2幕 飛都の子ら 1
2幕から異世界移転要素あり。
緋天殿の奥宮に正后として十四歳の羅梓依が迎えられたのは、燈羨が戴冠式を終えた数日の後のことであった。
羅梓依の生家である竜胆家は準神格家と呼ばれる家柄であり、燈一族が飛都を治める遥か昔から、神苑信仰の要として人々の信仰を集めてきた。神苑信仰では、神苑を捨てひとの世界へ降りた妖魔の王を邪とし、妖魔の王に守護される燈一族を厳しく批判していたため、永きにわたり水と油の関係と言われてきた竜胆家と燈家の婚約時には一部過激な信者の間で反対運動が起こった。この騒ぎに対し、当時婚儀を進めていた燈峻帝は「これは思慕の念による当人同士の望む婚姻である」という趣旨の宣を下し、人々を驚かせた。当人が望むものならば仕方ないと、騒ぎは終息した。
しかし、奥宮の主として羅梓依が鎮座し三年、燈羨は一度も奥宮へ足を踏み入れなかった。燈峻帝の急死による譲位が燈羨に心身とも多大な負担を強い、奥宮で后を愛でる余裕を与えなかったことは事実だったが、三年が経つ頃には、燈峻帝の例の宣下が芝居であったのだと千城宮の誰もが理解するに至った。
燈羨の訪れることのない奥宮で、羅梓依は三年、猫と遊んで暮らした。代々正后は緋天殿の最上階に居室を構えたが、羅梓依は猫と遊ぶために庭付きの中二階を自室とした。そのことが平穏で退屈な羅梓依の日常を壊す出来事に繋がった。ある朝、羅梓依の一番かわいがっていた猫が、首を斬られ、羅梓依の枕元に首が置かれる陰惨な事件が起こった。羅梓依は警護を怠った帝軍を責め、燈羨に帝軍人事の一新を願い出た。燈羨はそれを聞き入れ、帝軍四隊すべての軍将を廃し、新たな四将の就任と、新たな役職である元帥を置くことを詔した。四将の長である第一部隊軍将にまだ三十代半ばの煌玄が就いたことに対し、古参の帝軍士たちの中には多少不満を漏らす者もいたが、既に帝軍で武術の腕は最上位であり、尚且つ新帝の躾役として昼夜問わず忠を尽くす姿に若い軍士たちは厚い信頼を寄せていたため、煌玄をはじめとした若い四将への刷新は滞りなく進められた。帝軍士が揃って首を傾げたのは元帥職であった。新しく元帥に就任した灯己という名の人物を知る者は一人もいなかった。
朝陽に金色の徽章がきらきらと反射し、木々の木漏れ陽が煌玄の真新しい軍服の黒色を光で斑にした。煌玄は妖魔の森と呼ばれる燈火の森を歩いていた。やがて森の中に設えられた大きな屋敷が見えた。扉の前まで来ると膝を折り、帝軍式の最敬礼をし、煌玄は待った。間もなくして扉は開き、視界の端で長い軍服の裾が翻った。
「おはようございます、元帥。」
煌玄は穏やかな笑みを湛え、そのひとを見上げた。
「お迎えに上がりました。帝軍第一部隊軍将、煌玄にございます。灯己様。」
「知っている。」
灯己は息を吐き、歩き出した。煌玄は微笑んだまま後に続いた。
「ご新居のお住み心地はいかがですか?」
「いいとは言えないが、この三年間缶詰にされていた地下の客間に比べればだいぶましだよ。やっとわけのわからない貴族教育から解放されたと思ったら、元帥になれだと、おまえの帝王はどうかしているな。」
にこにこと頷く煌玄とちらりと見て灯己は舌打ちをした。
鳥市のフクロウとして捕らえられたのち三年間、灯己は千城宮でのしきたりや振舞いについて、女官長の双子から徹底的に教育された。その間にフクロウは処刑されたことになっており、灯己という存在はこの世からないものとして扱われていた。元々戸籍のない裏街の人間である。生きていても死んでいても、世間的には大差ない。
