09.魔法は異端か、福音か
ゲームや漫画に登場する「魔法」は、神の力を借りたり、精霊の助けを得たり、どれも奇跡みたいな力だった。
そもそも「魔法にしくみがある」という発想がなかった。そういう意味では魔法とプログラムは対極の極みにあるだろう。だからこそ「魔法を使えるようにしてやる」と魔女に言われたヒロは完全初心者として学ぶつもりだったし、エンジニアの仕事が役立つ場面があるなんて想像すらしていなかった。
それがまさか、魔法とプログラムの構造が似ているとは。
前職のおかげで魔法の構造を理解する手間が省けた。まったくの予想外だ。
「うん、少しだけ魔法が分かってきた」
「それは何よりだ」
魔女が楽しそうに小さく笑う。どうやら魔女は勤勉さを好むタイプのようで、魔法の習得に前向きな姿勢を見せると機嫌がよくなる。まだ出会って数時間しか経っていないのでそのくらいしか分からないが、これから深い付き合いになる相手の傾向と対策は早めに知っておいて損はない。
「では修正を進めるか。まず第一層——音声の取得のところから直す。通詞の魔法では会話を翻訳するために『音声』を取得するが、文字を翻訳するなら取得するものは『文字』でなければならない」
「あー。何を取得するか、を書き換えるわけか」
音声を翻訳する魔法を、文字を翻訳する魔法に変える。すると取り扱うデータが音声から文字になるので、「音声を取得する」と書かれていたプログラムを「文字を取得する」に書き換える必要があるのだろう。
魔法の理屈が分かったおかげで急に理解しやすくなった。六年間まじめに仕事をしてきた甲斐があった。
「修正は具体的にどうやんの?」
「言葉で指示するだけだ」
「言葉で? 魔法の修正を声で指示すんの?」
「そうだ。いいか、今から私が言う言葉をそのまま復唱しろ」
そう言うと、魔女は修正指示の言葉を一息で告げた。
さほど難しい言葉ではなかった。短くはないが長すぎることもない。今の一回で覚えられる程度の言葉だった。
しかし、復唱するべき言葉を聞き終えたヒロは、盛大に顔をしかめた。
「なるほど、そういう系かあ……」
その言葉は、ヒロの感覚で言うと呪文だった。
漫画の主人公がキメ顔で唱えそうな呪文とでも言うべきか、要は二十八歳の成人男性が真顔で告げるにはやや抵抗のある、厨二病感あふれる呪文だった。おまけに通詞の魔法のおかげで日本語に翻訳されてしまっているため、より呪文っぽさが増しているのだ。
——まさかこの歳で呪文を唱えるはめになるとは。
非常に恥ずかしい。が、言わないと次に進めない。ヒロは意を決して口を開いた。
「……原理に奏す。通詞における第一層を改める許しを求む。原理より許し与えたまわば、大地の子の声を人の文字に改めたまえ」
呪文だ。ものすごく呪文っぽい。魔女にしか聞かれていないからまだ耐えられるが、公衆の面前でこれを言い切る自信はない。
とはいえ、恥ずかしい思いをした甲斐はあったようで、ヒロの唱えた呪文——もとい修正指示により、三つ並んだ構成式のうち一番上の式の形がぐにゃりと変わった。魔女に確認したところこれで問題ないとのことで、ヒロは心から安堵した。こんなの何回もやってられるか。
「よっし、次は置き換えの修正だよな。通詞の魔法では『翻訳済みの声に置き換える』だったところを『翻訳済みの文字に置き換える』に直す、って感じ?」
「そうだ。物わかりがいいじゃないか」
だが、と魔女が分かりやすく言葉を切る。
「文字は本に書かれている。本の文字を書き換える魔法も作れなくはないが、本そのものを書き換えてはおまえ以外読めなくなる。本の持ち主も困るだろう」
「ああ、たしかに」
言われてみればその通りだ、とヒロは納得した。勝手に本の文字を書き換えたらカレルに驚かれてしまう。
