで、葉子がパジャマを着る練習をさせていた。前ボタンのパジャマの上着を、葉子はゆっくりとボタンをかけていた。

「アカリちゃん、話があるんだけど」

「太地くん、ちょっと待ってね。ほら、葉子。ボタンかけ間違えてるよ。最後に余った下の穴がかわいそうじゃない。淋しい、淋しいって泣いてるよ。上のボタンも『僕の穴はどこ?』って迷子になってるよ。ボタンと穴は一緒じゃないと」

 葉子にもう一度、全部ボタンを外させて、はめ直させた。アカリはその姿を見ながら、淋しいボタン穴の人を思い浮かべた。

「アカリちゃん、これ」

 アカリは心臓を雑巾絞りしたみたいな痛みが走った。太地は年賀状を見せた。クリスマスに葉子がユカリを描いた絵、表にはアカリの字でここの住所と「町田葉子」と書かれている。

「太地くん、これ、誰が?」

「スミレって女の子。葉子のお母さんの再婚相手の子供らしい。今、俺の部屋にいる」

 アカリは自分の嫉妬と意地悪な心が、太地に見透かされ、罪悪感が溢れた。

「スミレさん、なんて?」

「家出してきたって」

「そう。お姉ちゃんには、私から連絡して迎えに来てもらうから。太地くん、それまでスミレさんにも、たーくんにも黙っていて」

 太地は固くうなずいて、部屋に戻った。


 真夜中。スミレは寝ようと思っても、寝付けなかった。大好きな制服はよれてシワだらけになっている。でも、男の子のベッドで下着姿になれない。

 勉強デスクのライトだけ点けて、勝手に野球雑誌を読んだ。野球に興味がないから、全然面白くなかった。

 外からドアをノックする音が聞こえた。スミレは怖くなった。男なんて野蛮だから、何するかわからない。その為に泊めてくれているのかも。邪推がよぎって、ノックを無視した。

 しばらくして、もう一度ノックの音がした。スミレは部屋にあったバットを片手に、ゆっくりとドアを開けた。

 廊下には、ユカリが立っていた。その後ろには、アカリもいる。隣の部屋からは太地と太朗ものぞいている。

「スミレさん、帰りましょ」

 スミレはこの怖い夜から抜けられる安心感と、バツの悪さ、男たちの裏切りが、心のミキサーにかけられて濁った。

「やっぱり、そうなんだ。ユカリさん、いつも私達に隠れてこの家に来てたんだ」

 ユカリは本当に違うのに、違うと言えなかった。家族と外で会っても、水上家に戻るのは小学二年生以来だ。違うと言っても信じてもらえない気がした。

「私よりも葉子って子の方が大事なんでしょ」

 スミレの大声に、隆が起きて、二階から上がってきた。家にユカリと知らない女の子がいるのを見て驚いた。

「今ここで、葉子と私、どちらが大切か選んでよ」

 ユカリは考える時間を必要としなかった。

「スミレさんに決まってるじゃない」

 ユカリはスミレの手をとり、階段を下りていった。兄妹達の痛い視線が刺さる。

「おい」

 隆が呼びかけても、振り向きもしない。


 ユカリが運転する車の助手席にスミレは座った。選んでもらえた満足感と、取り返しのつかない自責の念がグラグラしていた。

 親は子供を捨てられる。実証されてしまった。実の母が音信不通なのと同じように。

 スミレは葉子を人目見たかったけど、もう会わせる顔がなかった。まだユカリが見ていない葉子の絵も、太地に預けたままだ。

 手っ取り早い償いで、この思いから逃れたい。とりあえず三学期は授業をサボらないようにしよう。そう心に誓っても治まらなかった。


二月


 節分も終えて、暦の上では春になった。アカリと宏美は、雛人形を飾っていた。

「やっぱ女の子の節句って華やかね」

 宏美はウキウキしている。七段飾りの配置を確認しながら並べている。雛人形はアカリが小学生の時に何回かしか飾ったことがない。葉子の為に、久しぶりに並べてみた。

「このお雛様、私のだと思ったけど、お姉ちゃんのだったのよね」

 アカリはあれからユカリと連絡がとれていない。携帯電話の着信拒否をされている。未だにアカリはスミレの事件がショッキングだった。自分が意地悪で送った年賀状で、ユカリは葉子を失ってしまった。ユカリは今あの家庭で居場所があるのだろうか。

 逆大岡裁き。そんな言葉はないけど。いつだって子供は母親の愛を取り合っている。取りっぱぐれたら、代替の無償の愛を探している。試すような真似をしたり、もったいぶったり、答えを誘導したり。

