04.こちらとあちらは言葉が違う
比朗は思わず身構えた。
なにしろ、この世界で初めて会う人間だ。
比朗としては可能なかぎり友好的に接したいが、向こうがどんな態度で来るかは分からない。
シャクシャクと草を踏む音が近くなり、太陽の光のせいでぼやけていた人影が鮮明になる。
そして、比朗が息を飲むと同時に相手の姿が露わになり、十二、三歳くらいの少年がその場に現れた。
鈍い銀色の髪と、青色の目。
髪はぼさぼさだが、後ろでひとつに束ねているので不潔な印象はない。
むしろ大きな目と口もとのほくろが印象的な、可愛らしい顔立ちの少年だった。
しかし、頬はこけているし服もぼろぼろ、成長期の少年にしてはずいぶんやつれているように見える。
あまり裕福な家の少年ではないのか、それともこの世界の食料事情が悪いのか。
いずれにせよ、比朗を見てすぐ「不審者だ!」や「不法侵入!」と声をあげないということは、最低限のコミュニケーションを取る意思があるのだろう。比朗を見る目に警戒心がにじんでいるが、それはさすがに仕方ない。
比朗はおそるおそる前に出ると、できるかぎり友好的に見えるよう満面の笑みで笑いかけた。
「こんにちは、俺は……」
「トィヨゥルグジスエィジアニングシュル、エャ」
が、勢いよく放たれた比朗の笑みは、友好的のゆの字も見せられないままいびつな形で硬直した。
そして、少年の口から吐きだされた未知の言葉を聞いた次の瞬間。
比朗は、その場から一目散に逃げ出した。
◇
「おい魔女! 魔女! 魔女さん!」
比朗は、脇目も振らずに森を全速力で駆け抜けながら、左手の親指と人差し指で左耳を力いっぱい引っ張り、先ほど魔女に教わったばかりの「声送りの魔法」で魔女を呼んだ。
「魔女ー! 頼むお願い電話出て!」
使い方は、左手で耳に触れて魔女を呼ぶ。それだけ。魔女が暇だったら呼びかけに応じてくれるらしい。
しかし今は緊急事態だ。暇だったら、なんて魔女の気まぐれに付き合う余裕はないし、留守番電話サービスがない以上、伝言を残す選択肢もない。ともかく魔女が応じるまで呼びかけ続けなければ。
「さっき暇だったら出てやるとか言ってたけど本気で緊急だから出てくれ頼む!」
「…………聞こえている。うるさい」
「魔女いた! よかったぁあ!」
比朗は思わず右手の拳を振り上げた。そこでようやく足を止める。
「声送りを切れといったのはおまえの方だろうが。くだらん用だったら罰を下すぞ」
「こっちの人と言葉が通じないんだけど!?」
苛立つ魔女の声をさえぎり、比朗は前のめりになって声を張り上げた。
先ほど少年が口にした言語は、比朗が今まで一度も聞いたことのない言葉だった。
比朗に分かるのは中学生レベルの英語が限界だが、それでも英語をはじめとした身近な言語とはまったく違う。
地球には三千だか六千の言語が存在するらしいので、そのどれかと似ている可能性はあるが、いずれにせよ比朗の知らない言葉であることに変わりはない。
未知の言語を使う人々とのコミュニケーション。
比朗はそんな超高難度ミッションを仰せつかった覚えはない。
「……言葉?」
「そうだよ! 言語! 日本語!」
魔女が要領を得ない返事をする。声送りの魔法の向こうで首でもかしげていそうな声だ。
比朗は思わず右手の拳を握りしめた。
「さっき会った人に挨拶したら聞いたことない言葉だったんだよ! あれってこっちの言葉だろ?」
「ああ、そういうことか。そうだな」
「そうだなじゃなくてえ!」
魔女はこんなときでも淡々としている。人がこれだけ焦っているのに。
比朗は、怒りと焦りとでぐちゃぐちゃになった心を落ち着けるように息を吐いた。
「……はあ。とにかく、言葉が違うなら最初に言ってくれないと困るって。対処方があるならそれも教えといてくれないと」
