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星降祭1

 星降祭当日。王立魔法学校を囲む森は、凍てつくような冷気と、対照的に熱を帯びた浮き足立つ空気で満ちていた。

 石畳を叩く蹄の音が止まり、シルフィード家の紋章が刻まれた馬車が会場の正面玄関に到着する。

 扉が開く直前、アリアドネは馬車の中で、自分の心臓の音がうるさいほど跳ねるのを感じていた。

 

 この数日間、彼女は狂ったように針を動かし続けていた。没頭するあまり、「自分がこのドレスを着て夜会に出る」という事実を今朝まですっかり忘れていた。


「あぁ……この糸、この刺繍、大満足の出来だわ。布も最高よ。……でも」


 針を動かしている間は、職人としての法悦の中にいた。けれど、今こうして鏡を見る暇もなく着せられたネイビーのシルクが、まるで夜の海のように自分の肌を包み込んでいるのを感じて、急激に現実味を帯びてくる。


「……アリー姉さん、大丈夫? 震えてるわよ?」


 隣で楽しそうに首を傾げるのは、淡いピンクのドレスに身を包んだリゼット。期待に瞳を輝かせる妹の可愛らしさに、アリアドネは深呼吸を一つした。


「ええ、大丈夫よ、リズ。ドレスの出来は……完璧だもの。あんなに素敵な仕上がりになったんですもの、絶対に誰にも負けないわ。……ただ、それを着ているのが『私』だっていうのが、なんだか申し訳なくて……」


「もう、また始まった! 姉さんが着てこそ、そのドレスは完成するのよ!」


 リゼットが興奮気味に身を乗り出すと、彼女の体からアリアドネと同じ、甘く清々しい香りがふわりと漂った。

 リゼットが完成させた風花草から作った香水『蒼穹(そうきゅう)のしずく』。今日は姉妹揃ってこの魔法の香りを纏っている。


 馬車の扉が開く。

 まず降り立ったのは、正装に身を固めた兄、カリアンだった。


 「私が同行するのであれば許可する」と、今夜は騎士として、そして兄としての盾を自任している彼は、扉の横で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「アリー、今からでも遅くない。体調が悪いと言って帰るか……? ほら、私のマントでその背中を隠しなさい。……目のやり場に困る」


「ふふ、カル兄様、過保護が過ぎるわ。大丈夫、みんなドレスの刺繍に夢中で、私個人のことなんて誰も見ていないわよ」


 アリアドネがカリアンの差し出した手を取り、ゆっくりと馬車を降りた瞬間だった。

 夜風が吹き抜け、彼女のドレスが鮮やかに変貌を遂げる。

 周囲の魔灯の光を吸い込んだ瞬間、刺繍が深い闇色が鮮やかに反転し、白銀シルバーの繊細な輝きへと揺らめき立つ。


「……っ、あの方は、どこの令嬢だ?」


「あんな刺繍、見たことがない。まるで光が生きているみたいだわ……」


 会場に集まっていた貴族たちの視線が、一斉に彼女へと突き刺さる。アリアドネは、その注目の理由が自分の容姿ではなく、自らが縫い上げた「技術」への驚嘆であると信じ込むことで、どうにか膝の震えを止めて顔を上げた。


「……行きましょう、リズ。私たちの『加護』と『香り』が、この場所でどう届くのか、確かめたいわ!」


 疼くような過去の痛みが脳裏をかすめる。けれど、自分が生み出したこの作品が、深い闇の中でどれほど気高く、美しく揺らめくのか。その「真実」をこの目で見届けたいという好奇心が、恐怖よりも勝っている。


「少し、安心したよアリー。良い目をしている」


 カリアンが差し出した両腕に、アリアドネとリゼットがそれぞれ手を添える。

 カリアンは緊張で石像のように表情を固めていたが、その足取りはどこまでも安定し、二人の歩幅に寄り添うようにゆっくりと会場へ向かった。


「見て、アリー姉さん! まるでお星様の中にいるみたい!」


 リゼットが弾むような声で囁く。

 淡いピンクのドレスを纏った彼女は、歩くたびにフリルを花びらのように揺らし、その愛らしさは寒空に咲いた一輪の薔薇のようだった。


 初めての華やかな世界に、その瞳は期待でキラキラと輝いている。彼女から漂う『蒼穹のしずく』の香りが、冬の冷たい空気と混ざり合い、すれ違う人々を思わず振り返らせた。


「ええ、本当に……。でもリズ、あまりはしゃぐと転んでしまうわよ」


「大丈夫よ。だって、こんなに素敵なドレスと、頼もしい騎士様がいるんだもの!」


 リゼットはカリアンの腕をぎゅっと抱きしめ、屈託のない笑顔を見せる。カリアンは「騒がしいぞ」と短く返したが、その耳たぶはわずかに赤らんでいた。

 会場の入り口に近づくにつれ、人だかりはさらに密になっていく。

 アリアドネは、リゼットの無邪気な様子に救われる思いだった。もし一人であれば、自分に向けられる無数の視線に、今すぐ逃げ出していたかもしれない。


 石畳が終わり、磨き上げられた大理石のフロアへと足を踏み入れる。


「わぁ!なんて素敵なのー!」


 カリアンにエスコートされ、会場の中央へと進むにつれ、周囲のざわめきは一層大きくなった。

 豪奢なシャンデリアの下、着飾った貴族たちが、二人から漂うこれまでにない透明感のある香りに鼻をくすぐられ、ひそひそと囁き合っている。


「……良い香りだわ。どこか懐かしいのに、嗅いだことがない……」


「まるで冬の朝の、澄み切った空気のような……」


 その囁きは、談笑していたヴェントゥス兄弟の耳にも届いた。

 テオドールとセリアスは、高位の貴族たちに囲まれ、退屈そうに会話をこなしていたが、その香りが鼻先を掠めた瞬間、二人の動きがぴたりと止まった。


(……この匂い、どこかで……)


