06.ところにより風邪は難病
カレルの案内に従い、森の中を足早に駆けていく。
すでに太陽は夜を迎える準備を始め、濃いオレンジ色の光をぼんやりと纏っていた。木々に囲まれた森は薄暗く、とくに足下はほとんど見えなっている。先ほどからつま先に引っかかるのは石や木の根だろうか、足下が覚束ない状態で森を歩くなど初めてなので、もし蛇やサソリを踏んでも気付かないだろうな、とヒロは思った。
「森ってこんなに早く暗くなるんだね。カレルくんが探しに来てくれてなかったら、森で一晩明かすことになってたかも」
「あはは。いくら春でも、夜の森で野宿したら寒くて凍えるよ」
「この服じゃ野宿は耐えられなかっただろうな。本当に見つけてもらえてよかったよ、ありがとう」
心からの感謝を込めてヒロが言う。
半袖のTシャツとジーパンという非常にラフな恰好のヒロにとって、森の寒さは死活問題だ。今の時点でもかなり涼しいが、夜はこれ以上に冷え込むだろう。仮に野宿をしたところで、寒くて眠れず一晩中ふるえるはめになっていたに違いない。
「ヒロさんの服、珍しい形だね。このへんじゃあんまり見ない服だ」
「そ、そうかな」
「うん。縫製もすごくきれいだし、生地も薄いし」
カレルが興味ありげにヒロの服を覗きこむ。
勤務していた会社の服装規定のゆるさに甘えきった服装だが、ただのTシャツとジーパンもこの世界ではじゅうぶん珍しいものに見えるだろう。むしろ珍しすぎて「どこから来たの?」なんてつっこまれてはたまらないので、ヒロはあえてカレルの話の乗らずに目をそらした。
「そういえばヒロさんってどこの人? ミハルト領?」
「ぅえっ」
が、案の定、できれば聞かれたくなかった質問をカレルはさらっと口にした。
どこから来たのか。どこに住んでいるのか。
そういった問いに答えるための設定はまだ考えていない。
どうしよう変なこと言って不審者だと思われるのは絶対だめだ——そんな混乱が頭を巡る。
「…………この森から、もっと、遠いところ」
「遠いところ? ミハルト領の外? それとももしかして外国?」
「あ、うん。そうそう外国」
「えっ、それは本当に遠いや」
結局、不審者一歩手前の無難な答えを口にした。他に答えようがなかっただけだが。
カレルは無邪気に「外国なんてすごい」と喜んでいる。居たたまれない。厳密に言えば日本も外国ではあるし、嘘ではないので許してほしい。
「でも、外国の人がなんでこんなとこいるの? 旅行で来るような場所じゃないし」
カレルがきょとんとした顔でヒロを見る。身長差があるのでカレルがヒロを見上げる形だ。無垢な目で見られると居たたまれなさが加速するのでやめてもらいたい。
ヒロは「えっと」「なんていうか」としどろもどろになりながら、それでもこの一瞬で考えた設定を口にした。
「その……俺には仕える主人がいるんだけど、その主人がけっこう適当で、仕事の指示だけされて置いていかれたんだ。この国には主人にくっついて来たから、どうすればいいか途方に暮れてるうちに迷っちゃって」
「えー、ひどいご主人だね」
「そうなんだよ。ひどいよね」
意図せず実感がこもった声になった。
やっぱりひどいと思うよね。と、ここにいない雇用主に内心で小さく文句をつける。
「じゃあヒロさんの服は外国製なんだ。こんなソーレス初めて見た。ウードじゃなさそうだけど、何製なんだろう」
カレルがじっとヒロの服を見る。どうやらカレル少年は服に興味があるようだ。
しかし、明らかにこの世界のものではない服をじっくり見られるのは都合が悪い。
