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星降祭2

  オーケストラの重厚な演奏がゆっくりと始まり、アリアドネはセリアスのリードに身を任せて一歩を踏み出した。

 慣れない高いヒールと、至近距離にあるセリアスのトパーズ色の瞳。余裕を失い、足元ばかりが気になっていたアリアドネだったが、ふと視界の端に、桃色の花びらが舞うような華やかなステップが映った。


 見れば、カリアンの大きな腕に包まれながら、リゼットがこれ以上ないほど幸せそうに笑いながら踊っている。リゼットは姉と目が合うと、悪戯っぽく片目を閉じ、唇を「あ・り・が・と」と動かす。


 その無邪気な感謝に、アリアドネの緊張がふっと解ける。張り詰めていた表情が崩れ、心からの、柔らかく慈愛に満ちた笑顔がこぼれた。


「……その顔は、反則だな」


 耳元で、低く抑えられた声が響く。

 ハッとして視線を戻すと、セリアスが苦いものを飲み込んだような、それでいて熱を帯びた眼差しで彼女を凝視していた。


「リゼット嬢に向けた今の笑顔。……次は、ボクに向けてくれるかな?」


「え……。ヴェントゥス様は、私のような者の笑顔を見て、楽しいのですか?」


 アリアドネが不思議そうに、けれど少しだけ茶目っ気を含んで首を傾げる。セリアスは一瞬だけ絶句し、やがて敗北を認めるように吐息をついた。


「……ふふ、ボクの『凪』が、一瞬で嵐に変わるくらいにはね」


「そうなのですか?」


「ふふ。……本当に、つれないね」


 二人のステップは、夜空と闇が混ざり合うように深まっていく。

 やがて曲が静かに終わりを告げると、アリアドネは上気した頬を扇ぎながら、小さく、けれど深い吐息をついた。


「……ふふ。やはり私は、一日中椅子に座って針を動かしているのがお似合いだわ。少し踊っただけで、もう足がふわふわしているもの」


「職人としては名誉な運動不足だね」

 

 セリアスは愛おしげに彼女を見つめると、その細い肩をそっと叩いた。


「少し休んでいて。喉が渇いただろう? 飲み物を持ってくるよ」


 彼が給仕の元へ歩み去るのを見送り、アリアドネがようやく一息ついた、その時だった。


「……あの、アリアドネさん」


 背後から、ひどく緊張した、けれど真っ直ぐな声が掛けられる。振り返ると、そこには顔を真っ赤にしたテオドールが立っていた。


「あ、テオドールくん。さっきはダンスフロアで……」


「見違えました。いえ、あの山で会った時から素敵だと思っていましたが……今日の貴女は、あまりに眩しくて、近づくのも躊躇われるほどで」


 テオドールが必死に言葉を紡ごうとした、その矢先。


「あら、こんなところにいたのね。アリアドネ・シルフィード」


 冷ややかな、刺すような声が割り込んだ。

 現れたのは、きらびやかだがどこか品のない発光魔法を纏ったドレスを着た、数人の女性たち――かつて学園でアリアドネを「光らない刺繍」と蔑んでいた、現・王宮加護師のグループだった。


「貴女、そのドレス……どこかの貴族にでも取り入って、無理やり仕立てさせたのかしら?」


「学園を追い出されるように卒業した落ちこぼれが、こんな高貴な席に顔を出すなんて。身の程をわきまえたらどう?」


 彼女たちはテオドールがいることに気づきながらも、アリアドネを包囲するようにじりじりと距離を詰める。その高い壁に圧されるように、アリアドネは後ずさるしかなかった。


「……待ってください、彼女はそんな――」


 テオドールが割って入ろうとするが、加護師の一人がわざとらしく彼にぶつかり、視線を遮る。


「あら、ヴェントゥス家の次男様。こんな地味な女に騙されてはいけませんわ。さあ、こちらへ……」


 彼女たちは集団の圧力で、アリアドネをじわじわとフロアの端、開放された大きな扉の外へと追いやっていく。

 多勢に無勢。アリアドネは言い返す間もなく、冷たい冬の空気が満ちる屋外のテラスへと押し出されてしまった。


 バタン、と重厚な扉が閉められる。

 静まり返った夜のテラス。

 遠くで響く楽しげな音楽と、目の前の暗い森。

 アリアドネは、冷え切った手すりに指をかけた。


 冷たい夜のテラスに取り残されたアリアドネは、震える手でドレスの裾を強く握りしめた。あの女性たちの鋭い言葉は、かつての傷を抉るには十分すぎるほどの毒を持っていた。けれど、今のアリアドネの心には、それ以上に職人としての冷静な計算が働いている。


「……冗談のつもりだったけれど、まさか本当に使うことになるなんてね」


 彼女が指先でなぞったのは、ドレスの腰元に密かに施された、あの「風花草」の魔法糸による刺繍だ。セリアスの外套を縫った際の余り糸で、半ば遊び心、半ば「もしもの時の逃走用」として縫い込んでおいたものだった。