それに、と灯己は続けた。
「この森はなんだ?阿陀良が凶悪な妖魔の魂を閉じ込めた森というのはここのことなのか?」
「それは半分が嘘ですが。」
と煌玄は答えた。
「肉体が消滅しても魂が死することのない妖魔は、この森で魂の浮遊物となり転生を待つのです。阿陀良帝が、という話は嘘ですが、もちろん、凶悪だった妖魔の魂もあるでしょう。ですが、魂だけですので、悪さはできませんからご安心ください。」
別に怖くないが、と灯己は少しむくれた。
「おれはこの森に入るのはなんとも思わないが、普通、嫌がるだろう?おまえは平気なのか?わざわざ迎えに来なくてもよいのに。」
振り向いた灯己に、煌玄は大げさに震えて見せた。
「いいえ、今も悪寒が止まりません。」
灯己は怪訝に眉を顰め、煌玄は笑った。
「ただ、私には少し免疫があるのです。我が一族は燈家から血を分けていますから。」
「帝王一族と親戚なのか?」
「そういうことになっています。といっても遠い血のつながりですが。燈一族が半妖になるよりずっと昔のつながりです。」
「それじゃあ妖魔の力は関係ないじゃないか。」
「ええ。ただ、妖魔とはとても義理深い生き物なのです。遠い昔のつながりでもとても大事にするのですよ。だから彼らの王、炎鷲、焔鷙の盟友である燈一族を守り続けている。私のような燈一族の遠縁の者へも手出しはしないと決めているのです。」
炎鷲と焔鷙か、と灯己は女官長たちに習ったことを思い出した。初代帝王と契約を結びその体に巣食った妖魔の王。元は比翼の鳥の姿をしていたが、双子の阿陀良・燈峻に受け継がれた際に二体に別れた。その後焔鷙は燈羨に宿ったが、炎鷲は阿陀良の死と共に行方をくらました。
灯己は、ふん、と鼻を鳴らした。
「妖魔もさながら、おれからすればおまえたち帝軍士も負けず劣らず義理深い生き物だよ。おれのような得体の知れない者を帝王の一言で軍の最高位に迎え入れちまうんだからな。」
煌玄が、ふふふ、と笑った。
「私たち軍士は陛下のお言葉がすべてです。官職の中で武官だけが六位以下の者も帝王直属の配下という特別な位をいただいているのです。この千城では六位以下の位の者は城内にいても陛下の御尊顔を拝することはかなわない決まりになっておりまして、一生宮官として務めても一度も陛下に拝謁することなくなくその任を終える者もおります。それに比べ、武官は直接陛下からお言葉をいただくことができるのですから、それだけでもみなありがたいのです。」
道理で、と灯己は思った。文官に比べると武官の忠誠心は狂信的とも見える。
「だがそのような決まりがあれば武官を妬む文官もいるだろう。」
煌玄の声が僅かにくぐもった。
「そのことはあとでゆっくりお話せねばなりませんが。」
「諍いになっているのか?」
「いえ、私たち武官はこのような特別な位を戴いている代わりに、執政官や管財官などの文官への官替えが禁止されておりますので、文官の権力争いに加わることはないのですが、武官は軍士学校で帝王への忠誠心を叩き込まれるため、みな正義感だけは異様に強くて。」
煌玄は苦笑した。
「相容れないのです。己が利益のために帝王の傍へ傍へとのし上がろうとする文官のやり口に、不信感を覚えるようでして。」
「血の気の多い配下に手を焼いているようだな。」
煌玄は頷きながら、ええ、と笑った。
「今日、彼らに会えばすぐにおわかりになりましょう。」
「一目見てわかるほど顕著なのか?文官たちは派手に賄賂や派閥が争いを?」
「いいえ、それはありません。この千城には不正を裁く世にも恐ろしい監査官がおりますから。」