しかし、ヒロには肝心の対処法が分からない。構造が分かるようになったとはいえ、こちらはしょせん素人だ。「代案が出せないうちは新米」という、かつて会社の先輩に言われた言葉を思い出しながら、ヒロは魔女の言葉を待った。
「翻訳した文字を読む方法を別に用意してやる必要があるな。……そうだ、おまえに馴染みのある方法にしてやろう。あちらの世界で便利そうなものを見かけてな、試しに作ってみた魔法があるんだ。使い道がなく放置していたが、今回の魔法にはちょうどいい」
「あっちの世界で見かけたって……何を作ったんだよ」
「まあ見ていろ」
ここは私が直してやる、と楽しげに弾んだ声で魔女が言う。その「便利そうだから作ってみた魔法」を実際に使ってみたいのだろう。ヒロに修正させるという主旨だったはずが、気付けば魔女の独壇場になっている。
そして、魔女が呪文のような修正指示を唱えた数秒後、三つ並んだ構成式の一番下の文字の形が変わった。これで修正はすべて完了だ。
こうして、通詞の魔法は無事「読めない文字が読めるようになる魔法」に修正され、新しい魔法として「書見の魔法」という名前をつけられた。
ヒロはさっそく家の中に戻ると、カレルに借りた本を持ってまた外に出た。
家の壁を背にして地面に腰をおろし、あぐらをかいた足に本を乗せる。ろうそくもランプもないが、街灯のない夜の月明かりは照明が不要なほど明るいので、本を読むのに支障はない。
ヒロは左手を胸に置き、意識を集中させた。図書館、本棚、その中から本を探す。書見の魔法。今回もすぐに見つかったので、ヒロは本を手に取って目を開いた。すると、書見の魔法はきちんと効果を発揮したようで、ヒロの目の前には日本語に翻訳された文章がばっちり浮かびあがっていた。
本と同じくらいの大きさの、まっしろい光の板の上に。
「タブレットじゃん、これ」
目の前に浮かんだ光の板——タブレットのような形のそれを見て、ヒロは言った。
かつて同僚に借りて読んだ漫画の主人公が、ゲームウィンドウのような画面が空中に出てくるステータスオープンという魔法を使っていたが、見た目はほとんどそれに近い。タブレット端末のような光の板が空中に浮かんでいる図は、まさに漫画に出てきた魔法そのものだった。
一応、光の板に映し出された文章は正しい日本語になっているので、魔法そのものは正しく機能しているらしい。軽く読んでみたところ、薬の作り方や材料などが書いてあるので、カレルに借りた本の内容で間違いなさそうだ。
ただ、この光の板だけが異様な雰囲気を放っている。
夜の森、レンガ造りの古びた家、未知の言語で書かれた本、といかにもファンタジーゲームのような状況が揃っている中で、この光の板だけが現代日本の顔をしているのだ。
いや、魔女の言った通りとても便利だ。魔法が視覚化されるのはありがたい。電話を魔法で再現するくらいだし、あちらの世界で見かけたタブレットを魔法に組み込むのも、この魔女ならやりかねないと納得できる。
しかし、いくらなんでもこれほど場違いなものが出てくるとは思わなかった。
魔女が「おまえに馴染みのある方法」と言ったのもうなずける。たしかにこれは現代人のヒロにとって非常に馴染みのある方法だ。
「これはたぶれっと、というのか」
「厳密には違うと思うけど……板状の画面なんてタブレットでいいだろ、たぶん」
興味深そうに言う魔女に、ヒロが適当な答えを返す。
タブレットの定義など知らないが、本と同じくらいの大きさの光の板に文字が映し出されていたら、まあ、タブレットと呼んでも間違いではないだろう。
「しっかし、こんなのまで魔法で作れるのか。あ、でもタップはできない。スクロールもできないんだ。おもしろいな」
「改良の余地があるということだな。そのうち修正してみるか」