 お雛様だけはひな壇に飾らずに、葉子がスケッチをしている。葉子の絵はメキメキとレベルが上がり、塗りつぶしだったのが、今では二、三頭身の人間をバランスよく描き、顔の表情もいくつか覚えた。とは言え、まだ十二単をかけるレベルではなく、ひな壇を描く為に大きさを調整することもできず、苦戦している。

「あーちゃん、あーちゃん」

「何? 葉子」

「あーちゃん、描いて」

 葉子は自分の描きたい絵が上手に描けない時、アカリにお手本を描いてもらって、真似っこをして練習した。アカリも絵は得意ではないので、ものすごく時間をかけて、お雛様の絵を描いた。その様子をじっと葉子は見ている。三十六色の色鉛筆は肌色と黒の頻度が高く、結構ちびてきた。十二単は色んな色を使えて楽しい。

 雛人形に付いているオルゴールのねじを回すと、「うれしいひなまつり」が流れる。こんな物悲しい曲だったのか。お雛様は幸せなのに、どこか浮かない顔をしていた。


 森一の高校受験の合格発表日の明け方。ユカリは悪夢にうなされていた。

 小学二年生のユカリが病院の手術台にうつぶせになっていた。局部麻酔をしているので、意識がもうろうとしている。手術が怖くて、昨日読んだ「赤ずきん」の絵本を思い出していた。

「ねぇ、おばあちゃん。どうして私ばかり怒るの?」

「お前が治子に似ているからだよ」

「ねぇ、おばあちゃん、どうして私達家を出ないといけないの?」

「隆とアカリの教育に良くないからだよ」

「ねぇ、おばあちゃん、どうしてお母さんをいじめるの?」

「お前みたいにチャラチャラ適当に生きている人間が子育てしたら、ろくな大人にならないからだよ」

 ユカリのパックリと開いた後頭部の傷口から、石とトラウマをたくさん詰め込んだ。そして、お医者さんが縫合して閉じ込めた。

支離滅裂な夢だった。ユカリが狼なのか、赤ずきんなのか、定まっていない。

 ユカリは泣きながら目覚めた。ひどい寝汗をかいている。家族にばれないようにキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、グラスに入れて飲む。よかった、井戸の時代じゃなくて。入水しているところだった。

 大嫌いな人の言葉が、呪われた予言みたいに、どんどんその通りになっていくことがある。呪縛だ。ユカリはろくな大人にならなかった。立派な大人とは、町子の意のままに工場を継いだ隆、教育大学を卒業して教師になったアカリが基準だ。ユカリは当てはまらない。葉子がその基準を超えるように育てられない。だから、子育てが怖い。島家で立派な夫、名門校に通う子供と家族ごっこをしている方が、傷つかない。満たされないけど。どうして大嫌いな人の基準に合わせようとしてしまうんだろう。

 脱衣所に行き、洗面所の鏡と手鏡とを合わせ鏡にして、髪をかき分ける。髪の毛があるから、みつからないけど、もうあの傷は消えてしまったのだろうか? だってもう何十年も前のことだから。


 アカリは里中に校長室に呼び出された。

「転任のお話、です」

 アカリは里中の話に身を構えた。最近、教育に対して懐疑的になっている。教育者としての自信も揺らいできて、以前の教育しかなかったアカリじゃない。ゆっくりと考える時間が欲しかった。

「四月から西小学校の特別支援学級に移動してほしいんだ。来年度からトキオくんていう男の子が入学するんだけど、西小学校は今まで特別支援学級はないから、立ち上げって言葉は正しいかわからないけど、一からお願いしたい」

「私にできるでしょうか」

「私が推薦した。西小学校はご実家と近いし。最近、水上先生は物腰が柔らかくなったし。特別支援学級は、ここと違って、通常クラスの子供たちへの教育や理解も仕事の一つだから。ステップアップになると思うから。よろしく頼んだよ」

ステップアップ。色々と決着をつける時期が来たのかもしれない。


 島一家はステーキハウスで森一の合格祝いパーティをしていた。

この店はいいお肉を扱っていて、値段も高めだけど、高級店ではなくフランクな雰囲気だった。店内は大雑把なアメリカをイメージされていて、フロアにはヴィジュアル審査で採用されたスタイルのいい女の子達が、露出度の高いカウガールのユニフォームを着ていた。彼女達の姿を、男子校の森一は直視できず、スミレの方があんぐりと口を開けてジロジロ見ていた。

 分厚いお肉、ご飯は食べ放題、お酒も飲み放題、女の子達。この店のターゲット層は若い男性だった。森夫から森一、男から男へのもてなしとねぎらいだった。

「でも、お兄ちゃんもバカね。今の学校なら大学までエスタレーターなのに。沖高校だと、入学した途端、大学受験が始まるようなもんじゃない」

 スミレは森一が合格したから言える軽口を叩いた。沖高校は中高一貫校の男子校なので、三年間一流大学の受験の為にまた猛勉強だ。それでも森一は、今まで抱いたパラドックスから解放され、やっと現実と自意識が一致できた。

