07.風邪を治すにはどうすれば
魔法初心者のヒロは、どんな魔法があるのかすらまだ知らない。魔女の魔法をすべて使えると言われたところで、「すべて」の内訳を知らなければ宝の持ち腐れだ。火を出したり水を出したりできるのか、属性や適性があったりするのか、そもそも魔法はいくつあるのか。そんなことすら分からない。
そのため、魔法を使いたいときは、まずヒロの希望に即した魔法が存在するか確認する必要がある。
病気を治す魔法、薬を作る魔法、読めない文字が読めるようになる魔法。
ひとまず、ヒロが挙げた三つの候補。
どれかひとつでも存在してくれれば、セシルの病気を治すことができるかもしれない。
「……病を治す、薬を作る、文字を読む。要求が多いな」
「夜中にごめん」
「太陽の位置などわたしには関係ない。今は手が空いていたから応じただけだ」
魔女は驚いた様子もなく鼻で笑った。
それなりに脈絡のない質問だったはずだが、魔女にとっては想定の範囲内だったらしい。
声送りの魔法の向こうで魔女が軽く息を吐く。何かを思案しているのか、少しだけ沈黙の間があった。
「おまえ、まさかこの数時間で病を患ったのか?」
「俺じゃない。こっちの世界の人だよ」
「ほう、たった数時間でそこまで入れ込んだ人間ができたのか」
「そ、そういうわけじゃないけど。こっちの人の病気を治すのは魔女の仕事とも矛盾しないんだから、べつにいいだろ」
「それもそうだな」
ふむ、と納得した声で魔女が言う。
追求を逃れたことに安堵したヒロは、魔女に聞こえないよう小さく息をついた。
カレルいわく、セシルを蝕んでいる病気は風邪だという。
風邪。ウイルスなどの微生物に感染することで起こる、あの風邪だ。
健康な成人男性であるヒロにとって、風邪が病気だという印象はない。いや、病気には違いないのだろうが、ちょっとうっかり体調管理を怠ったせいで一日寝込むことになってしまったが薬を飲んで寝れば次の日にはだいたい治る——それが「風邪」だ。ヒロが風邪をひくときはいつもそんなパターンだった。持病で免疫力が弱いといった事情のある人は別として、健康な若者が恐れる病気ではないだろう。少なくとも死に直結する病気ではない。
しかし、カレルから話を聞くかぎり、どうやらこの世界の人々にとっての風邪は違う。なにしろ風邪にかかっただけで街を追い出されるのだ。感染する病だから街には置いておけない、そんな理由で。しかもセシルは四年も風邪を患い続けているというのだから、これはもはやヒロの知っている風邪ではない。
だから——あまりにも身近な病名だったから。
風邪なんかで四年も苦しんでいる人がいるのか、と驚いたから。
今の自分は魔法という法外な力を持っているのだから、治せそうなら治してしまってもいいんじゃないか、と思った。
無論、ヒロは誰かれ構わず親切を振りまくような人間ではない。たとえば、電車の座席を譲るのは目の前に譲るべき人がいて、且つ自分が疲れていないときだけだ。仕事帰りで疲れていたら譲らないし、寝たふりをすることだってある。親切心なんてダブルスタンダードのオンパレードだ。同じ条件で困っている人がいても、今日の親切を明日も振りまくとは限らない。
だから、この親切心も気まぐれだ。病名に驚いたから。カレルが懐いてくれたから。セシルが美女だったから。——自分のことを誰も知らないこの世界に、少しでも受け入れられたいと思ったから。
「とりあえず、病を治す魔法はない」
「えっ」
思考に埋没しそうになっていたヒロの耳に、きっぱりとした魔女の声が届いた。
無意識のうちに下を向いていたヒロは、あわてて魔女の話に集中する。
「人間の病は多岐に渡るからな。治れと念じて治るものではない」
「俺の妹を治してくれたのは? あれも魔法だろ?」
ヒロの妹は魔女のおかげで目を覚ましたのだ。あれが魔法じゃなかったらおかしいだろう、と思ったのだが、魔女は「もちろん魔法だが、病を治したわけではない」と抑揚のない声で言った。
「あれは正常ではないところに手を加えて直した。いわば修理だ」
「修理って、おい」
さすがにそれは人間に使う言葉ではない。魔女にとっては修理も治療も同じかもしれないが。
「正常な状態の人間と比較して、違うところを直した。おまえの妹にしたのはそれだけだ」
「……医者には妹の体に異常はないって言われたけど」
「知らん。医者の腕が悪いだけじゃないか?」
魔女が身も蓋もないことを言う。現代医療の恩恵にあずかってきた身としては納得しがたい言葉だが、おそらく現代医療と魔法では見えるものが違っていて、妹の件ではその違いがプラスに働いたのだろう。
