その力は誰のため?
数日後、アリアドネは最大の危機を迎えていた。
聖夜の夜会から、彼女は驚くべき器用さでカリアンとの接触を避けてきた。早朝に家を出て店に籠もり、夜はカリアンが書斎に引きこもるのを見計らって帰宅する。執念の回避劇だったが、それも今日、ついに終わりを告げた。
夕暮れ時、お客を見送り、安堵の息をつきながら店のドアを閉めようとしたその時だ。
「……随分と忙しいようだな、アリー?」
背後から響いたのは、冷徹さと怒りが絶妙に混ざり合った、低く重い声だった。
アリアドネの肩がビクリと跳ねる。恐る恐る振り返ると、そこには正装を完璧に着こなし、腕を組んで店先に立つカリアンの姿があった。
「か、カル兄様……。裏口からいらしたの?お仕事は、その、王宮で山積みなのでは……?」
「ああ、山積みだ。だが、身内の『重要事項』を放置してまで進める仕事などない」
カリアンは有無を言わせぬ足取りで店の中へ入ると、入り口の札を「Closed」にひっくり返す。
カリアンは店内の椅子に腰を下ろし、机の上に一通の、重厚な紋章が押された封筒を叩きつけた。
「説明してもらおうか。家に届いたヴェントゥス公爵家からの大量の最高級糸、そしてお前個人宛の専属契約書だ。……提示された契約金は、王宮加護師の年間予算の3倍に匹敵する」
「……えっ」
「それだけじゃない。アルト・リテ王国の第一王子、エシュリオン殿下からも『星の精霊を王宮へ招待したい』という、公式な親書が届いた。……お前、あの一夜に一体何をした?」
カリアンの眼鏡の奥の瞳が、鋭く光る。
妹を悪い虫から守ろうとする過保護な兄の圧に、アリアドネは無意識に、耳元で静かに拍動する氷晶石のピアスに触れた。
「……そ、それは……ただの、お節介の結果と言いますか……。でも、エシュリオン王子のことは身に覚えが……」
「お節介で公爵にさらわれ、王子を虜にする加護師がどこにいる!」
カリアンがアリアドネをカウンター奥の壁際まで追い詰める。その瞳には怒りだけでなく、妹を奪われることへの不安が混じっていた。
「アリー、私は心配だ」
そう言うと、カリアンは震えるアリアドネをそっと抱きしめた。
「心配かけてごめんなさい。……次は、カル兄様にすぐ相談するわ」
その言葉に、カリアンは完全には納得していない表情を浮かべつつも、深く溜息をついて彼女を解放する。
「……必ずだぞ。いいか、ヴェントゥス公爵には特に気を許すな」
何度も念を押し、カリアンは名残惜しそうにしながらも、ようやく店を後にした。
「はぁー……。疲れたわ、カル兄様ったら本当に心配性なんだから」
嵐が去った後のような静けさの中、アリアドネは気分転換に王都の目抜き通りへと足を向けた。夕暮れ時の街角、煌びやかなショーウィンドウに飾られた最高級の絹織物を眺めていても、気分は晴れるどころか、さらに沈んでいく。
「本当に、お兄様ったら。……でも、家のこともあるし」
領地の窮状や、家族の行く末を考えては溜息をつく。暗い思考に沈み、ショーケースに映る自分の青白い顔を見つめていた、その時。背後から鼻をつくような、濃厚で噎せ返るような香水の香りが漂ってきた。
「おやおや、こんなところで何をしているんだい? シルフィード家のお嬢さん」
振り返ると、そこには成金として名高いガストン侯爵が、脂ぎった笑みを浮かべて立っていた。シルフィード家の最大の債権者である彼は、獲物を見つけた蛇のような目でアリアドネを舐めるように見る。
「……ガストン様。ごきげんよう」
「挨拶はいい。単刀直入に言おう。もう君の家に取り立てになど行きたくないんだよ。アリアドネ、そろそろ私の四番目の妻にならないか?」
アリアドネが言葉を失うのを無視して、ガストンは耳元で低く、ねっとりとした声を響かせた。
「君が首を縦に振りさえすれば、借金の督促は今すぐ止めよう。君の家族も、領地で農民のように泥臭い生活をする必要はないし、寝る間も惜しんで王宮で働く兄君も、もう無理をせず済む。皆を救えるのは、君だけだ」
「……っ」
アリアドネは唇を噛み締めた。自分の自由と引き換えに、家族の平穏を買う。その残酷な提案を突きつけたガストンの声はさらに卑劣さを増していく。
「あぁ、そういえば。君には妹もいるだろう? 彼女の卒業を待たずとも、私の屋敷に迎え入れることだってできるんだがね」
「っ……! リズは関係ありません!」
「関係ないことなんてないだろう? ははは!良い返事を待っているよ」
ガストンは満足げにそう言い残すと、勝ち誇った高笑いを上げながら雑踏へと消えていった。だが、彼の姿が見えなくなっても、アリアドネの肩には生々しい手の感触が、呪いのように残っていた。
足元もおぼつかないまま、華やかな表通りを避けて裏路地へと入り込む。