ああ、そういうことか、と灯己は思った。
「妖魔か?」
「ええ。謁見の間に控える虎巻・巻豼という半獣半妖の石像です。あれらは普段はおとなしく座っていますが、帝王に不正を行うものを見分けると襲いかかり喰い殺すのです。」
「かつて喰い殺された者が?」
「私はまだ見ておりません。」
灯己は半ば呆れ、半ば感心した。
「燈一族は実にうまく妖魔を利用しているな。」
「妖力を持たぬ者にとって、妖魔とは恐ろしい存在なのです。元帥は妖魔を恐ろしいとは思いませんか?」
灯己はしばらく考え、今も絶えず体の中で聞こえ続けている妖魔の息遣いに耳を傾けた。この体に宿りやがった魔物を疎ましいとは思う。しかし、不思議と恐ろしさはなかった。
「おれは育ての親が妖魔だったからな、あまり気にしたことがない。誰が妖魔で誰がひとかということも。」
「そういうお考えは珍しいでしょうね。千城宮には昔から妖魔の官職が多いですが、千城市中はもちろん、元帥の住まわれていた裏街にも妖魔は多くおりますよ。皆、身なりをそれと分からないように変えているだけで。妖力を持たぬ者は持つものを恐れ、忌み嫌いますからね。」
灯己はずっと不思議に思っていたことを口にしてみた。
「おまえは、恥ずかしくはないのか?おれのような者に頭を下げ、下位に甘んずることを。」
煌玄はしばらくきょとんとしていたが、ゆっくりと微笑んだ。
「元帥、この千城では力強きことが何より重んじられるのです。今、この千城で元帥ほどお力の強い方はおりませんよ。それだけで誰もが元帥を敬い尊ぶでしょう。臆される必要などまったくございません。」
「おれが裏街の出でもか?」
「ええ。」
「おれが、あの鳥市でもか。」
煌玄が、しっと指を立てた。
「その名は禁句です。とはいえ、実は、皆知っているのです。帝は、帝軍を帝王の威厳と恐怖の象徴にするために、元帥があのフクロウだったという噂を利用しているのですから。」
灯己は目を見開いた。
「あの怖しいフクロウが帝軍の最高職に就いたと知って、わざわざ帝王に歯向かう者などおりませんからね。」
「いいのか?それで。おれは罪人だぜ?」
「私もですよ。」
煌玄は自嘲するように眉尻を下げた。
「かつて阿陀良帝に諫言し怒りを買った、隍翔第二部隊副官こそわが父にございます。父は阿陀良帝により処刑されましたが、私は燈峻帝に引き取られ、姓を変え生き延びて参りました。この帝国で善悪の秤は帝王のお考えひとつなのです。今の世では、阿陀良帝こそが悪とされていますから、私は生きていられます。あなた様と同じように。」
灯己はじっと煌玄を見つめた。煌玄はその瞳を見つめ返した。
「あなた様は、先帝の仇をとられた英雄なのですから、堂々とされるがよろしいのです。過去がどうであろうと、帝は気にされません。これからあなた様の右腕となる私たち四将も。あなた様のお力に、みな尊敬の念を抱いております。」
「おまえもおれも、身内の罪を踏み台にして生きているというわけか。」
灯己の言葉に煌玄ははっと息を飲み、静かに微笑した。
「ええ、生きることとは、時に死ぬよりも醜悪ですね。」
灯己は煌玄から顔を背け、歩き出した。
「おれに与えられた罰が生きることというのも、醜悪そのものだな。」
煌玄は先を行く灯己の背中を見つめた。かつて文官屋敷で剣を交えたフクロウとは、全くの別人のようだと思った。ここまでひとを変えた出来事、おそらくは仲間を殺し捕縛されたことについて思いを巡らそうとし、思いとどまった。簡単に想像していいことではない、いや、想像すらできないことだ、と思った。このひとの望む言葉を探すのは、きっと骨が折れる。