 ユカリも安心した。中学受験の失敗にはユカリも負い目を感じていた。森一が小学四年から六年の三年間、ユカリの再婚で彼の心を乱したのではないか。本当の母親ならもっと力になれたのでは。やっと、ピリピリした家庭に平穏が訪れる。心労が取れると、すごく淋しくなった。三十二才。この先まったくの白紙だった。ただ、島家の中で家政婦をするだけ。そんなに今までとも変わらないけど。


 葉子とアカリは毎晩お人形遊びをしていた。女の子の人形・ルビーちゃんは葉子が使い、ルビーちゃんのセリフを言っていた。葉子はルビーちゃんのお母さんという設定だった。

「ルビーちゃん、ご飯食べましょね」

「うん、ママ」

 葉子はルビーちゃんに対しては、一人二役で、単語だけではない会話ができた。アカリが絵本の読み聞かせをしながら、葉子と対話していた成果だ。葉子はあまり大人にかまって欲しがることは少なく、一人でもルビーちゃんと話しているか、お絵かきをしていた。

「ねぇ、ルビーちゃん。ニャンにボールを二つちょうだいよ」

 アカリが操る猫のぬいぐるみは「ニャンちゃん」と名づけられた。ニャンちゃんはルビーちゃんのお友達で、アカリの下心から、算数につながる話題を投げかけることが多い。

「ねぇ、ルビーちゃん。ルビーちゃんはママが大好き?」

「うん、ニャンちゃん。ルビーちゃん、ママ大好き」

「ルビーちゃんのママのママは大好き?」

「うん、大好きよ」

 アカリはどうしてこんな自分が意地悪なことをしてしまうのか、自己嫌悪に陥った。スミレの事件以来、葉子はアカリのものになったのに、余計不安が抑えられなかった。いつまでも日常の歯車が軌道に乗らない。葉子との生活がまだ仮のような気がした。

 

アカリが葉子に甘えている。支えられている。今までのアカリが空っぽだったことに気付いてしまった。よくそんな人間が人に教育をしていたものだ。今までの鉄壁の正義感が、弱くてずるい人間になっていく。

 どうしてこんなにも色々な感情が方々から湧き上がってくるんだろう。祖母、母、父、隆、ユカリ、スミレ。みんなに対しての不審や怒りと、自分の良心とのせめぎ合い。鎮まった時の何もない孤独感。ワラをも掴む気持ちの葉子への依存。

 今までアカリは自分を、冷静な人間で感情的になることはない、と自覚していた。

 アカリが葉子と同じ小学校就学前には、すでに母がいないことは飲み込めていた。誰がどういう風に教え込まれたかは覚えていない。それくらい淡白な説得で、母の不在を受け入れていた。

 アカリは得意なことは要領よくこなし、不得手なことにはすぐに見切りを付けられた。大きな挫折をしたことも、すごい努力をしたこともない。早いうちから勉強が得意だと自負し、学校区で一番の高校に進学、幼い頃からの夢の教育大学に簡単に合格した。

 優等生タイプにありがちな「遅すぎる自我の芽生え」が今やってきた。アカリだけは正しく生きているのに、みんな好き勝手している。アカリには何も教えてくれない。それが許せない。

 せめて、葉子だけはアカリを愛して欲しい。二十六才が幼児に愛をせがむことのみっともなさ。


 アカリはニャンちゃんに向って話しかけた。

「ねぇ、ニャンちゃん。どうしてみんな平気な顔して生きてられるんだろうね」

 ニャンちゃんが「ニャンニャン」と、真実を教えてくれたけど、猫語で聞き取れなかった。


三月


 西小学校の会議室。特別支援学級を設立する為の、顔合わせが行われた。アカリ、里中、西小学校の校長、トキオの両親、トキオ。西小校長が仕切った。

「私が校長の荒川です。こちらが、トキオくんの担任をしていただく、水上先生です。そのお隣は水上先生の今の学校の校長をしている里中校長。水上先生、ご挨拶お願いします」

 アカリは緊張しながら、立ち上がり一礼をした。

「水上アカリと申します。今まで知的障害を持った生徒の教育経験しかありません。ろう教育についてはまだまだ未熟ですが、トキオくんと一緒に精一杯がんばります。ご協力お願いします」

 トキオは父の膝の上に座って、ジタバタしているのを、父に抑えられている。トキオは先天的に聴覚障害を持っていて、全く音が聞こえない。

 ろう教育を受けられる聴覚特別支援学校は、トキオの家からは遠く、教員数も少ない。トキオは元気で健康だけど癇癪(かんしゃく)持ちで、母親一人では負担が大きかった。

 そこで、市と学校、家族が相談し、トキオの学区内にある西小学校に特別支援学級を作り、アカリが聴覚特別支援学校と協力しながら、トキオを指導する事になった。まずは、トキオが通学、授業、アカリなど環境に慣れないと、何も教えられない。時間はたっぷり与えられ、慣れてきてから、聴覚特別支援学校の授業にも、アカリと一緒に参加を予定している。