 アリアドネは意を決して、軽やかに手すりによじ登る。眼下に広がる暗い森と、遠くに見える馬車の灯り。


「小さな加護だけれど、私の体重くらいなら……いけるわ」


 彼女が爪先を蹴ると、ドレスがふわりと夜風に膨らんだ。自由落下するはずの体は、アリアドネの魔力を魔法糸が吸い込むと、まるで重力から解き放たれた綿毛のように、ゆっくりと夜の闇を滑り落ちていく。

 華やかな会場の喧騒を背に、アリアドネは優雅な弧を描いて、馬車が待機している場所から少し離れた静かな庭園へと降り立った。


「……ふぅ。着地も完璧ね。中々の出来栄えだわ」


 乱れた髪を整え、大きく息を吐いたその時だった。


「……すごい。今の、魔法?」


 植え込みの影から、一人の少年が姿を現した。

 月明かりに照らされたその髪は、夜の闇でもはっきりとわかるほど眩しい金髪。そして、こちらをじっと見つめる瞳は、深い森のようなグリーンだった。


「あら。こんなところでどうしたの、坊や」


 アリアドネは屈み込み、少年の目線に合わせて首を傾げた。ふわりと漂う『蒼穹のしずく』の香りが、冬の凍てつく空気を一瞬だけ和らげる。


「星を見たくて、抜け出してきました。……お姉さんこそ、空から降ってくるなんて、星の精霊か何かですか?」


 少年のその言葉遣いには大人びた気品と、拭いきれない孤独が滲んでいた。アリアドネは悪戯っぽく人差し指を口元に当てる。


「そうね、私は星の精霊。だから、私とここで出会ったことは、二人だけの秘密にしてもらえるかしら?」


 少年のグリーンの瞳が、期待と興奮でさらに輝きを増した。ふと見れば、彼の立派な仕立ての小さな礼服は、生垣を潜り抜けてきたせいか袖口のボタンが取れかかり、綻びができてしまっている。


「ふふ、お星様を見に来た『冒険の証』がついてしまっているわね。少しだけ、精霊の魔法をかけさせてもらえるかしら?」


 アリアドネはドレスの奥、太もものホルダーに忍ばせていた裁縫道具を取り出した。一瞬、少年が鋭い銀の針を見て身を固くしたが、彼女の穏やかな微笑みがその警戒を解いていく。


「じっとしていてね」


 アリアドネは淀みない手つきで袖の傷を塞いでいく。冬の月光の下、針先が軌跡を描くたび、少年の綻びた袖口が魔法のように塞がっていった。


「すごいね。……あれ、目が……」


 少年はアリアドネの手つきから、彼女の瞳の変化に視線を移した。

 集中が高まるにつれ、アリアドネのスカイブルーの瞳は、まるで奥底で魔力が発火したかのように、透き通った銀色の鮮やかな輝きを放っている。


(……光ってる。お姉さんの目が、お星様みたいだ)


 それは、彼女の魔力が、刺繍という行為を通じて最も純粋な形で溢れ出している証。本人は知るよしもない、真に魔力と対話している瞬間にだけ現れる輝きだった。

 少年はその神秘的な美しさに、瞬きすることさえ忘れて見入ってしまう。


「……よし、できたわ」


 アリアドネが顔を上げると、その瞳の銀色の輝きは、まるで魔法が解けたかのように、元の穏やかなスカイブルーへと静かに戻っていった。


 そして、彼女は持っていた「くるみボタン」を少年の手に握らせる。そこには、夕空を映したような鮮やかなオレンジの糸で、小さな星の刺繍が施されている。


「これは精霊さんからの秘密のプレゼント。そのボタンには、凍えないための魔法を込めておいたわ」


 少年の小さな体を柔らかな熱の膜が包み込んでいく。アリアドネが昨夜、即興で編み上げた、最高密度の保温の加護だ。


「……あたたかい。お姉さんの手みたいだ」


「今日は一段と冷えるもの。風邪をひいて、大切な冒険を台無しにしないでね」


 宝物を受け取った子どものように、少年はそのボタンを胸に抱きしめた。寂しげだった表情は、満面の笑みへと変わる。


「ありがとう、精霊さん! 僕、これを一生大事にするよ。……僕の名前は――」


 彼が誇らしげに名を名乗ろうとした、その時。背後の庭園を揺らすほどの、鋭く激しい風が吹き荒れた。


「アリアドネ!!」


 夜の静寂を切り裂く、セリアスの切迫した叫び。アリアドネは反射的に顔を上げた。


「……ごめんね、精霊さんはもう行かなきゃ」


 アリアドネは名乗ろうとした少年に優しく背を向けると、声のした方へと急いだ。冬の枯れ木を抜けた先、月明かりの下で立ち尽くしていた漆黒の影が、彼女の姿を捉えた瞬間に弾かれたように駆け寄ってくる。


