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報酬とお誘い


「――勝ったみたいだね。騎士団が戻ってきた」


 王都に響き渡る高らかな鐘の音。アリアドネは、店の入り口で横に立つ兄、カリアン・シルフィードと共にその音を聴いていた。


 カリアンは城勤めの事務官だが、人手不足のため後方支援へと駆り出され、散々な目に遭って戻ってきたばかりだ。

 夜の闇を溶かしたような黒髪は乱れ、銀縁の眼鏡の奥にある群青の瞳には、激務による疲労の色が濃い。


 彼の肩にかけられたマントは無残に裂け、アリアドネはそれを「おまけ」の加護と共に、つい先ほど縫い直してあげたところだった。


「助かったよ、アリー。裂けた跡なんて全く分からない! 相変わらず丁寧で……なんだか袖を通すと、体が軽くなる気がする」


 嬉しそうにマントを翻す兄、カリアンの笑顔。妹に向けられる、あたたかい眼差し。アリアドネは少し照れくさそうに、ずり落ちたメガネを指で押し上げた。


「……大げさよ、カル兄様。ただの綻び縫いだもの」


「いや、アリーの刺繍は特別さ。城の連中が自慢する派手な加護より、俺はこっちの方がずっと落ち着く。……おっと、もう戻らなきゃ」


 カリアンは妹の頭を優しく撫で、穏やかに微笑んだ。そこへ、涼やかな、けれど場を制圧するような足音が近づいてくる。


「……おや、先客がいたようだね。失礼、昨日の報酬を持ってきたんだ」


 現れたのは、先日嵐のように去っていった青年だった。彼はカウンターにずしりと重い革袋を置いたが、そのトパーズ色の瞳は、アリアドネのすぐ隣に立つカリアンを鋭く射抜いた。


「あの、こんなにいただくわけには……」


 アリアドネの言葉は青年には届いていない、彼はセドリックの持つマントに集中している。

 騎士たちの装備は、他の聖女たちの手によって縫われたばかりで、金色の魔力の残光を放っている。魔力に反応して、呼吸するように明滅する光。それがこの国の「当たり前」だ。


 けれど、アリアドネが今しがた縫い終えたばかりの、この男のマントはどうだ。

 いっさい、光っていない。

 それなのに、昨日自分が感じたのと同じ、底知れない「密度」がそこにはあった。青年は微笑を崩さないまま、喉の奥で小さく笑った。やっぱり、彼女は面白い。


「アリー、いつもありがとう」


 青年の射貫くような視線。それを受け流し、カリアンは「余裕の笑み」で応えた。

 愛する妹に変な虫がつかないように。牽制を込め、わざとアリアドネのポニーテールのひと房を手に取り、その先へ優しく唇を落とす。

 アリアドネは、兄のいつものスキンシップに気にする様子はない。

 青年の目が見開かれた。それを確認し、カリアンはさらに微笑みを見せる。


「……じゃあ、またね」


 軽やかな足取りで去っていく背中。セリアスはその姿が見えなくなるまで、音もなく凝視し続けていた。


「……随分、親密な関係なんだね」


「ええ、まぁ……。それよりも、お金もらいすぎです!」


 アリアドネの曖昧な返答に、青年はフッと目を細めた。底の知れない、冬の風のような微笑。


 何かを考え込むように顎に手を当て、やがて顔を上げたその表情には、爽やかな、けれど有無を言わせない覇気が宿っている。


「あぁ、それは受け取って欲しい。正規の価格だよ。そういえば、自己紹介がまだだったね。ボクはセリアス・ヴェントゥス」


「ヴェントゥス家……って、公爵の」


「そう。ところで、アリアドネさん、貴女のことを少し調べさせてもらったよ」


 至近距離まで顔を近づけるセリアス。眼鏡の奥、戸惑いに揺れるスカイブルーの瞳を逃がさない。


「シルフィード伯爵家の長女。国立魔法学校を主席に近い成績で卒業しながら、今は家を支えるために、この小さな仕立て屋で針を動かしている」


「……それが、何か?」


 過去を暴かれた不快感から、アリアドネの内に小さな警戒心が芽生える。けれどセリアスは気にする様子はなく、むしろ面白そうに微笑んでいる。


「ボクの屋敷に来て、専属の加護師にならないかい? 公爵家の名に懸けて、シルフィード家を立て直すと約束しよう」


 ヴェントゥス公爵家。その誘いに乗れば、貧乏伯爵家の再興は造作もないこと。だが、アリアドネの表情は晴れなかった。


「……申し訳ありません。お断りさせていただきます」


「なぜ? 条件が不満かな?」


「この店は大事な方から譲り受けた場所です。それに、誰かに縛られず自由に縫うのが、私には合っていますから」


 セリアスの瞳に、容易には納得しがたい色が過る。けれど彼は、一つ静かに溜息を漏らすと、椅子から立ち上がった。


「もう行かなきゃ。……でも、ボク、君のことがすごく気になっているよ。またすぐ来るから」


 反論する隙も与えず、セリアスは風のように店を去っていった。

 残されたのは、山積みの金貨と、いつまでも収まらない胸の高鳴りだった。



* * *



「――アリー姉さん、ばっかじゃないの!? どうしてすぐに受けなかったのよ、そのお話!」


 静まり返っていた店内に、絹を裂くような鋭い声。放課後に遊びに来た妹のリゼットが、差し出されたお茶にも手をつけず、カウンターを叩いて身を乗り出した。二つに結えた、アリアドネと同じ色のハニーブラウンの髪が激しく揺れる。


