02.人間は愛すべき資源なので
しばらくして、病院から「妹さんが目を覚ましました」と連絡が来た。
連絡をくれた看護師は妹の入院当初からの付き合いで、電話越しでも分かるほど慌てていた。前兆もなく急に目を覚ましたのだから無理もない。むしろ、冷静に伝えようとしつつも隠しきれない喜びが声に滲んでいた。
いずれにせよ、「天川やよいは目を覚ました」という自称魔女の言葉はこれで証明された。
されてしまった。
比朗はスマートフォンのディスプレイをタップして通話を終えると、改めて自称魔女に向き直った。
「……本当に、目を覚ましたって」
「そう言っただろう」
「魔女ってのはこんなことまでできるんだな」
「人間の体を調整するくらい何のことはない」
魔女がつまらなそうに言う。だからなんだと思っていそうな表情だった。きっと彼女にとって「人間の体を調整すること」は本当になんでもないことなのだろう。
しかし、比朗にとっては違う。
最初は不審者にしか見えなかった彼女の姿が、今は妹を助けてくれた神々しい何かに見える。
自称魔女なんてとんでもない。魔法でも使わなければできない芸当を目の当たりにして、もはや「自分は魔女だ」という彼女の言葉を疑う気持ちは微塵もなかった。
「……ありがとう」
驚きのあまり言い忘れていた言葉が、喉の奥からするっと出た。
魔女は、四年もの間ずっと眠り続けていた妹を救ってくれた。
いや、正直なところ「とてつもなく壮大で最低なドッキリなのでは」「手の込んだ夢なのでは」という、この状況を疑う気持ちも多少はある。とくに後者は否定できない。もしかしたら本物の比朗はまだ会社にいて、デバッグ中に寝こけているだけなのでは——そんな可能性が脳裏に浮かぶ。
けれど、梅雨前のじっとりとした空気が、古びた街灯から聞こえる音が、携帯電話の向こうで必死に涙を堪えていた看護師の声が、この状況は現実なのだと比朗に教えてくれている。
そうだ。この状況は現実だ。
妹は助かった。目を覚ました。これは現実に起こっていることなのだ。
「正直、助かると思ってなかった。妹の入院費を一生稼ぎ続ける覚悟だったから」
「そうか。未練がなくなってよかったな」
魔女が満足げにうなずく。こちらの感謝は一応伝わっているらしい。
しかし、感謝されることをした自覚はあるようだが、魔女はみずからの力を誇ることも賞賛を求めることもしない。
それどころか、ただただ比朗の「未練」がなくなったことを喜んでいる。それが比朗にはふしぎでならない。
「……なんでここまでしてくれるんだ?」
「言ったはずだ。消滅寸前の辰世を守るためだと」
「生命エネルギー補給のために俺をそっちに連れて行くんだろ? それは理解したよ。でもそっちに連れて行ってしまえば、あとは未練のせいで衰弱しようが早死にしようが問題ないんじゃないか?」
エネルギー供給のシステムがどうなっているかは知らないが、比朗がトキヨとやらに着いた時点でジュッとエネルギーを吸い取ってしまえばいいのではないだろうか。それこそ吸血鬼が血を吸うみたいに。
言い方は悪いが、この魔女が生命倫理を重視しているようには見えない。人間の生死に頓着などないだろう。エネルギー補給ができるなら生きようが死のうがどっちでもいい、と思っていそうだ。
しかし魔女は首を横に振る。「それではだめだ」と言って眉根を寄せた。
「わたしはそれで何度も失敗した。辰世の維持には辰星力という……おまえたちの言葉で言うエネルギーが必要なんだが、これはほんの少しずつ世界に還元される。エネルギーは継続的に必要だ。だから生きていなければ意味がない」
「ああ、いっきに取るんじゃなくて、定期的に少しずつ取っていくのか」
「そうだ。還元されるエネルギーの量は生物によって違うんだが、こちらの人間はその効率がいい。しかしどれだけ効率がよくても、死んでしまっては意味がない」
そういうことか、と納得して比朗はうなずいた。
つまり、人間に長生きしてもらうのが魔女にとって最も都合がいいのだ。
しかし、こちらの人間を連れて行ってもなぜか衰弱して死んでしまうので、魔女は「こちらの世界への未練」に原因があると考えた。
