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01.こちらの世界に未練がないなら

 天川比朗(あまかわひろ)が魔女と出会ったのは、新宿の職場から自宅までの帰路の途中、最寄り駅から少し離れた住宅街でのことだった。


 小さな開発会社でITエンジニアをやっている比朗は、基本的に帰りが遅い。

 よく言えば少数精鋭、悪く言えばブラック企業、間を取って万年人手不足な比朗の会社では、社員の帰宅が夜の二十三時を過ぎることも珍しくない。今日も例に漏れず、比朗は納期直前のシステムのデバッグのため終電ギリギリの時間まで仕事に従事していた。

 デバッグとはシステムのバグを探して解析・修正する作業のことを指す。本来、比朗の仕事はプログラムを書く方がメインで、デバッグは同僚の仕事なのだが、よりによって納期二日前のクソ忙しい時期に同僚がインフルエンザに罹患、代わりに比朗がデバッグ要員として駆り出された。おかげで帰宅時間が三日連続で日付変更線を超えてしまった。残業代が出るからなんとか我慢しているが、これで無給だったら早々に労基案件にしていただろう。


 そんなわけで、この日の比朗は夜の一時過ぎに街灯の下を歩いていた。

 周囲には誰もいない。駅から遠いアパートに住んでいるため、家までの距離はそこそこあるが、小学校や公園が近いので治安だけは悪くない。今日のように夜にとぼとぼ歩いていても、道ばたでたむろする若者たちに会うこともないし、改造バイクの轟音が響きわたることもない。せいぜい車の音が聞こえる程度だ。


 そんな静かな夜道を歩いていると、とつぜん背後から声をかけられた。


「そこの人間。男。日本人。天川比朗」


 知らない声だった。

 抑揚のない声は冷ややかで、ぞっとするほど温度を感じない。


 驚いた比朗が振り返ると、そこには得体の知れない女が立っていた。


 その女は、なぜかぼんやりとした銀色の光を纏っていた。

 地面に付きそうなほど長い髪、裾がクラゲのような形のワンピース、大きな花みたいな帽子、そして子どものような小さい体。

 人間と同じ形をしているが、こいつは人間じゃないと確信させる雰囲気があった。


「わたしは魔女だ」

「…………は?」


 比朗はぽかんと口を開けた。

 こんな夜中に話しかけてきて何わけ分かんないこと言ってんだ、と素直に驚く。


「おまえは天川比朗だな。人間。男。二十八歳。間違いないか?」

「な、なんだいきなり」

「さきほども言ったがわたしは魔女だ。で、おまえは天川比朗で間違いないか」

「間違いはない、けど……」

「そうか」


 女が満足げに大きくうなずく。どうやら彼女は比朗を探していたらしい。

 とはいえ、この自称魔女はどう見ても普通ではない。控えめに言って不審者だ。比朗は質問に答えてしまったことを後悔した。

 しかし、比朗の後悔をよそに自称魔女は話を続ける。


「わたしはトキヨから来た。トキヨは今、エニシダが足りておらず存在が弱まっている。消滅寸前だ。だからわたしはトキヨの消滅を回避するため、おまえをトキヨに連れて行かねばならない」

