風花草の糸
翌朝、アリアドネは店の開店準備に追われていた。久しぶりの魔法に、人助け。昨日の出来事を思い返すと興奮からなかなか寝付けず、今日は珍しく寝坊をしてしまったのだ。
急いでカウンターの埃を払っていたその時、カラン、と乾いた鈴の音が響いた。
頭の中にはまだぼんやりと霧がかかっている。半分夢の中にいるような、ふわふわとした意識のままアリアドネは顔を上げた。
「いらっしゃいま、せ……」
「おはよう、アリアドネさん。朝早くから済まないね」
そこに立っていたのは、いつもの涼やかな笑みを湛えたセリアスだった。差し込む朝日に照らされた彼は、眩いほどに端正で、寝不足の目には少々刺激が強すぎる。
セリアスは迷いのない足取りでカウンターに歩み寄ると、手にした漆黒の外套を恭しく差し出した。
「冬の遠征が近くてね。この外套に、君の『加護』を施してほしいんだ」
アリアドネは、促されるままにその外套を受け取った。最高級のウールで織られた、指が沈み込むような上質な生地。その重厚な感触に、思わず指先が震えた。
「……っ!」
アリアドネの意識が一気に覚醒する。
「……こんな上等な物に、私が刺繍をしてしまってもよろしいのですか?」
掠れた声で問いかけるアリアドネ。セリアスはその問いを予想していたかのように、トパーズの瞳をさらに優しく細め、カウンター越しに彼女の顔を覗き込んだ。
「何故、そう思うんだい……?」
「……王宮には、光り輝く加護を授ける高名な加護師の方が大勢いらっしゃいます。私の刺繍は、光りませんから」
自分の「光らない」刺繍が、この美しい外套に見合う物なのか。公爵家の至宝と呼ばれる彼が、なぜあえて無名の自分を選ぶのか。
その不安を率直に口にするアリアドネを、セリアスは射抜くような、けれど熱を帯びた視線で見つめ返した。
「けれど、アリアドネさんはその王宮の加護師よりも自分が劣っているなんて、微塵も思っていないよね?」
「っ……!!」
心臓を直接指で弾かれたような衝撃。図星だった。自分を卑下しているようでいて、自らの技術には誰にも負けないという矜持がある。この男は、彼女の心の奥底に隠した自信を、いとも容易く引きずり出した。
「ボクは、アリアドネさんにお願いしたいんだけど。……どうしても、駄目かな?」
至近距離で放たれた、拒絶を許さない甘く強引な響き。
アリアドネは逃げ場を失い、たまらず視線を落とした。けれど、次の瞬間には、彼女の内に眠る職人としての魂が、はっきりと言っていた。
「……お引き受けいたします。私はいつだって、自分の仕事に誇りを持ってやらせていただいていますから」
「ふふ、じゃあ決まりだね」
セリアスは満足げに、そして勝利を確信したような笑みを浮かべる。
「……それで。どのような加護が、よろしいでしょうか?」
アリアドネが真剣な眼差しで問い直すと、セリアスは試すように、とんでもない「難題」を口にした。
「そうだね。例えば――空を飛べる加護なんて……あるのかな?」
アリアドネの心臓が、大きく跳ねた。
なぜ、そのことを知っているのだろうか、探るように、眼鏡の奥からスカイブルーの瞳を向けた。しかし、セリアスは至って平然としている。
「ふふ、冗談だよ。防寒がメインで頼むよ。……ああ、代金は前払いで。伯爵領の冬の蓄えにするといい」
彼はしれっとした顔で、ずっしりと重い金貨の袋を隣に置いた。
アリアドネは少しだけ眉を下げ、困ったように微笑む。
「分かりました。最高の一着に仕上げておきますわ」
セリアスは他に、シャツと肩当ての注文を追加し、一通りの採寸と打ち合わせを終えると、満足げに頷いた。踵を返して出口へと向かうその所作はあくまで優雅で、まるでただの「上客」としての振る舞いそのものだった。
けれど、帰る間際、彼はふと足を止める。
吸い寄せられるようにアリアドネの元まで戻ると、彼は躊躇いもなく彼女の頬に手を添えた。至近距離で見つめられ、アリアドネの体が小さく震える。セリアスはその反応を慈しむように、満足げに微笑んだ。
「……そういえば。昨日は、よく眠れなかったのかな。目の下に少しクマができているよ」
「ええっと、そうですね。昨日は……少し考え事をしていて……」
「ふふ。冒険もほどほどに、ね?」
その言葉に、アリアドネの瞳が見開かれる。
セリアスはゆっくりと顔を近づけ、トパーズの瞳を細めて、獲物を捉えたかのような眼差しで彼女を見つめた。
「あれは、何の刺繍だったのかな。弟が『絶対に触らせない』って意地を張っていてね」
セリアスが楽しげに首を傾げる。その問いに、アリアドネは引き攣った笑みを浮かべるのが精一杯だった。
「な、何のことでしょうね……うふふ」
「……助かったよ。処置が早かったおかげで、跡は残らずに済みそうだ」
そう言って目を細めたセリアス。そこには、冷徹な騎士の顔ではなく、怪我をした弟を想う、柔らかな「兄」の顔があった。
初めて見る彼の無防備な一面に、アリアドネは不意を突かれたように目を奪われてしまう。
「ふふ、じゃあまた来るよ。……次は、君の『空を飛ぶ加護』を楽しみにしているからね」
不敵な、けれど最高に美しい微笑みを残し、セリアスは今度こそ店を去っていった。
