10.人は世界のための資源ではない
セシルに促され、ヒロは家の外に出た。
先ほどまで静かだった森がさわさわとざわめいている。いつの間に風が出てきたのだろう。夜空に浮かぶ雲の動きもずいぶん速いので、上空ではさらに強い風が吹いているらしい。
ヒロはTシャツの袖を引っ張ると、小声で「さむ」と呟いた。凍えるほど寒くはないが、腕をさすりたくなるくらいには肌寒い。
ふと、そういえば今の季節はいつなのだろう、とヒロは思った。そもそもこの世界に季節という概念はあるのだろうか。昼と夜があるからおそらく自転はしているのだろうが——いや、まずもってこの世界は球体なのか、というより惑星なのか、夜空に浮かんでいるのは月でいいのか?
そんなことを悶々と考えていると、隣に立っていたセシルに「お疲れのところすみません」と頭を下げられてしまった。ぼーっとしすぎた。ヒロは慌てて「とんでもないです」と首を振った。
「どうしてもヒロさんとお話したいことがありまして。あ、わたしにはあまり近付かないでくださいね。風邪がうつっては事ですから」
「お気遣いありがとうございます」
風邪なら大丈夫だと思うけどなあ、と内心で考えつつ、ひとまずセシルの言うことに従う。自分は風邪にかかっても死なないんで大丈夫ですよ、と馬鹿正直に言ってもいいが、おそらく信じてもらえないだろう。
とはいえ、こちらの世界のウイルスが地球より強力である可能性がゼロとは言い切れない。
地球でも新型コロナウイルスが流行ったことだし、こちらにもああいったウイルスがいる可能性はあるだろう。未知のウイルスに感染すれば、健康体のヒロでも重篤化する可能性はじゅうぶんある。
まあ、こちらの人たちの体の弱さは魔女の折り紙付きなので、その懸念はおそらく不要な心配なのだが。
「ところで、ヒロさんは外で本を読んでらしたんですか?」
ふいに、ヒロの持っている本を見てセシルが言った。
ヒロはぎくりとしつつ、顔面に下手な作り笑いを貼り付ける。
「はい、カレルくんに借りた本です。これを読むのに月明かりが欲しくて外に出たんですが、読みながら独り言を言ってしまったみたいですね」
「そうでしたか」
セシルは相変わらず穏やかに微笑んでいる。絵画みたいに完璧な笑顔だ。こちらをあやしんでいるようには見えないが、逆に完璧すぎてどう思っているかが分からない。
セシルは先ほど、外から声が聞こえたので、と言っていた。
彼女が聞いた声はもちろん、魔女と話していたヒロの声だろう。セシルもカレルも寝ているだろうと思って油断していた。まさかこんな深夜に起きているとは。
そのため、ヒロは仕方なく「本を読みながら独り言を言ってしまった」という言い訳を用意した。必死に本を読んでいたらぶつぶつ喋っちゃいました、夜中にごめんね。そこまで無理のある言い訳ではないと思うが、事実を告げるわけにもいかないので、これで納得いただけるよう祈るしかない。
「その、本ですが」
「はい?」
「カレルがヒロさんに渡した本……読めましたでしょうか?」
ヒロの必死の祈りをよそに、セシルはヒロの持っている本を指さした。つられたヒロも自分の手元に視線を落とす。
つい先ほど、魔女の協力を得て解読へと至った本。薬師だったというカレルとセシルの父が遺した、薬の作り方が書かれた本だ。
言い訳の追求を逃れたことに安堵したヒロは、勢いよく「はい!」と返事をした。
「お借りした本、なんとか読めそうです! まだ途中ですが、これでセシルさんの風邪に効く薬も作れると思います。カレルくんにもいい報告ができそうです」
この本を読むのはカレルの悲願だった。彼自身そうは言っていなかったが、見れば分かる。文字を読めるかヒロに尋ねたときの彼の表情は必死そのものだった。
きっとカレルは喜んでくれるだろう。ヒロは父が遺した本の解読を、そして姉の快癒を心から望んでいたのだから。
「……そうですか」
ふと、セシルの瞳に影が落ちた。
月明かりのせいか、それとも前髪が風に吹かれたせいか。
「わたしもカレルもその本を読むことはできません。ですが、わたしは父に聞いて知っているのです——その本は市井の人間に読めるような本ではありません」
「……え?」
心臓のあたりがぎくりと痛んだ。
致命的なミスを犯してしまったときの、あの感覚。
