青空色のハンカチ
しばらくの間、冬を待つアルト・リテ王国には、穏やかで透き通った時間が流れていた。
先日の騎士団への加護の仕事や、セリアス個人の報酬が入ったシルフィード伯爵領。これによって、領地はようやく安泰の冬を越えることができる。
返済すべき借金は依然として残っているものの、かつての首が回らないほどの困窮からは脱し、今年のアリアドネには久しぶりに心の余裕が生まれていた。
「今年は採取に行けそうね」
自らの手で山野を歩き、草花から「魔力を帯びた色」を抽出する染色作業は、彼女にとって欠かせない密かな楽しみの一つ。
厳しい冬がやってくる前に、氷点下の風の中でも凍らないという希少な高山植物『風花草』を摘みとり、糸染めの材料にしようと計画していた。
アリアドネは厚手のマントを深く被り、ハニーブラウンのポニーテールをその内側へと隠した。メガネは外し顔立ちを隠すように布を巻く。
一見すれば性別すら判別できない旅人のような格好だ。その肩には、自ら編み上げた大判のストール。
「……やっぱり、これは暖かいわ」
外側からは何の変哲もない普通のストールだが、内側にはアリアドネが限界まで「熱」を縫い込んだ加護が潜んでいる。標高二千メートルを超える極寒の高原にあって、彼女の周りだけは春の陽だまりのような温かさに包まれていた。
高原の斜面を歩いていると、藪の中から低いうなり声が響いた。飢えた魔獣、スノーウルフだ。けれど、アリアドネは慌てない。彼女のストールには「気配を風に溶かす」加護も縫い込まれている。
「ごめんなさいね。今日は急いでいるの」
アリアドネが静かに歩を進めると、魔獣はそこに誰もいないかのように、ふいと顔を背けて去っていった。自身の刺繍にそこまでの力があるとは夢にも思わず、彼女はただ「運が良かったわ」と胸をなでおろす。
目的の花や、見たこともない珍しい薬草を求めて、アリアドネは普段は足を踏み入れない険しい岩場の先へと進んでいた。
すると。
「――っ、やめろ……来るな!」
静寂を切り裂き、風に乗って届いたのは、鋭い叫び声だった。
アリアドネは反射的に駆け出した。岩陰を抜けた先。数体のスノーウルフが低い唸り声を上げ、一人の少年を追い詰めていた。
少年は地面に尻もちをつき、恐怖に震えながらも、折れた剣を必死に構えている。そのシルバーブルーの短い髪が乱れ、剥き出しの腕には鋭い爪痕が刻まれていた。
(ヴェントゥスくん……!?)
いや、違う。そこにいたのは、セリアスによく似た面影を持つ、もっと幼い少年だった。
「下がって!」
アリアドネは少年の前に躍り出ると、スノーウルフに両手をかざした。学園を卒業してから三年。攻撃魔法など使う機会もなく、力の加減を制御することに意識を集中させる。
「大丈夫、大丈夫。努力は裏切らないっ!」
両手から放たれたのは、力強い風の魔法。鋭い突風が荒れ狂い、半分以上のスノーウルフがその風に巻き込まれて吹き飛んでいった。
「よし、あとは……」
アリアドネはストールを大きく広げ、少年を包み込むように引き寄せた。この加護の刺繍には、物理的な干渉を跳ね返す「絶対的な防御」も組み込まれている。
「少年、逃げるよ!」
アリアドネが魔力を流し込むと、ストールは高原の風を受けて、ふわりと重力から解き放たれて宙に浮かび上がった。
「嘘だろ、飛んでる……!?」
少年は驚愕に目を見開き、自分を抱きかかえる謎の「旅人」を見上げた。
二人を浮かせるには五、六メートルが限界だ。魔獣の姿がないか見張りながら、アリアドネは少年を抱える腕に力を込める。
「おい、ちょっと……」
花の香りだろうか、腕の中から漂う甘い香りに包まれ、少年は顔を真っ赤にする。しかし、周囲の警戒に必死なアリアドネは、その初々しい反応に気づく余裕はなかった。
しばらく山を下り、周囲の安全を確認して、二人は静かに地上へと降り立った。
「……良かった、無事に逃げ切れた」
アリアドネは安堵の息をつき、少年の怪我を確認しようと彼の方へ向き直る。
「さぁ、怪我の様子を見せて」
「あ、あぁ……」
「これは、さっきのシルバーウルフに引っかかれた傷だね」
アリアドネは手持ちの水で、少年の腕に付着した泥と血を丁寧に洗い流していく。
「うっ……!」
「しみるよね。でも、放っておくと跡が残ってしまうから。我慢して、しっかり洗い流すよ」
アリアドネは手際よく洗浄を終えると、清潔な軟膏を塗り込み、自身のスカイブルーのハンカチを取り出した。そこには、細かな幾何学模様が施されている。
「嘘だろ……」
そのハンカチを少年の腕に巻くと、彼は不思議なものを見るように、自分の腕を凝視した。
包まれた瞬間、傷口から不気味な熱が引き、代わりに春の陽だまりのような温かさが全身に広がっていく。そして、あんなに疼いていた痛みが、嘘のように消え去った。
「……あんた、何なんだよ。魔法はともかく、その布……」