とはいえ、妹を治したときの魔女はヒロの目の前にいたわけで、つまりは妹の体に触れることなく治療したということになる。病院で眠っていたはずの妹を、だ。現代医療がすばらしいのは間違いないが、もはや魔法は規格外としか言いようがない。
「つまり、どの部分がどうおかしくなってるのか、病気の根本的な原因が分かれば魔法で治せるってこと?」
「そうだな」
「それならいけるかも。実はもう原因は分かってるんだ」
希望が見えてきて、ヒロは思わず体をぐっと乗り出す。
「たぶんウイルス感染が原因なんだけど、そういうのも魔法で治せる?」
「ういるす……が何かは知らないが、正常な状態との違いが分かるなら直せるぞ」
だが、と魔女がわざとらしく言葉を切る。
「おまえは異常と正常の違いを見分けられるのか? そもそも正常な個体がそこにどれだけいるのか知らないが」
馬鹿にしたり煽ったりするでもなく、ただの疑問として魔女は言った。
ヒロはその問いかけの意味を考える。時間にして三秒ほど。違いを見分けられるのか——ということは。
「もしかして……目視で探すの?」
「他にどうやるんだ。大量の人間と比較して違いを探すんだぞ」
「……この線はいったんやめておこう」
やってみる前から諦めるのは癪だが、その方法は無理だ。ヒロは自分を客観視してそう判断した。
魔女ならできるのだろうが、だからと言って「セシルの病気を治してくれ」と頼むのはお門違いだろう。それくらいの分別はある。ヒロ自身にできないなら、ひとまず諦めるしかない。
「じゃあ薬を作る魔法は?」
「薬の魔法はないな。そもそも魔女に薬は不要だ」
「魔女ってあやしい薬作ってるイメージあるけど。でっかい鍋で」
「知ったことか。どちらにしろない」
次善の策も断ち切られた。
「読めない文字を読む魔法は?」
「ない」
「えっ、通詞の魔法があるのに文字はないのかよ」
「通詞の魔法にそんな力はないな」
「同じ翻訳なのに……」
音声の翻訳はできても、文字はできない。
薬に続き、本を読むための策も打ち砕かれた。
ヒロは分かりやすくうなだれた。思わず「どうしよう」と頼りない声が漏れる。
病を治す魔法と薬を作る魔法はまだいい。その二つはヒロの勝手な思い付きだ。
しかし、最後のひとつは違う。ヒロはカレルの父の遺産である本を受け取り、読んでみるね、と言ってしまった。読める文字などなかったくせに、だ。
無論、読めると断言したわけではないので、読めなかったと言って本を返しても約束の反故には当たらない。
ただ、カレルの期待は裏切ることになるだろう。やっと本が読めるかもしれない、と喜んでいたあの少年の期待を。
「……病だなんだと言うが、何の病を治したいんだ」
はああ、と魔女が忌々しげにため息をついた。
あからさまにヒロの態度を鬱陶しがる声だったが、ここで声送りの魔法を切ってしまうとヒロには打つ手がなくなる。
ヒロはすがりつく気持ちで左耳をぎゅっと引っ張った。
「風邪。風邪はこっちの世界にもあるんだな」
「ああ、風邪か」
なるほど、と言って魔女は小さく舌打ちをする。
「あれはやっかいだ。辰世の人間の二割は風邪で命を落とす」
「えっ!?」
ヒロは思わず大声をあげた。
さらにその場で立ち上がると、危うく耳から離しかけた左手を右手で押さえた。
「……急にどうした」
魔女が露骨に驚いたような声で言う。
驚いたのはこちらの方だ。
「こっちの風邪ってそんなにやばい病気なの? 俺の知ってる風邪と全然違うけど」
「おまえたちの風邪はもっと軽い病なのか?」
「そうだよ。基本的に寝たら治る。そりゃ長引く人もいるし、体が弱い人は風邪が命取りになることもあるけど、それでも人口の二割が死ぬような病気じゃない」
まるでヨーロッパで猛威を振るったペストのようだ。
しかし、ペストは極めて致死率の高い病気であり、風邪とは深刻さがまったく違う。
「こっちの風邪ってどんな病気? 症状は?」
「確認したのは大昔だから今と同じかは分からないが、症状としては、体が熱を持つ、喉が痛む、咳が出る、鼻がつまる」
「あー……俺の知ってる風邪だな」
たまたま名前が同じだっただけ、という可能性がこれで消えた。
「なんで風邪でそんなにたくさん死ぬんだろう。いや、たしかに風邪はしんどいし、症状がひどければ亡くなることもあるけどさ。実はこっちのウイルスは力がめちゃくちゃ強いとか? いや、そこまでいったらそもそも風邪って翻訳されないと思うんだよな。俺の知ってる風邪だから風邪って翻訳されたんじゃないのかな。通詞の魔法のしくみが分からないから何とも言えないけど……」
「通詞の魔法は相互の認識が共通して初めて単語が割りふられる。辰世にしかない言葉はおまえに翻訳されないし、逆におまえの世界にしかない言葉はわたしに翻訳されない」