上の学年に上がった時に、一人でも聴覚特別支援学校に通学できそうなら、転校も視野には入れている。ただ、アカリは「六年間面倒見る覚悟でいろ」と里中から言われた。

入学式の朝に、トキオの家に迎えに行く約束をして、顔合わせは終わった。


 課題図書をたくさん渡され、アカリは家に帰った。アカリが帰るのを見計らったように、太地と太朗がアカリの部屋に来た。

「アカリちゃん、話があるんだ。俺の部屋に来てよ」

 アカリは二人に急かされ、三階の太地の部屋に入った。ドアを開けると、部屋の真ん中にはスミレが正座をしていた。

 アカリが部屋に入った途端、急にスミレが土下座をした。

「お願いです。葉子ちゃんを母に返してください」

 アカリはこんな日がいつか来るとは思っていたが、スミレの口から言われたのは予想外だった。

「頭を上げて。女の子が土下座なんてしちゃダメよ。で、おね、ユカリお姉ちゃんはなんて言ってるの?」

「ユカ、母は何も言いません。今まで、私や兄にずっと気を使っていました。でも、ずっと淋しくて悲しい顔をしています。私達なら大丈夫です。兄も今年志望校に合格しましたし。葉子ちゃんと一緒に暮らせます。いじめたりしません。お願いです。返してください」

 太地と太朗が複雑そうな顔でアカリをみつめる。ここで大人気ない振る舞いをしてはいけない。

「わかったわ、スミレさん。今度、お姉ちゃんと話をしてみるから」

 また居座られてもの困るので、アカリは早めにスミレを帰らせた。


 アカリの部屋には自分の作業机の隣に、最近届いた葉子の学習机があった。デスクの上には箱に入った赤いランドセルが置いてある。安い買い物ではなかったけど、覚悟があったから何もためらいはなかった。愛情はお金で測れないけど、葉子の成長に沿った準備をしてあげると、母親の自覚が芽生えてきた。

 産んだことはそんなに偉いのだろうか。何でもくつがえる権利なのか。これから折々で都合よく主張されるのはうんざりする。子供の環境があまりコロコロ変わるのはよくない。今が正念場だ。ユカリときちんと決着をつけないと、いつまでも落ち着かない。 

 イライラしながらも、最近衝動買いしたミシンを動かす。アカリは不器用だけど、最新のミシンは使いやすい。小学校で使う巾着を作っている。体操着入れ、上履き入れ、給食用を数個。早く作ってしまわないと、落ち着かなかった。

 本当は課題図書を読まないといけない。四月からの学習指導計画書を作成しないといけない。今の受け持ちクラスの年度末の作業、転任の引継ぎ。仕事も今までで一番忙しく、長時間の通勤、寝る時間も惜しんでやらなきゃいけないことだらけだ。

 本当の母親なら、こういう時どうするのが正解なんだろう。本当の母親だからこそ、完璧じゃなくても許されるのか? 今までだって忙しい時、時間が足りないことはあったけど、アカリは迷いがなかった。今は、心が揺らいで、ギブアップしそうだ。


 ユカリはキッチンで夕食後の皿洗いをしていた。そこに、スミレが話しかけてきた。

「ユカリさん、あのね、ケーキのおいしいカフェがあるんだけど、一緒に行かない?」

 スミレから初めてのお誘いに、ユカリはキョトンとした。

「あ、うん」

「じゃぁ、明日学校帰りに現地で待ち合わせね。このメモに場所を書いておいたから」

 ユカリはスミレからメモを受け取った。


 翌日の午後四時。ユカリは指定されたカフェに訪れた。スミレはどこでこの店をみつけたのだろう? 鳳凰院女子中学からも少し遠かった。高い天井に真っ白な壁。アート志向が強く、ビビッドカラーのソファーに、食事するには少し不便なローテーブル、オブジェもポップなものが多かった。わかりやすいくらい「おしゃれなカフェ」だった。

中学生には少し高い料金だけど、お嬢様中学の生徒はこういう所を利用するのだろうか? 周りの客は独身OLか大学生が多かった。中学生が背伸びして、こんなカフェで友達と恋の話なんかをするのは楽しいそうだ。