「その本は、高等学術院で使われる学術語が使われているそうです。そう父が言っていました。王国公用語がベースになっているようですが、大半は学術語だと。学術院で学んだ者しか読めない本だと」
風が吹いた。セシルのショールがゆらりと揺れて、彼女の影の形が歪む。
「ヒロさんは、その本を読めたのですか?」
ひどく平坦な声。怒っているのか、怖がっているのか、それとも嘲っているのか。
感情の片鱗さえ感じ取れない声でセシルは言った。
ヒロは無意識に右手で胸元を掴んだ。背中にじわりと汗が浮く。口の中が乾いてひどくべたついた。
そのへんにいる市井の人間であれば読めない文字で書かれた本を、ヒロは読めたと言ってしまった。
いや、事実として読めたのだ。これから全文読破して、風邪に効きそうな薬を探そうと思っていた。
ただし、この本を読むことができたのは魔法の力を借りたからだ。
読めたのですかと聞かれたら、読めたと答えるしかない。
しかし、どうやってと聞かれたら、ヒロは何も答えることができない。
もしや高等学術院を出ているのかと聞かれても、違いますと答えるしかない。嘘をついてこの場を乗り切っても、その嘘はあっという間に露見するだろう。ヒロは医療や薬の専門知識など持っていないのだから。
本当は読めなかったくせに嘘をついているのではないか——と、セシルが疑ったとしても無理はない。
答えに窮したヒロがじっと黙っていると、やがてセシルが申し訳なさそうに小さく息をついた。
「……すみません。私の言い方が悪かったですね。ヒロさんが嘘をついていると言いたいわけではないのです」
「え?」
嘘を疑われていると思っていたヒロは、驚いてとっさに顔を上げた。
セシルが少し困ったように苦笑する。
「ヒロさんは『魔女のしもべ』をご存知ですか?」
「魔女の……しもべ?」
「はい」
魔女。という言葉にヒロは全身を強張らせた。
ご存知も何も、この世界にヒロを連れて来たのはその魔女だ。
「……魔女はともかく、魔女のしもべというのは初めて聞きました。どんなものですか?」
暴れ回る鼓動を押さえ付けながら、ヒロはできるかぎり平静を装った。
普通の顔で言えたはずだ、そうであってくれ、と必死に祈る。
「魔女のしもべは、ときおり現れる異邦の言葉を話す人々です。彼らはわたしたちと違う言葉を使い、わたしたちの知らない技術を用い、わたしたちの知らない力を使うといいます。その様はまるで魔女の使う魔法のようだと。そういった人々を魔女のしもべと呼ぶのです」
セシルが語った説明を聞くやいなや、ヒロは汗腺という汗腺から汗を噴き出した。
知らない技術と知らない力を使う、異邦の言葉を話す人々。
それはきっと、今まで魔女が地球から連れて来た人々のことだ。
連れて来られた人の中には、この世界にとって未知の技術を持っていた人もいただろう。ITエンジニアだったヒロはパソコンがなければ何もできないが、土木関係や飲食関係の仕事をしていた人なら、この世界で腕を活かす機会もあったに違いない。
——つまり、セシルの言いたいことは。
「ヒロさんが本当にその本を読めたのなら、可能性は二つです。高等学術院の出身か、もしくは——不思議な力を持つ魔女のしもべか」
だから、と少しためらったようにセシルが言う。
「ヒロさんは、魔女のしもべですか?」
彼女の深緑色の目が、ヒロの目を正面からまっすぐ射抜いた。
こちらが目を逸らすことを許さないような、強い意思を持った瞳だった。
しかし、イエスかノーの二択で答えられる端的な質問に対し、ヒロはまたしても答えに窮した。
魔女のしもべか、否か。
答えはイエスだ。——しかし、この場でイエスを答えてもいいのか、それがヒロには分からない。
この世界の人々にとって、魔女とはどんな存在なのだろう。
つい先ほどの魔女との会話の中で、ヒロは近世ヨーロッパで起こった魔女狩りについて思い出した。日常の些細な出来事から魔女だと疑われ、裁判へと引きずり出される。その裁判も「水に沈めて死んだら人間、生きていたら魔女」という、どう足掻いても死ぬしかない理不尽さで、裁判にかけられた時点で死刑と同じようなものだったという。
そんな恐ろしい思想がこの世界にも存在したら。
もしもこの世界の魔女が、かつての地球のように迫害される存在だったら?
