星降祭3
「……ヴェントゥス様、お待ちください! その外套の加護は、急に扱えるようなものでは……っ!」
アリアドネの制止が届くより早く、セリアスは軽々と彼女を横抱きにさらった。
次の瞬間、濃紺の外套が夜の闇を切り裂くように大きく翻る。暴れ馬のように奔流する加護の魔力を、セリアスは強靭な精神力でやすやすと手懐け、重力から解き放たれるように空へと舞い上がった。
「……ふっ、これは中々な『加護』だ。君と同じだね、一瞬も油断させてくれない」
セリアスは、全身を駆け巡る魔力の奔流を楽しみながら、腕の中のアリアドネを見下ろして不敵に笑った。アリアドネは彼の首にしがみついたまま、頬を赤くして抗議する。
「なっ……なんですか、その表現は! 加護というものは、じっくりと時間をかけて使い手の魔力を馴染ませ、育てていくものなのです! そんな強引に捩じ伏せるなんて……っ」
「いいじゃないか、ボクたちらしくて。君が込めた情熱を、ボクの魔力で直接解き明かしている気分だよ」
「……っ、もう! 職人の矜持を馬鹿にしないでください!」
二人の体は夜風に乗り、光の海となった学園とその先に広がる王都を眼下に見下ろしながら加速する。
地上ではあんなに恐ろしかった加護師たちの冷言も、今は遠い世界の雑音にしか聞こえない。ただ、風の音と、重なる鼓動、そして風花草の清涼な香りが夜の闇を支配していた。
やがて二人は、静寂に包まれた学園の時計台の屋上へと降り立つ。王都で最も高い場所から見下ろす景色は、どんな魔法よりも美しく、透き通っていた。
冷たい夜気がアリアドネの肌をなでる。
「……くしゅんっ!」
小さなくしゃみをした彼女に、セリアスが片眉を上げた。
「おや、おかしいね。さっきまで君を温めていた『加護』はどうしたんだい? 学園にいた時は、君の周りだけ春のような熱を帯びていたはずだけど」
「……気づいていらっしゃったのですね。ふふ、あれは小さな冒険者さんにプレゼントしましたわ。今日はとても冷えますから」
アリアドネがいたずらっぽく微笑むと、セリアスは呆れたように吐息をつき、自らの濃紺の外套を大きく広げた。
「じゃあ、代わりと言っては何だけど、こちらへどうぞ」
有無を言わせぬ力強さで、セリアスは外套の中にアリアドネを招き入れ、その細い腰をしっかりと抱き寄せた。
外套の内側には、アリアドネ自身が縫い込んだ『保温』と『安らぎ』の加護が満ちている。それに加えて、セリアスの体温と、彼から漂う『風花草』の甘い香りが混ざり合い、アリアドネの思考は真っ白になる。
「おや、流石の君もそんな顔をするんだ?」
「えぇ。あまりに自分の加護の効き目が良すぎて、どんな反応をして良いのか分かりかねまして」
「……そう」
アリアドネは、至近距離にある自分の「最高傑作」の性能を再確認し、感心したように呟いた。セリアスは不敵に微笑むと、抱き寄せる腕を滑らせ、その手がアリアドネのあらわになった背中に直接触れる。
熱い肌の感触が伝わり、アリアドネの体がびくりと跳ねた。
「今日のアリアドネさんは、本当に綺麗だけれど、少し肌があらわになりすぎだね。……他の男の視線をこれほど集めるのは、あまり愉快ではないな」
アリアドネは、腰を支える彼の大きな手の平の熱に驚きつつも、どこか冷静に彼を見上げた。
「……ヴェントゥス様。このドレスを贈ってくださったのは、どちら様でしょう?」
「……ボクだね。確かに、ボクが選んだ。……けれど、これほどまでに君に似合ってしまうなんて、計算外だったよ」
セリアスは観念したように笑うと、堪えきれない衝動に従うように、アリアドネの額に自分の額を寄せた。
「本当に、綺麗だよ。……ずっと、こうして見ていたい」
セリアスは、自分の認めた最高峰の「宝石」を、誰にも触れさせたくないという執着に突き動かされている。
対するアリアドネも、彼との密着に心臓が少しうるさいのは、きっと飛行のせいか、自分の施した加護の出力が高すぎるせいだろうと考えていた。
「……前に、君のことを調べたと言っただろう? その時に、聞いてしまったんだ。学生時代、君への扱いが酷いものだったと」
アリアドネの体が、わずかに強張る。忘れたはずの、あの暗い廊下や冷ややかな視線の記憶が、一瞬だけ脳裏を掠めた。セリアスはその震えを逃さないように、低い、落ち着いた声で続けた。
「君は優秀だ。それなのに君の加護が『光らなかった』から……周囲はそれを格好の攻撃材料にしたんだろうね。自分たちには理解できない高みにある技術への、醜い嫉妬もあったはずだ。だから、あんな非道な対応を……」
セリアスの声に、隠しきれない静かな怒りが混じる。けれど、彼はすぐに吐息をつき、アリアドネの耳元で柔らかく囁いた。
