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エシュリオン・アルト・リテ

 三日後。店の前には、一般の貴族が使うものとは一線を画す、ヴェントゥス公爵家の紋章が刻まれた漆黒の馬車が停まっていた。

 迎えに来たセリアスは、軍服に身を包み、見惚れるほどに残酷な美しさを放っている。


「準備はいいかい、アリアドネさん。……まだ震えているかな?」


 差し出された手を取ると、手袋越しでも伝わる熱に心臓が跳ねる。アリアドネは、あの日師匠に念を押された銀縁の眼鏡を指で押し上げ、小さく、けれど毅然と頷いた。


「……いいえ。行きますわ、ヴェントゥス様」


 馬車が王宮へ向けて滑り出す。車内の沈黙を破ったのは、セリアスの低い囁きだった。


「着てくれたんだね、……うん。よく似合ってる」


 セリアスの視線が、熱を帯びてアリアドネの全身をなぞる。

 今回彼が贈ってきたのは、アリアドネのスカイブルーの瞳と溶け合うような、澄み切った青のドレスだった。上質な絹の光沢は、馬車の中に差し込む冬の柔らかな陽光を受けて、まるで雪原に反射する空の色のように美しく揺らめいている。

 そして、アリアドネの耳元には、彼から贈られた氷晶石のピアスが静かに、けれど確かに存在感を放っていた。

 青いドレスの色調と呼応するように、石の奥底で蒼い魔力が脈打っている。セリアスは満足げに口角を上げた。


「……ピアスも、つけてくれているんだね」


 彼の手が伸び、アリアドネの頬をかすめて、そっと耳たぶに触れた。

 指先の熱と、石の冷たさ。そのコントラストに、アリアドネは思わず肩を震わせる。


「ヴェントゥス様、このような高価なものを……。お返しできるものが、私にはありませんわ」


 アリアドネが困惑したように俯くと、セリアスはふっと目を細め、彼女の頬に手を添える。


「お返しなんていらない。ボクの選んだ色に染まった君を見られるだけで、十分すぎるほどの対価だよ。……それに、今日の君は王宮の誰よりも気高くなくてはならない」


 彼の瞳の奥で、独占欲が圧を増していくのをアリアドネは肌で感じた。


 王宮の玄関口に馬車が止まると、セリアスは先に降りて、恭しくアリアドネに手を差し出す。

 周囲の貴族たちが、「氷の公爵」がこれほどまでに丁重に扱う女性は何者かと、息を呑んで見守っていた。

 アリアドネは緊張で指先が冷たくなるのを感じたが、耳元の氷晶石のピアスが、彼から流れてくる魔力に呼応して、静かに、けれど力強く拍動する。


「……行きましょう、ヴェントゥス様」


 銀縁メガネの奥で、アリアドネの瞳に「職人」としての火が灯る。

 自信を信じてくれる家族、導いてくれた師匠、そして今、隣で誰よりも強く自分を求めているこの男のために。

 二人が大階段を上り始めたその時、ホールの奥から「エシュリオン殿下、お成り!」という声が響き渡った。


「……改めまして。僕の名前はエシュリオン・アルト・リテ。この国の第一王子だよ」


 エシュリオンは、グリーンの瞳を輝かせ、大人びた仕草でアリアドネを迎え入れた。あまりの衝撃に、アリアドネは一瞬息を呑み、慌ててその場に跪いた。


「ま、まさか王族の方だったなんて……露知らず、多大なるご無礼を働きました。どうかお許しください!」


 瞳を泳がせるアリアドネを見て、エシュリオンはくすくすと楽しそうに笑った。


「気にしないで。……それにね、実は嬉しかったんだ。僕の身分を知らないのに、僕のためを思って優しくしてくれたことが」


 エシュリオンはアリアドネに立つよう促すと、少しだけ表情を引き締め、真剣な眼差しを向けた。


「ところで、実は相談があってアリアドネさんをここに連れてきたんだ。……僕の母様のことでね」


「お母様とは……王妃様のことでございますか?」


 アリアドネの声がわずかに震える。慈愛の象徴と名高い王妃。そんな高貴な方の相談など、市井の加護師である自分には荷が重すぎると本能が告げていた。


「そう。母様は、僕を産んでからずっと体が弱くて、冬になると特にひどくなるんだ。宮廷加護師たちが代わる代わる最高級の防寒具を作っているけれど……母様はいつも『魔力の重みで胸が苦しい』って言って、すぐに脱いでしまうんだよ」