彼は自分の腕を、そして肩にかけられたストールの裾を、震える指で掴んだ。
「ただの、刺繍を施した布だよ」
アリアドネは当然のように、ストールに付いた土を軽く払った。少年は信じられないといった様子で、その地味な布とアリアドネの瞳を交互に見つめている。
「刺繍した布……? まさか、聖女たちの加護だって、あんな風には……」
少年はハッとしたように口をつむぐ。誰かと比較されることに、彼はひどく敏感だった。
アリアドネはその少年のシトリン色の瞳に宿る陰りに覚えがある。かつて、優秀な友人たちの中で「自分は何者でもない」と、光らない自分の刺繍を見つめて悩んでいた、あの頃の自分に。
「悪い……。比較するものじゃないな。あんたのおかげで助かった」
アリアドネは少年の前にしゃがみこんで、視線を合わせた。
「君が最後まで剣を離さなかったから、布に込めた私の『願い』が届いたよ。とても勇敢だったね」
「……っ!」
少年は、燃えるように顔を真っ赤にして視線を逸らした。
今まで、誰からも自分自身を認めてもらえたことなどなかった。自身でさえも、常に誰かの影を追い、己を否定し続けてきたのだ。ましてや、一人の騎士として「勇敢だ」なんて言われたことは、これまで一度もなかった。
「名前……テオドールだ」
「私は……うん。名乗るほどの者ではないよ。君が無事で、本当に良かった」
アリアドネは優しく微笑むと、彼の背中をそっと促した。
「さあ、暗くなる前に帰ろう。ご家族が心配している」
テオドールは、魔法にかけられたかのようにアリアドネの後に続いた。
検問所が見える丘まで送り届けると、夕闇が迫る中、アリアドネは足を止めた。
「もう大丈夫。……どうか、このことは内緒にしてくれるかな?」
人差し指を唇に当てるアリアドネ。テオドールは顔を赤くし、ぶっきらぼうに頷いた。
「……わかったよ。言わない。あと、このハンカチ……」
「あぁ、そのハンカチは捨ててしまって構わないよ」
身なりから察するに、テオドールは高貴な家の者だろう。身分違いの物を渡してしまった申し訳なさを感じ、アリアドネはそう付け加えた。
何か言いたげな瞳でこちらをじっと見つめるテオドール。その迷える少年のシトリン(黄水晶)を思わせる瞳に、アリアドネは最後にこう告げた。
「急がないこと。……地道に糸を紡ぐような時間が、いつか貴方の真実の力になる。物事には、その時にしか通れない『順序』があるから」
その言葉は、かつて魔法学校を主席で卒業しながらも、人知れず地道な努力を重ね、自分だけの「答え」を見つけたアリアドネだからこそ言える、魂の言葉だった。
テオドールはその言葉を噛みしめるように、小さく、けれど一度だけ力強く頷いた。
「……頑張って」
アリアドネは彼の背中を軽く押し、自分は反対側の細い道へと身を隠す。
数分後。検問所の前で弟を保護したセリアスは、テオドールの無事を確認して、ようやく肺に溜まった冷たい空気を吐き出した。
「テオ……! 一人で外に出るなんて、ボクを本気で怒らせたいのかい?」
いつもの余裕ある微笑みは消え、トパーズ色の瞳には冷徹な怒りが宿っていた。テオドールは珍しく素直に頭を下げる。
「心配かけて、ごめん」
その言葉に驚きながらも、セリアスの視線は弟の腕に巻かれた刺繍入りのハンカチに止まった。
空の青を切り取ったような、一見どこにでもあるような布。
(この魔力の感覚は。……まさか)
セリアスの口角が、ゆっくりと歪な形に上がっていく。弟を救った「誰か」の正体を、疑いながらも確信を得ようとする。
「へぇ……。テオ、その人はどっちへ行ったか覚えているかな?」
「……言わない。約束だから」
テオドールは指先でそっとハンカチに触れると、真っ直ぐ前を見据えて歩き出す。
その背中を、セリアスは愛おしそうに見つめた。
無鉄砲な行動は、天才と称えられる兄への焦りだろうか。それとも、ただ純粋な正義感だろうか。どちらにせよ、自分を追い越そうと背伸びをする弟の姿は、セリアスにとって何よりも守るべき大切なものだった。
「さぁ、早く帰って傷の手当てをしよう」
テオドールは、いつになく素直に頷く。
(……ふふ。きっと、早くボクに追いつきたいんだろうね)
セリアスの口角が、今度は兄としての優しい形に緩んだ。
だが、その視線は再び、弟の腕に巻かれたハンカチへと落とされる。そこにあるのは、光を閉じ込めたような深い静寂を纏う刺繍。
(けれどテオ。君を助け、その心を一瞬で奪った相手だけは……例え君でも、譲るわけにはいかないな)
トパーズの瞳が、一瞬だけ鋭利な光を宿す。
アリアドネのその指先が紡ぎ出す魔法の価値を、自分は弟以上に深く、恐ろしいほど正確に理解してしまっている。
夕闇の中、セリアスはアリアドネの店がある方角をじっと見つめ、静かに、けれど深く目を細めた。
ふいに、冬の冷たい風に乗って、かすかな花の香りが届いた気がした。