言い聞かせるように比朗が言う。
人間の言葉は生物としてのアドバンテージだ。言葉があるからこそ思考できるし、他人に伝達できる。あらゆる動物の中で人間の文明がこれほど発展したのは言葉を手にしたからだろう——と、かつて比朗の母校の教授は言っていた。その話の真偽を比朗は知らないが、人間にとって言葉が重要なのはその通りだと思う。思考も伝達も、記録も、コミュニケーションも、すべて言葉を駆使して行われる。つまり、言葉が通じない状況は人間にとって非常に恐ろしい状況なのだ。
だからこそ、言葉について何も説明されなかったのが腹立たしかった。
こちらの世界の人と比朗は使っている言葉が違う。
それは何としても事前に教えておくべき情報だろう。なにしろコミュニケーションの第一歩である意思疎通がまったくできないのだから。
とはいえ、こちらの世界の住人である魔女が比朗と問題なく話せているのだから、何かしらの対処法はあるのだろう。魔法で対処しているのか、便利なアイテムでも存在するのか。
とにもかくにも、それくらい先に教えておいてくれ、と内心で愚痴をこぼしつつ、比朗は声送りの魔法越しに「頼むよ」と言った。
しかし。
「対処法など。人間は言葉が違くてもどうにかするだろう?」
「は?」
ぴし、と空気に亀裂が入ったような感覚があった。いや、もちろん錯覚だが。
魔女の返答はそれほど比朗の予想を裏切るものだった。
「こちらの人間は住んでいる場所によって違う言葉を使っているが、別の土地の言葉を覚える人間もいる。何種類も使い分ける人間もいるぞ。必要に応じて習得しているのだろう。人間の言葉とはそういうものだ。違うか?」
魔女の声は例に漏れず淡々としていた。これ以上ないくらい淡々と。中学生の音読だってもう少し抑揚をつけて喋るだろうに。
比朗は絶句した。絶句するしかなかった。
同時に、嫌な予感がじわじわとこみ上げてきた。
まさか、という思いが頭の中いっぱいに広がり、比朗は意図せず口角をひくりとふるわせた。
「一応、聞くけど。もしかして、今までこっちに連れて来た人たちの言葉って、」
「最初は言葉が通じなかっただろうな」
魔女は当然のことのようにそう言い切った。
比朗の体から力が抜ける。やっぱりか——という絶望感が重くのしかかった。
「……そんな無責任なことしておいて、地球の人間はすぐ衰弱するとか死ぬとかよく言えたな」
「なんだと」
魔女が露骨に苛立った声をあげたが、比朗の方も気が収まらない。
「あのなあ、言葉の習得ってのは簡単じゃないんだよ」
言いながら、怒りがじわじわと湧いてくるのを感じた。
魔女にとって人間はしょせん資源でしかないのだろう。それはいい。この女に人権がどうのと説くつもりはない。
しかし、これで資源を有効活用しているつもりになっているなら話は別だ。
世界をまたぐ拉致を敢行しておきながら言葉の通じない場所に放り出すなんて、いくらなんでも無責任すぎる。
「こっちに放り出された人は質問するための言葉すら知らないってことだろ。あれはなんですかって質問したくても、質問の言葉を知らない。しかも安全な場所も分からないし、何を食えばいいかも分からない。どう考えてもその日を乗り越えるだけで精一杯だよ。そんな状況で言葉も勉強しなきゃならないなんて、心も体も弱って当たり前だ」
比朗は苛立ちにまかせてまくし立てた。
辰世に放り出された先人の状況は比朗の想像だが、おそらくそこまで間違ってはいないだろう。
名も知らない彼らの苦労を思うと心が痛む。
文字通り何もかも分からない中、まともな食事と睡眠を得るために必死だったに違いない。
魔女は先ほどからじっと黙っている。