「え、急に……なに? ときよ?」

「……言語の調整が間に合ってないようだな」


 ときよ。えにしだ。知らない言葉がたくさん出てきて、混乱した比朗は眉根を寄せる。

 しかし、自称魔女は焦ることなく、つまらなそうな顔でため息をついた。


「そうだな、辰世(トキヨ)はおまえたちが言うところの異世界、辰星力(エニシダ)は生命エネルギーのようなものだ。わかるか?」

「わ、わかるわけあるか」

「……チッ、物わかりが悪いな」


 いま舌打ちしなかったかこの女。比朗は思わずぎょっとする。

 品のよさそうな見た目のわりに、中身はずいぶん粗雑らしい。


「だが……適当に連れて行くと失敗するからな。そのせいでわたしは何度も失敗した。これ以上は失敗できない」

「失敗?」

「そうだ。わたしはもう失敗したくない。だからおまえにもちゃんと説明してやる」


 子どものような外見に不似合いな皺を眉間に刻み、自称魔女は自分に言い聞かせるように言った。

 今までたくさん失敗してしまった、だから今度こそは失敗しないように——彼女の表情にはそんな悔恨と反省があった。

 急に現れてわけの分からない話を展開し始めた自称魔女だが、この状況を説明するつもりはあるらしいと分かって、比朗はひとまず安堵した。


「わたしは辰世(トキヨ)の魔女だ。違う世界から来た別の生き物と思え。辰世(トキヨ)という世界を保つためには辰星力(エニシダ)……生命エネルギーがいる。しかしそれが足りなくなって、辰世(トキヨ)は消滅寸前だ。よってエネルギーを調達する必要がある。そして、こちらの世界の人間は生命エネルギーの効率が非常にいい。だから、わたしはこちらの世界の人間を向こうに連れて行きたい。わかったか?」


 自称魔女は淡々と説明した。未知の単語を連発された説明が説明になっているかは置いておいて、理解させようとする意思だけは感じられた。


 辰世(トキヨ)という別世界があり、魔女はそこから来た。

 その世界を保つためには、辰星力(エニシダ)という生命エネルギーがいる。

 しかし、そのエネルギーが足りなくなったせいで、いまや辰世(トキヨ)は消滅寸前。

 こちらの人間はエネルギー効率がいいので、補給のため辰世(トキヨ)に連れて行きたい。

 その対象として比朗が選ばれた。


 世界って仏教用語じゃなかったっけ、とか。

 世界を保つってどういう意味だ、とか。

 生命エネルギーの効率って何、とか。

 そもそもなぜ比朗が選ばれたのか、とか。

 疑問は尽きないが、比朗は自称魔女の話の大枠を理解した。

 つまり、これは。


「……異世界転生、とか、そういうやつ?」

「ああ、以前連れて行った人間の中にそんなことを言っていた奴がいたな。イセカイテンセイ。わたしにはよく分からないが、おまえにとってその言葉の方が分かりやすいならそれでいい」

「いや、なんもよくないけど」

「ともかく、説明は以上だ。わたしがおまえを辰世に連れて行く理由は分かっただろう?」


 言って、自称魔女は比朗に手を差し出した。

 裾がクラゲみたいな服は袖も同じようにふよふよしていて、そこから伸びている手はぎょっとするほど白くて細い。


 比朗は自称魔女の手を見ながら考える。この手を取れということだろうか。辰世(トキヨ)に連れて行くからこの手を握れ、と。

 しかし比朗は、こうも無茶苦茶なことを言われてはいそうですかと手を握り返す男ではない。


「いやいや無理だよ、断る。無理です」


 比朗は勢いよく首を横に振った。

 唐突な異世界転生など受け入れられるわけがない。世界の危機だろうが消滅寸前だろうが、無理なものは無理だ。

 自称魔女はぴくりと片眉を上げると、意味が分からないと言いたげに目を細めた。


「断ろうが連れて行くぞ。わたしには辰世(トキヨ)を守る義務がある」

「いやだから、無理だって」

「なぜだ。おまえにはこの世界を離れられないほどの未練はないだろう?」

「未練って、そんなのあるに決まってるだろ。初対面のくせに勝手なこと言うな」

「いや、そんなはずはない。なぜならおまえには血縁の人間がいない。ならばこちらの世界に未練はないはずだ」

「……えっ」


 自称魔女が淡々と語った言葉に、比朗は胸を穿たれたようにぎくりとした。

 比朗には血縁の人間がいない。

 たしかにその通りだ。しかし、そんな個人情報をなぜ自称魔女が知っているのか。


「なっ、……んで、知ってんだ」

「そういう条件で人間を探したからだ」


 自称魔女の口角がにたりと引き上がる。


「過去に連れて行った人間の多くが家族だなんだと喚いてな。元の世界に家族がいるから帰りたい、帰らせろ、と。そしてこちらの世界に戻る方法を探すうちに衰弱して死んだのだ。ああ、先に言っておくがこちらの世界には戻れない。わたしが戻さない。しかし、せっかく連れて行ってもすぐ死んでしまっては意味がない。だからこちらの世界に未練を残さないよう、血縁者のいない人間を選ぶことにしたのだ」

「それで俺か」

「そうだ。おまえに血縁者はいないだろう?」

「たしかに……いない、けど」


 背筋に脂汗が浮いているのがわかる。

 比朗の身の上を知る者は少ない。

 それこそ会社の同僚や友人にも伝えていないので、伝聞で手に入れられる情報でもない。

 ならばなぜ、この女は比朗に血縁者がいないことを知っているのか?


