1幕 フクロウ 5
闇の中で、ゆっくりと瞼を開く者があった。僅かに射し込む月光に、金の瞳が光を灯す。
鉄格子の中に座っていた晶は振り返った。部屋の入り口に誰かがいる。それはゆっくりと格子に近づき、音もなく鍵を外した。
「晶様。」
低く、深く、男のようでもあり、女のようでもある、色のない声。晶は尻をついたまま、後退った。それは鉄格子の扉を潜り、一歩一歩晶に近づく。晶の背が反対側の格子についた。
「この日をお待ち申し上げておりました。」
底のない金の目玉が、晶を見つめた。さあ、と言い、白い手袋をはめた手を差し出す。
「参りましょう。あなた様はここにいらっしゃるべきお人ではない。さあ。」
それの醸し出す威圧的な様相に、晶は気圧され、恐る恐る手を差し出した。その手を素早く掴むとそれは晶を抱き抱え走り出した。風のように速い。宙に投げ出されたような浮遊感に、晶は眩暈を覚えた。どれだけそうして抱きかかえられていたかわからない。気付くと、晶は丘の上に居た。空が赤く染まっている。それは晶が生まれて初めて見る朝焼けだった。そっと、晶は草の上に降ろされた。初めて踏む土。草花に滴る冷たい朝露が晶の裸足を濡らした。
「ここから先、わたくしはまだ行けません。」
その人は身を屈め、晶の顔を真正面から見据えた。金色の底のない瞳が晶を見つめた。
「晶様、ここから先はどうかお一人でお逃げください。しかし、どんなに時が経とうと、どこにいらっしゃろうと、必ず晶様を見つけだし千城へお迎えするとお約束いたします。」
その人は白い手袋を外した。指先の長い爪に、美しい装飾が施されている。長い爪の先を晶の左頬に宛がうと、その爪が晶の柔らかい頬にのめり込んだ。晶の頬から赤い血が流れ出す。その人は赤い唇の間から舌を伸ばすと、晶の滴る血を舐め取った。晶が指先で頬を触ると、十字の傷跡が出来上がっていた。
「これが晶様であるおしるしです。さあ、お行きなさい。どうかご無事で。」
その人は踵を返し、森の中へ走って消えた。晶が振り返ると燃え盛る城があった。晶はその炎を美しいと思った。まるで朝焼けが燃え移ったような美しい炎だと思った。
炎の中で灯己は座り込み、いまだ忘我の境地にいた。耳元で、微かな笑い声を聞いたように思ったが、放っておいた。感覚がおかしくなっている。いつもの数十倍、すべての器官の精度が鋭い。そうであるにも関わらず、立ち上がる力はなかった。
肌を掴まれた感触に、灯己は自らの足首を見た。床の下から手が伸び、灯己の足を掴んでいる。灯己はのろのろとした動作で刀を取り、床から伸びる手首を斬った。切った感触が全くない。幻影か、と灯己は思った。斬られた手首は灯己の足首を掴んだまま灯己の足首にくっついている。
再び、くくく、と笑う声を聞いた。灯己の足首を掴んでいる手首から、すうっと順に腕ができ、肘ができ、肩ができ、だんだんと人型が浮かびあがった。それはやがて灯己の左足首を右手で掴み蹲る人型となった。
「お久しゅうございますねえ、いえ、お初にお目にかかります、と申すべきでしょうか。」
蹲る人型がゆらりと顔を上げた。金色の目玉が灯己を見上げる。白い顔、白い肢体、白い髪。石膏をやすりで均したような真っ白な肌の上に、見たことのない形の真っ白い服を纏っている。
「誰だよ。」
訊いてはみたが、どうでもいいことだった。たかが、幻影である。
「お忘れになられているとは残念至極。優雅な讃美歌と申します。グレイシー・ディティ、もしくはグレイスと呼んでくださいまし。」
変な名前だ、と灯己は思った。刀で軽くそれを斬った。グレイスと名乗ったそれは体をぐにゃりと歪ませ、元の形に戻った。やはり幻影である。
