05.使う言葉が違うなら
通詞の魔法。
それは先ほど魔女から聞いたばかりの魔法の名前だ。
「通詞の魔法って言葉が分かるようになる魔法って認識であってる?」
「まあ、ひとまずはその認識でいい」
魔女のその言葉から察するに、厳密には「言葉が分かるようになる魔法」ではないのだろうが、話を先に進めるため面倒な説明を省いたようだ。比朗も詳細を知りたいわけではないので、文句はない。
「その魔法を使うと、俺もこっちの世界の言葉を話せるようになるんだよな?」
「そうだ」
「うお、魔法使いって感じ」
未知の言語が扱えるようになる魔法。いかにも漫画やゲームの魔法使いが使いそうな魔法だ。
比朗はこの世界に来て初めて少しワクワクした。
「でも俺、魔法の使い方わからないんだけど。もう使えんの?」
「辰世に連れて来た時点で使えるようにしてある。そもそも声送りの魔法を使っているだろうが」
「そうだった。これ、あんまり魔法使ってる感じしないから」
携帯電話の存在に馴染みすぎているせいか、遠隔の会話くらいでは魔法を使っている気がしない。
動作としても耳を触るだけだし、いまいち魔法の特別感を感じられないのだ。
「だが——そうだな、簡単に説明してやろう」
これから大事なことを言うぞ、と仕切り直すように魔女が小さく息を吐く。
「まず先に明言しておく。厳密に言うと、おまえ自身が魔法を使えるようになったわけではない」
「んえ?」
比朗の声が裏返った。
即座に魔女との契約内容を思い出す。たしか魔女は「わたしの魔法をすべて使えるようにしてやる」と言っていたはずだ。すでに記憶があいまいになっているので、契約書を作っておけばよかったと後悔した。
とはいえ、魔女の「おまえ自身が魔法を使えるようになったわけではない」という言葉は、さすがに契約に違反しているとしか思えない。
「……魔女の魔法なら全部使えるって言ってなかった?」
手元に契約書がないため強く出られず、比朗はためらいがちに問いかけた。
しかし、魔女はやたら堂々とした声で「言ったぞ」と比朗の言葉を肯定した。契約違反の疑いがあるとは思えない威風堂々っぷりだった。
「早合点するな。理の契約に違反するほどわたしは愚かではない。いいか、そもそも人間には魔法を使うのに必要なものが備わっていないのだ」
「……魔力とか?」
「マリョク? なんだそれは。魔法を使うのに必要なのは辰星力とエメドだ」
またしても知らない言葉が出てきた。
辰星力といいエメドといい、通詞の魔法を使っても翻訳しきれない言葉なのか、もしくは翻訳する先の日本語の単語が存在していないのか。
比朗は少しだけ嫌な顔をした。
「辰星力は生命エネルギーのことだっけ。えめ……もうひとつは何?」
「星腑。辰星力を扱う器官だ。わたしの体にはそれが備わっている。星腑は辰星力の形を整える力を持つ。形を整えた辰星力を消費して出力されたものが魔法だ」
辰星力は生命エネルギーで、魔法は生命エネルギーを消費して使うもの。
ということは、魔法に必要なもの、と言われて魔力を想像した比朗はそこまで間違ってはいなかった。魔法は辰星力を消費する。ただ名称に違いがあるだけのようだ。
星腑はよく分からないが、器官というからには内臓なのかもしれない。
「でも、辰星力は減りすぎると衰弱するものなんだろ? 魔法ってのは命をすり減らして使うのか?」
