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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
4/30

1幕 フクロウ 4

 陽の当たる鳥市の小屋の二階の欄干に肘をつき、灯己は下の路地で子供たちが遊んでいるのをぼんやりと眺めていた。同じ部屋では津柚と雨寂が賭けごとに興じ、一勝負つくごとに歓声を上げている。灯己の瞳が動き、通りを横切る黒い服の男を視界に捉えた。とん、とん、とん、と階段を上がる音が聞こえ、せわしない気配と共に、乱暴に襖が開いた。

「おうおう、相も変わらず鳥市は平和だねえ。」

「繰弄。」

「繰弄、三日も帰らないでどこ遊び歩いてたんだよ?」

 津由が咎めるように口を尖らせたが、繰弄はにやにやと笑った。

「おめえらにはまだわからねえ大人の事情よ。おい、灯己、どうしたよ腑抜けた顔して。おれがいなくて怪我したのか?」

 灯己はうんざりしたように繰弄を一瞥した。

「なんだよ。なんか言えよ。」

「ここんところ師姉、あんな調子でさ。ぼおっとしてんだ。」

 下階から義葦が声を張り上げた。

「おい、繰弄、帰ってんのか!?」

 義葦が喚きながら階段を上ってくる。

「繰弄、おめえ戻ったなら顔見せねえか、仕事放って遊び歩きやがって。」

「へえへえ、すんませんでした。でも大した仕事じゃなかったんだろ?」

 繰弄は一同の顔を見まわし、鼻で笑った。

「誰も死んでねえもんな。」

 義葦の拳骨が繰弄の頭に落ち、繰弄は頭を抱えて蹲った。

「繰弄、今夜はおめえ一人で千城行ってもらうぞ。」

 灯己が欄干に凭れていた体を起こした。

「義葦、おれも行く。」

 一同が驚いて灯己を振り返った。

「珍しいね、師姉が千城に行きたがるなんて。刀振り回せないから嫌だっていつも。」

 義葦が皺の深い顔を顰めた。

「一番手のフクロウに出張ってもらうほどのヤマじゃねえ。こいつ一人で十分だ。」

「そうかよ。」

 ふて腐れたようにそっぽを向くと灯己は立ち上がり、部屋を出て行った。

「師姉、どこ行くの?」

「外。」

 義葦が灯己の背に声を掛けた。

「外ってどこだ。」

「いいだろ、どこでも。」

 雨寂が欄干に掛けていた灯己の外套を掴み、後を追った。

 女の匂いがしたな、と靴を履きながら灯己は思った。

「ついて来なくていい。」

 階段を降りてきた雨寂から、外套を受け取ろうとするが、雨寂は離さなかった。

「師姉、ちょっとおかしいんじゃないか?」

「何が?」

「あの奇鬼児のこと考えているだろ。千城に行きたいなんて。」

 灯己は眉根を寄せたが雨寂は怯まず、憮然として灯己を見つめた。灯己は舌打ちしたいのを我慢する。

「考えるのは勝手だろ。それより、繰弄の馬鹿に女臭いって言っとけよ。」

 えっ、と雨寂の手が緩んだ隙に灯己は外套をもぎ取った。

「一生懸命小銭ため込んで、使い途がそれか。」

 本当にあいつは馬鹿だなと灯己は笑い、出て行った。

 灯己の背を見送りながら雨寂は溜息を吐いた。女ねえ、と思う。繰弄は鳥市の一番の古株で、雨寂より五つ年上である。女を買っても何ら問題ない年頃だ。ただし金があればの話である。繰弄が獲物の懐から小銭を拝借していることを雨寂は知っていたが、それだけで花街の女を買える金を溜めることができるだろうか。匂いが移るほどの香を使う娼妓であれば、それなりの店だろう。もしかしたら、商売女ではないのかもしれない、と雨寂は考えだが、すぐに首を振った。あり得ないことだ。殺し屋である自分たちに、金銭を介さず女と睦み合う幸せなどありはしない。


 灯己が鳥市の小屋に戻ったのは日が落ちた後だった。何をしていたということはなく、裏街をぶらぶらと歩いて賭場で一勝負し、そこそこに勝ち、その金で飯を食い、飯屋で繰り広げられる人の噂話や愚痴を聞いていた。そうして自分がこの裏街にぴたりと填まっていることを確かめていた。おかしな考えだ、と灯己は思う。裏街でしか暮らしたことがないのに、裏街の人間らしく振舞おうとするなんて。ほかの何者でもないのに。