「私はあなたを再び見つけ、あなたも私を再び見た。燈峻帝の崩御されたこの記念すべき日に、何と素晴らしいことでしょう。運命を感じませんか、美しい紫々。いえ、灯己様。」
良く喋る幻影だ、と灯己は辟易した。早く消えてほしい。突然、耳鳴りに襲われ、空間が歪むような違和感を覚えた。見上げると、目の前の宙に、見たことのない文様が浮かんでいる。文様は光を放ち、その光の中から黒尽くめの少年が現れた。変な服を着ている。少年という年頃に見えるが、人でも妖魔でもない。しいて例えるなら、お伽話に出てくる神の国の小鬼だ。それは興奮した様子で声を張り上げた。
「グレイス!神苑に戻れ!どうやって封印を解いた!?」
グレイスと呼ばれたそれは、ふふん、と鼻で笑った。
「おや、ペル・ロディ、よくここがわかりましたね。あのような封印、訳もありません。私は魔術師ですからね。」
ペル・ロディと呼ばれた生き物の顔がかっと紅潮した。グレイスは歯牙にもかけぬ様子で、灯己に向き直った。
「さあ、始まりますよ。灯己様、遊びましょう。」
「お前の好きにはさせない!」
喚く少年にちらりと流し目を送り、
「それは、それは、あなたに何ができるのか楽しみにしていますよ。」
そう言い残すとグレイスというそれはすうっと姿を消した。少年が地団駄を踏んで喚いた。ひとしきり喚いた後で、うんざりした様子で見ている灯己に気付いた。灯己の体から燃え上がる炎を大きな目玉を更に丸くして見つめた。
「この炎、あんたが燃やしてんのか!その力って。」
妖力だよね、と言おうとし、言葉を飲み込んだ。ペル・ロディの知る妖力とは比べものにならない強大さを感じる。その妖力で燃え続ける炎の中にいて、衣服や髪を燃やさずに平然としているこの女は一体何のか。
少年が言葉を止めたことで、灯己は苛立ちを増した。
「なんなんだよ?」
「いや、あんたこそ何者さ?グレイシー・ディティを知っているのか?」
「知らねえよ。」
「じゃあ、なぜ、グレイスがあんたを知っている?」
意味の分からない幻影を見せられ、見たこともない生き物に尋問される状況に、灯己の怒りは頂点に達した。
「こっちの台詞だ、なんなんだ、てめえこそなんなんだ。まずてめえから名乗れ。」
迫力に気圧され、ペル・ロディは慌てて帽子を取った。
「おれはペル・ロディ。ペルと呼んでもらって構わない。この世界とは別の世界、神苑に住まう死神の、小間使いってところだ。」
はあ?と灯己は苛立ちに任せ聞き返した。
「神苑だと?お伽話じゃねえか。」
「いや、お伽話ではないんだけど。」
ペルは小さく咳払いをした。
「この世界で『妖戦記』と呼ばれる天地開闢の伝記にはこう書いてあるよね。その昔、この世は神々の住まう神苑から逃げ出した悪い妖魔で溢れていたけれど、初代帝王である薙寿、いやこの国のひとたちは敬意を込めて燈王と呼んでいるんだっけ、その燈王が妖魔たちを神苑に追い返し、英雄となりこの帝国を築いた。」
「お伽話だ。」
ペルは小さく頭を振った。
「いいや、本当のことさ。」
「その話はおかしい。」
灯己はぴしゃりと言い返した。
「その話は妖魔が悪者みてえだが、燈の帝王自身が、妖魔の王じゃねえか。」
「初代の燈王はひとだったんだよ。」
「ひとが妖魔になれるものか。」
「それ、君が言うの?」
灯己はぎょっとして、ペルを見返した。
「それ、その力、妖魔でしょ。でも、君、ひとだよね?合ってないよ、力と本性が。どうしてそんなことになっているの?」
それは灯己にもわからないことだった。
「じゃあ燈王はどうやって妖魔になったていうんだよ?」
「食ったんだ。妖魔の王を食った。食って血肉にした。」
「おれは食ってない。」
だいいち、妖魔を食ったら妖魔になるなんて話聞いたことがない。うんざりした。もういい、もうどうでもいいと灯己は項垂れた。