「魔女であるわたしの辰星力に際限はない。よって命をすり減らすことはないが、もし人間が魔法を使いすぎれば衰弱するかもしれないな」
だが、と魔女が言葉を切る。
「先ほども言ったが、人間には星腑がない。よって魔法は使えない。もちろんおまえの体にもない。——だから、わたしの星腑と、おまえの体をつなげておいた」
「え?」
魔女と自分がつながっている。
そう言われて比朗は思わず自分の体を見下ろした。が、体からケーブルが出ているとか、細い光が出ているとか、物理的につながっている様子はない。
「今後おまえは、わたしの魔法をいつでも好きなように使うことができる。ただし、その魔法はおまえの体を経由しない。魔法を実際に使うのはわたしの体で、消費されるのもわたしの辰星力だ。おまえのもとには魔法の結果だけが出力される。文字通り、わたしの魔法であればどれでも使えるということだ」
「そ、それは無尽蔵に魔法が使えるってこと……?」
「わたしにとって魔法は上限値を気にするようなものではないが、まあその通りだ」
魔女がしれっととんでもないことを言うので、比朗は思わず閉口した。
魔女の魔法をいつでも、どれでも、好きなように使える。
魔法そのものは魔女の体で行使され、結果だけが比朗のもとに出力される。
しかも魔法のエネルギー源は比朗ではなく、魔女のものを消費する。
さらにそのエネルギーはどうやら底が存在しない。
つまりエネルギーは実質的に無限であり、しかも魔法を使った比朗の体に何の影響もないという。
——そんなばかな話があるか。
いくらなんでも大盤振る舞いすぎるだろう。うまい話を通り越して少し怖い。
比朗は焦った声で「いやいや」と話を続けた。
「も、もう少し制限かけた方がいいんじゃない? 使える魔法を限定するとか、回数制限とか、辰星力の使用上限を設定するとか」
元エンジニアの性だろうか、ユーザーなら自由に使ってどうぞ、という状況にはえも言われぬ恐怖を感じてしまう。得てしてユーザーは予想外の行動に出るものなので、システム側で動きを制限した方が結果的に不具合が少なくなるのだ。比朗が魔女も予想していなかったシステムの穴を見つけてしまったらどうするのだ——いや魔法はシステムではないのだが。
しかし、焦る比朗に対し、魔女はつまらなそうに「いらん、そんなもの」とこちらの提案を一蹴する。
「仮に使わせたくない魔法があったとして、わたしが拒めばいいだけだ」
「えっ使用状況の監視システムとかあんの?」
「しすて……? ともかく、わたしの魔法が使われているのに、わたしに分からないわけがないだろう」
魔女が呆れた声で言う。
言われてみれば、魔法を行使するのは比朗ではなく魔女の体なので、比朗が使った魔法は魔女に筒抜けだ。
人に知られて困る使い方をするつもりは微塵もなかったが、一応、魔法を使うときは魔女に見られていると思っていた方がいいだろう。
しかし——比朗は改めて魔女に与えられた力のことを考える。
無尽蔵に使える超常の力。
かつて同僚に「チート」という言葉を教えられたことがあったが、この状況こそまさにチートだろう。なにしろ魔法が使い放題だ。ただし、雇用主の気分次第で力に制限がかかるため、今の比朗を見た同僚が「チートじゃん!」と言ってくれるかどうかは分からない。
「ていうか、契約のひとつに『こっちの人間に魔法を使わせる』ってのがあるけど、星腑がないのにどうやって使わせるんだよ」