カレルの言った「ソーレス」も「ウード」も、通詞の魔法による翻訳が発動しなかったということは、おそらく対応する日本語の単語がないのだろう。辰世にしかない繊維か、生地か、もしくは動物の名前か。そういった差がある以上、こちらの文化に踏み込まれるのは危険だ。正直、会話の途中でぼろを出さない自信がない。
「か、カレルくんの服もかっこいいね」
「そうかな、普通のウードのソーレスだよ。ぼろぼろだし、つぎはぎだらけだし」
「つぎはぎは自分で縫ってるの?」
「ううん、姉さんに直してもらってどうにか着てる」
「へえ、お姉さんがいるんだ」
よし話題が逸れた! ヒロは内心でガッツポーズをする。
「そういえば、泊めてもらえるのはありがたいけど、ご家族に何か言われたりしない? 知らない大人を急に連れ帰って……」
衣服から話題を逸らしつつ、ヒロはカレルに問いかけた。
本来であればいちばん最初に確認するべきことだ。大人として反省する。いや、大人なら少年に「泊まる?」と言われて着いて行くなという話だが。
ともかく、年端もいかない少年がいきなり成人男性を連れて来たら、家族は驚くだろう。日本だったら通報されてもおかしくない。
しかし、カレルは視線を足下に落とすと、急にわざとらしく口角をぐにっと引き上げた。
「うちは俺と姉さんしかいないから大丈夫。姉さんは病気だから起きてこないし」
「……そっか」
言いにくいことを言わせてしまった。下を向いて歩くカレルの後頭部がさみしげに見えて、心苦しい。
姉と弟の二人暮らし。やつれた肌やぼろぼろの服を見るかぎり、おそらく裕福な生活はしていない。
そんなところに転がり込むのはやはり申し訳ない気がする、と後悔の心が今さらになってこみ上げた。
「あっ! でも、姉さんはたしかに病気だけど、よっぽど近寄らなければうつったりしないからね!」
つと、下を向いていたカレルが勢いよく頭を上げた。
ひどく焦った顔でまくし立てるカレルに、ヒロはぽかんと口を開ける。
病気。うつる。——なるほど、病気ということは感染の危険性があるのか。
すっかり失念していた。しかし、かといって態度を変えるつもりはない。
「そんな心配はしてないよ。お姉さんを支えるカレルくんがすごいなと思っただけ」
ヒロが何でもないことのようにそう言うと、カレルは一瞬びっくりしたように目を開いた。
事情を知らない大人が過剰に褒めたところで意味はない。そう思って事実だけを口にしたのだが、カレルには思いのほか響いたらしい。きっと彼のまわりには本当に大人がいなかったのだろう。
「……着いた」
「え?」
「俺の家、着いたよ」
照れているのか恥ずかしいのか、カレルが下を向いたままぼそぼそ声で言う。ついでのように正面を指さしたので、ヒロはその指につられて前を見た。
そこには、「森の中の小さな小屋」としか言いようのない、本当に小さな小屋が建っていた。
かろうじてレンガの家ではあるが、肝心のレンガはところどころ欠けているし、あちこちモルタルのようなもので補修してある。壁の下の方にはカビっぽいものも生えていて、お世辞にもきれいな家とは言えない様相をしていた。
しかし、窓から漏れるランプの明かりを見ていると、ふしぎと家としての安心感が感じられる。大昔に建てられたような古びた小屋だが、たくさんの人に大切にされてきたのが分かる家だった。
「姉さんにヒロさんのこと伝えてくるから、ちょっと待ってて」
「うん」
言って、カレルが足早に家の中に入る。すると、すぐに「ただいま!」と元気な声が聞こえて、さらに「道に迷った人がいたから連れて来たんだけど泊めていい?」とこれまた元気な声が聞こえてきた。全部丸聞こえだ。レンガ造りのわりに防音性はないらしい。
「お待たせ、ヒロさん。入って入って」
「うん。じゃあ、お邪魔します」
扉から顔だけ出したカレルがちょいちょいとヒロを手招きする。