ざわざわと騒がしい帝軍士詰所広場には広場を埋め尽くす帝軍士が式典のために集まっていた。わっと軍士たちの歓声が上がり、灯己は顔を上げた。燈羨と煌玄が舞台の中央へ歩み出たところであった。灯己は舞台の奥の幕の中で腕を組み、煌玄の演説に耳を傾けた。
「これより、初代帝軍元帥就任式を執り行う。四隊士たちはそれぞれ軍将から説明があったと思うが、このたび我ら帝軍は総指揮官として四将の上官に元帥を迎えることとなった。」
ざわざわと不満の声が漏れた。煌玄が咳払いをし、続けた。
「静粛に。これは我ら帝軍の健全な軍力強化のためである。陛下からお言葉をいただく。神妙に拝聴せよ。」
燈羨がゆったりとマントを靡かせ、前へ歩んだ。
「我が心なる臣よ。」
その一言で、軍士たちが一斉に息を飲む気配に、灯己は肌が粟立つのを感じた。
「おまえ達は常に自らの隊軍将を師として尊敬しあがめてきたことを僕はよく知っている。だから四将よりも上位となる元帥を帝軍に迎えることを快く思わないかも知れない。そのことは僕もわかっている。だが、よく考えて欲しい。先代、あのような刺客林立の状況を野放しにし、ついには我が父にその魔の手が及ぶのを止められなかったのは、我が帝軍の怠慢でなくしてなんであろう?帝軍は生まれ変わらなければいけない。僕たちが迎えようとしている彼女こそが、我が父先代燈峻帝を暗殺した憎き刺客、カラスを捕らえ殺したのだから。」
軍士達が信じられない面もちで燈羨に釘付けになる。
「僕たちはまず、彼女に感謝しなくてはならない。そして彼女の人並みならぬ強靱さを信頼し尊敬すべきではないか?彼女はこの国に先代のような悲劇を二度と起こさないと誓ってくれた。我が飛都は彼女を得てよりいっそう輝きを増すと僕は知っている。彼女は若き四将の、そして全ての軍士、おまえ達のよき指導者となるだろう。今この時より、彼女の言葉は僕からの言葉と思え。彼女に従い、彼女と共にこの帝国の平和と希望を守ることを誇りと思ってつとめて欲しい。我が帝国の永遠の輝きの為に、彼女を迎え入れよう。我らが元帥、灯己を!」
わああっと空が割れるような歓声が沸いた。灯己は組んでいた腕を解くと幕を掬い、潜った。軍服の長い裾が風を孕んで翻る。灯己は燈羨の傍らに歩み、瞼を上げて観衆を一瞥した。その眼差しの迫力に、一同は水を打ったように静まり返った。幾千もの軍士たちの真っ直ぐな瞳が灯己を見つめた。
「その目だ。」
灯己の低く、よく通る声が、軍士たちの胸を震わせた。
「そなたたち一人一人の目を見つめれば、そなたたちがこの栄えある都千城を、この輝かしい大帝国飛都を、そしてこの若く美しい帝王燈羨を、心から愛していることが私にはわかる。これほど美しく、純粋な忠誠心を私はこの帝軍のほかに知らぬ。何よりもそなたたちが幸せなのは、この帝王がここにいる全員を愛しているということだ。私は、帝王と全軍士が信じ合う、この絆を守ることを、ここに誓う。」
灯己の言葉に軍士達は興奮に頬を紅潮させ、互いに頷き合った。喝采に地が揺れ、皆が感動を両足で踏みしめていた。
燈羨は満足し、新たに任命した四将の顔を順に見やった。最年少の彰豼は子供のように興奮を隠さず、創設時から二百年帝軍第二部隊に所属する生粋の軍士である妖魔蘭莉は疑うべくもなく心を打たれた様子、最も反発が懸念された高貴な家柄の麗威も第三部隊の面々と頷き合っていた。