「アリア……!」


 強い力で抱きしめられ、アリアドネは彼の胸に顔を埋める形になった。セリアスの心臓は、まるで全力疾走した後のように激しく、不規則に脈打っている。


「テオが血相を変えてボクのところへ来たんだ。君が……君が王宮の加護師たちに連れて行かれたと。急いでテラスへ向かったけれど、そこには誰もいなくて……」


 セリアスは抱きしめる腕にさらに力を込めると、震える指先で彼女の頬を包み込み、覗き込んだ。


「……泣いた跡があるね。ごめん、ごめんね。ボクが目を離さなければ、こんな思いをさせずに済んだのに」


 彼のトパーズ色の瞳には、加護師たちへの苛烈な怒りと、自分自身への深い後悔が渦巻いている。セリアスは自分を落ち着かせるように何度も深く呼吸を繰り返したが、ふと、不可解そうに眉を寄せた。


「……ところで、アリアドネさん。ボクは君の魔力の残留を辿ったのだけれど、テラスの手すり部分で君の気配はぷっつりと途切れていた。あそこは、逃げ場のない場所のはずだよね。……どうやって、あそこから消えたんだい?」


 逃げ場のないテラスから、忽然と消えたアリアドネ。その疑問に、彼女は少しだけ気まずそうに視線を泳がせ、小さな声で白状した。


「えーっと……飛びました。……自分のドレスにも、飛べる加護を刺繍していたので」


「………………」


 セリアスは言葉を失った。

 張り詰めていた空気が、まるで糸が切れたように静まり返る。

 数秒の沈黙の後、セリアスは深いため息をつくと、そのまま力なくその場にしゃがみ込んでしまった。


「……ああ、そうか。君は、ボクの保護なんて必要ないくらい、優秀な職人だったね」


 顔を覆いながら漏れた声は、安堵と、脱力と、そしてアリアドネが想像以上に「無敵」だったことへの、可笑しさと誇らしさが混ざり合っていた。


「流石だよ。……ボクも、君のように自由に空を飛べたら良いのに」


 地面にしゃがみ込んだまま、セリアスは自嘲気味に笑ってアリアドネを見上げた。守るべき可憐な花だと思っていた女性が、実は誰よりも高く、強く羽ばたける翼を持っていた。その事実が、彼の独占欲を心地よく、そして切なく刺激する。


「ええ、もちろんですわ。実は……今日お会いしたら、お渡ししようと思っていたのです」


 アリアドネは、馬車が待機している場所まで彼を導いた。

 御者に合図をして取り出したのは、公爵家の関与を物語る、あの大きな箱。蓋を開けると、月明かりを吸い込んだような、しっとりと重厚な輝きを放つ濃紺の外套が姿を現した。


「……これは」


「ヴェントゥス様。たくさんのお支払いをいただいたので、ただの注文通りでは私の職人魂が納得できませんでしたわ」


 アリアドネは、丁寧に畳まれた外套を広げ、彼の手へと委ねた。

 指先に触れる生地は、シルクのように滑らかでありながら、鋼のような強靭さを秘めている。


「飛行の加護はもちろんですが、ヴェントゥス様をあらゆる害悪から守る多重結界、魔力回復の補助……他にも、できる限りの刺繍をすべて詰め込ませていただきました。……私の最高傑作ですわ!」


 濃紺の裏地には、魔法糸で緻密な幾何学模様が編み込まれており、それがセリアスの魔力に呼応するように、静かに、深く拍動し始めた。


「君は……本当にどこまでも職人だ。ボクにこれほどの『翼』を与えて、一体どこまで行けと言うんだい?」


「どこまでも、セリアス様が望む場所へ。……でも、少しだけ重いかもしれませんわよ? 私の『お節介』がたっぷり詰まっていますから」


 アリアドネがいたずらっぽく笑うと、セリアスはその外套を力強く、己の身を包むように羽織った。

 

 瞬間、周囲の空気が一変する。

 庭園の木々がざわめき、セリアスの体を中心に、目に見えるほどの濃密な魔力が形成された。


「重いなんて、とんでもない。……驚くほど軽いよ」


 セリアスは、贈られたばかりの濃紺の外套を夜風に翻すと、戸惑うアリアドネの腰を逃がさないよう強く引き寄せた。


「ちょっ、ヴェントゥス様……!?」


 急に縮まった距離にアリアドネが声を上げるが、彼は不敵な笑みを深めるだけだ。そのトパーズ色の瞳には、夜景よりも鮮やかな情熱が宿っている。


「さあ、お節介な加護師さん。ボクの初陣に付き合ってもらおうか。……誰の手も届かない、ボクと君だけの空へ」


 セリアスが外套の襟を正し、その身に魔力を込めた瞬間。

 アリアドネが魂を込めて縫い上げた『飛行』の加護が、主の魔力に応えて一気に目覚めた。

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