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風待ちの針箱

 見上げるほどに高い空は、どこまでも澄み渡ったコバルトブルーに染まっている。薄くたなびく雲の合間を縫って、キリリと冷たくも心地よい風が吹き抜けていく。


 ここはアルト・リテ王国。標高千五百メートルを超える峻厳な山々に抱かれた、空に最も近いと言われる国。

 一年中、涼やかな風が歌うように街を駆け抜け、人々の暮らしには常に風の精霊の気配が寄り添っている。


「……よし、これで最後」


 王都の北検問所にほど近い一角。冒険者や騎士たちが遠征の準備を整える喧騒の中に、その小さな店はある。看板には、控えめながら温かみのある文字で『風待ちの針箱』と刻まれていた。


 店主であり加護師でもあるアリアドネ・シルフィードは、ハニーブラウンのポニーテールを揺らし、メガネのブリッジを指先で押し上げた。そのスカイブルーの瞳が見つめるのは、カウンターに置かれた古びた革袋。


 彼女は、名ばかりの貧乏伯爵家の長女だ。

 高等部を卒業しても、華やかな夜会を彩るドレスは一着のみで、家計を助けるための蓄えも冷え込んでいる。

 自分にできるのは、幼い頃から肌身離さず持っていた針を動かすことだけ。幸い、在学中に特別講師から教わった「加護の刺繍」の免状があり、この国では希少な『加護師』という肩書きは持っている。

 とはいえ、ここは街の小さな店。

 加護師とは名ばかりの、何でも屋に近い。高価な防具の付与なんて滅多になく、日々の仕事はもっぱら人々のささやかな願いを叶えること。


 先日は、初孫の誕生に顔をほころばせるマダムのために、真っ白な赤ちゃんの産着を縫い上げた。


「この子が、健やかに育ちますように」


 そんなマダムの言葉を形にするように、産着の襟元に小さな、小さな刺繍を忍ばせる。もちろん、光らない、けれど確かな「健勝」を願う加護を添えて。


 サリ、サリ、と響く針の音。


 光を放たぬ刺繍は、この地味な店にこそ相応しい。

 自分が縫い上げるひと針に、王国の運命を左右するほどの価値があるなど、彼女は露ほども思っていなかった。


「はい、お待たせしました。綻びはすべて直しておきましたよ」


 アリアドネが微笑んで手渡したのは、一人のうだつの上がらない冒険者の防具だった。


「おお、助かるよ。金がなくてよ、最低限の繕いだけで済まないか?」


「ええ、大丈夫です。……道中、風の加護がありますように」


 アリアドネは、代金を受け取りながらそっと微笑んだ。彼は気づいていない。防具の裏側、ちょうど心臓が当たる部分に、おまけで小さな「盾」の刺繍を忍ばせたことに。


 本来、この国の加護の刺繍は、縫っている最中に眩い光を放つもの。出来上がりもまた、聖なる魔力によって黄金色に輝く。それが加護師の名誉であり、身に纏う者の強さの証明。けれど、アリアドネが縫うものは、いっさい光を放たない。


「おや……?」


 修繕を終えた装備を受け取り、冒険者は不思議そうに首を傾げた。

 目に映るのは、ただの地味な糸。それなのに、防具に触れた瞬間、なぜか全身の産毛が逆立つような感覚。肌を刺す、奇妙なまでの「密度」。


「……なんだか、いつもより身が引き締まる気がするな。気のせいか」


 男は首を振り、店の扉を開く。

 これから向かうのは、秋から冬にかけて凶暴さを増す魔獣の討伐依頼だと話していた。寒風が吹き荒れる高原への旅路になる。


「どうか、お気をつけて」


 アリアドネは、静かな笑顔で男を見送る。

 自分の刺繍に価値があるなんて、微塵も思えない。光を放たない自分の技術は、どこか欠陥があるのだとすら思っている。それでも、大切な家族を支えるため。そしていつか出会うかもしれない、共に人生を歩む「頼りがいのある年上の人」との生活を夢見て。


 彼女は今日も、静かに針を持つ。


 そんな平穏な日常の隙間に、一筋の涼やかすぎる風が紛れ込もうとしていることなど、知る由もなかった。



* * *



 いつもと変わらない、穏やかな昼下がり。

 カラン、と乾いたドアベルの音が店内に響いた。


 同時に流れ込んできたのは、ひときわ冷たく、鋭い風の匂い。アリアドネが顔を上げると、そこには見慣れない白い制服に身を包んだ青年が立っていた。


「いらっしゃい……ませ。どのようなご用件でしょうか?」

 

 アリアドネは戸惑いの表情を浮かべながら、客であろう青年に声をかける。

 透き通るようなシルバーブルーの髪。糸のように細められた瞳。騎士団一年目特有の若さが残る肢体だが、その身のこなしには新兵らしからぬ、底知れない優雅さが漂っている。


「……急ぎで加護を縫えるかな。できる?」


 挨拶も抜きに、青年はカウンターに数人分の肩当てと、酷く裂けたマントを無造作に、けれど不思議と丁寧な所作で置いた。声は涼やかだが、隠しきれない焦燥と、何かに苛立っている様子が静かに滲み出ている。