 そういう条件で人間を探した、と自称魔女は言った。

 魔女——本当にそんな存在がいるのだろうか。

 いまだ目の前の展開について行けていない。何が起こっているのか、この女は誰なのか、どうして夜中の公園で不審者に話しかけられているのに、自分はここから立ち去ろうとしないのか。


「夢……じゃないんだよな?」

「いや、夢だと思いたければ思うがいい」

「いいのかよ」

「ああ、好きにしろ。おまえがどう思うがわたしは困らないからな」


 そう言った自称魔女のつまらなさそうな表情に、比朗は思わずぞっとした。

 必死の嘆願を右から左に聞き流しているような、最初から叶えるつもりのない命乞いをただ眺めているような。無慈悲な表情ともまた違う。そもそも比朗のことを慈悲をかける相手として認識していない——それこそ経済動物を見るときのような目をしている。

 わたしは困らないという言葉の通り、比朗がどう思おうと彼女は本当に困らないのだろう。きっと彼女は、比朗がどれだけ嫌がろうと暴れようと、こちらの意思を無視して比朗を自分の世界に連れて行くに違いない。根拠はないがそう確信するような表情だった。


「……夢じゃない、と仮定して、だ」


 もしかして自分の目の前にいるのはとんでもない化け物なのでは——そんな恐怖を必死に抑えつけながら、比朗は深く細く息を吐いた。


「たしかに俺に血縁はいない。両親は大昔に死んでるからな。でも家族はいる」

「ん? 家族とは血縁者のことを指すのではないのか?」

「天涯孤独になった俺を引き取ってくれた夫婦がいるんだよ。まあ……その人たちも四年前に亡くなったんだけど。でもその夫婦には娘がいる。俺にとっては妹だ」

「血縁じゃなくとも妹なのか?」

「そうだよ。四年前の事故で義理の両親は死んで、妹は昏睡状態になった。もうずっと眠ったままだ。でも医者が言うにはいつ目覚めてもおかしくないらしい。だから俺は妹の入院費用を稼がなきゃならない。異世界だかトキヨだか知らないけど、俺は妹の目が覚めるまで今の仕事をやめるわけにはいかないんだよ」

「ほう」


 なるほど、と自称魔女が納得した顔でうなずく。


「それなら、妹が目を覚ませばおまえの未練はなくなるか?」

「え?」


 自称魔女が何かを思い付いたような顔で目をぱちぱちとしばたたいた。


 とてもよくしてくれた義理の両親。

 義理の兄という存在にとまどいながらも慕ってくれた妹。

 そんな三人が交通事故にあったのは四年前のことだ。ひどい事故で、義理の両親は即死だった。

 妹は唯一生き残ったが、今も病院で眠っている。


 妹は比朗にとって最後の肉親だ。

 いつ目を覚ますか分からない、生命維持のため入院が必須だと医者に聞かされたとき、比朗は一も二もなく自分がすべての費用を負担すると告げた。兄として当然のことだと思った。

 一円も手を付けていない事故の保険金が全額口座に残っているため、比朗の支払能力に限界が来ればそれを頼ることもあるかもしれない。

 しかし、妹の入院費用を稼ぐことが比朗の生きる目的になっていたのは事実だ。

 

 だとすれば。

 もしも妹が目を覚ましたら。


「おまえの記憶から辿るぞ。……妹、つまり女だな。十二歳。天川やよい。柿の木総合病院にいる。間違いないか?」

「な、ない、けど……」


 記憶から辿る。何を? どのように?

 天川やよいはたしかに比朗の妹の名前だ。十二歳だし、入院先もあっている。


 けれど、自称魔女の言いようは、まるで————


「…………よし」


 目を閉じた自称魔女が何かを念じるような顔をしてから約十秒。


「目を覚ましたぞ」

「え、………は?」

「天川やよいは目を覚ました」


 そう言うと、自称魔女は得意げに口角を引き上げ、にやりと笑った。


「天川比朗。これで未練はないな?」

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