「でも、それは何の理由にもならない。たとえどんな理屈があろうと、君の価値を否定していい理由にはならないんだよ」
セリアスは外套越しに、彼女の背中を愛おしげに撫でた。
「本当に……今まで、よく頑張ったね、アリア」
その言葉は、誰にも見せずに、たった一人で針を動かし続けてきたアリアドネの時間を、すべて肯定してくれる魔法のようだった。
「光らない」ことが罪だと言われ、日陰に追いやられても、自分の技術を信じて磨き続けてきた孤独な日々。それが今、この最高級の外套を羽織った青年の腕の中で、報われていくのを感じる。
アリアドネの視界が、じわりと滲む。
「……やだ、私ったら。……ふふ、空の上は少し、風が目に染みるようですわ」
強がって瞳を伏せるアリアドネを、セリアスはそっと引き寄せ抱きしめた。
「これからは、君がどれほど誇り高い職人であるか、ボクが世界に証明し続ける。君の『翼』は、もう誰にも折らせない」
彼はそのままアリアドネの小さな手を取り、その掌に小さな、けれどずっしりと重みのある箱を載せた。
「これはボクの気持ちだよ。受け取ってほしい」
セリアスが差し出した箱の中には、見たこともないほど透明度の高い、蒼い光を宿した魔石のピアスが収められていた。時計台の月光を吸い込んだその石は、まるでアリアドネの瞳の輝きをそのまま形にしたかのように、深く、静かに瞬いていた。
「これは……まさか、氷晶石? でも、これほどまでの純度は……」
「持ち主の魔力を高め、どこまでも安定させる石だ。君の繊細な技術を、さらに上の次元へと引き上げてくれるだろう。……君を守るための、ボクからの加護だと思って持っていて」
セリアスは、戸惑いに瞳を揺らすアリアドネの耳たぶに、熱を帯びた指先でそっと触れた。
「付けてもいいかな?」
至近距離で見つめられ、その甘く低い声が鼓膜を震わせる。アリアドネは、自分の心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと焦り、震える手で拒もうとした。
「じ、自分で……自分でつけられますわ」
「ダメだよ。ボクがつけたいんだ。これはボクの加護なのだから」
セリアスは慎重な手つきで、アリアドネが元々つけていたピアスをそっと外した。耳元に残る彼の指の感触が、あまりに生々しく、熱い。
「……ん」
思わず漏れた小さな吐息に、セリアスの瞳が細められる。
「ふふ。そんな可愛い反応をされたら、このまま、誰の目にも触れない場所へ連れ去ってしまいたくなる」
吐息が耳首をかすめ、アリアドネは思考が追いつかず身体が動かなかった。
その直後、新しい石の冷たさが肌に触れると、アリアドネの全身を澄み渡るような魔力が駆け巡った。
魔力が、石に導かれるようにして淀みなく、驚くほど静かに整っていく。アリアドネの心身は深い安らぎと昂揚感に包まれていった。
「……不思議。すごく、体が軽い……」
セリアスは耳飾りの仕上げを確認するように、彼女の頬を親指でそっとなぞり、満足げに微笑む。
(……すごい。魔力が安定している。これなら、もっと繊細な加護だって縫い込めるわ……)
アリアドネはその輝きと、体に満ちる不思議な力強さに息を呑んだ。石の放つ蒼い光が、彼女のスカイブルーの瞳をより一層深く、美しく際立たせている。
けれど、その夢心地のような感覚の中で、アリアドネはふと、現実の光景を思い出し、弾かれたように青ざめて周囲を見渡した。
「……っ、大変! 私、カル兄様に何も言わずにテラスからいなくなってしまったわ! 今頃きっと、会場中をひっくり返す勢いで私を探しているはずよ!」
先ほどまでのロマンチックな余韻はどこへやら、アリアドネは時計台の淵から、下にあるはずの会場を不安げに覗き込んだ。
「……アリー! どこだ、アリー!!」
夜風に乗って、遥か下の庭園から、怒声に近いカリアンの叫びが微かに響いてきた。松明の光が激しく動き回っているのが見える。
「……おっと、これはまずいね」
セリアスは苦笑しながら、時計台の縁から下の様子を窺った。その瞳には、カリアンの必死な様子を面白がっているような、不遜な光が宿っている。
「そろそろ行かないと、君の兄上にボクとの『接触禁止命令』でも出されかねない。……残念だけど、今夜はここまでだね」
「ええ、本当よ! カル兄様があんなに声を荒らげるなんて……明日からお店に出られなくなったらどうするんですか!」
アリアドネが焦ってセリアスの腕から抜け出そうとした、その時だった。
「……まさか、あそこか!?」
地上でカリアンが、天を突く時計台の屋上へと視線を向けた。夜の闇の中でも、アリアドネのドレスとセリアスの魔石が放つ蒼い光は、あまりにも鮮烈だったのだ。
「見つかったかな。……でも、ただ返すだけじゃボクの気が済まない」
