シーン11 黄色いあこがれ
美佳は、暗闇の世界に、一人ぽつんと浮かんでいた。
何も見えない。手足を伸ばしても何も触れない。
狭い箱に閉じ込められたようにも、果てしなく広がる空間に投げ出されたようにも感じられるその暗闇は、美佳の不安をかき立てずにはおかなかった。
「私……死んじゃったのかな……?
真っ暗……何も見えない……。何も聞こえない……」
不安の中で思い出すのは、消えてしまったウォルフのこと。
毒トンポーローまんによって死んでしまった美佳には、ウォルフの孤独がよくわかる気がした。
ウォルフさんが消えてしまったのなら、自分も死んで消えてしまって当然なのだ。
「仕方ないよね……。ウォルフさんが消えちゃっても……。
ウォルフさん、嫌だっただろうな……。いろんな人の寄せ集め……。
ホーキくんが言ったとおりだよね。モーツァルトさんも言ってたし……。
ごめんね……ウォルフさん……」
美佳の心は自責の念で埋め尽くされていた。
自分が間違っていた。
自分のせいで、みんなの足を引っ張っている。
自分は何も役に立たない。
そんな気持ちが美佳を支配していた。そして――。
自業自得で死んだ。死んだのだ。
生まれて来ても何もできなかった自分は、死んで当然だったのだ――。
美佳がついに死を受け入れた、受け入れざるを得ないと思った、その時――。
「とうとう生まれたか……!」
突然、はっきりと聞こえた男性の声。
美佳はこの声に聞き覚えがあった。
――これは……パパ!?
美佳は驚きを込めてそう思った。闇の中に、病室の中のような清潔な光がさし始めていた。
――間違いない。パパの声だ。でもなんだろう。パパがパパじゃなくて、『男の人』って感じ。まだ『お父さん』になる前の……。
産声が聞こえる。それは自分の身体から発していた。
初めて肺に流れ込んだ空気を全て使い、全身で振り絞る声。
――そっか。これは私が生まれた時の記憶なんだ。覚えてるはずないのに、思い出せるはずなんかないのに。奥底に刻まれていたんだ。
「本当にご苦労様……」
パパの優しい声がママをねぎらっていた。
そして、小さな美佳にパパの顔が近づいて来る。まだ目が開いていなくて見えてはいなかったが、空気と温度の動きで美佳にはわかっていた。
「おおおーとっても美人な赤ちゃんでちゅね~」
パパの声がとろけていた。心の底から喜んでいるのが伝わってくる。
「あらあら、もう親バカですか? あなた……いいえ、パパ」
ママの息はまだ少し弾んでいた。大仕事をやり遂げた満足感と幸せが、その声に満ちあふれている。
「パパ……! パパかぁ~!
なんか照れるじゃないか、ママ」
――奥底に刻まれた記憶が、どうして……?
人は死ぬ時、自分の人生が走馬燈のように見えるって言うけど……。
やっぱり、私……死ぬんだね……。
美佳は穏やかに、自分の死を受け入れようとしていた。
少なくとも、望まれずに生まれたわけじゃない。何もできなくて失望させたかも知れないけど、祝福されて生まれて来たのだ。それだけでも、自分の人生は無意味ではなかったはずだと美佳は思っていた。
「名前、男女両方考えておいて良かったですね。女の子ですから、名前は……」
ママを気遣って我慢しているが、パパは本当ならはしゃぎ回りたいのだろう。ママの声は、そんなパパの気持ちを察して感謝するように、優しく響いた。
二人に授かった子供の名前。美佳が生まれる随分前から、那須野夫妻はその名前を考えていた。
子供が生まれて来るその瞬間に最大の感動を味わいたいと考え、二人は子供の性別判定を希望しなかった。そうして、生まれて来る子供が男の子だった場合と女の子だった場合の二通りの名前を考える事を楽しんできていたのだ。
だがパパは、首を横に振った。
「いや。この子の顔を見たら……もっと良い名前を思いついたよ。
もうそれ以外、考えられないなぁ」
――私の名前、この時に決まったんだ……。パパはどうしてこの名前をつけてくれたんだろう?