ヒロは「いい答えが返ってくる気がしないから」というあいまいな理由で話を先送りしたことを、心の底から後悔した。聞くチャンスはいくらでもあったのだから、魔女の立ち位置について本人に聞いておけばよかったのだ。
一分か、二分か。どれくらい時間が経っただろう。
ヒロは何も言えずにじっと口を閉ざしていた。
もはやこの沈黙が答えのようなものだ。しかし、ヒロはもともと嘘が得意ではない。無論、生きていくために嘘が必要な場面があるのは分かっているが、これだけ黙りこんでしまったら、今さら「違います」と言ったところで信じてはもらえないだろう。
ヒロは唇を噛んで下を向いた。どう答えるべきかまったく見当が付かなかった。
「……カレルが言っていました。森で迷っている人を見つけた、きっと訳ありの人だけど、たぶんいい人だからうちに泊めたい、と」
ふと、セシルが静かに口を開いた。穏やかな清流のような声だった。
「カレルは人を見る目のある子です。あの子が連れて来た方なら大丈夫だろうと思いましたし、こうやってお話してもその印象は変わりません。何か……事情がおありなのですよね。でしたら詳しくは伺いません。……訳ありなのは、わたしたちも同じですから」
言って、セシルが自嘲ぎみに目を逸らす。
ヒロは思わず首をかしげた。ヒロを魔女のしもべだとほぼ確信しながら、自分たちも同じような訳ありだと彼女は言う。
しかしセシルは詳細を語るつもりはないらしい。彼女は逸らした視線をヒロに向けると、仕切り直すように「ですから」とはっきり口にした。
「ヒロさんが魔女のしもべかもしれないというのは、わたしの胸にしまっておきます。決して誰にも口外しません。ただ——ひとつだけ、お願いを聞いていただけませんか」
「願い?」
はい、と言ったセシルの手は震えていた。
その震えが寒さのせいではないことは、彼女を見ればすぐに分かった。
涙を流していないのが不思議に感じる。手すりのない場所で崖の上に立っているような、ひどく追い詰められた表情をしていた。
口を開いて、ためらって、苦しげに唇を噛みしめて。
そしてようやく、セシルは再度口を開いた。
「カレルを、ミハルト領ではない別の場所に連れて行ってほしいのです」
「……えっ」
カレルを。別の場所に。ミハルト領ではないところに連れて行く。
まったく予想していなかったセシルの『お願い』に、ヒロは思わず目を見開いた。
セシルが勢いよく頭を下げる。「身勝手なお願いなのは分かっています」と言った彼女の声は、髪で表情が見えなくても分かるほど必死だった。
「あの子はわたしが言っても聞きません。誰かに頼んで連れ出してもらおうにも、わたしの病のせいでこの家には誰も寄りつきません。姉のわたしが言うのもなんですが、あの子は利発な子です。別の場所に行ってもどうにかやって行けるでしょう。ですが、こんなところにいては未来はありません。——だから」
どうかあの子を。どうか。
神にでもすがる勢いでセシルがまくし立てる。まるで今を逃したら二度とチャンスは来ないと確信しているかのようだった。
しかし、急に『お願い』をされたヒロはまだ話を飲み込めていない。焦るセシルを宥めるように両手を前に出すと、慌てながらも「いやちょっと、待ってくださいよ」と言って彼女の話を堰き止めた。
「あまりにも急な話すぎて……。第一、今の話をカレルくんは」
「もちろん知りません。だからむりやり連れ出すしかないのです」
セシルはそう断言するが、それは無理だろう、とヒロは顔をしかめる。
会ったばかりのヒロにも分かるくらい、カレルは姉のセシルを大切にしていた。そんな彼が、ぽっと出のヒロに誘われた程度でこの家を出るわけがない。
「ここにセシルさんがいるかぎり、カレルくんはどこにも行きませんよ。俺が連れ出そうと無駄です。それくらい俺にも分かります」
ヒロは優しく言い聞かせるように言った。正論で叩き潰すような言い方をして、セシルをより意固地にさせてはいけないと思った。