先ほどのやり取りで本当に宿泊許可を取れたのか不安に思いつつ、ヒロはちょうづがいの音がギイギイ響く扉を開き、家の中に入った。
そこには、カレルと同じ銀色の髪をさらりと肩に流し、深い緑色の目をやわらかく細めて微笑む女性がいた。
見た瞬間、心臓がカエルみたいに跳ね上がり、ついうっかり呼吸を忘れた。
人形のような、と表現するのも何かが違う。芸能人みたいな、絵画から抜け出てきたような、深窓の姫君——どれも違う。
凪いだ湖みたいな人だった。朝の日差しの中、山奥で静謐を保ち続ける常磐色の湖面。自然美の一瞬を切り取ったようなとても危うい美しさの中に、決して揺らがぬ芯が通っている。
——端的に言うと、すさまじい美女がそこにいた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
にこりと微笑む美女に、ヒロは慌てて挨拶を返した。
美女の表情筋が動いただけなのに心臓がばかみたいに飛び跳ねる。すごい、これが美女の力か。
「ええと……カレルくんのお姉さんですか?」
「はい、カレルの姉のセシルです。大したおもてなしはできませんが、ごゆっくりなさってくださいませ」
「急にお邪魔してすみません。ヒロと申します。ご厚意に甘えて一晩だけごやっかいになります」
「こちらこそ見苦しい姿で申し訳ありません。わたしはご覧の通りでして、ご迷惑をおかけしてはなりませんので奥の部屋におります。何かあればカレルに申しつけてくださいね」
そう言うと美女もといセシルは、ぺこっと小さく頭を下げて奥の部屋に向かった。クリーム色のワンピースにショールをはおっているだけでやたら優雅に見えるのは、彼女の立ち振る舞いのせいだろうか。いちいち丁寧な所作がひどく印象的だった。
病人を立たせてしまって申し訳ない気持ちはあるが、とはいえ、弟が連れてきた得体の知れない男を確認しないわけにもいかなかったのだろう。ひとまず不審者には思われなかったようで安心したが、それでもできるかぎりセシルに迷惑をかけないようにしよう、とヒロは思った。
「うちの姉さんきれいだろ」
「うん、すごいね」
横からこそっとささやくカレルに、思わずヒロは本音を返した。
いや、すごい。きれいな女性や可愛い女の子ならテレビやSNSでよく見たし、何なら街でも見かけたが、これほどの美女を見たのは正真正銘初めてだ。
脳を直接殴られたような衝撃だった。過ぎた美しさは暴力にもなり得るらしい。
「そうなんだよ。昔はいろんなところから縁談が来てすごかったんだ」
カレルが浮かれたような声で言う。姉を褒められたことが嬉しいようだ。
「まあ、病気になっちゃったから縁談なんて全部流れたけどね。うつる病気にかかったら街にいられなくなるからさ。それで俺と姉さんはここで暮らしてるんだ」
「えっ、病気だから街を追い出されたってこと?」
「そうだよ。じゃないとみんなに迷惑だからって」
カレルの言葉にヒロはぎょっとした。
感染病を患った病人を街から追い出す。たしかに感染病の対応として病人の隔離は適切だろうが、それはペストの集団感染などが起こって初めて取り得る対応ではないだろうか。
無論、ヒロは疫学の専門家ではないのでめったなことは言えないが、それでも年若い姉弟を森に放り出すのが正しい対応だとは思えない。
「医者には……」
「医者なんて高くて無理だよ。俺たちはせいぜい街の薬師から薬を買うだけ。でも、薬師にこの病気の薬は存在しないって言われたんだ」
カレルがしゅんとうなだれる。彼の細い肩がひどくさみしげに見えた。
「薬が存在しない……お姉さんは本当に重い病気なんだな」
「うん。うつりやすいのに薬が存在しない。怖い病気だよね——風邪ってやつは」
「ん?」
風邪?