「そのおかげで妹は助けてもらえたわけだ。俺がこっちに未練を残さないように」
「そうだ。今までたくさんの人間を向こうに連れて行ったが、家族だの仕事だのさんざん喚いた末に弱って死んだ。それもこちらの世界に未練を残してきたせいだろう」
「なるほど……?」
魔女は忌々しげに目を細めたが、魔女の言葉がいまいち腑に落ちなかった比朗は首をひねった。
こちらの世界に残してきた家族や恋人がいるとして、そのせいで衰弱したりするだろうか。もちろん急に異世界に連れ去られたストレスは甚大だろうが、どちらかというと「何が何でも生きて元の世界に戻ってやる」と奮起する者の方が多そうだ。
「それさ、衰弱死って本当に未練のせいなの?」
「どういう意味だ?」
魔女がはてと首をかしげる。
「弱るってことは、そもそもまともに生活できてないんじゃないの? 食事とか家とか、病気とか」
死の原因が衰弱なら、まず生活環境を疑うべきでは。
比朗はそう思ったが、一方の魔女は羽虫でも追い払うように手を揺らすと、ひどくつまらなそうに「知ったことか」と言い捨てた。
「人間は人間だけで生きられる生物だ。辰世の人間はそうだぞ。ならばこちらの人間も自分でどうにかできるだろう」
「え、じゃあこっちの人間をそっちに連れて行った後のフォローは? ないの?」
「なぜわたしがそんなことをする必要がある?」
そうはっきりと言い捨てた魔女に、さすがにそれはどうなんだ、と比朗は思った。
彼女にどれだけ崇高な目的があろうとも、やっていることは人さらいだ。その人の人生をまるごと奪うのだから、せめて生活基盤は整えるべきだろう。それがさらった側の最低限の責任だ。
本当はさらう時点で犯罪だが、魔女に刑法を説いたところで意味がないのは比朗にも分かる。
「人を拉致するなら、せめて生活できるようにしろよ。長生きさせたいなら健康的な生活は必須だし。拉致した張本人として体制くらい整えるべきだろ?」
自分の声に不満が滲んでいるのを自覚しながら、比朗は言った。
仮に、臓器売買のための拉致なら生活基盤など不要だろう。すぐ死ぬ相手のために基盤を整える意味はない。
しかし、魔女は人間に長生きさせることを目指している。だとすれば最優先は人間の健康であり、すなわち生活基盤だ。
それをないがしろにしておいて「弱ってすぐ死ぬ」と文句を言うのは、あまりにも無責任ではないか?
「なるほど、納得した。——ならば、おまえがそれをやれ」
「は?」
突如、この上ない名案を思い付いたような顔で魔女は言った。
「おまえは人間だからな、同胞のことなら同じ人間がやった方がいいだろう」
「え、……え?」
明後日の方からとんでもない提案が飛んできた。
魔女は得心を得た顔で大きくうなずいている。比朗はなにも納得していないのに。
「わたしはおまえの妹を直した。その対価だ。辰世のため、魔女のために働け」
「え、いやっ、なんで俺が」
「もう決めた。おまえにやらせる」
「そっ、そもそも俺はそっちに行くことを了承したわけじゃないんだけどぉ、」
「そこまで言うなら仕方ない。その場合はおまえの辰星力をすべて抽出して持ち帰るまでだ。無論、辰星力を失ったおまえは死ぬが」
「死、っ」
「ここまで来て成果なく帰るわけにはいかないからな。わたしには辰世を救う義務がある」
感情のない声で魔女が言う。
まるで取扱説明書でも読み上げるみたいに淡々と。
ひたいから汗が垂れ落ちる。
比朗は無意識のうちに息を止めた。頭が痛い。脳みそが酸素を求めて警報を鳴らしているのかもしれない。
おそらく魔女は、人間という生物を家畜だと思っている。
ここで言う「家畜」は、蔑みや差別の意味を含んだ言葉ではない。
家畜とは人間が生活に利用するために飼育・繁殖させる動物のことを指すが、それと同じだ。
魔女は人間をエネルギー補給のための資源だと思っているのだ。
比朗は、過去に読んだ本の中に「酪農家は肉牛に『美味しく育て』という愛情を込める、それが酪農家の愛情である」という一文があったのを思い出した。
そのときは意味が分からなかったが、今わかった。それこそ魔女が人間に向ける慈しみだ。
