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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
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幕間 燈の一族

 幼い(あまり)は吹雪の中を走っていた。雪に足を取られながら、息を切らせている。笛の高音が吹雪の音の中に微かに聞こえる。その音を求め、走っていた。先ほどまで遠くで聞こえていた笛の音が、突然すぐ近くに聞こえ、羨がはっとして顔を上げると、目の前に梅園が広がっていた。吹雪だと思っていたのは白梅の花嵐であった。梅の木にひとりの少女が寄りかかって笛を吹いている。紅い上等な外套に長い黒髪がかかり、つややかに風に靡いている。少女が羨に気がつき唇を笛から離した。ぴたりと花嵐が止み、花びらがゆっくりと舞い落ちる。見つめ合う羨と少女の間にあるのは静寂のみだった。

「だれ?」

 羨の問いに、少女はただじっと羨を見つめていた。羨の後ろでガサッと音がし、振り向くと見たことのない女官がいた。髪が真っ白だが年寄りではない。羨はどきりとしたが、羨を見つけた女官が倍ぎょっとした形相を呈し、狼狽えた様子で少女に声をかけた。

紫玉楴(しぎょくし)様。」

 紫玉楴と呼ばれた少女は頷き、女官に向かい歩き出した。羨は動けずにいた。少女が羨の横を通り過ぎる。嗅いだことのない華やかな香の匂いがした。目がちかちかした。動悸が治まらない。

「紫玉楴!」

 堪りかね、その名を呼ぶと、少女が振り向いた。

「また、会える?」

 紫玉楴はしばし思案するように、美しい眉根を寄せた。薄い唇が開く。

「滅びる前に、また」

 羨が意図を図りかねていると、紫玉楴がすっと笛を差し出した。羨が受け取ろうと手を伸ばすと、それは指先を掠め、雪の中に落ちた。笛はゆっくりと落ちた。さくり、と笛の先が雪に刺さった時、少女はそこに居なかった。途端に猛吹雪が羨を襲った。ごうごうと雪の粒が羨の体に当たり前が見えない。遠くから羨を呼ぶ女官の声が聞こえる。夕凪と舞霧だ、と羨は思った。しかし、顔に打ち付ける吹雪の猛威に口を開けることができない。雪の中に膝をつき、笛を握りしめると、そのまま身を横たえた。


 その頃帝王謁見の間である巻獣の間では、時の帝王阿陀良と、その双子の弟で帝王継承権第一位の燈峻が繰り広げる丁々発止のやりとりに、並び控える重臣たちの緊張は最高潮に達しようとしていた。

 石造りの玉座に座る帝王阿陀良の両脇には半人半虎、半人半豹の石の妖魔が控え、阿陀良の足元に膝を折る燈峻を見下げている。阿陀良は咥えていた煙管を唇から外し、ゆっくりと白い煙を吐いた。煙管の灰を、かつん、と音を立てて灰入れに落とす。

「それで、そなたが我に申したいのはそれだけか?」

 燈峻が顔を上げ、強い意志の宿った瞳で阿陀良を見据えた。

「いいえ、姉上がお聞きになるお耳をお持ちでしたら私は夜を徹してでも正しき帝王のあるべき道を申し上げましょう。」

「聡明な弟よ。そなたが我の弟でなければ我はとうの昔にその小うるさい舌を切り裂いていたであろうよ。」

「たとえ舌を切り裂かれようとも、姉上が民への行いを改めるまで私は血を吐いてでも姉上をお諭し申し上げます。」

「もはやそなたの口をつぐませるにはこの虎巻・巻豼に頼むほかあるまいか?」

 阿陀良が両脇に控える妖魔へ視線を移した。虎巻、巻豼の目がぎょろりと動いて阿陀良を見る。

「お言葉でありますが陛下、ここ謁見の間の守り神である虎巻・巻豼御両方はこの千城の主人である帝王様に刃向かい正しきを汚そうとする輩にのみその牙をお見せになるのです。たとえ私が帝王様にとって汚れた存在であろうとも、」

 阿陀良が音を立て煙管の灰を落とし、燈峻の言葉を遮った。

「よい。疎ましい。いくら我がこやつらにそなたを食いちぎれと申しても、こやつらは悪をもって私に楯突く者にしか襲いかからぬもの、そなたは善をもって私に刃向かっておるのだからこやつら千城の守り神もそなたの味方であると、そう申したいのであろう?」