「……風邪?」
「そう。ヒロさんはかかったことない? 俺も小さいときに何回かかかったんだけど、そのときは症状が軽かったから街を追い出されずに済んだんだ。でも絶対に家から出るなって父さんにきつく言われてさ。大変だったよ」
「ごめん、お姉さんは風邪で寝込んでるの?」
「そうだよ。もう四年になるかな。ずっと風邪で苦しんでるんだ」
カレルがさらにうなだれる。病に苦しむ姉を思って落ち込んでいるのだろう。
一方、ヒロは無意識のうちに腕を組み、眉間を寄せ、今しがたカレルが口にした病——風邪について思いを馳せた。
風邪。
風邪って、風邪だろ。
ヒロはさらに眉間の皺を深くした。カレルが嘘をついているとは思えないし、セシルが仮病を装っているようにも見えない。
おそらくセシルは、本当に「風邪」という病で苦しんでいるのだ。
無論、こちらとあちらの風邪はまったく別の病で、たまたま名前が同じだけ、という可能性もある。
ヒロの知る風邪は一日二日寝ていれば治るような病だが、こちらの風邪は世にも恐ろしい死病なのかもしれない。それこそ年若い姉弟を街から追い出さねばならないほどの。
だとすれば、ヒロとカレルの風邪に対する認識の差もうなずける。
しかし、経験上——と言うには魔女と出会った後の数時間しか経験と呼べるものはないが、おそらく、ヒロに日本語の単語として届いた言葉は、意味が同じだからこそ日本語に変換されている。
通詞の魔法は翻訳の魔法だ。
カレルがこちらの言語で喋った言葉は、同じ意味の日本語に置き換わってヒロに届く。
耳に届く前の「音」が置き換わっているのか、聞こえた「認識」が置き換わっているのかは分からないが、ひとまずその点はどうでもいい。
ともかく、通詞の魔法の性質から考えると、こちらの「風邪」とあちらの「風邪」は同じ病気を指しているのだ。
しかしそうなると、なぜセシルの風邪は四年も治らないのか、という話になる。
いくらなんでも四年は異常だ。素人考えだが、そこまでいくと他の病気の可能性の方が高そうだし、そもそもの免疫力が弱っていそうだ、とヒロは思う。
しかし通詞の魔法の翻訳は「風邪」だという。これはおかしい。だとすれば翻訳自体を疑うべきか、それとも風邪という診断を疑うべきか、そもそもこの翻訳はどこの誰が翻訳しているのか——ヒロがそんなことを悶々と考えていると、ふいにカレルが「悔しいよ」と小さく漏らした。
「うちの父さんは薬師だったんだ。八年前に風邪で死んだけどね。どの薬も風邪を治してはくれなかった。でも、体の熱を抑える薬とか、お腹の調子を整える薬とか、そういうのは効いてたんだ。父さんは自分で作った薬をよく飲んでた。すぐに治すから待ってろよ、って」
昔を思い出しているのか、さみしげな笑顔でカレルが言う。
「うちには父さんが遺してくれた本がたくさんあるんだ。……でも、俺たちは字が読めないから。薬の本があっても一冊も読めない」
「が、学校は?」
「学校って学術院のこと? あんなの貴族の大人が行くところだろ」
そう言うと、カレルは希望を託すような目でヒロを見た。
「ヒロさんは文字、読める?」
ドキリとした。心臓に細い針を突き立てられたような痛みがあった。
通詞の魔法で会話はできるようになったが、文字が読めるかは分からない。
しかしヒロは、ここで「読めない」と言ってしまえる人間ではなかった。
「読める文字と読めない文字があるから……見せてもらっていい?」
「うん!」
勢いよく返事をすると、カレルは慌ただしく本棚に向かった。
この家の中でもっともきれいに整えられた本棚、その中にある一冊。
大事に抱えたそれをヒロに差し出し、カレルは「この本だよ」と笑顔で告げた。
本はひどく劣化していたが、読めないほどではない。
すぐ隣にいるカレルが緊張しているのが気配で分かる。ヒロはおそるおそるページをめくった。
——だめだ、読めない。
「……ところどころ読める。けど、ちょっと時間がかかりそうだ。一晩だけ時間もらっていいかな」
「うん、もちろん!」
ありがとう、とカレルはひどく嬉しそうな声で言った。
まるでヒロが本を読めると確信しているような声だ。
この期待を裏切る勇気はない——ヒロはカレルに見えないところで拳をぎゅっと握りしめた。
◇
「もしもし魔女さん、いませんか」
その晩。
セシルとカレルがすっかり寝静まった夜更け頃。
こっそり家を出たヒロは、しのび足で家の裏手にまわると、すぐそばにある大木の影に隠れた。これからすることを考えると、それなりに長話をしてしまう可能性がある。うるさくしてカレルたちを起こしてしまっては申し訳ない。
ヒロは左手の親指と人差し指で左耳をぐっと引っ張ると、そこにいるはずの雇用主に声をかけた。
「……なんだ」
「たびたび申し訳ないんですが、なにとぞご助力たまわりたく」
「ずいぶん下手に出るじゃないか。殊勝だな。言ってみろ」
魔女が得意げな声で言う。
つい数時間前だったら苛立っていたかもしれない声だ。
——が、今のヒロには何としても魔女の力を借りねばならない理由がある。
「病気を治す魔法か、薬を作る魔法か、読めない文字が読めるようになる魔法。ありますか?」