「それを考えるのがおまえの仕事だと言っている」
「あー」
なるほどね、と比朗が遠い目をする。
要は「人間社会に魔法を浸透させる」ではなく「体の構造的に魔法を使えない人間にも魔法を使えるようにする」というミッションなのだ。
それってもしかして人間の体の方を改造しなきゃならないんじゃないの、と思ったが、ひとまず比朗はこの話を打ち切った。今ここで解決策が生まれるようなものでもないだろう。
「で、俺はどうすれば通詞の魔法を使えるんだよ」
改めて本題に戻る。
魔法について知りたいことはまだあるが、まずは言葉の問題を片付けなければ。
「左手で体のどこかに触れ」
「耳から手ぇ離して大丈夫? 声送りの魔法どうなんの?」
「わたしが繋いでおくから早くしろ。ああ、触る場所はどこでもいいが耳以外だ」
「耳は声送りの魔法で使うから?」
「そうだ。よく分かったな」
「そらどうも」
おざなりな返事をしつつ、自分の体にぺたぺた触る。
こういうとき、どこでもいいと言われるとどこにするか迷ってしまう。
「ちなみに、今後おまえが魔法を使うときは毎回同じ場所を触ることになるから、それは考慮した方がいいぞ」
「じゃあどこでもよくねえじゃん! ……なら胸でいいや。ここなら喋ってる最中に触っても不自然じゃないだろうし」
「そうか」
手のひらを合わせるとか、右目に触れるとか、そういうソワソワするポーズも考えたがさすがにやめた。数年後に後悔する自分がたやすく想像できる。
なによりも、できるだけ自然に触れる場所の方がいいと思った。今後どんな状況で魔法を使うことになるか分からないからだ。
「おまえの魔法の型は『循環』で設定してある。左手が体に触れると道が形成され、その道を私の辰星力が巡る。魔法をおまえ自身に行使する場合は左手から、他者に行使する場合は右手から出力される」
「ふうん」
よく分からないので半分くらい聞き流したが、とりあえず、自分に使うときは左手、他人に使うときは右手から魔法が出てくるらしい。
通詞の魔法を自分に使うなら、出力されるのは左手からだ。左手はもとから胸元に置いてあるので、今のままでいいということだろう。
「いいか、左手を胸に置いた時点で魔法を使う準備は整っている。次は使う魔法を呼び寄せろ。今回は通詞の魔法だ。口に出してもいいし、念じてもいい。ともかくその魔法をおまえのところに呼び寄せるんだ」
「呼び寄せる……?」
「そうだ。通詞の魔法を探して、呼べ」
なんだそれ、と思ったが、魔女はそれだけ言うとしんと黙った。おそらく比朗を集中させようとしているのだろう。
もう少し詳しく教えてくれてもいいんじゃないの、と思いつつ、比朗はとりあえず目を閉じた。
やり方が分からないので、まずは胸元に置いた左手に意識を集中してみる。
呼び寄せる。何をどうやって。おーいとか言えばいいのか。おーい通詞の魔法さーん。これで来てくれたら苦労しないが。
もちろん魔法なんて見つからない。そもそも「探して呼ぶ」の意味が分からない。犬じゃないんだから。名前を呼んだらあっちから来てくれるなら話は早いが、まさかそんなわけがない。
ふと、なんとなく左手を沼につっこんだような感覚があった。どぽん、と重々しい水の音。手は胸元に置いていたはずが、いつの間に沼につっこんだのか。いや、そもそもこの沼はどこから来たんだ?