煌玄が号令を発すると、一糸乱れぬ作法で軍士達が最敬礼した。数千人が敬礼する様は壮観であった。灯己はしばらくその様子を眺めていたが、煌玄に促され燈羨と共に降壇した。
「後ほど、四将を紹介させていただきます。その前に、千城宮をご案内致します。燈羨様はしばらくお部屋でお休みください。」
灯己が燈羨に目をやると、先ほどまでぴかぴかと輝いていた燈羨の顔は、舞台を降りた途端青白く精気を吸われたように萎んで見えた。双子の女官が寄り添い、燈羨を緋天殿へ導いた。
「燈羨はどうしたんだ?」
「いつものことなのです。」
煌玄は微笑んでいた。
「気を張られた後は特別お疲れになるのですよ。少しお休みになれば大丈夫です。」
そういうものか、と灯己は思った。この煌玄が心配ないと言うのなら、その通りなのだろう。
煌玄は灯己を連れ、千城宮の最も南、千城宮の大門へ向かった。大門の向こうには大階段が表街へと続いている。
「この大門を挟んで向かって右手に文官方の勤める官所が続きます。私たち武官の詰め所はこちら、左手です。正面へ進むと帝王謁見の間、その奥が帝王のご親族が住まわれる黄雲殿。この黄雲殿の廊下を歩くことを許されているのは三位以上の官吏のみです。ただ、今はどなたもお住いではありません。燈羨様にはご親族がありませんので。」
そういえば、帝王に子は一人という決まりがあるのだったな、と灯己は思い出した。王魔の継承で争いが起きぬよう、双子の場合を除き、二人目の子供は禁止されている。
文官の屋敷や女官の詰所など様々な場所を長い時間をかけてまわり、二人は千城宮の最深部へたどり着いた。
「これより、緋天殿に参ります。緋天殿への参内は、帝に許された者に限ります。」
煌玄は灯己を朱塗りの門へ導いた。
「もちろん、元帥も、そのお許しを賜るおひとりです。」
三年前、灯己が焼いた緋天殿は焼失前と寸分違わずに再建されていた。しばらく回廊を歩くと、回廊の先に大きな扉が見えた。他の扉は軍服の軍士が扉番に立っているが、その扉の扉番だけは女官であった。
「これより奥が、正后様と高位の女官が住まう奥宮、男子禁制でございます。」
「奥宮は天上に設えるのではないのか?」
「先代まではそのようされていましたが、新しい正后様のご意向で、こちらに。」
灯己と煌玄が奥宮の扉の前を通り過ぎようとした時、その扉が開いた。強い香に、灯己は思わず顧みた。きらびやかな装いの人物が扉から出てくるところであった。変わった着こなしだ、と灯己は思った。男衣に女帯を締めることがまず珍しいが、直線的な形である男衣を、長い裾がふわりと広がるよう特別に仕立てている。女官だろうか、と思ったが、女官はどれだけ位が高くても装飾品を身に着けることはない。優雅に結われた金の髪は翡翠と瑠璃をちりばめた金細工で覆われ、首元には蛋白石の重厚な首飾り、黒地に金の刺繍を施した帯には黒水晶の数珠を重ね、指の爪から足の爪まで、色とりどりの宝石で飾りつけられていた。歴代正后とて、これほどの華美を好んだ者はいなかっただろうと灯己は思った。それに、と灯己は怪訝に眉根を寄せた。高身長の女は飛都では珍しい。灯己は灯己より背の高い女を見たことがなかった。華やかな女性的色香を纏っていても、骨格は隠しようがない。
灯己の不躾な視線に気づいたのか、長い睫毛に縁取られた瞳が灯己を見た。作り物のように美しく整った顔が、花の咲くように破顔した。
「これは煌玄殿、ご機嫌麗しく。こちらの方は、もしやお噂の?」
不思議な声だと灯己は思った。高くもなく低くもなく、ただ、深い。その人が傍へ寄ると、煌玄は一歩身を引き、一礼した。