 何をしていてもあの冷たく暗い鳥籠の中で蹲っていた少年のことを思わずにいられなかった。あそこにいてはだめだ、連れ出さなくては。そればかりが頭を巡った。救出経路を何度も思い描き、その度に我に返った。なぜ、おれが、誰かもわからないあの子を、危険を冒してまで助けるのか。

 鳥市の小屋の帰ると、小屋は暗く、しんとしていた。誰もいない。繰弄のほかにも仕事が入ったのだろうかと思いながら、階段に足をかけると、背後で戸が開いた。

「やっと帰ったか。」

 小屋に足を踏み入れた義葦から漂う匂いに、灯己は顔を顰めた。

「おめえ千城に行きてえって言ってたな。ちっとばかし計画が変わった。カラスと千城で落ち合ってくれ、あいつはもう行ってるから。」

「大したヤマじぇねえって言ってたじゃねえか。」

 同じ匂いだ。こいつら、二人で同じ女を買っているのか。それとも。

「おい、この依頼主は花街の女か?」

 ぎょっと音が聞こえるほどに、義葦の顔が引き攣った。

「だったらなんだ。」

 だったらなんだはこっちの台詞だ、なぜそんなに焦る必要があるのかと灯己は思ったが、首を振った。どうでもいいことだと思い直した。

「行ってくる。」

 使い慣れた刀を手に取り、灯己は外套を羽織った。


 今日は夜回り番が少ないな、と感じた時に何かおかしいと気付くべきだったと灯己は後悔した。落ち合う約束の場所に、繰弄は現れなかった。何かと灯己に反抗的な繰弄だが、仕事の指示を違えたことはなかった。小銭拾いを除いては。まさか、盗みに興じているわけではないだろう。嫌な胸騒ぎがする。灯己は闇に姿を隠し、文官屋敷に潜り込んだ。人が少ない。どこかで別の場所で宴でも開かれているのだろうか。だが、喧噪は聴こえない。すうっと辺りが暗くなり、灯己は空を見上げた。分厚い雲が月を隠した。当分の間月は出で来ないだろう。まさに絶好の暗殺日和だな、と灯己は思い、その思いつきに胸がどきりとした。妙に引っかかる。そもそも、今晩の獲物は誰なのか。なぜ、義葦はそれを教えなかったのか。繰弄に聞けばいいと思い、灯己も聞かずに出てきたが、そんなことが今まで一度だってあっただろうか。

 用心深く気配を窺い、灯己は文官屋敷を抜け、高い塀の前に降りた。この先は緋天殿、帝王の住まう御殿。鉤縄を取り出し、塀に投げた。素早く登り、内側へ降りる。夜回り番の持つ松明の明かりが回廊を回る位置を確認しようと、草むらに隠れ天に聳える城を見上げるが、明かりは見えなかった。夜回り番が少ないのではない、いないのではないか。いや、そんなことはあり得ない。灯己は緋天殿へ足を踏み入れた。柱や鴨居、柵を使い、上階へと上っていく。緋天殿最上階の廊下に降り立った灯己の耳に、ひっというかすかな叫び声が届いた。血の匂いがする。まさか、まさか、まさか、まさかの三文字が灯己の頭の中を埋めつくしていく。灯己は走り出した。

 雲の合間から月影が伸び、豪華絢爛の襖絵を照らした。彩る血飛沫。血を流す女官が折り重なるように倒れている。灯己は逸る心臓をなだめ、静かに、血に汚れた襖を開けた。灯己の足元に、どさりと大きなものが無造作に放られた。血に塗れた女。帝王夫妻の顔を見たことが無くてもわかる。緋天殿の最上階の寝所に眠る女が誰なのか、この血に塗れ死んでいる女が誰なのか。