人間を「エネルギー源として健やかに生きろ」と慈しむ。それが魔女の慈愛。
しかし、その慈愛は人間を個人として認識しない。よって個人の希望を汲むこともない。
比朗の妹を助けたのは「比朗が未練なく健やかに長生きするため」であり、決して比朗自身のためではないのだ。
魔女と人間は、生物としてのレイヤーが違う。
直感的にそう理解した比朗は抵抗をやめた。
諦めた——というより、受け入れた。
「わかったよ」
この女の言葉に逆らうのは、無意味だ。
ずっと止めっぱなしだった息を吐き、比朗は改めて正面を見据えた。
「……いや、正直ぜんぜん納得してないけど、とりあえずわかった。俺は地球を出てべつの世界に放り出される。その世界で異世界人が平和に暮らせるように基盤を作る。そういうことだな」
「そうだ」
魔女が満足そうに笑う。子どもみたいな外見のくせに、笑顔だけが達観した修行僧みたいで気味が悪い。こいつは本当に人間じゃないんだな、と問答無用で理解させられるような笑顔だった。
「一応聞くけど、アパートを引き払ったり退職届を出したりする猶予はもらえんの?」
「タイショクトドケ?」
「……俺はこの後すぐ連れて行かれるのか?」
「ああ、そうだ」
やっぱりか、と比朗は肩をすくめる。
社会人として最低限の後始末くらいさせて欲しかったが、別世界の魔女がそのあたりを理解してくれるとも思えない。アパートも携帯電話も光熱費も、会社も、定期預金も、すべて諦めるしかないだろう。迷惑な契約主で申し訳ない。
とはいえ、もし叶うなら最後に妹の顔は見て行きたい。先ほどの電話でも「お兄さん今すぐ来てください」と言われたし、最後だからと魔女に頼み混んでみてもいいのだが──正直なところ、妹が元気ならそれでいいや、とも思う。
四年間、ずっと眠ったままだったやよいが目を覚ました——うん、じゅうぶんだ。
今後のことは弁護士がよきにはからってくれるはずだし、比朗が気にすることは何もない。
「わかった。じゃあ連れて行ってくれ。俺はいつでもいい」
比朗はそう言って息を吐いた。
どうせこちらの意見が通らないなら、いちいち主張するだけ無駄だ。
しかしそんな比朗の態度をどう思ったのか、魔女はおもむろに手を顎に添えると、何かを思案するように目を細めた。
「なんだよ、行かないのか?」
「天川比朗。わたしはひとつ訂正する。おまえは物わかりがいい」
「そらどうも」
比朗のおざなりな返事を無視して、魔女は思案を深めるように首をかしげる。
「おまえは使い勝手がよさそうだ」
「は?」
魔女の口角がにゅっと引き上がる。
「天川比朗。ついでにもうひとつ、辰世とわたしのために働け」
「えっ、いやもう無理だって」
どう考えても「異世界人の生活基盤を作る」というタスクだけで比朗のキャパシティは限界だ。これ以上は過剰労働になってしまう。
「辰世の人間はとにかく弱い。辰星力の効率がすこぶる悪くてすぐ弱る。すぐに死ぬ。わたしはそれをどうにかしたい」
「人の話を聞け」
しかし魔女は比朗を無視して話を続ける。
「魔女は魔女にしか扱えない力を使う。これを人間は魔法と呼んでいる。そこで、この魔法を人間にも使わせたい。無論、魔女と同じようには使えないだろうが、簡単なものだけでも使わせたい」
「ええ……」
「人間に魔法の力を使わせてでも、人間の寿命を延ばしたい」
魔女がじっと比朗を見る。
彼女の声は相変わらず淡々としていたが、最後の言葉には切実さがあった。
きっと魔女も焦っているのだ。辰世を守るためにどんな手でも試そうとしている。
「……俺、魔法がどんなもんかも知らないけど」
「ではおまえも魔法を使えるようにしよう。それでいいか?」
「そ、そんなことできんの?」
「できる。わたしの魔法をすべて使えるようにしてやる。その力をもって人間にも魔法の力を浸透させろ」
「いや、そんなんできるなら他の人間にも同じことすればいいだけなんじゃ、」
「それはできない。だからおまえにやれと言っている」
比朗の言葉を勢いよく遮ると、魔女は忌々しげな顔で右手をすっと持ち上げた。
