00.給料支払い済みにつき
酒場の夜は忙しい。
荒くれ者が声をあげ、傭兵崩れが手柄を語り、酔っ払いが手を叩く。
誰もかれもが酒を片手に笑い転げる。
錆びたクジラ亭。無口な親父と看板娘の二人が切り盛りする小さな酒場。
街いちばんの老舗の酒場で、住人なら誰でも知っている有名店だ。
酒が飲みたいとき、小腹が減ったとき、誰かに話を聞いてほしいとき、人はみな『錆びたクジラ亭』を訪れる。
今日も店は満員御礼、空いている椅子はひとつもない。
店の奥はとくに混み合っていて、ほとんどの客が立ったまま酒を飲んでいる。
しかし、彼らは店の奥でらんちき騒ぎをしているのではない。彼らは皆、奥のテーブルで書類と格闘しているひとりの男を囲んでいた。
その男は、黒髪黒目という珍しい色を持っていた。
ハサミでざくざく切ったような短い髪と、目じりがつり上がった目。その目のせいだろうか、顔の印象はどこか悪人めいて見える。
しかし、男の物腰はその面構えに不似合いなほど慇懃で、周囲の人々に応対する声も明るく、口調も丁寧でやわらかい。
「ヒロ、この依頼書のシリ草の採取ってこれで達成? あってる?」
「はい、ありがとうございます。未乾燥の根付きのシリ草を一カロン分の袋いっぱい、素人目ですがこれなら品質もじゅうぶんです。問題ありません。依頼達成の報酬は銅貨十五枚です。ご確認お願いします」
「ありがと! シリ草の採取なんかでお金もらえて大助かりだわ」
「薬師の方には需要あるんですよ。未乾燥のシリ草は森に行かないと手に入りませんから」
小柄な女性が嬉しそうに笑う。
受け取ったばかりの銅貨十五枚を財布に入れ、陽気な鼻歌を歌いながら店を出る。
「そういやヒロ、西の街道沿いに双頭黒犬が出たって話聞いたか? おまえんとこに討伐依頼は出てないようだが」
「双頭黒犬? まだ伺ってないですね。目撃情報が出たんですか?」
「ああ。街道自警団の連中が見かけたらしい。町に入られるとまずいから、ひとまず巡視隊を組むそうだ。一頭なら問題ないだろうが、もし群れが近付いてるなら自警団の戦力じゃ足りねえかもな」
「情報ありがとうございます、念のため応援が必要か後で聞いておきますね。必要に応じて討伐依頼も出します」
「おう、頼む」
ほどほどに酔っ払った筋骨隆々の男性が言う。
酒がなみなみ注がれたマグをかたむけつつ、他の客との談笑に戻る。
「ヒロー。ザック様のお帰りだぞー。依頼の赤舌毒蛇、やっつけたから報酬くれや」
「はいはい、銀貨三枚な。肝の完品があればそれも買い取ってもらえるらしいけど、ある?」
「げっ、そうなのか? 死体はもう処理屋に回しちまったよ。やっちまった」
「依頼書をちゃんと読まなかったザックが悪い。肝が無事だったら後で持って来いよ」
「了解ー。あ、そうだ。帰り道に双頭黒犬がいたからついでにやっといたんだけど、追加報酬ある?」
「……街道沿いにいたやつ?」
「そうそう。って、双頭黒犬はまだ依頼になってねーの? なんだ、報酬にならねえじゃん。ただ働きしちまった」
「あいかわらず鼻が利くなあ。安心しろ、ただ働きにはさせないから。あとでちゃんと依頼として処理しとくよ。でも今はひとまず害獣討伐の最低報酬額しか出せないから、銀貨一枚な。追加があればあとで払う」
「お、さすがヒロ! 依頼斡旋所のリーダー! 俺のお財布!」
「どうも。博打と酒につっこむなよ」
ぼろぼろの剣をたずさえた男が「わかってるよ」と笑いながら酒場の椅子に腰かける。そして座るなり「とりあえず酒くれ」と豪気な一言。こちらの忠告を守るつもりはないらしい。
剣を抜けば天下無双のくせに、その背中はいつまでたっても頼りない。
そんな剣士の背中を眺めながら、書類の山に埋もれる男——ヒロは小さくため息をつく。