ママはどうして、考えていた名前より、この名前を選んでくれたんだろう……?
「まぁ……。どんな名前ですか……?」
「こんなに可愛い天使のような子だ。身も心も綺麗な、美しい人に育っていって欲しい。
だから……」
――そっか……。私の名前には、パパ達のそんな願いが……。
世の中にある美しいものに触れて、心の美しさを磨き上げていって欲しい。そして願わくば、美を生み出していく存在になって欲しい……。
そう。それが両親の願いだった。
「わぁぁすごい……。ねえねえパパ、これなぁに?」
幼稚園に上がる前の美佳。大画面に映し出された絵画は、公式に配信されている美術品の映像だ。実際に見る事には及ばないにしろ、高解像度で撮影された映像は、見る者の心を打つ力があった。
「あぁ、これはね。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐って言う絵だ。
本当は、もっともーーーーっと大きな絵なんだよ」
その圧倒的な美。そして本当は幼い美佳には想像もできない大きさだという事実に、美佳は目を輝かせながら圧倒されていた。
「へー! へー! すごぉい!」
画面が切り替わると、大きな彫刻が大写しになった。
「ねえパパ、これは?」
「これはミケランジェロのピエタだね。
このダビデ像と一緒に、とても有名なんだよ」
パパは画面を切り替えて美佳に笑顔を向けた。
「わぁぁ……こんなのつくれるひとがいるんだ……! すごい……!」
心の底から何かがあふれて来る。美佳は全身でそれを感じながら、表現する言葉を持たなかった。
小さな身体の中におさまりきらないその感情、感動に、美佳はただ翻弄されていた。
「……あれ……?」
小さな美佳が首を傾げる。
「ん? どうした? 美佳」
美佳の顔を見つめるパパは、美佳の頬に一筋、涙が輝いているのを見た。
美佳は不思議そうな顔で、しゃくりあげながらパパの顔を見上げた。
「わかんない……。けど、なんかなみだでてきた……。かなしくないのに……。
ねえパパ、なんで……?」
美佳はそう言って、手で涙を拭った。だがその目からの涙は止まらない。
美佳は本気で、その理由を知りたがっていた。
「それはね、美佳の心がとっても綺麗だからだよ。
人はね、悲しい時じゃなくても、嬉しくても、感動したときにも涙が出るんだ。
美佳の綺麗な涙は、美佳の心がとっても綺麗だって証拠なんだよ」
パパのその言葉は美佳の心に強く残った。
目を丸くしてパパの言葉を聞いている美佳。パパはそんな美佳を見て嬉しそうに微笑んだ。
美しいものに心を動かされ、涙を流せる心――。
美佳が物心つく前から沢山の芸術に囲まれていた理由はそこにあったのだ。
……だが。
生活圏が広がると共に、美佳の涙は、幸せなものだけではなくなっていた。
ある日、目にいっぱい涙を溜めたまま幼稚園から帰って来た美佳は、ずっと黙ったまま、部屋にこもってしまった。
美佳が初めて口を開いたのは、パパが帰って来た時だった。
美佳がふさぎ込んでいるとママから聞いたパパは、すぐママと二人で部屋に駆け込み、美佳を抱きしめた。
美佳はパパの顔を見ると大粒の涙をぼたぼたと落とした。その涙と共に言ったのは――。
「ねえパパ……。なんでわるいことするひとがいるの?