「はい、この度、帝軍元帥に就任されました灯己様にございます。」
「やはりそうだと思いましたわ。お噂どおり、お美しい方。お会いでき光栄にございます、灯己様。」
煌玄の振舞で、灯己は理解した。帝軍一位の第一部隊軍将兼帝王の躾役という武官最高位である煌玄が一歩引かなければならない文官はおそらく一人しかいない。
「灯己様、こちらは執政官一位、珠峨殿にございます。」
はやり、これがあの一位殿か、と灯己はしげしげと見つめた。文官職は数多く、それぞれに一位の官職が存在するが、特別に「一位殿」と呼ばれる者はただ一人である。文官の最高職、執政官一位。灯己は珠峨に目礼した。
「これは、失礼致しました。灯己と申します。一位殿のお噂はかねがね聞き及んでおります。飛都一の秀才と。」
珠峨は満面の笑みで応えた。
「恐悦至極に存じますわ。」
「珠峨殿は正后様の躾役も兼務されておいでなのですよ。」
煌玄の言葉に、ああ、それで奥宮から出てきたのか、と灯己はやっと頷いた。灯己の明け透けな表情を珠峨は可笑しそうに笑った。
「灯己様は怪訝にお思いになったのでございますね。わたくし、こんな体格でございますが、心は乙女でございますの。ですから、間違っても正后様と恋仲になるようなことはございませんわ。」
はあ、と灯己は答えた。関心をひかれなかったが、お世辞を言わないと会話が成り立たないのが貴族だと双子女官に教えらたことを思い出し、
「帝からの信頼がたいそう厚いのですね。」
と付け足した。珠峨は当然と言う代わりに、
「私めにはもったいないことにございますわ。」
と微笑んだ。ところで灯己様、と珠峨がぐっと灯己に顔を寄せた。
「燈羨帝が大勢の軍士へお声を掛けられたのを御覧になりましたでしょう?どのようにお感じになりました?」
「驚きました。」
灯己の正直な言葉に、珠峨はにこにこと頷いた。
「そうでしょう、そうでしょう。我が心なる臣よ、そのお一言で、一瞬にして民の心惹き付けてしまう、帝王として天性の才をお待ちなのです、あの方は。」
恍惚と目を瞑り滔々と話し続ける珠峨の頭上に、すっと影が落ち、灯己は背後を振り返った。
「煌玄様、元帥、こちらにおられましたか。」
大柄な煌玄よりも更にひとまわり大きい男が立っていた。
「ああ、蘭莉殿。」
煌玄の呼んだその名に、灯己は思わず目を見開いた。
「まあ、これはこれは蘭莉殿、ご機嫌麗しく。」
にこやかな珠峨の挨拶に、蘭莉はただ会釈のみを返し、煌玄へ顔を向けた。
「煌玄様、女官長が探されておいでです。帝がお呼びになっていると。」
煌玄は頷きながら灯己に向き直り、その男を紹介した。
「元帥、これから元帥の直属の配下となる、私ども四将の一人、第二部隊軍将の蘭莉にございます。」
蘭莉は跪き手を差し出した。灯己は驚いたが、蘭莉に従い、その手に指先を乗せた。蘭莉は恭しく灯己の手を取ると額に掲げた。目上の者へ敬意を示す、古い習慣であった。これがあの蘭莉か、と灯己はまじまじとその男を見つめた。鋭すぎる嗅覚を持つがゆえに「飛都の番犬」と渾名され、刺客稼業で最も恐れられた男だった。帝軍の創設時から歴代帝王に仕え続ける老獪の士だと聞いたが、少しも老いておらず屈強な青年の姿をしている。
「蘭莉にございます。」
「灯己と申す。私は無知ゆえ、おまえたちには迷惑をかけるが、これからよろしく頼む。」
「元帥のもとで軍将を務められることを、誇りに思っております。何なりとお申し付けください。」
灯己が手を引くと、ようやく蘭莉は灯己の手を離した。灯己様、と珠峨が口を開いた。