「なんでおめえがいるんだよ。」

 闇の中で刃の光が揺らめき、ゆっくりと動く影があった。見慣れた黒く長い裾の外套。灯己の体から血の気が引いていく。

正后(せいごう)を、なぜ。決まりを破って、おまえ。」

「誰の決まりだって?じじいの命令ならおれはもう聞く筋合いないぜ。」

 繰弄の声は不気味なほどに低く静かだった。

「カラス。」

「カラス言うな。」

 繰弄がゆっくりと振り向いた。血の飛び散った顔に目玉が爛々と輝いている。

「おれはもうカラスじゃねぇ。」

 繰弄が自分の外套で刀の血を拭った。

「おまえらとの仕事は終わりだってことだよ。」

「じじいと手を切ったのか?」

 灯己の問いに、繰弄は鋭い犬歯を剥き出しにして笑った。

「貴族のお偉いさんがじじいからおれを買ってくれたのさ。鳥市にいたら一生見ることのできねえ金の山積まれたぜ。」

 灯己は首を振った。

「冷静になって考えろ、あのじじいがそう簡単に手放すと思うか、カラス、」

 灯己の声を繰弄は遮り叫んだ。

「カラスじゃねえ、おれはもうカラスじゃねえって言ってんだろ、おれはもうフクロウのおこぼれを食い漁る賤しいカラスじゃねえんだよ、力認められた一人の殺し屋だ。おれはおれの依頼された仕事をする!」

 繰弄は踵を返し走り出した。

「繰弄!」

 追う灯己に向かって煙幕が投げられ、立ち込める煙に、灯己は視界を奪われた。


 そこへ灯己が追いついた時、まさに繰弄の刃がその男の喉元へのめり込もうとしていた。灯己は息を飲み、投げ刀に手をかけた。しかし、灯己が刀を投げる前に繰弄の刃は目にもとまらぬ速さで弾き返され、床に転がった。

「何の御用かな。」

 寝所に眠っていたはずの男が、いつの間にか形勢を翻し、繰弄を組み敷いていた。繰弄は何が起こったかわからずに、その男の顔を呆けたように見つめた。

 これが、これがこの国の帝王、燈峻(としゅん)

 灯己は息を整え、歩み出ると膝を折った。

「帝王。我々は今まで影ながら帝王を助けて参りました。先の無礼はそやつのほんの出来心、どうか広い心で許していただきたい。許していただけないのであれば、おれにこいつを斬らせてくれ。ただし死体はおれが引き取り、何もなかったことにしていただきたい。」

 灯己の言葉に、ほんの一瞬、帝王の気が逸れた隙を突き、繰弄が帝王の顔に唾を吐きかけた。帝王の体から僅かに力が緩む。繰弄は拘束を逃れ、刀を拾うと灯己に斬りかかった。

「何様だてめえ!」

 灯己の刀がかち合う。灯己は繰弄に顔を寄せ、小声で諭した。

「殺しはしない、殺した振りをして連れて帰る。繰弄、よく考えろ、お前にあの男は殺せない。こうするしかお前を助ける方法はないんだ。」

「黙れ!」

 二人の力は拮抗し、繰弄が廊下に倒れ出ると同時に灯己の刀は弾き飛ばされ柱に突き刺さった。繰弄が廊下の灯火をもぎ取り、灯己に投げつける。刀を柱から抜こうとしていた灯己はとっさに左手で顔を覆った。灯己の袖に火が移り、左腕が炎に包まれる。灯火は足元の絨毯に落ち、燃え上がった。繰弄が灯己に襲いかかる。灯己は柱から刀を抜き、繰弄の刃に応戦する。燃え広がる炎が二人の姿を鮮明に浮かび上がらせた。二人の戦いを興味深く見守っていた帝王だったが、炎に照らされた灯己の顔を見るなり顔色を変えた。

「まさか、紫々(シシ)なのか?」

 シシという呼び名に、灯己は気を削がれた。繰弄はそれを見逃さなかった。素早く投げ刀を抜き、灯己の胸元へ投げた。灯己は機敏にそれを刀で弾き返したが、燃える左袖の炎がほんの僅かの間視界を遮った。視界を取り戻したとき、繰弄の刃は灯己の眼前に迫っていた。灯己は息を飲んだ。肩を斬られると思った。しかし、血飛沫を上げ斬られたのは灯己ではなかった。灯己の身を庇い、燈峻帝がその背に血を滴らせていた。