 虎巻、巻豼がじろっと目玉を動かし阿陀良を見た。阿陀良は優雅な手つきで煙管を吸うと、時間をかけて白い煙を吐いた。長い間に耐えきれず幾人もの家臣の額に脂汗が浮かんだ。阿陀良が紅い唇を開いた。

「そなたが我が弟でなければ、我はとうの昔にそなたを殺していたであろう。」

「たとえ死のうとも、亡霊となって姉上をお諫めいたしましょう。」

 阿陀良がじっと燈峻を見下した。

(けわし)よ、我がそなたの姉でなければ、このように説教など回りくどいことをせずとも、そなたはただ我を殺せばそれで済んだものを、残念であるな。」

 父である五代帝王は既に亡く、この世で燈峻の幼名を呼べるのはこの姉だけであった。六代帝王として阿陀良が君臨し、暴君と渾名されて五年が経つ。

 燈峻が言葉を継ごうと口を開いた時、卷獣の間の入り口に、舞霧が膝をついた。

「燈峻様に申し上げます!ただいまご子息羨様、吹雪の庭にてお倒れになりましてございます!」

 燈峻はさっと血相を変え、舞霧を振り向いた。

「行っておやり、峻よ。」

 緊張の糸が切れ、重臣たちが一斉に、ふううと長い息を吐いた。


 黄雲殿の最も北に位置する紅雀の室が羨に与えられた部屋であった。燈峻が戸を開けると、寝台に横たわり高熱にうなされている羨の様子が目に飛び込んだ。羨に寄り添っていた煌玄が燈峻に気付き、一礼し場所を譲った。

「容態は?」

 燈峻は羨の小さな手を取った。

「熱が高うございますが、お命に別状はございません。もともと羨様はお体のご丈夫な方ではございませんので、この吹雪の中外に出られてはお倒れになるのも無理はございません。」

「なにゆえ羨はこのような日に外へ出たのだ?」

「羨様は、庭で笛を吹いている者がいると仕切に仰いまして、おそらくは、それをお確かめになりたくて、外へお出になられたのではないかと。一瞬目を離した隙に、申し訳ございません。」

「笛?この吹雪の日に?」

「はい、私は風の音だと思ったのですが、羨様が、これを。」

 煌玄が燈峻の前に笛を差し出した。燈峻は驚いてそれを手に取った。

「これを握りしめお倒れになっていらっしゃったのでございます。」

 燈峻は羨の赤く腫れるような額に手を触れ、じっと考えを巡らせた。笛を煌玄の手の中に戻すと、立ち上がった。

「羨をよく見ていてくれ。」

「謁見へお戻りになるのですか?」

「いや。この城には姉上より恐ろしい魔がいるのかもしれん。」

 燈峻は紅雀の間を出ると、回廊を北へ歩いた。吹雪はおさまり、しんしんと牡丹雪が降り続いている。燈峻は真新しい雪の積もる庭に降りた。天を仰ぎ牡丹雪の降る空を見上げた。灰色の空から次から次へ降ってくる雪に吸い込まれるような錯覚を起こし、目を瞑った。再び瞼を上げると柱廊は消え、辺りは一面銀野原であった。振り向くと、赤い外套を着た少女が燈峻に背を向け雪の止めどなく降る空を見上げ佇んでいた。燈峻は驚き呆れ、ため息をつく。

「紫玉楴。」

 紫玉楴がゆっくりと振り向いた。わずかに微笑んでいる。

「また魂だけ抜け出して来たのか。このようにいたずらに力を使ってはいけない。危険すぎると何度言えばわかる。」

 紫玉楴は楽しそうに笑った。

「叔父上様がわたくしを呼んだのですよ。叔父上様がわたくしに会いたがっていらっしゃったから。わたくしは紫宝宮からただの一歩さえ踏み出すことができないのですから、こうやって力を使うほかありませんでしょう。」