魔女が声を弾ませてワクワクしている。通詞の魔法の修正の話になってから分かりやすく生き生きし始めたので、魔女は魔法の改良や研究が好きなのかもしれない。意外と研究肌なのだろうか。
一方、ヒロも「タブレットが作れるならディスプレイとキーボードも作れるのでは?」という可能性に思い至り、内心でワクワクをつのらせていた。それがあればプログラミングの要領で魔法に手を加えられる。呪文のような修正指示を口にするのはできれば御免こうむりたいのだ。それしか方法がないと言われれば我慢するが、厨二病全開の呪文にはやはり抵抗があった。
「ああそうだ。天川比朗、ひとつだけ言っておく」
ふと、魔法プログラミングの未来に思いを馳せていたヒロに、魔女が冷ややかに声をかけた。
先ほど楽しそうに弾ませていた声はどこへやら、出会ったときのような淡々とした声がヒロを呼んだ。
「現状、人間にとって魔法は魔女が行使するものだ。例外はない。人間は魔法を使わないし、使えない。だが、このタブレットは明らかに魔法で生成したものだ。人間の目に入れば間違いなく驚かれる」
だから、と魔女が地を這うような声で言う。
「使うなとは言わない。見られるな」
冷え冷えとした魔女の言葉に、ヒロは無意識に唾を飲みこんだ。
人間は魔法を使わないし、使えない。星腑がないから使いたくとも使えない。
では、もしヒロが人前で魔法を使ったら、それを見た人々はどう思うだろう。
瞬間、ヒロの脳裏に浮かんだのは近世ヨーロッパの魔女狩りだった。十六世紀前後のヨーロッパでは万単位の人間が魔女裁判にかけられ、無実の罪で殺された。町に病気を振りまいたから、害のある薬を作ったから、町の家畜を殺したから、人をたくさん殺したから——そういった罪を魔術によって引き起こしたとして、冤罪の魔女たちは理不尽に命を奪われた。それがかつて起こった魔女狩りだ。
この世界の文化水準が地球の何世紀頃にあたるかは分からないが、カレルとセシルの服装や生活、家の中を見るかぎり、近世か近代のヨーロッパ周辺と見ていいだろう。感覚的には十八世紀か十九世紀だ。その感覚が正しかった場合、地球の歴史では魔女裁判の時代はほとんど終焉を迎えているわけだが、地球ではない場所で地球の歴史を基準しても意味がないことはヒロにも分かる。そう考えると、魔女の排斥や魔法を忌避する思想がこの世界に存在する可能性もじゅうぶんある。もしそうだった場合は、ヒロの魔法は何が何でも隠し通さねばならないだろう。
この世界にはそもそも魔女狩りなんてないのかもしれない。
反面、今こそが魔女狩りの最盛期なのかもしれない。
魔女はこの世界の人にとってどういう存在なんだ——と本人に尋ねてみようかとも思ったが、少し迷ってやめておいた。気持ちのいい答えが返ってくるとも思えなかったし、少なくとも、魔女がわざわざ警告する以上、ヒロが警戒するべき何らかの理由があるのだろう。ならば今はその警告に素直に従っておけばいい。
「もしどうしても人前で使いたいなら、一刻も早く人間にも魔法を使わせるんだな」
「ごもっともです」
人間にとって魔法が当たり前のものになれば、ヒロも魔法を使いたい放題になる。それがもっとも望ましい未来なのは間違いない。そもそも、魔女との契約に「人間に魔法を使わせる」という項目が盛り込まれている以上、それはヒロにとって必達の未来だ。もし夢物語で終わらせてしまったら、雇用主の魔女に何をされるか分かったものではない。
「とりあえず、お手数かけました。助かった」
「この程度なら手間ではない」
「そらよかった。どうもありがとう」
ヒロが礼を言うと、魔女は挨拶もなく声送りの魔法を断ち切った。電話のようにブツッと音がしたわけではないが、つながっていたものが切れた感覚があった。試しに「魔女さーん」と小声で呼んでみたが、返事はない。声送りの魔法は無事に終了したようだ。