仕方ないので、そのまま腕を沼の奥につっこんでみる。ずぶずぶと沈むように奥へ進む。すると、まるで手のひらが目になったみたいに沼の中が見えるようになった。
沼の底には図書館があった。信じられないくらいたくさんの本棚が並んでいて、どの本棚にもぎっしり本が詰まっている。本の背表紙には何も書いていない。無地の背表紙が無機質にずらりと並んでいた。
その、一直線に並んだ本の中に、うすぼんやりと発光している本が一冊あった。
背表紙が銀色に光っている。あからさまにあやしいな、と思ってさらに腕を奥に進めると、なぜか本の方から寄って来て、待ってたぞと言いたげに比朗の手の中に収まった。
沼から腕を引き抜き、ぼんやり発光している表紙を見る。
——通詞の魔法。
あ、いた。これか。
「あった」
目を開いた瞬間、意識がこちら側に戻ってきた。
先ほどまで沼底の本棚を見ていたのに、今はまた森の中だ。
しかし、沼の中で掴んだはずの本がない。通詞の魔法の本を掴んだはずだったのに。
「魔法は正しく行使されたようだ。わたしの方で魔法を使った感覚があった」
「え? ……これだけで?」
「そうだ」
ふと、声送りの魔法越しに魔女が言った。満足そうな声だった。
正直なところ、魔法を使った感覚も、自分に魔法をかけた感覚もない。
しかし、魔女がそう言うならそうなのだろう。プロの言うことは聞くものだ。
「えらい簡単だな。こんな簡単でいいんだ」
「わたしの魔法を貸し出しているようなものだからな。おまえは使いたい魔法を呼び出せばいい」
「へえ……」
「通詞の魔法は放ってくと効果が切れる。どれくらいで切れるかは分からないから、切れたらまた使え」
「分かった」
魔女の言葉を聞きながら、比朗は自分の左手をじっと見下ろす。
比朗がやったのは本棚から本を探しただけだ。たったそれだけで魔法という力を使えてしまった。
もちろん、便利に越したことはない。使いやすいのはいいことだ。ユーザーの声に応えて便利になっていくシステムは実に素晴らしい。
しかし、単純に「こんな簡単で大丈夫なのか」という思いもある。これも元エンジニアの性かもしれない。新入社員なのに管理者権限を持つアカウントを割りふられてしまったような、そんな不安感が比朗の肩にずしりとのしかかっていた。
「——あ、いた!」
ふいに、森の明るい方から声が聞こえた。若い男の声だ。
比朗はとっさに声のした方に目を向けた。
「やっと見つけた! あんたいきなり走って行ったから驚いたよ」
「あ、さっきの!」
小走りでやって来たのは、先ほど未知の言語を喋っていた少年だった。
しかし、彼の言葉はもはや未知の言語ではない。耳に届いたのはどれも比朗のよく知る日本語だ。
どういう仕組みかは分からないが、通詞の魔法はきちんと効果を発揮してくれているらしい。
「見つかってよかった。ここはまだ森の浅いところだけど、奧まで行くと危ないよ」
「さっきはごめんね。道に迷ってたんだけど、その、動物と見間違えて驚いて……」
「そんなことだろうと思った」
少年が小さく苦笑する。
自分では無理のある言い訳だと思ったが、少年は納得してくれたらしい。
「わざわざ探してくれたんだ、ありがとう」
「まあね。奥まで行ってないか気になってさ。間に合ってよかった」
少年が嬉しそうにニコニコ笑う。いいことをしたぞ、という充足感に満ちた顔だ。
見れば足下は土と苔でドロドロに汚れているし、比朗を探して走って来てくれたのだろう。
この時点でとてもいい子なのは間違いない。
「道に迷ったなら街道近くまで案内してもいいけど、今から行くと夜になるし今日はうちに泊まりなよ。さすがに夜の森は危ないからね」
「えっ、その……いいの?」
「もちろん。ここで放り出すくらいなら最初から探しに来てないって。もてなしは何もできないけど」
少年がさらに笑みを深めた。比朗を歓迎してくれているのが表情で分かる。なんていい子なんだろう。
その一方、比朗は、とっさに少年の誘いを断らなかった自分にひどく驚いた。
今までの比朗なら、初対面の相手からの宿泊の誘いなんて間違いなく断っていた。たとえどんな場面でも。電車で寝過ごして終着駅に行ってしまったときですら断ったのだ。そのときは駅で一夜を明かして始発で帰った。比朗はそういう人間だった。
それがこんな異世界で、しかも相手は年若い少年。彼がどこに住んでいるのかも分からないのにほいほい着いて行って大丈夫かと警報を鳴らす自分もいるが、なるようになるだろここまで来たら、と思っている自分もいる。
知らない場所に来て開放的になっているのか、もしくは自棄になっているのか。
「そうだ、あんた名前は?」
「えーっと、ヒロだよ」
「俺はカレル。よろしくヒロさん」
姓を名乗るべきか迷ったが、やめた。
ここでは裸一貫、ヒロという人間でスタートしよう。