幾重にも入り組んだ路地の奥、古びた看板を掲げた一軒の飲食店があった。
アリアドネは震える手で重い扉を開け、カウンターで新聞を読んでいた店主に短く告げる。
「……『針の止まった午後』に、コーヒーを一杯」
店主は黙って頷くと、店の最奥にある、一見するとただの壁に見える扉を指し示した。その合言葉を知る者だけが通れる場所。扉の向こう側は、王都の喧騒が嘘のように静まり返った、不思議な刺繍店に繋がっている。
そこには、山積みの色鮮やかな糸と、使い込まれた裁縫道具に囲まれ、眼鏡をかけた中年の女性が座っていた。
「あら。そんなに青い顔をして、どうしたの? アリアドネ」
穏やかな瞳を持ったその女性は、かつてアリアドネに針の持ち方を教えた師匠、マルグリットだった。彼女はアリアドネが学園を卒業するのと同時に王宮を辞し、今はこうして世俗のしがらみを離れた場所で、真に価値ある仕事だけを請け負っている。
「……先生。私、もう……どうすればいいのか分からなくなってしまって」
アリアドネは糸の香りに包まれて、ようやく強張っていた肩の力を抜いた。成金貴族ガストンの卑劣な言葉、兄カリアンの焦燥、そして自分を翻弄する公爵セリアス。
抱えきれない現実を吐き出すように俯く彼女の前に、マルグリットは静かに熱い紅茶を置いた。
「アリアドネ。貴女の加護は素晴らしいわ。加護だけではない、すべてにおいて優秀なの」
マルグリットは、アリアドネの震える指先をそっと包み込んだ。
「王宮の連中は、糸が光るか光らないかでしか価値を測れない節穴ばかり。でもね、加護の本質は『輝き』ではなく『祈り』そのものなのよ。貴女の縫い目は、誰よりも深く、着る者の魂に寄り添う。そうでなければ、あの気難しい氷の公爵が、あんなに必死な顔で私に文状を寄越したりしないわ」
「……ヴェントゥス様が、そんなことを……?」
「ええ。『アリアドネ・シルフィードという一人の職人』をどうすれば守れるか、それだけを私に問うてきたわ。……珍しい男ね」
マルグリットは、壁に掛けられた未完成の刺繍布に視線を向けた。
「ガストン侯爵のことも聞いているわよ?」
「あ……」
「アリアドネ、自分の誇りを売ってまで、誰かの所有物になる必要はないのよ。……貴女には選ぶ権利がある。貴女なら断ち切れるわ」
アリアドネは、マルグリットの言葉を噛み締めるように目を閉じた。
窓のない地下の工房に、針が布を抜ける「プツリ」という小さな音だけが響く。
「……私は、ただ縫いたいだけなのです。誰かの力になりたくて……」
「貴女の一糸は、国をも動かせる。……だから、その重みを知った上で、対等に隣を歩ける相手を選びなさい」
マルグリットの穏やかな、けれど全てを見通すようなグリーンの瞳が、アリアドネを優しく導いていた。
マルグリットはアリアドネの顔に手を添え、その銀縁のメガネのつるを優しく指でなぞった。
「アリアドネ、針を持つ時に、メガネはかけているかしら?」
「はい、先生に言われた通り必ず」
アリアドネが真面目に頷くと、マルグリットは満足げに、どこか予言めいた微笑を浮かべた。
「そう、いい子ね。……そのメガネは、貴女のあまりに純粋で強すぎる力を隠すための結界よ。いい、アリアドネ。心から信頼できる人が現れた時に……その時だけ、そのメガネを外しなさいね」
師匠の言葉を胸に、アリアドネは少しだけ軽くなった足取りで裏路地を抜け、自分の店へと戻った。
店に戻ると、扉の前に人影があった。一瞬身構えたが、すぐに知った人物だと分かり、緊張がふっと解ける。
「ヴェントゥス様、どうなさったのですか?」
「やあ。用がなければ、来てはいけなかったかな?」
濃紺の外套をなびかせ、セリアスは至極当然といった顔でそこに立っていた。だが、彼はアリアドネの顔を見た瞬間、わずかに鼻先を動かし、トパーズ色の瞳を鋭く光らせた。
「……おや。知らない、下卑た匂いをつけているね」
セリアスの声が一段と低くなる。ガストンが耳元で囁いたあの不快な香水の残り香を、彼は一瞬で見抜いた。アリアドネが思わず視線を外すと、セリアスは逃げ道を塞ぐようにドアへ彼女を追い詰め、両腕でその華奢な体を囲い込んだ。
「ボクなら君を救える。……頼ってはくれないかな?」
吐息が触れるほどの至近距離。その甘く強引な誘いに、アリアドネは言葉を失い、ただ彼の胸元を見つめることしかできなかった。……沈黙が流れる中、セリアスはふっと表情を緩め、懐から一通の重厚な手紙を取り出した。
「公式に、君へ招待状だ」
渡されたのは、アルト・リテ王国の紋章が刻まれた、エシュリオン王子からの親書だった。
「3日後、迎えに来るよ。……アリアドネさん、いいかい。誰の助けが必要か、よく考えておくといい」
セリアスは満足げに彼女の銀縁メガネの奥を見つめると、ゆっくりとその場を去っていった。