ヒロは家の壁に預けていた背を起こすと、本を抱えて立ち上がった。その勢いのまま大きく伸びをする。節々からピキパキと嫌な音がしたが、ずっと座っていたので仕方ない。
「んじゃ、夜のうちに風邪に効きそうな薬を探すかな」
カレルに借りた本の表紙を撫でながら、ヒロがぽつりとつぶやく。
朝になったらカレルに結果を報告しなくてはならないが、まさかカレルの目の前に例のタブレットを出すわけにもいかないので、今晩のうちに本を読み込んでおく必要があるのだ。解熱薬や抗炎症薬など、効きそうな薬を探して材料と作り方を暗記しなければならないので、おそらく今晩は徹夜だろう。
学生時代から暗記は得意な方だったが、それは試験の一夜漬けが得意というだけで、楽しくもなかったし好きでもなかった。それでも、年若い少年への一宿の恩だと思えば徹夜など大したことではない。明日の体はガタガタになるかもしれないが、それはまあ、きっと明日の自分が頑張ってくれるだろう。
そんなことを考えながら、ヒロは家の中に戻るべく扉の取っ手に手をかけた。
すると、手をかけた瞬間、なぜか内側から扉が開いた。
「あだっ」
「えっ? あっ、すみません!」
ぐわん、と鈍い衝撃をくらうと同時に、目の前に小さな星が散った。思わずその場にしゃがみ込む。扉がひたいを直撃したのだとすぐに分かった。
扉を開けたのはセシルだった。
扉の前にヒロがいると思っていなかったのだろう、セシルはひどく驚いた顔で「大丈夫ですか!?」と叫び、屈んでいるヒロへと駆け寄った。
「やだ、わたしったら扉なんかで、痛かったでしょう、すみませんすみません」
「扉の前に突っ立ってた俺が悪いんで気にしないでください」
明らかに混乱するセシルを宥めるべく、ヒロは笑って無事をアピールした。扉がひたいに当たっただけで、血も出ていなければ怪我もしていないのだから、事実としてヒロは無傷だ。無事なヒロを見てセシルも安心したのか、「すみません」「いえいえ」「失礼しました」「お気になさらず」の応酬を何度か繰り返したあたりで、彼女はようやく落ち着きを取り戻した。
「お見苦しいところをお見せしました……」
セシルは今にも消えそうな声でそうつぶやくと、恥ずかしそうにショールで顔を隠した。しかし、隠し損ねた耳が赤くなっているのが見えてしまったので、おそらくショールの下も真っ赤になっているのだろう。取り乱したのがよほど恥ずかしかったらしい。美女は赤面しても美女なんだなあ、と明後日なことを考えながら、ヒロは「いえいえ、お気になさらず」ともはや定型句のようになってきた言葉を笑顔で告げた。
「それで、こんな夜中にどうしたんですか? カレルくんが心配しますよ」
夜な夜な外で本を広げていた自分を全力で棚上げし、ヒロはセシルに問いかけた。
正確な現在時刻は時計がないので分からないが、体感として深夜二時は過ぎている。万年人手不足の会社で働いていたヒロは深夜に慣れているが、セシルは病人だ。こんな夜中に外出していい体ではないだろう。
しかし、そんなことはセシルも分かっているに違いない。病人はおとなしくベッドで寝ているべきだと理解しつつ、それでも彼女はショール一枚を外套代わりに病を押して外に出た。
ふいに、セシルがにこりと微笑んだ。
まるで黄金比のような笑みだった。世界中の画家からモデル依頼が殺到しそうな造形美。人間の創造主が「理想の笑顔」を作ったらこんな笑顔になるかもしれない、と思わせるような微笑みだった。
しかし、その笑顔はどこか底知れない凄味があった。
「外から声が聞こえたもので。……ヒロさん。少しだけお話できますか?」
穏やかな声と穏やかな笑み。しかし、その裏にある感情はきっと穏やかではない。
女性の微笑みに圧倒されたのはこれが生まれて初めてだった。