セリアスはアリアドネを再び、今度は逃がさないよう強く横抱きにした。
「ヴェントゥス様!? まさか、このまま兄様の目の前に降り立つつもりですか?」
「いいや。……最高の加護師の登場には相応の『演出』が必要だろう?」
セリアスは不敵に微笑むと、濃紺の外套を大きく翻した。
急降下する二人の姿に、地上にいた騎士たちが一斉にどよめく。だが、セリアスはカリアンの目の前に降りる直前、外套の加護を最大出力で解放した。
シュンッ、と空気が爆ぜるような音がして、二人の姿はカリアンの目の前でかき消え、数メートル離れた馬車の影へと一瞬で転移する。アリアドネが縫い込んだ『目眩まし』と『瞬身』の加護の応用だ。
「……なっ!?」
呆然と立ち尽くすカリアンの背後で、セリアスはそっとアリアドネを地面に降ろした。そして彼女の耳元で、甘く、冷徹な独占欲を込めて囁く。
「続きは、また」
彼が指先を鳴らすと、周囲に漂っていた風花草の香りが一際強く舞い上がり、セリアスの姿だけが夜の闇へと溶けるように消えていった。
呆然と立ち尽くすアリアドネ。
「アリー! 無事か! ……おい、今の外套の男はどこへ行った!?」
血相を変えて駆け寄るカリアン。その背後で、リゼットがふふっといたずらっぽく、けれどどこか誇らしげに空を見上げた。
「……決まりね。今年の聖夜、一番の『祝福』をもらったのは、アリー姉さんだわ」
「リズ、何を言っているんだ! 祝福どころか誘拐だろう!?」
カリアンの怒声も、今のアリアドネの耳には遠くの羽音のようにしか聞こえない。彼女は耳元で静かに拍動する氷晶石の冷たさと、セリアスの低い声が頭から離れなかった。
結局、カリアンの説教を半分聞き流しながら、一行はシルフィード家の紋章が入った馬車へと乗り込んだ。
石畳を叩く蹄の音が遠ざかり、馬車の灯りが夜の闇に消えていくのを、会場の影から見送る一人の男がいる。
セリアスは、濃紺の外套を翻し、冷たい夜風に吹かれながら立ち尽くしていた。その表情は、先ほどまでの傲慢な騎士のそれではない。獲物を手に入れた悦びか、あるいは、自分でも制御しきれない未知の感情に戸惑う、一人の青年の顔だった。
「……そんな顔もするんだね、セリアス」
背後から、落ち着いた、涼やかな声がした。
振り返れば、そこには先ほどアリアドネが庭園で出会った、あの金髪とグリーンの瞳の少年が立っていた。少年は、小さな手のひらの中で、アリアドネから貰った「星の刺繍のボタン」を愛おしげに転がしている。
「……見ていたのですか」
セリアスは一瞬でいつもの冷徹な表情に戻ると、少年の隣に立ち、同じ夜道の先を見つめた。
「本日の護衛は私ではありませんよ、エシュリオン王子」
「知っているさ。あまりに君が必死にあの馬車を見ていたからね。一体どこの家のお嬢さんかな」
アルト・リテ王国の第一王子、エシュリオンは、ボタンをつまみ上げ、月光に透かしてまじまじと見つめる。
「それは……どうしたのですか?」
セリアスは、そのボタンから溢れる魔力が誰のものか、すぐに気づいた。問いかけると、エシュリオンは自慢げに小さな胸を張った。
「星の精霊からもらったんだ。……あーあ、僕がもう少し大人だったら、国中を探し出してでも僕の婚約者にするのに」
あまりに真っ直ぐな、けれど熱烈な少年の宣言に、セリアスは一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くした。だが、すぐに喉の奥から低い笑い声を漏らす。
「なんとまぁ。……ですが王子、その『もう少し』では、おそらく到底足りませんよ」
「何で笑うのさ、セリアス? 僕は本気だよ」
心外だと言わんばかりに頬を膨らませるエシュリオンを横目に、セリアスは不敵な笑みを浮かべた。その表情は、臣下としての礼節を保ちつつも、一人の男として譲れない一線を引いている。
「その精霊は、年上が好みですから」
「……っ、セリアスのいじわる! そんなの、聞いてみないとわからないじゃないか」
「星の精霊ですからね、王子。人間の子供の理屈は通じませんよ」
セリアスは静かに立ち上がり、夜風に外套をなびかせた。
八歳の王子が抱く純粋な憧れが膨らむ前に、一蹴する。エシュリオンは悔しそうにボタンを握りしめ、セリアスの横顔を睨んだ。
「……ふん。セリアスがそうやって余裕でいられるのも、今のうちだよ。あのお姉さんの魔法は、君の余裕を壊してしまうほど温かかったもの。僕、絶対に忘れないからね」
王子の予言めいた言葉を背に受けながら、セリアスの瞳はさらに深い色を帯びていく。
次は何を注文して、彼女をこの腕に呼び寄せようか。
近日、届くであろう山のような最高級の糸と、公爵家の紋章が刻まれた「専属契約書」を思い浮かべ、セリアスは満足げに口角を上げた。