「蘭莉殿はとても有能な軍士でいらっしゃいますのよ。先の御代、豪族の蜂起の鎮圧に何度も出向かれ、おひとりであまたの首をもぎ取り帰ったのは有名ですわ。それはもう鬼気迫るご活躍だったとか。」
煌玄がちらりと蘭莉に目をやり、代わりに答えた。
「おほめ頂き光栄に存じます。」
「灯己様には煌玄殿や蘭莉殿のような有能な配下がいらっしゃってうらやましい限りですわ。これからも先代の豪族狩りのようなご活躍を大いに期待しております。」
それまで珠峨に対し沈黙を貫いていた蘭莉が突然口を開いた。
「一位殿のご期待ありがたく存じますが、今後その機会はございません。新しき元帥と我ら四将がこの国の治安をお預かりする限り、この国に戦乱は二度と起きませぬゆえ。」
一瞬、時が止まったかのようだった。珠峨は瞳を大きく見開き、その中に蘭莉を映した。黒々とした瞳の闇の中に佇む蘭莉の姿がひどく不幸に見え、灯己はぞっとした。
静寂を破ったのは珠峨の高笑いだった。
「なんと頼もしいお言葉!そうなることを私も願っておりますわ。」
「では、これにて失礼仕ります。」
立ち上がり背を向けた蘭莉に珠峨が声をかけた。
「とはいえ残念なことですわ。蘭莉殿にはとてもお似合いでしたのにもったいない。」
振り向いた蘭莉に、珠峨はにこりと目を細めた。
「一心不乱に人を殺すお姿が、とてもお似合いでしたのに、ねえ。」
微笑みを口元に残し、珠峨は背を向けた。
冷汗が背を濡らし、えも言われぬ不快感がじわりと胸に広がっていくのを感じながら、灯己は珠峨を見送った。それは煌玄も同じであったのか、取り繕うようにとりわけ明るい声で灯己を呼んだ。
「灯己様、これから四将をお引き合わせする予定でしたが、帝の元へ参らねばならず申し訳ございません。蘭莉殿、元帥を執務室へご案内してください。」
蘭莉は表情を変えずに、は、と返事をした。
「では失礼致します。また、後ほど。」
煌玄が見えなくなるまで敬礼する蘭莉の背に、灯己は蘭莉、と呼びかけた。
「おまえと一位殿には何か、個人的な確執があるのか?」
それまでほとんど表情に変化のなかった蘭莉が目を見開き灯己を顧みた。明らかに動揺し、言葉を継げないでいる。灯己は続けた。
「仲が良いようには見えん。」
蘭莉はしばらく惑い、言葉を探していたが、意を決したように、真っ直ぐに灯己へ向き直った。
「私ごとではございません。一位殿には国事に関わる不審がございます。」
今度は灯己が目を見開く番だった。蘭莉は続けた。
「しかし、確証がつかめておりません。内密に調べております。いずれ、きちんとご報告できるかと。」
「帝には知らせているのか?」
蘭莉は首を振った。灯己は更に目を見開いた。
「不審があるならなぜそのような危険人物を帝の傍に野放しにしておく?」
蘭莉は口を閉じ、俯いた。灯己はしばらく待ったが、固く閉ざされた口に開く意志がないことを悟り、溜め息を吐いた。
「まさか、その不審に帝が噛んでいるんじゃあるまいな?」
はっと顔を上げた蘭莉に、灯己は呆れ、天を仰いだ。
「顔に出すぎだ。馬鹿正直者か?」
誰だ蘭莉を老獪の軍士だと言った奴は、と灯己は半ば怒っていた。二百年以上生き続けてこの純真さとはなんという奇跡か。
「あの様子じゃ、一位殿はおまえの思惑に気付いているだろう。今に寝首を掻かれるぞ。」
「寝込みを襲われるような手抜かりは致しません。」
「当たり前だ。そういう意味じゃない。」
歩き出した灯己を、蘭莉は追いかけた。
「どうも帝軍は人が良すぎる!」
なぜ、灯己がこんなにぷりぷりしているのか、蘭莉は皆目見当つかず、首を捻った。