しかしセシルは、唐突に先ほどまでの勢いを手放すと、まるで懺悔でもするかのように両手を握った。
すとんと肩を落として下を向く。髪がカーテンのように垂れ下がり、彼女の表情を覆い隠した。
「そうです。……そう。どこにも行かないのです。あの子は。わたしがこんな病気になったせいで」
「……セシルさん?」
セシルの声が震えている。祈るように握った両手も震えていた。
「自分の体のことですから、分かります。わたしはそう遠くないうちに死にます。なにを食べても喉を通らないし、熱は下がらないし。今はずいぶんましですが、起き上がれないような熱もしょっちゅう出ます。そのたびに、今日こそ死ぬのかもしれない、って思うんです」
「……そんな」
「すみません、こんな……会ったばかりの方にこんな話をして……」
セシルがかすかに嗚咽をこぼす。
申し訳なさそうにこちらを気遣う声はほとんど涙声だった。
たしかに、彼女とは昨日会ったばかりだ。森で迷った男が一宿一飯の恩にあずかった、関係性としてはたったそれだけ。
彼女が語った話は、どこの誰とも知れない初対面の男に語るような身の上話ではない。もっと信頼のおける相手、それこそ彼らが住んでいた街の人に話した方がずっといい結果になるだろう。
しかし、きっと彼女には他に頼れる相手がいなかったのだ。
彼女はこの家から出られない。病だから物理的に出歩けないし、街からも追い出されている。
だからこそ彼女は、こんな得体の知れない男が相手でも、一縷の望みをかけるしかなかったのではないだろうか。
「お願いします。死ぬと分かっている人間のために、あの子の時間を使わせたくないんです……」
そう言って、セシルは深々と、それはもう深々と頭を下げた。
見ている方が苦しくなるような姿だった。深く頭を下げたせいでショールは地面につき、ところどころ土が付着している。見ればワンピースの裾にも泥が付いてしまっていた。それでも彼女は、ときおり咳をこぼしながらも、弟の未来のため見知らぬ男に頭を下げ続けている。
ぴゅうっと音を立てて夜風が吹いた。風は徐々に強さを増しており、今こうしている間も彼女の体から体温を奪っているのだろう。いつまでも屋外で立ち話をするわけにはいかない。
ヒロは言うべき言葉を探しながら口を開いた。
もし本当に最期の時が近いのなら、その瞬間まで一緒にいた方がいい、とか。
弱っている姉を置き去りにして、カレルが幸せに生きていけるはずがない、とか。
それっぽい言葉はいろいろ思い浮かぶ。どれもそこまで間違っているとは思わないし、あちらの世界にいたときの自分ならそういった慰めを口にしていただろう。
しかし、今この場では言いたくない。言うべきではない。
ヒロが言うべき言葉はそれではない。
ヒロは魔女のしもべだ。
魔女との契約があり、この世界を救うための役目をいくつも負っている。そのためにわざわざこの世界へとやって来た。
すなわち、森のはしっこで暮らしている姉弟に構っているような余裕はない。構うべきではない。なぜなら魔女の視点から見た人間とは資源であり、個々の幸福に気を配るべき存在ではないからだ。
だが、腹の底から絶えずわき上がってくる熱がある。
そうじゃない、違うだろう、と何かが懸命に訴えてくる。
ヒロの意思を突き動かすような衝動。血が沸いて、心が猛って、今にも駆け出したくなるような。
その衝動がヒロの心に訴えるのだ。
——天川比朗は魔女ではなく、ただのちっぽけな人間だろう、と。
「お、俺が、セシルさんの病気を治します!」
気が付いたら叫んでいた。
思考より体が、体より意思が先走っているような感覚だった。
あーやっちゃった馬鹿じゃねーの知らねーぞ、と他人事のようにこの状況を俯瞰している自分もいる。
しかし後悔はない。しない、と言い切れる。
ここで人を見捨てる男が、世界なんて立派なものを助けられるはずがない。
