女神の加護
「……どんな加護をご希望ですか?」
アリアドネは震えそうになる指先を隠すように、針と糸を構えた。至近距離に座るセリアスの体温が、カウンター越しに伝わってくる。彼は頬杖をつき、アリアドネの指先を、まるで宝石でも鑑定するかのような熱烈な視線で見つめていた。
「そうだな……。城の聖女たちは、大抵『守り』の加護を刺繍するよ。ボクに傷一つ負わせないようにね」
セリアスがふっと、自嘲気味に、そしてどこか呆れたように言う。
「君は何がいいと思う? ボクに相応しいのは」
(……近すぎるわよ、年下くん!)
アリアドネは心の中で叫んだ。彼の長い睫毛が瞬くのさえはっきりと見える距離。普通ならその美しさに気圧される所だが、試されていこの状況に奇妙な闘争心が芽生える。
(……絶対に、この生意気な年下くんに負けたくないわ)
「――では、私の独断で縫わせていただきますが、よろしいでしょうか?」
「もちろん。アリアドネさんの感性を信じているよ」
アリアドネの瞳に、職人としての鋭い光が宿った。
彼女の指が、目にも止まらぬ速さで動き始める。糸が空気を裂く微かな音だけが店内に響く。それは、セリアスが今まで見てきた聖女たちの、祈りを捧げるような優雅な手つきとは一線を画すものだった。
無駄を極限まで削ぎ落とし、純粋な魔力回路を布の上に定着させていく「魔導構築」そのもの。
数分後。
スカーフの端に、緻密で複雑な幾何学模様が浮かび上がった。
世に溢れる加護のように光り輝くことはない。けれど、その刺繍は見る角度によって、深い森の奥にある静かな水面のように、吸い込まれるような深みを帯びていた。
「……これは?」
セリアスが、初めて余裕を崩してその刺繍を見つめた。知識に長けた彼でさえ、これほどまでに洗練され、かつ未知の術式が組み込まれた刺繍は見たことがなかった。
「もちろん、最低限の『守り』は込めてあります」
アリアドネは額の汗を拭い、挑発的に少しだけ顎を上げた。
「ですが、一番の願いは……ヴェントゥス様が、曇りなき素直な心で、物事の真実を見極められますように。そのための『静寂』を縫い込みました」
そんな皮肉を込めた言葉に、セリアスは一瞬だけ呆然と目を見開き、やがて低く笑い出した。
「素直に、か……。君は本当に、ボクを負かしたくてたまらないんだね」
セリアスはスカーフを手に取り、そこに込められたアリアドネの「熱」を確かめるように、指でなぞった。
その瞬間、彼の瞳がわずかに見開かれた。
アリアドネが縫い込んだ『静寂』の加護が、彼の鋭すぎる五感を優しく鎮め、濁り一つない思考を頭の中にもたらす。あまりに心地よく、透き通った感覚。
「……っ」
これまでにないほど澄み渡った意識のまま、セリアスは目の前のアリアドネを真っ直ぐに見つめた。
先ほどまでの揶揄からかうような余裕や、打算的な策略はすべて消えている。ただ、自分を負かそうと頬を赤らめ、自信満々に顎を上げた彼女の、凛とした美しさだけが網膜に焼き付いていた。
ドクン、と心臓が大きな音を立てる。
瞬く間に、セリアスの端正な顔が耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。普段なら完璧に隠し通すはずの動揺が、素直になった心を通じて、隠しようもなく表に溢れ出してしまった。
「ヴェントゥス様……?」
「……っ、……素直に、なりすぎだ」
セリアスは吐き捨てるようにそう呟くと、逃げるようにスカーフを掴んで立ち上がった。
アリアドネの言葉通り、曇りのない心で彼女を見つめた結果、自分でも制御できないほどの「熱」を自覚させられてしまったのだ。
「今日は、もう帰るよ!」
いつもの優雅な所作はどこへやら、彼は一度も振り返ることなく、早足で店を飛び出していった。