カラン、と軽やかなドアベルの音が止み、一人残されたアリアドネは、一気に押し寄せた緊張感に耐えきれず、思わずカウンターに手をついた。
(……テオドールくん、弟だったのね。似ているから親類かと思っていたけれど……)
昨日の「内緒」は、わずか一晩で露呈した。
カウンターに残された、預かり物の重い外套。そこからは、彼が纏っていた冬の冷気と共に、微かに清涼感のある香りが立ち上る。
アリアドネは、自分の心臓が今まで経験したことのないほど激しく、警鐘を鳴らしているのを感じていた。
(この仕事、引き受けて良かったのかしら……。ヴェントゥス兄弟に関わると、私の静かな生活が、全部かき乱されてしまう気がする……)
頬に上った熱を冷ますように両手で押さえながらも、アリアドネの視線は、この上質な外套をどう縫い上げるか構想にふけっていた。
* * *
「準備はいい、リズ? 火加減に気をつけてね」
「任せて、アリー姉様! この『風花草』、本当にいい匂い……。なんだか、心までふんわり空に浮いちゃいそう」
店の奥にある、工房を兼ねた小さなキッチン。そこには今、抽出された風花草の芳醇で甘い香りが満ち満ちていた。
高山の断崖にのみ自生するこの花は、その性質がほとんど解明されていない。アリアドネが偶然見つけ、好奇心から糸を染めてみたことが、すべての始まりだった。
「まさか、御伽噺の『飛行魔法』がこんな形で叶うなんてね」
この抽出液で染まった糸は、周囲の魔力を効率よく浮力へと変換する特異な性質を持つ。けれど、その力はあまりに繊細で、並の加護師が縫えば魔力は定着せずに霧散し、ただの「香りのいい糸」で終わってしまう。
「魔力を一定に流しながら、色を定着させるわ。……リズ、ゆっくり、慎重にお願いね」
「分かったわ、姉様。――ねぇ、こんなにたくさんあるなら、次は私の分も縫ってもらえるかしら?」
「ふふ。リズが優秀な成績で学校を卒業できた時には、最高の一着をプレゼントするわ。さぁ、集中して……」
光さえも閉じ込めるアリアドネの超高密度な刺繍。そして、抽出液から魔力を引き出すリゼットの緻密な補助。二人の高度な魔力操作が合わさって初めて、不可能は可能へと変わる。
「……あの自信家な年下くんなら、上手に扱ってくれるでしょう」
アリアドネは、丁寧に染め上げられたばかりの水色の糸を光に透かす。
セリアスが口にした「空飛ぶ加護」という突拍子もない発想は、おそらくテオドールから当時の話を聞いたからだろう。けれど、アリアドネはその想像を超える形で、この願いを完成させたかった。
ただ浮くだけではない。風を捉え、自在に空を駆ける翼をその背に。
それは職人としての譲れない意地であり、何より、出会った時から自分を翻弄し続けるあの美しき騎士に対する、彼女なりの鮮やかな反撃のでもあった。
「……見ていなさい、年下くん。驚いて腰を抜かしても、もう知らないんだから」
不敵に笑う姉の姿に引き込まれながら、リゼットはふと思いついた名案に瞳を輝かせた。
「と、ところでアリー姉様、この抽出液の残りはどうするの?」
「そうね、もう布を染めるほどの魔力は残っていないから……以前は香石に含ませて、芳香剤代わりにしていたかしら」
「やっぱりそうよね! こんなに素敵な香りだもの。……ねぇ姉様、これをお店の新商品として売り出さない?」
なるほど、さすがリゼット。我が妹ながら恐ろしいほどの商才だと、アリアドネは感心した。職人気質な自分にはない、柔軟で逞しい発想だ。
「香水にするのはどうかしら。このままだと少し香りが強すぎるから、蒸留水で割ってみて……」
「名案だわ、リズ! 貴女に任せてもいいかしら?」
「任せて! 私だってシルフィード家のために、しっかり稼いでみせるわよ」
リゼットと楽しげに笑い合いながら、残った抽出液を丁寧に小瓶へと移していく。水色の液体が、ランプの光を反射してキラキラと揺れる。
それは後に、王都中の貴婦人たちが血眼になって探し求める「伝説の香水」となるのだが、今はまだ、静かな工房で生まれた二人だけの秘密の香り。
アリアドネは、その香りを胸一杯に吸い込み、再び針を手にした。
空を飛べる加護。そして、極寒の遠征でも彼が凍えないよう、糸の強度を上げて。
そしてあの時と同じ――戦場という極限の状態でも、彼が常に冷静に、正しく在れるよう深い「静寂」を。
一針ごとに彼女の魔力が布地に吸い込まれていく。光は放たない。けれど、その刺繍が刻まれた場所だけは、世界の理から切り離されたような、完璧な平穏が宿っていた。
アリアドネは食事も忘れ、セリアスの外套に刺繍を施していく。
構図はすでに頭の中に入っている。風花草で染めた水色の糸が、彼女の指先で魔法の軌跡を描き、漆黒の生地に溶け込んでいく。
「まったく、姉様ったら本当に楽しそうに縫うんだから」
呆れ顔で見守るリゼットの声も、今の彼女には届かない。
針を通すたびに、ふわりと甘い香りが立ち上がり、工房を優しく満たしていく。
この外套が、彼の命を守る盾となり、空を駆ける翼となる。アリアドネの指先は、夜が明けるまで止まることはなかった。