「私たちは、犬にございます。帝王の忠犬であることを目指しております。」
飛都の番犬と言われているのを知っての言葉だろうかと灯己は呆れ大きな溜息を吐いた。帝軍を守ると誓ったが、もしすべての軍士がこの調子であれば誓いを全うするのは容易ではない。まさか全員が馬鹿正直馬鹿ではないと思いたいが、おれのような輩を迎え入れている時点でその可能性は大いにある。灯己は火照る額を掌で冷やしながら、元帥執務室の扉を開けた。
「灯己元帥!お待ちしておりました!」
育ち盛りの子供のように威勢の良い大声が、灯己の横っ面を張り、灯己は思わず仰け反った。きらきらと瞳を輝かせ、小柄な青年が最敬礼し灯己を見上げていた。
「初めてお目にかかります、第四部隊軍将を務めさせて頂きます、彰豼にございます!」
「声がでかい!」
灯己は思わず叱責した。
「は!」
しかし返事も変わらず大声であった。灯己は頭を抱えたくなるのをなんとか我慢した。やはり全員馬鹿正直馬鹿なのではないか。
「元帥のもとで働けることを誇りに思っております!まさかあの最強と言われたフク」
咄嗟に彰豼の口を押える者があった。彰豼の隣で同じく最敬礼し侍座していた者が、彰豼の頭をぐっと抑え下げた。彰豼ははっとしたように口を噤むと、床に額をつけた。
「失礼仕りました!」
灯己は思わず微笑みを漏らした。なるほど、煌玄の言っていた通り、フクロウの名は暗黙の了承であるか。
「よい、彰豼。そちらは第三部隊軍将、麗威であるな。」
彰豼の頭を離した手を敬礼に戻し、麗威が顔を上げた。灯己を見上げるその強い眼差しに、灯己はおや、と思った。
「は、第三部隊軍将、麗威にございます。元帥は裏街のご出身と伺いましたので、さぞやこの千城宮でご不便にお過ごしのことと存じます。お困りの際は何なりと私にお尋ねくださいませ。」
灯己は堪えきれず、満面の笑みで麗威を見つめた。一人くらいこのように灯己を上官に迎える不本意を露わにする輩がいなくては面白くない。全員が馬鹿正直馬鹿というわけでもなさそうである。
「ありがとう、麗威、そうさせてもらう。」
嫌味に対し余裕の微笑みを返された麗威はむすりと口を結んだ。彰豼が怪訝な顔をした。
「おい、麗威、今元帥に失礼なこと言ってないか?」
「言ってない。」
「麗威と彰豼は上官専科の同期だそうだな。」
灯己の問いに、は、と麗威が返事をした。
「彰豼は飛び級ですので、年は離れていますが。」
灯己は目を瞠った。あの噂の秀才がこの彰豼か。帝軍士官学校では武術はもちろん、史学や地理学、倫理学や哲学など、学科科目でも優秀な成績を修めなければ飛び級は認められない。このやんちゃ坊主を絵に描いたような青年がその特例中の特例、六年の士官学校を三年で卒業した上に最年少で上官専科へ進んだ秀才にはとても見えなかった。しかし、と灯己は思い直した。この麗威にしても三代の帝の側近を務めたあの麗雅二位の娘であり、士官学校へ入る前に若くして御治療院で医学を修め三位の位を授かったと聞いた。その上準神格家である家の縁戚という家柄は、貴族の中の貴族。帝軍四将とは選ばれし特別な四人なのだ。そんな四人の上に立たなければならないと思うと灯己は気が滅入った。まったく柄ではない、と溜息が出る。
「私は無知だ。」
灯己は三人を順に見やった。
「私は士官学校を出ていない。本来なら帝軍に所属する資格のない者だ。だが、私は帝王のためだけに生きている。帝王燈羨のためだけに生きる私もまた犬だ。帝王の心たる臣になるべく、励もう。」
「は。」
三人は声を合わせ、深く頭を垂れた。