カランカラン、と激しく鳴るドアベルの余韻だけが、静かになった店内に響いていた。
「……え? あんなに真っ赤になって、どうしたのかしら」
アリアドネは、彼が座っていた椅子を呆然と見つめた。
あんなに不敵に笑い、余裕たっぷりに自分を翻弄していたはずの「王国の至宝」が、まるで熱を出した子どものような顔をして逃げ帰ってしまった。
(私の縫った『静寂』が、何か悪い影響でも与えたのかしら……)
頭をフル回転させ、術式に間違いがなかったか脳内で反芻する。
『静寂』の加護は、余計な雑念を払い、心の鏡を曇りなく磨き上げるもの。決して、顔を真っ赤にさせるような攻撃的な効果はない。
(思考がクリアになれば、もっと冷静に、もっと冷徹に私を論破してくると思ったのに)
アリアドネにとって、あの術式は「生意気な彼を黙らせる」ための、いわば職人としての宣戦布告だった。しかし、結果として現れたのは、あの無防備で、壊れそうなほど純粋な狼狽。
「……まあ、勝ったのは私よね」
ふふ、とアリアドネは小さく勝利の笑みを漏らした。
あの余裕を崩せたのだ。職人として、彼の一枚上手を行けたという喜び。
けれど、その喜びのすぐ隣で、先ほどの彼の熱い視線が脳裏に張り付いて離れない。
「素直になりすぎだ、なんて……変な至宝くん」
彼が何に対して「素直」になった結果、あんなに赤くなったのか。
魔法の真理は解き明かせても、年下の騎士が抱いた「無自覚な恋心」という真実までは、鈍感な天才針子にはまだ、到底読み解くことはできなかった。
* * *
数日後、お店の定休日。アリアドネは、王宮事務官として働く兄のカリアンを頼り、王立図書館へと足を運んでいた。
カリアンは眼鏡の奥の瞳を和らげ、「アリー、あまり根を詰めすぎるなよ」と言いながら、特別閲覧室の重い鍵を貸してくれた。
「……何だか、懐かしいわね」
魔法学校時代、よく兄にお願いをして朝から晩まで入り浸っていた。アリアドネにとって、ここはかつての学び舎のような場所だ。
目的は、『静寂』の術式が人体に与える副作用だ。
「……精神の安定が、過剰な赤面を引き起こすなんて例、どこにもないわ。私の計算に間違いがあったのかしら」
眉間に皺を寄せ、難しい顔で分厚い魔導書をめくる。その時、ふわりと、雨上がりの森のような清涼な香りが鼻を掠めた。
「熱心だね。一人で勉強会かな?」
聞き紛えるはずのない、低く心地よい声。
アリアドネが弾かれたように顔を上げると、そこには書架に背を預け、こちらを興味深そうに眺めるセリアスの姿があった。
「ヴェントゥス様。……なぜここに」
「ボクも少し調べ物があってね。アリアドネさんこそ、何をそんなに険しい顔で読み耽っているんだい?」
セリアスは歩み寄り、机に広げられた『感情と魔力の因果律』というタイトルの本を覗き込んだ。その首元には、あの日アリアドネが手渡した、あの純白のスカーフが巻かれている。
「……あ。それ、使ってくださっているんですね」
「ああ、これかい? 驚くほど頭が冴えるんだ。あまりに視界がクリアになりすぎて、少し困っているくらいだよ」
彼はスカーフの端を指先でなぞりながら、少しだけ苦笑した。
あの日、顔を真っ赤にして逃げ帰った動揺は微塵も感じられない。いつもの、完璧な「王国の至宝」としての彼だ。
けれど、アリアドネは気づかなかった。
彼が今、この静かな図書館で、なぜこれほどまで距離を詰めて立っているのか。
「それで? アリアドネさんは、ボクの体にどんな『異常』が起きたと予想しているのかな?」
セリアスはアリアドネの耳元で、試すように低く囁いた。
「……分からないの。どの本を読んでも、あんな風に赤くなるような副作用なんて、どこにも書いていなくて……」