ときおりコツコツと小さな音が聞こえるので、声送りの魔法を中断したわけではないらしい。音の正体は分からないが、指で机を叩いているような音に聞こえるので、おそらく苛立っているのだろう。
比朗の話への反論を探っているのか、それともわざと黙っているのか。
——これは、少し嫌味な言い方をしてでも理解させた方がいいかもしれない。
「ちなみに、魔女は俺とこうやって普通に喋ってるけど、これは魔女が日本語を習得してるからなのか?」
「……いや、これは魔法だ。通詞の魔法」
魔女の声が小さい。最初よりぼそぼそ聞こえる。
分が悪いと思っているのかもしれない。
「やっぱり魔法か。てことは、魔女も日本語を習得してるわけじゃないんだよな?」
「ああ」
「つまり魔女は、自分にできないことを俺ら人間に押し付けてるってことだ」
比朗は、あえて嫌味に聞こえる言葉を選んで言った。
一、二時間ほど前に出会ったばかりで信頼関係も何もない、それどころか自分のことを資源か家畜だと思っている相手に売っていい喧嘩ではないのは分かっている。
しかし、それでも言わずにはいられなかった。
「わたしにできないこと……だと?」
魔女の声に明確な怒りが滲んだ。
比朗は「今のやっぱなし」と言いたくなる気持ちを抑え、どうにか話を続けた。
「事実としてそうだろ。魔女は日本語の話者ではないんだし」
「わたしがおまえの言葉を習得する理由はない。こうして通じるのだから」
「だからそれは魔法なんだろ。言葉を習得したわけじゃない。なのに人間には当然みたいに押し付けてる」
自分はやってないくせに、できないくせに、という方向に話を強調する。
「言っておくけど、知らない世界に放り出された上に言葉が通じなかったら、普通は何もできないよ。すぐ衰弱して当然だ。魔女は地球の人間の弱さに文句を言ってたけど、まともに暮らせる状況を用意してなかった魔女にも非はあると思う」
今度は比朗が淡々と言う。
目的は魔女を言い負かすことではなく、人間の性質を理解してもらうこと。
魔女にとって人間がただの資源でも、資源ならきちんと有効活用するべきで、そのためには正しい知識が不可欠なのだ。
ついでに、魔女が人間の理解を深めることは今後の比朗の生活に直結する。
人間はなんとかできる生物だから大丈夫だと思った——なんて調子で海に落とされでもしたらたまったものではない。
そしてなにより、地球から連れて来られた人々は比朗にとって同胞だ。
彼らの苦労を思うと、どれだけ魔女に文句を言っても言い足りない。
「言葉の習得なんて、そういうのが得意な人はともかく、普通は死に物狂いでやっても数ヶ月はかかるんじゃないかな。人によっては死ぬまで言葉が分からないままかもしれない」
「死ぬまで……」
覚えがあるのか、声送りの魔法越しに魔女がぽつりとつぶやく。
もしかしたら、今まで連れて来られた人の中に、死ぬまでこちらの言葉を習得できなかった人がいたのかもしれない。
声送りの魔法越しなので魔女の表情は分からないが、膨れ上がった怒りが少しずつ沈静しているのが雰囲気で分かった。
しばらくの沈黙の後、魔女は肺の中身をすべて吐きだすような息をついた。
「分かった。認識を改めよう」
はっきりとした声で魔女は言った。
すでに先ほどの怒気は消えており、元の淡々とした調子に戻っている。
「おまえの話を聞くかぎり、人間はわたしが思っていたほど順応力が高くないのだな。賢くないし、生物として出来が悪い」
「は?」
「だから魔法で解決してやる」
先ほどよりも凜とした声で魔女は言った。
どこか自棄のような雰囲気もあったが、まあ、それは気にしなくてもいいだろう。
「天川比朗、おまえも通詞の魔法を使え。そして今後、わたしが連れて来る人間にも同じ魔法を使わせろ。——それなら文句はないだろう」