「まだ魔獣を倒しきれていないんだ。上が『加護も無しに特攻するな、装備を整えてこい』ってうるさくてね。ボクはすぐにでも戻りたいんだけど」


 アリアドネは、差し出された装備の惨状に息を呑む。鋭い爪で引き裂かれた生々しい傷跡。この青年のものか、あるいは仲間のものか。


「……一刻を争うのですね。わかりました、すぐに」


 アリアドネは眼鏡を押し上げ、意を決して即座に針箱を開いた。青年は店の隅にある丸椅子に腰を下ろすと、心底退屈そうに窓の外を眺め、指先でコンコンと膝を叩く。


 彼は、この国が崇める「加護」というものに期待などしていなかった。

 天才と謳われる自分にとって、光り輝くだけの装飾のような刺繍は、動きを鈍らせる重石に過ぎない。実際、彼は今までどんな過酷な戦場も、加護なしの身一つで切り抜けてきたのだから。


「検問所から一番近いのが、君の店だった。……でも、やっぱり無理なら城に行って……」


 青年は半ば後悔した声色で、アリアドネに視線をうつすと、すぐに彼女の指先の動きに釘付けになる。


 サリ、サリ、サリ。


 店内に響くのは、糸が布を噛む規則正しい音だけ。

 アリアドネは答えない。一度針を持てば、彼女の意識はすべて針先に集約される。ずり落ちたメガネを直す間すら惜しむような、圧倒的な集中。


 セリアスは、息を呑んだ。

 騎士団で見てきたどの加護師よりも、彼女の運針は速い。迷いなく布を貫き、踊るように複雑な紋様を形作っていくその指先。それはもはや、一つの洗練された儀式を見ているかのようだった。


(……速い。それに、この集中力……)


 指示された仲間たちの防具を次々と修復しながら、アリアドネの視線は青年の肩にかけられたままの、わずかに綻びた布地に向いた。

 頼まれてはいない。けれど、アリアドネの加護師としての魂が、その小さな破れを見過ごせなかった。


「失礼します……貴方の分も、少しだけ直させてください」


「……ボクのはいいよ。必要ないって言っただろう」


「でも、風が逃げてしまいますから」


 アリアドネは強引に青年のマントの端を引き寄せると、流れるような手つきで迷いなく針を刺した。


 青年は不愉快そうに目を細めたが、メガネの奥にあるスカイブルーの瞳があまりに真剣に手元を見つめているのを見て、毒気を抜かれたように黙り込んだ。


 アリアドネが縫う針の先から、光が溢れることはない。城の聖女たちの加護部屋なら、黄金の輝きで満たされ、神聖な魔力に包まれているはずだ。けれど、この店は静まり返ったままで、ただサリ、サリ、と糸が布を走る音だけが響いている。


(光らない……。期待して損をしたな。やっぱり、ただのお針子か)


 セリアスが冷めた思考を巡らせていた、その時。アリアドネが最後の糸をそっと切り、マントを丁寧に整えた。


「お待たせしました。皆さんの分と……それから、貴方の分も。お気をつけて」


 セリアスは投げやりな動作で、そのマントを肩に羽織り直す。


「……っ!」


 その瞬間、彼の背筋に電流のような戦慄が走った。

 重い。いや、物理的な重さではない。マントが肩に触れた瞬間、全身を包み込むような圧倒的な「密度」を感じたのだ。それはまるで、見えない巨大な精霊の翼に抱かれているかのような、絶対的な安心感だった。


 光っていない。魔力の残光すら感じない。それなのに、自分の体の輪郭がかつてないほど鮮明に研ぎ澄まされていく。五感が拡張し、世界がクリアに見える。


「……君。名前は?」


 セリアスは、初めて丸椅子から立ち上がった。余裕の仮面を脱ぎ捨て、アリアドネを真っ向から見据える。トパーズ色の瞳が、驚愕にわずかを見開かれていた。


「アリアドネ・シルフィードです」


「アリアドネ、か」


 セリアスは彼女の揺れるポニーテールを一瞬だけ凝視した。それから、フッと――今度はいつもの作り笑いではない、本物の不敵な笑みを口元に浮かべる。


「面白いね。……こんなに心が動いたのは久しぶりだ。ありがとう」


 青年は風のように翻ると、そのまま店を飛び出していった。アリアドネは呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。




 それから数時間後のことだ。

 不意に、店の窓ガラスがガタガタと激しく震えた。


「……!」


 アリアドネは思わず窓の外を見た。遠く険しい山々の向こう側。そこで目には見えないはずの巨大な「風」がうねり狂い、天地を揺るがすような魔力と魔力が真っ向からぶつかり合ったのを、肌に刺さるような空気の震えとして感じた。

 雷鳴のような轟音が轟き、空の色が一瞬だけ歪む。

 あそこには、あの青年が向かったはずだ。

 アリアドネは、無意識に自分の胸元をぎゅっと握りしめた。


 自分の刺繍が、あの苛烈な戦いの中で、少しでも彼の力になっていることを祈らずにはいられなかった。

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