 メニューも目に鮮やかで、シンプルなものは少なく、一皿のアートだと主張していた。スミレを待っている間、何度もペラペラとメニューを往復した。

「こんにちは」

 訪れたのはアカリだった。アカリは授業後、仕事中に抜け出してきたので、カフェで一番おしゃれじゃなかった。

「ごめんなさい、職場の近くまで来てもらって」

「スミレは?」

「あ、今日、スミレさんも来るんですか?」

 互いに無言になった。ユカリとスミレ、アカリとスミレ。それぞれ自分のいない所で、何を話しているかわからない。

「スミレさんっていい子ですね」

「スミレが何か言ってたの?」

「聞いてないんですか?」

 もしかして、スミレはアカリに色々打明けているのだろうか? ユカリは面白くなかった。

「今日もここにスミレと待ち合わせって聞いてたんだけど。スミレも来るの?」

「多分、来ないと思いますが。あ、何か飲みます?」

「ここってケーキおいしくて有名なんでしょ。ケーキ食べない?」

「結構です。ブラックのホットで。あぁ、コーヒーの種類とか詳しくないから、どうしよう」

「堅物ね。私は食べるわよ」

 アカリは、「堅物」と自分を言い当てられて、カチンときた。ユカリは何語かわからない横文字のスィーツと紅茶を注文した。運ばれてきたのは、大きなお皿に、ケーキと丸いディッシャーですくったアイスが乗っていて、甘いソースとフルーツでキレイに飾られていた。

「で、本題に入りますが、何も聞いてないんですか?」

「うん」

「この前、うちにスミレさんが来たんですよ」

「え?」

 フルーツを刺したフォークが宙に止まった。

「ごめんね、また迷惑をかけて」

「スミレさんに言われたんです。『葉子を母に返してください』って」

 アイスのスソが少しずつ溶けていき、ソースと混ざって色がにじんだ。

「葉子と暮らす気は今もないんですか?」

「・・・・・・」

 いつもここで話が止まる。

「以前会った時に、『あなたにはわからない』って言われたけど、未だにわかりません」

「怖いのよ。私の育てる子供がろくな子供にならないのが」

「そんなこと・・・・・・」

「だって、言われたんだもん」

「誰がそんなこと?」

「おばあちゃん」

「おばあちゃんが?」

「お母さんにね」

「でも、スミレさんとか、血がつながらなくても子育てしてるんですよね。自信持ってもいいんじゃないですか? 今のご家族にも理解があるんですよね、葉子のこと」

 ユカリは叱られた少女のように縮こまった。アカリは、町子と治子の関係を出されると、答えようがない。「ろくな子供にならない」なんて酷いことを言うなんて。ユカリに葉子の母親をさせるのは本当に無理なのかもしれない。無理なことを責め続けるのはよくない。アカリは話題を変えた。

「あ、これ。ごめんなさい。返し忘れてて」

 アカリはあの年賀状をユカリに渡した。

「これ、なに?」

「え? 見てなかったんですか? これ葉子が描いたんです。クリスマスにくれた三十六色の色鉛筆で」

 葉子にはサンタさんからのプレゼントとして渡しているので、ユカリからのプレゼントとは伝えていない。アカリの意地悪な部分を、ユカリには伏せておいた。ユカリは「ママ」という字と葉子の絵を見て、にじんだ涙をこぼさないようにした。

「スミレさんが隠し持っていたのかしら? お姉ちゃんが見てなかったなんて」

「それであの時、水上の家にスミレが行ったのね。ずっと不思議だったの」

 なぜユカリが「葉子と暮らす」と言い出さないのか、アカリはイライラした。自分がこんなに慈悲深くチャンスをあげているのに。アカリから言い出すべきじゃないと抑えていたけど、言ってしまった。

「焦らせるわけじゃないけど、四月から葉子は小学校に入学するんです。覚悟がないなら、今後一切、葉子と暮らしたいって言わないでほしいんです。私はどんなことがあっても、葉子を成人まで育てます」

 せっかくの話し合いもまた物別れに終わった。


 アカリは腑に落ちなかった。物事が白黒決着付かないと気持ち悪い。人には言えないけど、アカリの持論。「母親なんていい加減で、子供を捨てられる」

 だから弱い子供の味方になりたい。子供に慕われていると、満たされる。教育は天職だった。でも、こんなに敵意に満ちた先生じゃいけない。

 ムシャクシャしながら、エゴグラムの本を読んだ。批判的な親、養育的な親、大人、自由な子供、従順な子供。自分の性格をチェックしてみると、親と大人の点数が高く、子供の点数が少なかった。詳しい内容を見ると、「四角四面の人間」と書かれていた。やっぱり。

 本当にアカリが葉子の母親になっていいのだろうか? ユカリを悪者にして、葉子を奪う。一番の理想は、葉子は手に入れたまま、ユカリとも仲良くしたい。一度失った家族を取り戻したい。何も失わない円満を望んでいた。