「ねえ、グレイスが神苑の封印を解いて真っ先にあんたのところに来たってことは、あんたと何か縁があるんだよね?どいういこと?ねえ、あんた何者なの?」
「何者でもない。」
灯己は目の前に積もる、ほんの少し前まで繰弄であった灰に頬をつけて身を横たえた。
「おまえ、死神の遣いだと言ったな。こいつを生き返らせてくれよ。」
「いや、蘇生術は存在しないから。」
「じゃあ、おれを殺してくれ。」
「いや、まだ死期じゃないから。」
灯己は溜息をついた。灰が舞い上がり、灯己の睫毛に積もった。
ペルは灯己のふてぶてしい態度に困惑していた。かつてこの国の住人に接触した際には、皆驚き、神苑の遣いであるペルを崇めたものだった。こんな態度をとられたのは初めてだった。ペルは焦り、話を続けた。
「グレイスは、神苑の犯罪者なんだ。かつてはこの飛都の人間に化けて政治に介入して、めちゃくちゃやらかしたこともある。今回だって何するかわからないんだ。舐めてかからないようにして、お願いだから。」
「舐めてかかるも何も、あんな幻影にどう立ち向かえと言んだよ?おまえ、頭が悪いのか?」
ペルは口をぽかんと開けて灯己を見下ろした。それに、と灯己は続けた。
「舐めてかかったとしても、おれはもうすぐこの城の一番偉い奴に捕まる。それで死刑になる。だからおまえが心配することはない。ほら、足音がするだろ。」
灯己は目を閉じた。扉が開き、炎の中に小さな影が飛び込んできた。
「シシ!」
鈴の音のような声に、灯己は目を開けた。冷たい小さな掌が、灯己の手を握った。そのとたん、灯己の中で燃え盛っていた炎が沈静した。あの鳥籠の牢に蹲っていた少年が、灯己の瞳を覗いていた。
「おまえ、逃げてきたのか。」
灯己は体を起こし、辺りを見渡した。黒い小鬼の姿はなかった。夢だっただろうか、と思った。灯己の体は燃えていなかった。
「シシ。」
小さな手が、ぎゅうっと灯己の手を握りしめる。
「連れて行って。」
灯己は少年の瞳を見つめた。
「連れ出してくれると言ったでしょ。」
そうだ。この少年を初めて見たとき、灯己の胸には今まで感じたことのない感情が生まれたのだった。
今まで人を殺すことしか考えて来なかった自分が、はじめて生きていてほしいと思った。
「ああ。」
灯己は繰弄の服の袖を破るとその中に繰弄の灰を入れられるだけ入れて包み、両側を結んで懐へ仕舞った。
「行こう。」
少年を抱きかかえ、鉤縄を隣の御殿に投げると、緋天殿の欄干から飛び降りた。
天蓋の中でその知らせを聞いた燈羨は、しばらく呆然として天蓋の外に跪く煌玄を凝視した。
「本当なのか?」
「は。燈峻帝、ならびに正后様、今しがた身罷られてございます。」
「なぜ?殺されたのか?」
煌玄は押し黙った。
「煌玄、答えろ。」
「緋天殿が焼かれ、御遺体の損傷が激しく、定かではございませんが。」
「殺されたというのか?夜回り番は?いや、扉番の軍士は何をしていた!?」
「わかりませぬ。扉番の遺体がないのです。ただ、一人の夜回り番が、見たと申しておりまして。」
「すぐに連れてこい。」
ですが、と煌玄は言い澱んだ。
「八位の夜回り番にございますれば、扉越しでの拝謁になさいませ。」
「よい。早く連れて来い。」
煌玄が軍士に命じ、しばらくして扉を叩く者があった。煌玄が応じた。
「階級と名を申せ。」
「夜回り番八位、珠峨と申します。」
不思議な声だと煌玄は思った。高くもなく低くもなく、深い。
「見たままに申しなさい。」
「は。私が参りましたときには、すでに正后様は身罷られていたようでございました。両陛下のお傍で、二人の何者かが、斬り合いをしており、一人のものが、燈峻帝を斬ろうとし、もう一人のものが帝を守ろうと。その二人は仲間のようにも見えましたが、そのあとのことは、炎に遮られ近づくこともできず。」