なんでともだちをいじめてよろこぶひとがいるの? ねえママ……」
美佳は悲しかった。幼稚園と家、そして家の周りの数十メートル。その小さな世界の中にも、美佳の心を傷つける光景は、当たり前のようにいくつも転がっていた。
信じられなかった。理解できなかった。悲しかった。
美佳はその答えを知りたいのかどうかすらわかっていなかった。ただ、パパとママに気持ちをぶつけたいだけだったのだろう。
それはもちろん、パパもママもわかっていた。
「そうだね……。人間はあれだけ素晴らしい芸術を残したりしているのに、何故悪い事をしたり、人を傷つけたりするんだろうね……。
いつもどこかで犯罪が起こっているし、どこかで戦争をしている。
美佳は、どうしたらそう言う悲しい事がなくなると思う?」
パパの問いは、悲しみと不信に混乱しきった美佳の頭に一つの道筋を示した。美佳は自然と、自分の手綱を取り戻して懸命に考えはじめる。
「うーん……うーーーん……」
悲しみの大きさと同じだけの、いやそれ以上の気持ちを込めて、美佳は考えた。こんなに考えたのは生まれて初めての事だったろう。
考え抜いて答えを出す。その体験は美佳を成長させていた。
「みんなが、感動して笑顔になれば……悪い事とかなくなるとおもう……」
美佳の結論は、今まで美佳が経験した事、考えた事の全てを投入し、抽出されたエッセンスそのものだった。
パパはその全てを受け止めるように、美佳を膝の上に乗せて頭を撫でた。
「そうだね。難しいけど、そうかも知れないね」
パパの言葉に、ママもゆっくりとうなずいた。
二人の優しい瞳に見つめられて、美佳はようやく涙を拭いた。
既に涙は止まっていたのだが、必死で考えていた間、涙のことを忘れていたのだ。
美佳は少し唇を噛んで考えると、その瞳に決意を宿して口を開いた。
「難しくても……私、そんな芸術家になりたい……!」
それは、美佳が初めて口にした『未来への夢』だった。
パパとママは、娘の夢を聞いた感動のあまり美佳を抱きしめた。
「パパも、美佳がそんな芸術家になってくれたらうれしいなぁ」
「うん……! 私、頑張る……!」
パパとママの間に挟まれてぎゅうっと抱きしめられながら、美佳は強く決心していた。
――そうだ……。私は、この時決めたんだ……。自分の……。
それからいくつもの季節がめぐり、美佳の美術と音楽の才能は磨きがかけられていた。
その才能の根幹を成しているのは彼女の持つ卓越した審美眼だっただろう。物心つく前から優れた芸術に囲まれて来た美佳ならではの感性であった。
「本当に……神の音楽……」
モーツァルトのピアノソナタを聞きながら、美佳は涙を流していた。
――そう、中学に入った頃から私は、モーツァルトさんの音楽に傾倒してたんだ。
モーツァルトさんの……。
小さい頃決心した『芸術家になりたい』という夢。
芸術の深みにはまり込むにつれ、そして広がった視野に悲劇が飛び込んで来るにつれ、美佳は自分の夢への道がどこにあるのかわからなくなっていった。
モーツァルトの音楽に傾倒していったのは、見失いかけていた自分の道を照らしてくれる予感がしたからかも知れない。
「こんなに素晴らしい神の音楽に触れて、人は涙を流すことができる……。
でもどうして?
どうして悲しみの涙はなくならないの……?
人間の歴史は、こんな神様みたいな芸術家を沢山生み出していたのに……。
人は、こんなに、涙が出るくらい素敵な芸術を生み出せるのに……」
実際、美佳はこのように思考していたわけではない。
神の音楽を聴きながら、感覚的にそう感じていたのだ。
夢の大きさに対する自分の小ささを痛感しながら、それでも美佳はその夢に向かおうとしていた。
「世界中の人が、みんな同時に感動して、涙を流したら……。
その間だけは、世界中、犯罪も戦争も起きないはず……。
でも、どうやって……?
どうすればそんな事ができるの……?
もっと……もっとすごい……。
今までの芸術家達を全部あわせたよりもっとすごい……。
世界中の人の心を光で満たすような……。
そんな芸術家に……なりたい……!」
――そうだ……。私は……!
美佳が、自分の憧れ、理想を思い出した時、もう一度、若いパパの声が脳裏に蘇った。
「こんなに可愛い天使のような子だ。
身も心も綺麗な、美しい人に育っていって欲しい。
だから……この子の名前は、美佳だ。いいね? ママ」
美佳は、自分の名前の意味を、そして両親がどれほど愛し、希望を託してくれていたのかを、身に染みて実感した。
そして、それが自分の夢の礎であったことも。
――私……まだ死ねない……まだ何もできてない……! パパ……。
ウォルフさん……!