「こら、言葉が悪いわよリズ」


「もぅ、だってセリアス様よ、セリアス様!! 国中の女性の憧れ、王国の至宝、セ・リ・ア・ス・様!!」


 一文字ずつ区切るように、鼻息荒くまくしたてる妹。対照的に、アリアドネは困ったように眉を下げ、ずり落ちたメガネを指先で直す。


「分かった、分かったってばリズ。少し落ち着いて。お茶が冷めてしまうわ」


「落ち着いていられるわけないじゃない! あのヴェントゥス家の次期当主候補よ? 十八にして騎士団の期待を一身に背負う、生ける伝説よ? 姉さんの刺繍の価値を認めてくれたっていうのに、それを断るなんて……あぁ、もったいなさすぎて頭が痛いわ!」


 リゼットは仰々しく額を押さえ、椅子に深く沈み込んだ。


「あの方の瞳を見た? あのトパーズの瞳に射抜かれたら、普通の女の子なら気絶しちゃうんだから。そんな方が、わざわざここに足を運んでくれたのよ」


「……あの方は、ただ仕事が早かったから気に入っただけだと思うの。それに、専属になったらカル兄様の服も、こうしてリズにお茶を出す時間もなくなってしまうわ」


「そんなの、あの方の専属になれば何だって思いのままよ! アリー姉さんの結婚だって……。貧乏伯爵家を救う白馬の王子様だったかもしれないのに……」


 リゼットは恨めしそうに姉を睨むと、ようやく冷めかけたお茶を一口飲んだ。けれど、その頬はまだ怒りでぷっくりと膨らんでいる。


「姉さんはいつもそう。家族のことばっかり……家の借金のことだって」


 リゼットの声が沈む。


「家のことは、リズが気にすることじゃないわ。それにね、知っているでしょう? 私、頼りがいのある年上が好みなの」


 困り顔で妹を宥めていた、その時だった。


「――年下も、悪くないと思うよ」


 鈴の音のように涼やかな、けれど場を完全に支配する声。

 開け放たれたままの扉から、逆光を背負って一人の青年が立っていた。セリアス・ヴェントゥス。トパーズの瞳を細め、昨日と変わらぬ不敵な微笑を浮かべている。


「……ッ!!」


 さっきまで威勢よく喋っていたリゼットの動きが、ピタリと止まる。憧れの「王国の至宝」が目の前に現れた衝撃。彼女の顔はみるみるうちに沸騰したように真っ赤に染まり、手に持っていたティーカップをカタカタと震わせた。


「やぁ、今日は可愛らしいレディーがお客様なんだね」


「え、えっと、私、アリアドネ姉様の妹のリゼットと申します……っ」


 セリアスは優雅な所作でリゼットの前に立つと、少しだけ腰を落として視線を合わせる。至近距離で見つめられたリゼットは、もはや呼吸の仕方も忘れたように硬直していた。


「……うん、お姉さんに似て可愛いね」


「ひ、あ、あ……っ」


 甘く囁かれたリゼットが、今にも卒倒しそうなほど激しく動揺する。その様子を見て、アリアドネは咄嗟に妹の前に立ちはだかり、セリアスを遮るように手を広げた。


「ヴェントゥス様、妹をこれ以上からかうのはお止めください」


「からかっているつもりはないよ。本心さ」


 セリアスは不敵な笑みを深め、アリアドネを見つめる。その瞳の奥には、昨日よりもさらに深い執着が静かに燃えていた。


「それよりアリアドネさん。さっきの話、聞こえてしまったけれど……『年上が好み』なんだって? 残念だな、ボクは君より三つも年下だ。でも――」


 セリアスは一歩、アリアドネとの距離を詰める。風の匂いが、鼻先をかすめた。


「ボクは、欲しいと思ったものは必ず手に入れる。たとえ、どれほど時間がかかったとしてもね」


 静かな、けれど逃げ場を許さない言葉。

 その場の空気に耐えきれなくなったリゼットは、「お、お邪魔しました……!」と、逃げるように店を後にした。残されたのは、カウンターを挟んで対峙する二人だけ。


「……ヴェントゥス様、本題は何でしょうか?」


 アリアドネが努めて事務的な声で尋ねると、セリアスはカウンターの椅子にゆったりと腰を下ろした。トパーズの瞳が、彼女の表情の微かな揺れすら見逃さないと言わんばかりに、じっと彼女を見つめる。


「今日は、もう一度加護の刺繍をしてもらいたいんだ。先日はゆっくり見られなかったからね。……これ、前払いで」


 彼はそう言って、指先で銀貨を二枚、滑らせるように出した。

 一枚でも庶民が一ヶ月暮らせるほどの価値がある銀貨。それが二枚。


「……っ、もらいすぎです! 刺繍一つに、こんな大金は受け取れません」


「いや、正当な対価だよ。ボクが納得して払うと言っているんだ」


 セリアスは反対意見を封じ込めるように微笑むと、懐から一枚の布を取り出した。


「これに、縫ってもらえるかな?」


 彼が差し出したのは、騎士団の正装の一部である純白のスカーフだった。


「君の、あの『光らない加護』を。――今、ボクの目の前で」


 ただの依頼ではない。

 セリアスは、アリアドネが魔法を使わずに「奇跡」を縫い上げるその瞬間を、一寸の狂いもなく観察しようとしていた。

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