 エシュリオンは寂しげにグリーンの瞳を伏せた。


「母様を救いたい。でも、重い加護は母様を苦しめる。……そんな時、お姉さんのあのボタンを思い出したんだ。あんなに軽くて、あんなに温かい魔法は初めてだった。お姉さんなら、母様を苦しめずに温めてあげられるんじゃないかな?」


 少年の切実な願いが、アリアドネの胸を突く。

 魔力の強さで強引に温めるのではない。着る者の負担にならない、極限まで軽く、けれど深い『安らぎ』を伴う加護。それは、アリアドネが師匠の元で磨き続けてきた、技術の一つだ。


「……王妃様のために、私が……」


 アリアドネは、自覚のないまま熱を帯び始めた自分の指先をそっと握りしめた。その瞬間、背後から冷徹な、けれど熱い視線が彼女を射抜く。


「……アリアドネさん。王妃様の加護を縫うということは、成功すれば最大級の栄誉だが、もし失敗すれば、君の経歴に一生消えない汚点が残ってしまうよ。……君に、その覚悟はあるかい?」


 セリアスのトパーズ色の瞳が、試すように、そして彼女の真意を引き出すように鋭く光った。

 一瞬、不安がアリアドネの背中を駆け抜ける。王宮という巨大な重圧。失敗への恐怖。だが、彼女の指先は、耳元で静かに拍動する「氷晶石のピアス」へと吸い寄せられるように伸びた。


 冷たい石に触れた瞬間、セリアスの魔力が彼女の指先に流れ込み、驚くほど静かに心を整えていく。

 アリアドネはゆっくりと、逃げることなくセリアスの瞳をまっすぐに見つめ返した。銀縁メガネの奥で、職人としての誇りが火を灯す。


「……お引き受けします。王妃様を、私の針で温めて差し上げたい。……いえ、必ず温めてみせますわ」


 セリアスは、アリアドネの揺るぎない眼差しを確認すると、ふっと満足げに口角を上げた。


「……いいだろう。なら、案内しよう。エシュリオン王子、よろしいですね?」


「うん! お姉さん、ありがとう。母様もきっと喜んでくれるよ」


 三人は静まり返った王宮の回廊を進み、最奥にある『白百合の間』へと向かった。重厚な扉を護衛が開き、中へ足を踏み入れると、そこには冬の淡い陽光が差し込む寝台で、身体を横たえている美しい女性がいた。

 アルト・リテ王国の母、イザベラ王妃だ。その肌は透き通るように白く、呼吸のひとつひとつがひどく頼りなく見える。


「母様、連れてきたよ。僕が話していた、星の精霊のお姉さんだ」


 王妃がゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳は王子と同じ、穏やかなグリーンだった。


「……あなたが、エシュリオンの言っていた……。ふふ、本当に、澄んだ空のような瞳をしているのね」


 王妃が弱々しく手を差し出す。アリアドネはその傍らに跪き、細い手をそっと両手で包み込んだ。

 指先から伝わる王妃の肌は、驚くほど冷え切っている。だが、その上には宮廷加護師たちが競って作ったであろう、豪華な毛布が何枚も重ねられている。


「……失礼いたします、王妃様。……少し、拝見しますね」


 アリアドネが毛布に触れた瞬間、彼女の眉がわずかに動いた。

 銀縁メガネの奥で、職人の鋭い感覚が光る。この毛布に込められた加護は、あまりに強固で、暴力的なまでに重い。防寒という目的のために魔力を注ぎ込みすぎた結果、繊細な王妃の身体にとっては、まるで鋼鉄の鎧を着せられているような圧迫感を与えていた。