 ユカリは家に帰ると、トイレで年賀状を眺めた。ずっと我慢をしていた涙がボタボタと零れ落ちた。

心が悲鳴を上げていた。自分で選んでここまで生きてきたはずなのに、全て自分の意思に反している。子供のままのユカリが閉じ込められて、それに目を逸らして言い訳ばかりしていた。

本当に葉子を失ってしまう。既に手放してしまっているのに。

色鉛筆を贈るのも勇気が必要だった。アカリの目を気にしていたからだ。葉子が自分の絵を描いてくれるなら、本当に贈ってよかった。

トイレの外からノックされた。水を流して、目を隠して急いで寝室に逃げた。


ユカリの姿を見て、スミレは心配になった。自分のお膳立てが裏目に出たのか? 義理の母が泣いている時に、慰める言葉がない。スミレも気持ちが沈んで、モヤモヤとした。太地に電話をしようかと思ったけど、あっちの状況が分からない。案じるしかなかった。


寝室でユカリは自問自答した。

「ねぇ、どうして葉子が怖いの?」

 胎児が動くように、胸の奥でガサゴソっと音がした。自分の本心が反応したのだ。

『おばけを退治したら、怖くなくなるよ』

 子供のままのユカリが答えてくれた。

「おばけって何?」

『ユカリが一番怖いもの』

 胸の中のガサゴソが大きくなった。

『ユカリはいつまで小学二年生なの?』

「もう、三十二歳よ」

『子供に子供を育てるのは無理よ』

 ユカリはまた頭痛に襲われた。頭の中で、石が無理やり神経を通ろうとする。


 平日の昼下がり。水上家の呼び鈴が鳴った。アカリはまだ学校なので、武は玄関の戸を開けた。訪れたのはユカリだった。ユカリはいつも以上に完璧なメイクで、ブランド品のシックなワンピースを着ていた。

 ユカリは二十四年ぶりに会う武と、薄い記憶を一瞬思い起こした。武に対しては何の感情もないことを確認した。老けてしまった父。武は礼服を着ていた。

 一方、武は目をそむけていた現実がいきなり訪れて、ガクガクと震えだした。弱い自分では守れなかった我が子。驚くほどに治子に似ていた。

「おばあちゃんはいる?」

「あ、あぁ」

 町子の部屋からはカセットの般若心経が聞こえる。武はユカリを無言で案内した。町子の部屋に入ると、不愉快なくらい般若心経は町子のバリアになっていた。ユカリはラジカセをすぐ見つけて、カチっと切った。武は同じ空間に入る勇気もなく、廊下で様子を見ていた。

「治子!」

 先に言葉を発したのは町子だった。町子は気が動転して、自ら般若心経を唱え始めた。

 ユカリはうろたえたけど、町子の心理なんて関係ない。自分の気持ちを精算の為に今日訪れたのだ。

「お母さんは死んじゃったわ。まさか、おばあちゃんの方が長生きするとはね」

「般若波羅蜜多・・・・・・・」

「私、息子は超進学校の沖高校に入学したの。一流大学進学だってありえるわ。娘は名門鳳凰院中学の生徒よ。これでも、『お前の育てた子はろくな子にならない』なんておばあちゃんは言うの? 私はこれから葉子を立派な子に育てるわ。アカリ以上のすばらしい子に」

「葉子は隆の・・・・・・」

「私は、あなたを許さない。実の娘と息子を奪われた母親の気持ちを、あなたにはわからないわ。支配的なあなたのことを、立派な母親や妻だなんて認めないわ」

 町子は魂を抜き取られたような表情で、怯えながら言った。

「この九十年。憎しみと呪いに囚われた人生だった。もういい加減、私を殺して楽にしてほしい」

 町子は般若心経をまた唱えだした。力尽きたユカリに、武は手招きをした。

「何の因果だろうな。俺は今から、親父の葬式に行くんだ」

「え? おじいちゃんって生きてたの?」

 兄妹達は祖父の存在は知らず、死んだと教えられていた。

「親父は工場とおふくろを捨てて、女と家を出て行った。おふくろはそれから世界中の人間が敵になって、誰も許さず、憎むようになった。だから俺は、お前も治子も守ってあげられなかった。おふくろの味方は俺しかいない。でも、お前にはおふくろのように、憎しみだけで一生を終えるような生き方はしてほしくない。おふくろはかわいそうな人間なんだ。許せとは言わない。ただ、憎めばお前も同じ。俺にできる償いは何でもする。お前は憎しみから解放されてくれ」

 情に訴えられても、ユカリは困った。そんな事情は関係ない。でも、憎しみの連鎖は断ち切らないといけない。武の言葉とさっき切ったタンカで、長年の呪縛から解放されていった。