 テオドールはシトリンの瞳を揺らし、周囲を見渡した。

 夕闇の丘で自分を包み込んだ、あの安らぎの香り。けれど、今ここにあるのは、もっと洗練され、宝石のように磨き上げられた瑞々しい香りだ。

 隣に立つセリアスもまた、表情を微かに変えていた。

 

「……セリアス様、テオドール様? どうかなさいましたか?」


 話し掛けていた貴族が困惑したように声を掛けるが、二人は返事もせず、吸い寄せられるように一方向を見つめた。

 そこには、カリアンの左右で花のように咲き誇る、ハニーブラウンの髪の姉妹がいた。

 

 リゼットは初めての華やかな舞台に頬を染め、好奇心いっぱいに会場を見渡している。その可愛らしさは、会場中の令息たちの目を釘付けにするほど鮮烈だった。

 そしてその隣で、伏せ目がちに、けれど凛とした美しさを纏って歩くアリアドネ。


「……リズ、なんだかみんな、こっちを見ているわ」


「当然よ、アリー姉さん! 私たちの加護と香りが、最高だって証明してるのよ!」 


 リゼットは誇らしげに胸を張り、眩いほどの笑顔を周囲に振りまいている。

 一方でセリアスは、自身の心臓がかつてないほど激しく、警鐘のような音を立てて打つのを感じていた。


(……ああ、これは、ボクの負けだ)


 アリアドネが、あんなにも大胆に、無防備に肌を晒している。普段の地味な作業着からは想像もつかないほどしなやかな肌が、月明かりを映したシルクのように輝いている。そして、彼女が歩くたびに広がるのは、男の理性をじりじりと焼き切るような、甘く清涼な香り。


 「未完成」なドレスを贈れば、彼女は職人らしく、ただ必死に針を動かしてくるだろうと考えていた。けれど、彼女が導き出した答えは、セリアスの想像を遥かに超えていたのだ。 

 セリアスは、喉の奥が熱くなるのを覚える。


「……テオ。後は頼んだよ」


 セリアスは短くそう告げると、話し相手の貴族たちに背を向け、迷いのない足取りで彼女たちの元へと歩き出した。


 セリアスは、一陣の風のような速さでアリアドネの元へ辿り着いた。その瞳は獲物を捕らえた猛獣のように鋭く、隠しきれない独占欲が熱となって溢れている。


「……ヴェントゥス様?」


 アリアドネが驚きに目を見開くより早く、鉄壁の守り手であるカリアンが、一歩前に立ちはだかった。


「お久しぶりです、ヴェントゥス卿。……残念ながら、今夜の彼女たちの護衛は私が仰せつかっています。公爵家の方が、そう簡単に立ち入る隙はありませんよ」


 カリアンの群青の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。シルフィード家の長兄としての意地と、妹を守る騎士としての覚悟が、セリアスを押し留めようとする。

 だが、セリアスはそんな拒絶など意にも介さず、不敵な笑みを浮かべて一礼した。


「ああ、カリアン卿。君の忠義には敬意を表するよ。けれど……」


 セリアスはカリアンの脇をすり抜けるようにして、アリアドネの至近距離まで踏み込んだ。彼はアリアドネの露わになった背中に視線を落とし、低く、彼女だけにしか聞こえない声で囁いた。


「……困ったな。これほどまでに美しい君を、ボク以外の誰の目にも触れさせたくない」


 その言葉に含まれた熱量に、アリアドネは驚いたようにパチクリと瞬きをした。そして、不思議そうに彼を見上げる。


「ヴェントゥス様。……このドレスを贈ってくださったのは、どこのどなたでしたかしら?」


 思わぬ正論に、セリアスは言葉に詰まった。

 自分が選んだ、最高級の、そして大胆なカットのドレス。彼女の美しさを引き出し、職人としての腕を試すつもりで贈ったはずのそれが、今や自分自身の独占欲を苛む刃となって返ってきている。


 セリアスが苦笑いとも困惑ともつかない表情で押し黙ったその時、会場に華やかな舞踏曲の第一音が響き渡った。 

 

 今度はすべての人に聞こえるような、淀みない流麗な所作で、セリアスはアリアドネに向き直り、恭しく右手を差し出した。


「カリアン卿。君が盾であることは認めよう。だが、君一人では、この二輪の美しい花と同時に踊ることはできないだろう?」


 セリアスは丁寧に、そして最高の敬意を払って、アリアドネの瞳をじっと見つめる。先ほどまでの独占欲を秘めた熱は、今はアリアドネを一人前の貴婦人として扱う騎士の誠実さへと形を変えていた。


「アリアドネ・シルフィード嬢。……ボクと踊ってはくださいませんか?」


 その呼びかけは、今夜この場所で最も価値ある女性へと捧げられたものだった。アリアドネは、差し出されたセリアスの掌を見つめ、それからカリアンを、そして隣でワクワクしているリゼットを交互に見た。

 逃げ道はない。アリアドネは小さく震える手を、セリアスの手の上にそっと重ねた。


「……喜んで、ヴェントゥス様」


 二人がダンスフロアへと踏み出した瞬間、会場中の視線が、磁石に吸い寄せられるように釘付けになった。

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