「……苦しかったですね。これでは、お心が休まる暇もありませんわ」


 アリアドネは、迷いのない手つきで重厚な毛布を一枚、また一枚と横へ避けていった。


「……身の程知らずな申し出とは存じますが、しばらくこちらを」


 アリアドネは自身の肩にふわりと纏っていた、柔らかな生成色のストールを手に取った。縁には繊細な「温もりの加護」が、目立たないほど細かな刺繍で施されている。

 彼女は跪き、そのストールをイザベラの膝下へとそっと掛けた。


「……あら」


 イザベラが小さく声を漏らす。ストールから穏やかで深い安らぎが広がっていくのを感じたからだ。


「どうするつもりなの?」


「エシュリオン殿下、加護は『強さ』ではなく『調和』なのです。王妃様には、熱ではなく、体温を逃がさない『膜』が必要かと」


 アリアドネは針箱から使い込まれたハサミを取り出し、イザベラを覆っていた豪華な毛布へと視線を向ける。


「こちらの加護を、解いてもよろしいでしょうか?」


 その申し出に、周囲のメイドたちが息を呑む。宮廷加護師たちが何日もかけて編み上げた至宝を解くなど、正気の沙汰ではない。

 セリアスはエシュリオンとイザベラと目を合わせ頷くと、迷いなく一歩踏み出し、自らの手で重厚な毛布を引き寄せた。


「……構わないよ。君の思う通りに」


 セリアスの合図で、メイドたちも恐る恐る手伝い始める。アリアドネは淀みのない手つきで、暴力的なまでに魔力が込められた金糸を一本ずつ切り離していった。

 糸がすべて取り除かれると、アリアドネは自身の針箱を開くと、迷うことなく一筋の糸を引き抜いた。

 それは、セリアスから贈られた山のような高級糸の中でも、ひときわ鮮やかな輝きを放つオレンジの糸だった。


「……陽光を紡いだような色だね」


 セリアスの呟きに、アリアドネは頷いた。


「はい。南国にしか生息しない希少な甲殻類の分泌物から作られる糸です。周囲の温度を一定に保つ特性を持っていますわ」


 その糸は、ただ美しいだけではない。本来ならば紡ぎ手の魔力を際限なく喰らい尽くす、扱いが極めて難しい禁断の糸だ。

 アリアドネが銀の針に、夕陽を閉じ込めたような鮮やかなオレンジの糸を通した瞬間――。

 細い繊維が意志を持つ生き物のようにドクンと脈打ち、アリアドネの指先を通じて柔らかな熱を放ち始めた。氷晶石から溢れ出すセリアスの強大な魔力が、アリアドネの集中力によって一本の細い糸へと収束し、制御されていく。


「そう、良い子ね」


 荒れ狂う力を愛し子のように優しく手なずけるアリアドネの姿は、見る者を圧倒するほど神聖だった。


「本日は、即興の簡単なものしか縫えませんが……」


 アリアドネが銀縁メガネをクイと押し上げた瞬間、部屋の空気が一変する。

 彼女のスカイブルーの瞳がメガネの奥底で銀色の火花を散らし始めた。本人は無自覚な、真に魔力と対話する職人だけの神聖な領域。


 アリアドネは薄手の毛布を手に取ると、銀の針を躍らせた。

 縫い込まれるのは、防寒の魔法ではない。着る者の体温を優しく抱きしめ、循環させる『呼吸』の加護。

 プツリ、プツリと、心地よいリズムで針が布を通り抜けるたび、アリアドネの首元の氷晶石が呼応するように蒼く脈打った。



「……終わりました」


 わずか数分の出来事だった。アリアドネが針を引くと、眼鏡の奥にある銀色の輝きは静かに霧散し、いつもの穏やかなスカイブルーの瞳に戻る。その瞳の変化を、固唾を呑んで見守っていた周囲の誰一人として気づく者はいなかった。

 アリアドネは、新しく加護を宿したその薄い毛布を、壊れ物を扱うようにそっとイザベラの膝へと掛けてあげた。

 王妃は、驚いたように自分の胸元に手を当てる。


「……ああ、なんてこと。……軽いわ。何も掛けていないみたいに軽いのに、まるで陽だまりの中にいるみたい……。魔法が、私に寄り添ってくれているようだわ」


 王妃の頬に、久しぶりの柔らかな赤みが差す。重い鎧のような加護ではなく、羽毛よりも軽い優しさに包まれ、彼女の表情から痛々しい強張りが消えていった。


「こんなに穏やかな温もりは初めてよ……。あなた、名前を教えてくださる?」


 エシュリオンが嬉しそうに王妃の手を握り、セリアスは満足げに、そして独占欲を隠しきれない眼差しでアリアドネを見つめる。


「アリアドネ・シルフィードと申します。王妃様」


 「光らない加護師」と蔑まれてきた一人の少女が、国の頂点に立つ女性の心を、その一針で完全に射止めた瞬間だった。

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