指先をぴんと伸ばし、手のひらを比朗へと向ける。
その中心に小さな光が灯った。淡い小さな光だが、まるで夜道を照らすしるべのような光だった。
「妹は直した。力も与える。天川比朗、おまえは辰世とわたしに報いるだけの理由がある。そうだろう?」
魔女の言葉に、比朗は思わず息を飲んだ。
受けた恩に報いる——それは人間の理屈だ。
人間のことを資源としか思っていないくせに、あえて人間の理屈で比朗を絡め取ろうとするあたり、この魔女は「人間」という生物の性質を知らないわけではないのだろう。知った上で利用している。そういう狡猾さを彼女は持っている。
そして魔女の思惑通り、比朗はもう彼女の命令を拒めない。
受けた恩は返す——それは比朗にとって当たり前のことだから。
「…………わかったよ」
比朗がしぶしぶうなずく。
よく考えなくとも、妹を助けてもらった時点で断る道はなかった。
しかし、今の生活をすべて捨てろと言われてすぐ納得するのは難しいのだ。
「よし。では契約をしよう」
「契約?」
「ああ。魔女との契約は不変の契約。原理の契りだ」
「ふうん。契約書でも作るのか? それとも血に刻まれるとか?」
魔法の契約ならそういうこともありそう、と思った比朗が冗談交じりに言うと、魔女は首をゆっくり横に振った。
「違う。魔女の契約は理に刻まれる」
ことわり。
言葉は知っているが、あまり聞き慣れない言葉だ。
ふと、魔女が静かに目を閉じた。
どこからともなく風が吹き、魔女のクラゲみたいな服の裾がゆらゆら揺れた。しかし街路樹はどれも枝を揺らすことなくしんとしており、道ばたの木の葉も動かない。比朗と魔女は間違いなく風に吹かれているのに。
彼女の右手の光が大きくなり、まるで夏の海に反射する太陽のように辺りをまばゆく照らした。
「——結ぶ。白き者が原理に奏する」
おごそかな声で魔女が言うと、唐突に周囲の音がすべて消えた。
ひりひりとした緊張感が辺りを包む。
何かは分からないが、何かが起きている。それだけは魔法のまの字も知らない比朗にも分かった。
「天川比朗」
魔女の目が比朗を射抜く。金色の瞳。淡い光を纏ったその瞳はぞっとするほどきれいだった。
「辰世で死なずに生きると誓え」
「……寿命と事故は勘弁してくれ。それ以外では死なないようにする」
比朗の答えに呼応するように、魔女の右手の光がわずかに強まる。
「辰世の民に辰星力の力を与えると誓え」
「そっちの人間に魔法を使わせろって意味だよな? どうすればいいかまったく分かんないけど、とりあえず了解」
さらに光が強くなる。
耳鳴りがするのは気のせいだろうか。
「辰世を訪れる旅人の安寧を守ると誓え」
「生活基盤のことだよな? まずは自分の生活を優先させてもらうけど了解。ちなみに期限は?」
「そうだな、人間の時間で十年もあればいいだろう」
「十年か……。じゃあ十年間は異世界の人間を連れ込まないで欲しい。基盤ができてからにしてくれ」
「数は減らそう。辰世を維持するため皆無とはいかないが」
「じゃあそれで」
「わかった。契約成立だ」
周囲の空気がじわじわ圧縮されるような感覚があって、耳の奥がキンと痛む。
自分の体が少しずつ透けていっている気がするが、これはトキヨとやらに転送が始まっているせいだろうか。
「どうせこちらの世界には戻れないが、戻ろうとは思うな」
「俺は約束したことは守るよ」
妹を助けた恩に報いろと魔女は言い、比朗はそれを了承した。
言葉は約束だ。
ならば、比朗にはその約束を守る義務がある。
「心配しなくても、妹を助けてもらったぶんはちゃんと働く」
「よき返事だ」
体が少しずつ透けていく。
自分がこの世界から消えていくのが分かる。
穴に飛びこんだり光に包まれたりするものだと思っていたが、世界を飛び越えるというのは思っていたより絵面が地味だ。
「そういえば、魔女……さんの名前って聞いてないよね」
「そうだな。だが魔女に名はないぞ」
「そうなのか。じゃあ魔女って呼ぶけどいい?」
「……好きに呼べ」
魔女が少しだけ口角を引き上げる。
この世界で比朗が最後に見たのは、そんな魔女の顔だった。