アリアドネが本気で困ったように眉を下げると、セリアスは耐えきれないといった様子で、ふふ、と声を含んで微笑んだ。
「そういえば、今日は眼鏡をしていないんだね。スカイブルーの瞳がいつもより輝いて見える」
「えぇ。私の師匠から、刺繍をする時だけは眼鏡をするように言われ……。って、そんなことはどうでもいいわ。ヴェントゥス様、貴方の体の具合は……」
「知りたい?」
セリアスがアリアドネの言葉を遮って告げながら、一歩近づく。
「本当に分からないかな」
もう一歩。
セリアスの瞳から目が離せない。彼の手が伸びてきて、アリアドネは反射的に身を引いて避けてしまった。
「……」
「……」
落ちた沈黙。セリアスは数秒、自分の空振った手を見つめていたが、やがて可笑しそうに笑い出した。
「初めてだよ。弟以外にこうやって避けられたのは」
その笑みはいつもの余裕を含んでいたが、瞳の奥には今まで見たことのない熱が灯っていた。アリアドネがその熱の正体に戸惑った、その時。
「アリー、いるかい?」
室の扉を開けて入ってきたカリアンが、二人の距離の近さに一瞬で表情を凍りつかせた。彼は冷徹な足取りで間に割り込むと、セリアスを鋭く射抜いた。
「……騎士団の『至宝』殿が、こんな場所で私の妹に何か御用ですか?」
カリアンの背中に隠されるようにして、アリアドネはホッと息をついた。けれど、セリアスは引き下がらない。彼は首元のスカーフを指先で弄りながら、カリアンの「兄」としての振る舞いを興味深そうに眺めている。
「これはカリアン殿。いえ、アリアドネさんに少し、個人的な依頼の相談をしていただけですよ」
セリアスは余裕の笑みを崩さないが、そのトパーズの瞳は、アリアドネを「妹」と呼んだカリアンの存在を冷ややかに品定めしていた。
「お得意様ではなく、貴方はお兄様……だったのですね?」
「ええ、それが何か? ……行こうか、アリー。ここは少し、空気が悪いようだ」
カリアンはアリアドネの肩を抱くようにして、セリアスから引き離した。アリアドネは戸惑いながらも、セリアスに小さく会釈をして部屋を出る。
廊下を歩きながら、アリアドネは隣の兄に申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんなさい、カル兄様。お仕事中なのに。……でも、来てくれて助かったわ」
「……アリー。あの男にあまり深入りするんじゃない。あの一族は、欲しいもののために手段を選ばないことで有名だ」
図書館の長い廊下を歩きながら、カリアンが戒めるように言った。その声には冷静さと、妹を案じる兄としての切実さが混ざり合っている。
「大丈夫よ。守られるだけだった、あの頃の私じゃないわ。カル兄様がいて、私やリズも、あのお店もあるもの」
「そうだな……」
カルアンは柔らかい視線をアリアドネに向け、肩に回した腕にそっと力を込めた。
一方、静まり返った閲覧室。
セリアスは一人、二人が去った扉をじっと見つめ、首元のスカーフを無意識に強く握りしめた。
「……あんな視線を送っておいて、『兄弟』ね」
カルアンが去り際にアリアドネへ向けていた、過保護な守護欲と、それ以上に深い独占欲の混ざった眼差し。同じ目的を持つセリアスが、それに気づかないはずがなかった。
不快な苛立ちが胸を焼く。けれど同時に、頭の中は驚くほど冴え渡っていた。
「困ったな……このスカーフ、効果が抜群だね。認めるよ。君は聖女さえも超える、女神の加護師だ」
澄み渡った思考の中で、セリアスは自分の中に芽生えた新たな想いを噛み締める。
アリアドネの指先が紡いだ『静寂』。皮肉にもその加護が、セリアスの内に潜む執着という名の猛獣を、より鮮明に、より冷酷に目覚めさせてしまった。