「刺客の顔を見たのか?」
「いえ、しかし、陛下を狙っていたのは男、もう一人は女のようでございました。」
「女?」
「女のほうはわかりませんが、男はカラスと呼ばれていました。畏れながら、市中を騒がせている鳥市という暗殺集団の一味ではないかと。」
「ほかに申し上げることはないか?」
珠峨と名乗ったその者は、しばらく思い巡らす気配を見せたが、再び口を開いた。
「見なれない小さな子供が、城内を走っておりました。足を引きずり、まるで奇鬼児のよう、身なりは襤褸を纏い。」
燈羨の顔がさっと青褪めた。
「浮浪児が迷い込んだのかと思い追い払おうとしたときに、燈峻様のご寝所での騒ぎを聞き、そちらに駆けつけたので、その子供のことは見逃してしまったのですが。」
燈羨が静かに唇を動かした。
「珠峨と申したな。こちらに参れ。」
煌玄は慌てて燈羨を制したが、既に扉は開かれていた。
八位の白い衣に、黒い帯をきちんと身に着け、きれいに梳かし結い上げられた金の髪が窓から射し込む朝陽を受け煌めいた。性別のわからない中性的な顔立ちは作り物のように整っている。八位という低位に似合わない気品と美しさに、煌玄は気味の悪さを感じた。
「煌玄、あれを見て来い。」
これは、よくないものかもしれない。煌玄の直感が警鐘を鳴らしていた。今、この者と燈羨様を二人きりにするのは、最善ではない。
「煌玄、あれを見て来い。北の禁域を。」
燈羨の強まる語気に、煌玄は逆らうことができない。煌玄は後ろ髪引かれる思いで、部屋を出た。
珠峨の背後で扉が閉じた。燈羨は天蓋を潜り、夜着のまま裸足で床に降りた。珠峨が深く頭を垂れ跪く。
「それを見たのはおまえ一人か?」
「は、昨晩の緋天回廊の回り番は私めだけにございます。羨様、なにか?」
燈羨は鞘に収まったままの剣をとり、珠峨の胸を突いた。珠峨は不意打ちに体を崩した。
「二度とその幼名で僕を呼ぶな。僕はもう十六になった。永遠にその幼名で僕を呼んでいいのは父だけだ。」
「は、申し訳ございません。」
珠峨は床にひれ伏した。
「だが、もう父はいない。そしてあれもいなくなったのであれば、僕は何もかも安心して帝位につくことができる。」
「燈羨様。」
燈羨はうっとりと目を瞑った。
「実にいい響きだよ、珠峨。こうして僕の正しき名を呼んでくれる家臣が、あれを見たのが残念でならない。おまえがあれを見たと言うならば、僕はおまえを殺さなくてはいけないよ。」
珠峨はじっとひれ伏し次の言葉を待った。だが、と燈羨は続けた。
「おまえは父と母の暗殺者を見た証言者でもある。おまえを殺したらのちのち面倒だろう?」
俯く珠峨の顎に鞘が触れ、顔を上げると燈羨は微笑んでいた。
「知っている?おまえのような下位のお雇い貴族が見たこともないような豪奢な暮らしがこの千城にはある。それを見たくはないか?おまえがあの奇鬼児のことを金輪際忘れるというなら、僕がおまえに素晴らしい世界を見せてあげるよ。どうだ?」
迷う余地などないのである。
「は。仰せのままに。」
「ではまず神式官あたりから始めてはどうだ?あれは暇だし竜胆家の使いに行けば豪勢にもてなしてくれる。いい役目だよ。」
「は。勿体のうございます。」
燈羨の顔から笑みが消えていた。珠峨はさっと頭を垂れた。
「その通りだよ、おまえなどには勿体ない官職だ。だから存分に僕の役に立て。いいな?」
「は。身に余る光栄にございます。必ずやお役に立ってみせまする。」
神妙に跪く珠峨の口元が歪み、笑っているようであることを、その場に煌玄がいたならば気付いたであろうが、燈羨がそれに気づくことはなかった。この珠峨の抜擢がどれほどの波乱を巻き起こすか、十六の燈羨には想像すらできなかった。