 紫玉楴は歳に似合わない大人びた艶めきを瞳に湛えた。

「それとも叔父上様が命の危険を冒して、あの宮殿に張り巡らされた結界を壊してくださいますか?」

「恐ろしい小妖魔め。」

 燈峻はやれやれと首を振った。

「同じ血をひく叔父上様も、我ら燈一族はみな、同類の化け物でございましょう。」

「同じ化け物でも、おまえの力はほかとは違う、計り知れないものを持っている。私はおまえが恐ろしいのだよ。」

 紫玉楴はけらけらと笑った。

「恐ろしい?叔父上様が?飛都帝国史上最悪の恐怖帝といわれる母上に、正義でもって楯突いていらっしゃる叔父上が?母上がわたくしを使って叔父上を殺すとでもお考えか?」

 燈峻は苦笑し、

「そのような企てがあるのか?」

 と項垂れて見せた。紫玉楴は微笑んで頭を振る。

「でもいずれ、そうなるやも知れません。」

「そうなれば私はおまえに敵わないだろう。」

「そのようなこと、」

 燈峻はすっと手を紫玉楴に差し出し、紫玉楴がそれに応じ手を重ねた。燈峻は紫玉楴の手を引き寄せ、紫玉楴の頭に掌をのせる。

「ただの十二の娘とは思えない、紫玉楴。おまえのその人並みはずれ秀でた妖力がいつかおまえの身を滅ぼすのではないかと、私は恐ろしいのだよ。」

「いいえ。それはもはや当然のことでございます。何も恐れなどいたしません。」

 燈峻は雪に膝をつき、紫玉楴を抱き寄せた。

「叔父上様は何をそのように怯えていらっしゃるのです?」

 燈峻は強く紫玉楴を抱きしめた。

「いつも、いつも、おまえを思っているよ。おまえを思わずにはいられない。紫玉楴。身を滅ぼすのは私の方だ。なんと強い力でお前は私を惹きつけることか、おまえはたった十二の娘だというのに。紫玉楴。私はどうしたらよいのだ、こんなにも、こんなにもおまえを、」

 紫玉楴は掌でそっと燈峻の口を塞いだ。

「仰ってはいけません。」

 燈峻は口を塞いだ紫玉楴の手を取り、紫玉楴の唇に唇を重ねた。紫玉楴は目を開いたまま、燈峻を受け入れた。空から降り続く、幾万もの眩暈がするような牡丹雪を見ていた。


 羨は寝台の上で目を覚ました。傍らで見守っていた煌玄が気付き、そばに寄る。

「羨様。」

「煌玄。」

 布団から手を差し出された羨の手を、煌玄は恭しく握った。

「美しい炎に出くわしたよ。」

 まだ夢の世界にいる様子で、羨が譫言を口にした。

「いつか、あれが溶かしてしまうよ、きっと。僕も、この千城も全部。」

「羨様?」

 熱に魂を吸われるように、羨は再び眠りに落ちた。煌玄は溜息を吐き、廊下に控える夕凪に声をかけた。替えの衣服を持ってくるからその間看病を代わってほしいと告げ、部屋を出た。わたくしが持って参りますと言う夕凪の言葉を聞こえない振りをし、回廊を歩いた。

 躾役として燈峻公に拾われ五年、片時も羨から離れず煌玄は十八になった。時々息が苦しくて堪らなくなる。

 おれは羨様を愛しすぎている、と煌玄は思う。そして、それは危険なことだと煌玄には思えてならなかった。

 まだ、七つの子供だ。この愛情は、子供である羨様に向けるべきものではない。このまま傍に居続ければ、この愛情が狂気に変わるかもしれない。しかし、離れることは耐えがたい。この二つの考えを絶えず行き来し、煌玄の思考回路は混乱を極めていた。