「帝王!」

 燈峻帝は灯己に縋るようにして身を預け、崩れ落ちた。灯己は帝王を抱き抱えた。

「おい、帝王、馬鹿か、なんでおれを庇うような真似を。」

「紫々よ、生きていたのだな。」

「は?なんだって?おい、しっかりしろ。」

 引きつけを起こしたような歪な笑い声に、灯己は顔を上げた。繰弄が笑っていた。

「おれが、おれが、おれが帝王をやった。」

「繰弄!おまえ、なんてことを。いや、まだ息がある、まだ助けられる。」

「無理だろ。だっておめえも死ぬんだもん。」

 言葉を継ごうとした灯己の口から血が零れた。帝王の背を貫いた繰弄の刀が深く灯己の肺を刺していた。

 灯己は繰弄の顔を仰ぎ見た。繰弄の冷え冷えとした瞳が、灯己を見下ろす。帝王の傷口から噴き出した血が灯己の胸を赤く染めていく。繰弄がゆっくりと刀を抜くと燈峻帝の体は床へ崩れ落ちた。繰弄は灯己の右胸に刀を突き刺した。わざと急所を僅かに外しているのだと灯己にはわかった。ああ、怨嗟だ、と悟った。繰弄ほどの殺し屋が殺すとなれば心臓をひと突きで足りるのだ。繰弄がまた刀を抜き、次は灯己の腹を刺した。ゆっくりと手首を返し、はらわたを抉る。灯己を貫くそれは、まぎれもなく怨嗟の刃だった。これほどまでに深く繰弄から恨まれていることを、灯己は知らなかった。

「繰弄。」

 くくく、と繰弄が笑った。

「おめえでも泣くんだな。死ぬのは怖いか、散々殺して来たおめえでも。」

「違う、おれはおまえを。」

 痛みと出血で頭が朦朧とする。すべての感覚が深い湖の底に沈んでいくように、灯己は意識が遠のくのを自覚した。湖の水は悲しみであった。悲しみに身を委ね、湖の底へ身を横たえた。

「まだだ。」

 その囁きと共に、灯己の意識を掴む者があった。目を閉じた灯己は瞼の裏に灯る火を見た。手放した自我と入れ替わるように、別の意識が体の中で目覚めるのがわかった。熱い。燃えるような熱さに、堪らず目を開けると悲しみの湖の水はすべて蒸発して消えた。

 繰弄が見たこの世で最後の光景は、炎の鳥であった。灯己の手から力が抜け、命が消えかけたその時、かっと灯己の目が見開かれた。灯己の瞳が赤く揺らめき、火花が舞った。油が染み渡るように、灯己の肌の色が変わり、火の粉があっと言う間に灯己の体に燃え広がった。炎は大きく揺らめき、まるで炎の鳥のように羽ばたいた。鳥の吐いた炎が繰弄を覆い尽くした。

 繰弄の絶叫に、灯己は意識を取り戻した。炎の中、苦悶に歪む繰弄の顔が見る見るうちに黒く変色していく。

「繰弄!」

 手を伸ばした灯己の指先は何も掴んでいなかった。そこに繰弄の体はもうなかった。繰弄の服と灰の山があるだけだった。

「繰弄?」

 灯己は燃える己の掌を見つめた。薄い膜が張られたように、炎が肌を覆っている。

 灯己は恐る恐る目の前に積もる灰を掬った。燃える灯己の掌の中で、灰はパチパチと音を立てて跳ねた。この灰の山が繰弄だというのか。どうして、なぜ。

「おい、帝王。」

 灯己は掌の中で冷たくなっていく帝王の手を握った。

「おまえが、やったのか、おまえが、この炎を。」

 最後の力を振り絞り帝王は瞼を上げ、灯己をその瞳に映した。

「その炎はおまえの力だ。」

「おれが、繰弄を殺したって言うのかよ。」

 灯己の瞳から零れた涙が、帝王の頬を濡らした。

「王魔の器よ、よく、戻ってくれた、大丈夫だ、紫々、怖がることはない。」

 帝王は微笑み、灯己の頬に指を伸ばし、涙を拭った。

「その炎はおまえを護る、おまえ自身だ。」

「おれが繰弄を殺したのか?」

 灯己の問いに答える者はいなかった。灯己は静かに、帝王の手を離した。その手はぼろぼろと灰になり落ちた。

 体の中に燃え滾る熱が収まらない、出てきてしまう。だめだ、出てきてはだめだ、ああ。灯己は天を仰ぎ見た。燃えてしまう。灯己の体が勢いよく燃え上がり、緋天殿は火に飲み込まれ、炎上した。


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