楽しそうに酒を飲んでいる連中がうらやましい。仕事終わりの一杯の美味さを知る者として、早くあの輪に加わりたい。
しかし、本日中に処理すべき仕事はまだまだある。
書類の山は依頼の山。薬草採取から害獣討伐まで、多種多様な依頼がやまほど積み上がっている。
この依頼書の山は、ある日とつぜんやって来た得体の知れない男が得た、街の人々からの信頼の証だ。ありがたいことだな、としみじみ思う。
が、ずっと書類とにらめっこしていれば、体にも頭にも疲労は蓄積するわけで。
「今日も賑わってるね、ヒロくん」
「ゾラさん」
ふと、酒場の看板娘であるゾラに声をかけられた。
書き物でくたくたになっているヒロに対し、立ちっぱなしで接客に励んでいるはずのゾラには疲労の気配すらない。
若さの差だろうか、とヒロは思う。ゾラはおそらく十六歳前後、対するヒロは二十八歳だ。若さの格差があっても仕方ない年齢差ではある。
「いつも酒場の一角を使わせてもらってすみません」
「今さら気にしないでよ。お客さん増えて助かるってお父さんも言ってたよ」
「そう言ってもらえると助かります」
「んふふ、今後もよろしくお願いしまあす」
ヒロが頭を掻いて苦笑すると、ゾラはニコッと笑って客の輪の中に戻っていった。
忙しそうだが、いきいきと働く彼女は楽しそうだ。少なくとも店の繁盛を疎んでいるふうではない。
ヒロは手元の書類から目を離すと、周囲を軽く見わたした。
立ち飲み客がマグをぶつけ合い、口やかましく騒いでいる。酒場のありふれた風景だが、こうして喧々囂々の店内を見ていると新宿や渋谷などの繁華街を思い出す。——まあ、ヒロがあの風景を見る日はもう二度と訪れないが。
「ここまで忙しくするつもりはなかったけど……まあ、給料分は働かないとな」
ヒロは周囲に聞こえないようため息をついた。
数ヶ月前、ヒロは『魔女』を名乗る人物と契約を交わした。
文字通り、自分の人生の転機だった。
魔女との契約を契機に、ヒロは『世界』すら飛び越えるはめになったのだ。
ヒロが魔女と交わした契約は全部で三つ。
ひとつ目は、日本での生活を捨ててこの世界で生きること。
ヒロが今いる場所は日本でも地球でもない。まったく違う『別の世界』だ。
魔女がヒロをこの世界に連れてきた。そして「もとの世界には戻れない、戻す気はない」と魔女は言った。よって厳密には契約ではなく命令だが、断ったら殺すと言われたので、しいて言うなら今生きていることが契約の対価とも言える。
ふたつ目は、人間が魔法を使う方法を見つけること。
魔女いわく、この世界の人間は弱くて脆くてすぐに死んでしまうらしい。
しかし、魔女としては人間の寿命を延ばしたい。そのため、本来は魔女のものである魔法を人間にも使わせて、少しでも長く健康に生きられるようにしたいそうだ。
そこで魔女は、人間が魔法を使う方法を見つけろ、とヒロに命令した。
その対価として、ヒロは「魔女の魔法ならどれでも使える」という力をもらった。
みっつ目は、異世界人が生きるための土壌を作ること。
どうやら魔女は、これからもこの世界に異世界人を連れてくるつもりらしい。
しかし、異世界人はこの世界に馴染めず衰弱してしまうケースが多いという。その原因もいまいち分かっていないらしい。
そこで、彼らが不自由なく生きるための基盤を整えろ、と魔女はヒロに命令した。
その対価として、ヒロは昏睡状態にあった妹の命を助けてもらった。
見知らぬ世界に骨を埋める。
魔法という未知の技術を確立させる。
いずれこの地にやって来る同胞のための礎を築く。
その代わりに、ヒロは無限に等しい魔法の力と、なかば諦めていた妹の命を手に入れた。
すでに給料は支払われた。ならば比朗はそれに報いるしかない。
それが天川比朗と魔女が交わした『契約』だから。