「えっ? ……え?」
「どうにかして治します。俺が。あ、いや、今すぐは無理ですけど。ちょっと時間はかかりますが……でも治します。どうにかします」
「でっ、でもこれは、薬師の方にも無理だと言われて……」
「風邪に特効薬はないのは事実ですからね、薬師の方がそう言うのは仕方ないです。でも俺がどうにかします。どうにかできます。少しだけ時間をもらえれば」
「で、でもっ」
唐突に宣言をかましたヒロにセシルが驚いている。おろおろしていると言ってもいい。頭上にクエスチョンマークが浮かんでいるのが見えるようだ。
しかし、戸惑っている彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
死ぬと分かっている人間のために弟の時間を使いたくない——そんな達観したようなことを言って、すっかり死を受け入れたみたいな顔をして。
きっと彼女は、いずれ来る死を恐れていた。
だからこそ、わけが分からないと混乱した顔で泣いているのだ。ヒロが「治す」と言ったから。治るかもしれない未来を提示されたから。
「セシルさん、俺のことを魔女のしもべだと思ったんですよね。セシルさんたちが知らない力を使うような存在だと。……詳しくは言えませんが、俺はたしかにそう思われてもおかしくない力を持っています。——だから」
だから。
普通の人なら読めない文字も読めるし、普通の人には使えない力も使えるから。
「俺が治します。治せます」
セシルの肩にそっと触れると、ヒロはそう力強く断言した。
正直、断言すべきかどうか迷わなかったと言えば嘘になる。
しかし、今はするべきだと思ったし、ヒロ自身がしたかった。
かならず治る、と彼女にと自分に言い聞かせたかった。
「少しだけ待っててください。まずはカレルくんと俺で薬を作ります」
今のヒロには、セシルを治療できるだけの力がない。
治療するための魔法を習うにしても作るにしても、まずは時間が必要だ。
そのためには、風邪の症状をやわらげる薬を使った方がいいだろう。そうすればセシルも楽に過ごせるようになる。
そして、その間にヒロはセシルを治療する術を手に入れる。
なんとしても。不眠不休で勉強してでも。魔女に拝み倒してでも。
「だから……それまで絶対に死なないでくださいね」
ヒロがそう言うと、セシルはようやく顔を上げて正面からヒロを見た。
彼女の顔は涙でぼろぼろだった。目と鼻は真っ赤だし、手でこすったせいか目許もぼってり腫れている。
その姿に絵画のような完璧さはない。
しかし。
「……本当は、風邪を患っている人間に、こんなに近寄っちゃいけないんですよ、ヒロさん……」
まばたきのたびに涙をこぼし、顔を真っ赤にしながらセシルが笑う。
その表情は、最初に見た彼女の笑顔の何倍も美しくて——そして人間らしかった。
——正直なところ、またやってしまった、という思いもあった。
ヒロは昨日、文字を読めるかとカレルに聞かれて本を渡され、一晩もらえれば読めると言ってしまったが、そのときと今の状況はほとんど同じだ。
読める確証もなかったくせに、読めると言った。治せる確証もないくせに、治しますと断言した。
確証もないくせに期待させて、約束して。
もしできなかったらどうするのだ、とささやく自分もたしかにいる。
しかし、病に怯える人を前に何もせずにいられるほど、ヒロは『人間』をやめていない。
魔法には妹の病を治した前例がある。
治せるのだ。今のヒロにその力がないだけで、魔法にはそれだけの力が備わっている。
現代医療すら匙を投げた妹を救ってくれた魔法が、たかが風邪を治せないはずがない。
自分にこんな面があったなんて、二十八年間生きてきて初めて知った。
ヒロは魔女とは違う。
人は世界のための資源ではない。
目の前に助けられる人がいたら助けたいと思うのは、きっと、何もおかしいことではない。
熱く震える己の心に驚きながら、ヒロは強くそう思った。