「あー、想像通りだ。やっぱりそうかあ……」
辰世には「システム」や「ウイルス」という単語に対応する言葉がない。だからヒロの言葉は一部が翻訳されず、その音のまま魔女に届いた。
逆に、日本語にはカレルの言った「ウード」「ソーレス」に対応する言葉がない。だからその音のままヒロに届いた。
症状の共通する同じ病気だからこそ、通詞の魔法は「風邪」という単語を割りふった。
つまり、魔法によってそう翻訳された以上、こちらとあちらの風邪はやはり同じものなのだ。
「ってことは、体の構造か何かが違うのかな。同じ人間に見えるけど……」
うーん、とヒロが首を大きくかしげる。同じ病気、同じ症状でこれほど死亡率に差が出る以上、もはや体の構造くらいしか原因になりそうなものが思い付かない。
そうやってヒロがうんうん唸りながら悩んでいると、突如、「ああ、そういうことか」と魔女が非常にすっきりしたような声をあげた。
「分かった。原因は辰星力の弱さだ」
「え?」
ヒロが逆方向に首をかたむける。
辰星力は人間の生命エネルギーだという話は何度も聞かされたが、それが風邪とどう関係するのだろう。
「辰世の人間は弱い。この弱さは体の弱さではなく、辰星力が体を巡る力の弱さを指す。病を患った辰世の人間は衰弱しやすいが、これは辰星力の巡りが弱いせいで、病を治す力が体を巡らないからだ」
「こっちの人間は弱くてすぐ死ぬから、魔法を使ってでも長生きさせたいって話?」
「そうだ」
ヒロは魔女との契約を思い出した。最初は二つだった契約が三つに増えたのは、弱すぎる辰世の人間をどんな手を使ってでも長生きさせたい、という魔女の願いがあったからだが、実際どれほど弱いのか詳しい話は聞いていなかった。
その「弱さ」の内実が見えた気がして、ヒロは口端をひくりとふるわせた。
病を治す力とは自己治癒力か、もしくは免疫力のことだろうか。ともかく、病に打ち勝つには治す力が必要なのに、それを体に行き渡らせる辰星力の力がそもそも弱い。
端的に言うと、生きる力が弱い。
辰世の人間は辰星力の効率が悪いという、魔女の言っていた言葉の意味をヒロはようやく理解した。
「おまえの世界では大したことのない病が辰世では死病になるなら、おそらくそういう理由だろう」
通詞の魔法越しだが、魔女が呆れているのが声だけで分かった。
さんざんヒロを下に見てきた相手だが、さすがに今の魔女に対して溜飲を下げるほどヒロの人間性は終わっていない。
「こっちの人、風邪で死ぬくらい弱いのか。よく絶滅しなかったな」
「わたしがどれだけ辰世の維持に神経をすり減らしているか分かったか」
「分かった。こりゃ神経もすり減るわ」
辰世の人も気の毒だが、それを管理する魔女も気の毒だ。
これだけ弱ければ流行病で早々に絶滅しそうなものだが、それを防いでいたのが魔女なのだろう。
この世界における風邪の立ち位置を理解したヒロは、ひとまずの納得を得て「なるほどなあ」と深い息を吐いた。
「うーん、じゃあどうしよう。せめて解熱薬でもあれば少しは楽になるだろうけど……」
言いながら、空いた右手で頭を掻く。
カレルは「薬師に治療薬はないと言われた」と嘆いていたが、相手が風邪なら治療薬がないのは当然だ。なにしろ現代医療でも風邪の特効薬はなかった。天下の抗生物質もウイルス感染には効果がないらしい、と雑学が趣味の同僚に聞いたことがある。風邪は自分の免疫力で治すしかなく、いわゆる「かぜ薬」は治るまでの症状を抑える薬であって、風邪そのものは治さないのだ。
それでも、解熱薬や抗炎症薬があれば生活を楽にすることはできるだろう。四年も風邪を煩っていればなおさらだ。まあ、高熱はウイルスを退治している証だからむやみに下げるなとはよく言うが。
「そこまでして助けたいか」
ふと、雨粒がしたたるようにぽつりと魔女が言った。
「そこまで助けたいなら、先ほどおまえが挙げた三つの魔法のうち、どうにかなりそうなものがひとつだけある」
「えっ、ど、どれ!?」
「文字を読む魔法。つまり通詞の魔法だ」
勢いよく食いついたヒロに、魔女が淡々と答えを返す。
「おまえが文字を読む魔法を作ればいい」
「お、俺が?」
「そうだ。正確に言えば通詞の魔法の修正だから、いちから作るのとはまた違うが」
魔法の修正。
可能だと魔女から聞いてはいたが、自分でやることは想定すらしていない。
勝手に喉がごくりと鳴った。緊張のせいか、この一瞬で手のひらが汗まみれになっている。
「俺、魔法使って一日も経ってない超ド素人なんだけど」
「最初だからな、やり方くらいは教えてやる」
魔女が喉奥でクッと笑った。おそらくこの状況を楽しんでいる。
「天川比朗。通詞の魔法に手を加えて、文字を読める魔法に修正してみろ」