「私が、アカリから葉子を奪っても、お父さんは私の味方をしてくれるの?」

 武は携帯電話を取り出し、宏美に葉子を保育園に迎えに行くよう、指示した。アカリが不在のまま、葉子は島家へと連れて行かれた。


 アカリは何も知らずに家に帰ってきた。一階のダイニングテーブルに武、隆、宏美が座っていた。

「宏美さん、すいません。葉子迎えに行ってもらって。何かあったの?」

 宏美は目を逸らした。アカリは尋常じゃない雰囲気を察した。隆が説明した。

「葉子はユカリが連れて帰ったよ」

 アカリは心を食い千切られる程の激痛が走った。自分の部屋に入ると、学習机もランドセルも、洋服、人形、色鉛筆、何一つ葉子のものがなくなっていた。アカリは崩れ落ちた。自分が不在の所で・・・・・・ ユカリにはあれだけチャンスをあげたのに。どうしてこんなに不義理な形で。

 わが子を奪われる。治子が、ユカリが体験した痛み。孤独なんてもんじゃない。こんなにも激痛だとは。

 アカリは悲しみに何の免疫もなかった。大声を出して泣いたのも初めて。泣けば泣くほど色んな怒りが湧き上がってくる。泣きすぎて頭痛がし、体温が下がって悪寒もしてきた。

 もう家族は手をつけられず、部屋から出て行った。ひとりぼっちの部屋で、どれだけ泣いても眠りにつけず、なかなか朝も訪れない。

 感情が振り切って、理性は切断された。脳がこれを機に、今まで無意識に抑えていた感情を消化していた。母がいない孤独、祖母からの支配、葉子への執着。そう、別れではなく、自分がかわいそうで泣いていた。

 一晩中怒り狂っていた。やっと大人になれる為に。


「水上先生、今日仕事が終わったら、ご飯を食べに行こうか」

 悲痛な別れの次の日、少しだけいい出来事があった。里中から初めて二人きりの食事に誘われた。これくらいのことで神様が「人生って捨てたもんじゃないだろ」と言うなら、納得がいかないけど。でも、実際そんな風にずっと不幸なわけじゃない。

「あ、はい」

 アカリは自分の格好を確認した。ジーンズに毛玉だらけのセーター。すっぴんの顔は泣きはらして、目は真っ赤で、生徒達も心配した程だ。そう言えば、昨日はお風呂に入っていない。

 まぁ、ドレスコードがあるような店に行かないし、アカリの色気次第で何かが展開するはずもない。


 平日の焼鳥屋は、割と落ち着いた雰囲気で居心地がよかった。とりあえずビールを頼んだ。アカリはメニューや肉の部位に詳しくないので、里中に注文を任せた。

「そうか。姪っ子さんはお姉さんと暮らすことになったんだ」

「はい・・・・・・」

 がっくり肩を落とすアカリ。

「それでそんなに別れが悲しくて泣いたんだ。愛されていたんだね、姪っ子さん」

「校長先生は、私と姉のどちらが育てるのが正しかったと思います?」

「水上先生にはつらい事実だけど、こればっかりは正しさで計れないよ。まぁ、永遠の別れじゃないんだから」

 焼鳥が来る前に、アカリは二杯目のビールをおかわりした。

「そうそう。指導計画書見せてもらったよ。私は口を挟む立場ではないから、荒川校長にしっかり相談した方がいいけど。よかったよ。荒川校長も褒めてた。水上先生の教育のインスピレーションは天才的だって」

「あ、はい・・・・・・」

 二時間ほど食事して解散した。アカリはあまりその夜の記憶がない。アルコールに拍車がかかり、最寄り駅まで戻ってから居酒屋で一人飲み直した。居酒屋に一人で入るのは初めてだった。しらふなら女が一人で飲むなんて恥ずかしいはずだけど、気にせず閉店まで飲み続け、タクシーで帰宅した。


 島家では、森一が葉子に平仮名を教えていた。高校合格の余裕からか、森一は葉子をかわいがり、森一から寄って行った。

「し、ま、よ、う、こ。おお天才だな、葉子は」

 森一が書いたお手本を真似して、葉子は自分の名前の練習をしていた。

 小学校はなんとか島家の最寄りの小学校への入学手続きが間に合った。養子の手続きは間に合わなかったが、便宜上「島葉子」としての入学が認められた。

 スミレは森一がデレデレなのが癪に障ったけど、自分が連れてきた子なので、葉子への嫉妬はなかった。ユカリは、特別葉子を贔屓はしてないからだ。

 葉子は水上家に来た時と同じように、平然としていた。もうすぐ小学校に入学するという自覚もなく、一人でいる時はお絵かきや人形遊びをし、森一やスミレがかまってくれる時は、一緒に遊んだ。淋しがることもなく、無口だった。