 ふと気配を感じ、煌玄は顔を上げ雪の積もる庭を見た。雪の庭に、燈峻の後ろ姿があった。ぼんやりと空を見上げている。

「旦那様。」

 煌玄の声に燈峻が振り向いた。その顔は先ほどよりずいぶん窶れている。

「旦那様、どうなさいました?」

「おお、煌玄。」

 微笑んだ燈峻の顔は、窶れているにも関わらず、幸福そのものに見えた。どきりと煌玄の胸が鳴った。

「羨の様子はどうだ?」

 燈峻は庭から回廊へ上がり、歩き始めた。煌玄は後を追った。

「一時は熱が高く、譫言を仰っておいででしたが、今はだいぶ落ち着かれました。よく眠っていらっしゃいます。」

 燈峻がふと足を止めた。表門を望む空中回廊へ歩む。表門にはきらびやかな輿が用意され、阿陀良が乗り込もうとしているところだった。

「陛下は雪見の宴に行かれるのだよ。」

 ぽつりと燈峻が呟き、煌玄は風流でございますねと応じた。燈峻はしばらくの間じっと阿陀良の姿を見つめていた。

「陛下は、飛都史上最悪の暴君といわれて久しいが、あれでも姉上がおまえと同じ年の頃には、千城に光をもたらす太陽の子と言われていたのだ。千城の陽の光、希望の華と謳われていた。民衆の賛歌を一身に浴びて光り輝く、美しい、幸せな子供だったのだ。このような悪女に成長すると誰が想像したものか。」

「悪女などと、旦那様がそのように仰せになっては、陛下がおかわいそうです。」

 燈峻は目を見開いて煌玄を顧みた。

「おまえは優しいの。陛下を恨んではおらぬのか?おまえにとっては親父殿の敵だ。」

 煌玄は目を伏せた。五年前、煌玄の父は帝位についたばかりの阿陀良の不興を買い、処刑された。

「憎くない、と申しては嘘になりますが、そのようなことを申しては、旦那様と陛下の不仲を騒ぎ立て喜ぶ輩を煽ることになりかねません。」

 賢い子だ、と燈峻は思った。何よりも、と煌玄が言葉を継いだ。

「何よりも、旦那様がお悲しみになります。」

「私が?」

「この千城には陛下の取り巻きがごまんとおりますが、陛下のお傍にすり寄るのは陛下の権力と妖力と富のおこぼれを授かろうとする汚い野心家ばかりでございます。この千城で、心から陛下をお慕いされているのは、旦那様だけです。」

 燈峻は愕然として煌玄を見つめた。

「旦那様のお苦しみは陛下のお苦しみそのもの。陛下と旦那様はまるで半身を分かち合った一つの魂のようだと、私は常々思っておりました。」

 その通りだ、と燈峻は驚きに満ちた瞳で煌玄を見つめた。この子にもわかることを、私はなぜ長い間忘れていたのか。ああ、だが私は。

「もう、遅いのだ。私たちの魂は、分かれてしまった。私はもうあの方をお助けすることはできないのだ。お前のように、私がもっと早く、それに気づいていればよかった。」

 あの方が、神苑の魔の手に落ちてしまう前に。

陀々(ダダ)。」

 燈峻の口から小さく漏れた言葉に、煌玄は胸が締めつけられた。それは今や誰も呼ぶことのない、阿陀良帝の幼名だった。

 燈峻はしばらく空中回廊の欄干に手をつき、項垂れていた。

「煌玄。おまえのような賢い子を羨の躾役にできてよかった。」

 煌玄は顔を上げ、心の中でほっと息を吐いた。保身や機嫌取りを意識せずとも、煌玄は昔から自ずと相手が望む言葉を選ぶことができた。今回もそれがうまくいったことに安堵した。

「旦那様。お願いがございます。」

 煌玄は膝行して燈峻に歩み寄った。

「私を、帝軍の士官学校へ入れてください。」

 燈峻は驚いた。

「士官学校に入れば、帝に忠誠を誓わねばならぬのだぞ?煌玄、おまえにそれができるのか?」

「は。」

 煌玄は神妙に頷いたが、それは本心ではなかった。阿陀良帝の世が長くないことを、煌玄は確信していた。

「少しでも、羨様のお役に立てる力を身につけたいのです。躾役の役目も決して怠りません。」

 燈峻はしばし逡巡した。

「あのような我侭の子守はおまえの重荷であったか?飽き飽きしたかの?」

「いえ、決してそのようなことは。」

 煌玄の必死の形相を見、燈峻は苦笑した。これほどに人の心に敏い子が考えたことだ、尊重しなくては、と思った。

「よいだろう。だが、これまで片時も離れずにいてくれた煌玄がいなくなっては、羨が泣いて嫌がるかもしれないからな。その説得はおまえ自身でするのだぞ。」

「は、ありがたき。」

 煌玄は頭を垂れた。自分を求め泣いて縋る羨の姿を思い描き、恍惚とした。


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