 ユカリは、「赤ちゃんの時はあんなに困るほど泣いていたのに」と心配と自責で胸を痛めた。今までの溝を埋めるくらい愛情をあげようと誓った。やっとやり直せる。生まれて今までで一番幸せだった。


 アカリは一人で治子の墓参りに来ていた。治子の墓は、水上家代々の墓と同じ霊園に立てた。水上家の墓だと町子と一緒になるので、治子も安眠できないだろう。アカリはもし結婚したら嫁ぎ先の墓に入るけど、隆の側にいられるようにと、この霊園に決めた。

 もともと山奥のお寺の墓地だったのが、企業が入って整えられたので、道も敷地もきちんと舗装されていて、周囲も木や花が植えられていた。墓地特有の怖さもなく、公園のように爽快だった。

 教師は体力仕事とはいえ、運動不足だから、息を切らしながら治子の墓まで歩いた。

「もっと生きているうちに会っておけばよかったね。お母さんも辛かったんだよね。これからはもっと会いにくるよ」

 アカリの気持ちの整理が付いていないから、治子が気を回してくれたのだろうか? 山奥の霊園まで携帯電話の電波が通じて、ユカリの着信が届いた。

「元気?」

 先日のカフェから初めての連絡なので、ユカリは恐縮していた。

「おかげさまで」

 怪我の功名。アカリは四年間で十キロ太った体重が、一気にやせた。

「あのさ、葉子の入学式にアカリにも来てほしいんだけど」

「私も自分の生徒の入学式があるから」

 アカリは、もともと今回の件がなくても、ユカリに入学式は行ってもらおうと考えていた。でも、権利が逆転して、お誘いを受けるのは面白くない。買おうと思っていた、ボレロとワンピースのアンサンブルスーツを着た葉子が、ランドセルを背負って、桜の花びらが舞う小学校に行く姿を想像すると、また泣きそうだった。必死でトキオを思い、かき消した。

「そう。そっかぁ。あのさ、うちに遊びに来てよ。葉子も会いたがっているから」

「今は行けない」

「ケーキを焼いて待っているから」

 ユカリはアカリの機嫌を取りながら喋った。どれだけへりくだってもユカリは幸せだった。アカリだってへそを曲げても、葉子との縁を切りたくはない。

「落ち着いたら、お邪魔させていただくわ」

 

四月


 今年の桜は例年よりも早く咲いた。入学式の日には満開を迎えて、勢い良く花びらが舞い散っていった。

 アカリはトキオの家に迎えにいった。トキオはブレザーに半ズボン、蝶ネクタイをつけて、号泣して暴れていた。見慣れないアカリの存在に、気が立っていた。トキオの母親が苦笑いをしながら、困っていた。

「ほら、トキオ。先生が来てくれたんだから。いい子にして。もう小学生なんだからね」

 母親・栄子がなだめた。

 同い年でも、全く違うトキオと葉子。それでも、アカリは子供がかわいかった。大切なものを失ったけど、アカリには教育がまだ残っていたから生かされている。葉子に教えてもらった自分の母性愛を、トキオに注ごう。

 栄子はだっこして、学校に連れて行こうとしたけど、アカリがトキオを抱き上げた。トキオは栄子が抱いた時以上に暴れたけど、アカリも力強く抱きしめ、離さない。栄子が不安そうな顔で見つめていた。

 アカリは栄子の顔が、ユカリに見えた。今やっと、子供を育てていく不安がわかった。


 桜舞う小学校の校門を三人で潜り抜ける。無音のスローモーションのように、アカリには感慨深かった。

「ほら、トキオくん。桜だよ」

 アカリはあれだけ予習していたのに、ハッと自分の間違いに気付いた。栄子がトキオに普通に話しかけていたので、トキオは音が聞こえないのを一瞬忘れていた。

まだ、文字も発音も覚えていない。言葉のない世界の理不尽さ。知らない女がいきなり自分を抱えて、知らない場所に連れて行かれたのだ。号泣するのが当然だ。

 桜の木の下で、トキオを降ろした。アカリは両手を叩いて、舞い落ちる桜の花びらを空中で掴んだ。手のひらを重ねたまましゃがんで、トキオの目の前で開いた。十枚以上の花びらが手のひらの上に乗っていた。その花びらにアカリはフッと息を吹きかけた。トキオの目の前で花びらが広がった。

 トキオが初めて、声を上げて笑った。

 アカリは、トキオの小さな手のひらを広げて、まだ教えていない平仮名で「さ、く、ら」と手のひらに指で書いた。トキオは文字を理解できないけど、くすぐったくてまた笑った。

 また、空中の花びらを掴んで、トキオに吹きかけた。トキオも真似して、花びらを掴もうと、手をパンパン叩いている。栄子もほっとして、一緒になって桜を掴んだ。

 トキオが笑ってくれたから、アカリはみんなを許せそうな気がした。

                                         了


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