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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
3/30

1幕 フクロウ 3

 よく晴れた蒸し暑い午後、繰弄は鳥市の小屋の二階の欄干に凭れかかり、下の路地で子供たちが遊んでいるのをぼんやりと眺めていた。しばらくそうしていると声をあげて遊んでいた子供たちが一人二人と声を止め、道の向こうをみんな揃って息を飲むようにして見つめていることに気付いた。子どもたちは遊んでいたままの姿勢で、道の向こうから近付いてくる女に見とれている。蜃気楼のようにぼんやりとした視界の中、白い日傘をさした女がやってくるのが見えた。繰弄は身を乗り出した。子供たちの間を、白い日傘が通り過ぎていく。あれは花街の女だ、と繰弄は思った。繰弄自身、花街で遊んだことはないが、何度も殺しのために出向いている。花街の女は娼妓の着物を着ていなくてもすぐにわかるようになっていた。

 通り過ぎると思った日傘が鳥市の小屋の前でぴたりと止まり、閉じた。

「ごめんなんし。」

 おいおい、と繰弄は心の中で息を吐いた。鳥市は貴族豪族専門の高級刺客一座だぜ、と独り言つ。花街の女が体売って一生懸命溜めた金で人殺しの依頼たあ、馬鹿馬鹿しい世の中じゃねえか。

 繰弄は体を起こし、階段を下りて行った。

「生憎ここの主は出掛けてんだ。なんの御用ですかい。」

 ぼりぼりと頭を掻きながら顔を上げた繰弄ははっと息を飲んだ。玄関に立つ女の可憐な顔の造形に見とれ、同時に妖気湛える美しさにぞっとした。女は微笑んで繰弄を見つめた。

「鳥市の殺し屋さんでごんす?」

「は?」

「依頼に参りんした。」

 白を切るか迷ったが、嘘が下手なことについては定評がある。繰弄は大きな溜め息を吐いて見せた。

「ここが鳥市の隠れ家と知って来たとなりゃ大事なお客様だが、悪いがここはあんたみたいなのの来るところじゃねえんだ。うちは貴族豪族の依頼専門でね。その分金も取る。花街の女が払える額じゃねえよ。」

「お金ならご心配ありんせん。ここにカラスさんという殺し屋さんがいらっしゃると聞き参りんした。カラスさんに頼みたいお仕事でごんす。」

 驚いた繰弄が言葉を継げずにいると、表から義葦の声がした

「カラスはおれの売り物だよ。勝手に話をつけるのは万引きと同じだぜ。」

 戸に寄りかかるようにして汗を拭きながら義葦が入って来た。

「おめえさんどっからここを嗅ぎつけたね?ここは貴族豪族大商人の専門店、しけた仕事はお断りだ。」

 女は微笑んだ。

「もちろんでごんす。世に評判のカラスさんにお頼み申すのにしけたお仕事のわけがありんせん。」

 ちらりと繰弄に流し目を送る。

「この飛都帝国末代まで語り継がれる大仕事でごんす。」

 夏の暑い盛りにこの女は妖艶が過ぎると繰弄は思った。見ているだけで胸焼けがする。


 その夜、灯己は千城宮にいた。文官の館が密集する広場の木の上でじっと息を潜め、下の気配を窺っている。灯己は千城での仕事が好きではなかった。背の高い灯己には、建物が多く室内の構造が入り組んでいる文官の屋敷は動きにくくて仕方がない。それに、裏街には四季があるが千城宮には冬しかない。身を潜めるときに白い息を吐かぬよう、氷を舐めなければならいなのも嫌だった。しかし、文官貴族からの依頼は絶えず、座長の義葦は喜々として受け続けた。帝王贔屓もいい加減にしてほしい、と灯己は思う。義葦が喜んで受けるのは、専ら反帝王派の暗殺だった。帝王派貴族の殺しは一切受けない。だからといって、帝王から庇護されるわけではない。帝王とその親族には一切かかわりを持たなないこと、それが一座の掟であった。そんなに関わりたくないのであれば千城の仕事なんか受けないでくれ、こんな頻繁に城へ行っていたらいつどこで帝王と顔を合わせてもおかしくないだろう、と灯己が抗議すると、義葦は乾いた声で笑った。

「馬鹿が。帝王は天より尊いお方ぞ。貴族だって六位以下は一生千城宮に仕えようとお顔を拝むことすら叶わん。おれたちのような得体の知れない輩がおいそれと会えてたまるか。」

 憧れを拗らせているなあ、と雨寂(うじゃく)が笑った。雨寂という詩的な名を持つその男は、通り名を「モズ」といい、鳥市の三番手である。

師姉(しし)には理解できねえ感情かもしれねえな、師姉にはそもそも人を敬う心がねえのだから。」

 こんな口をきくが、雨寂は灯己を慕って師姉と呼ぶ。貴族の間では師と仰ぐ人物を関係性に従って師父、師母、師兄、師姉と呼ぶのだと言う。本当かどうかはわからない。裏街で育った灯己には聞いたこともない呼称だった。

「人を敬う心があって、人殺しができるかよ。」

 と灯己は言い捨てた。雨寂が鳥市に入った七年前、雨寂はまだ十二の子供であったが、落ちぶれた貴族のなれの果てだと自己紹介をした。潜入役として小姓の真似をさせると、いかにもそれらしく演じることができた。

 今、雨寂はちょうど小姓に化け、狙いの貴族の元に潜り込んでいる。手筈に狂いが無ければ、あと数秒の後、この広場に獲物を誘い出してやってくる。屋敷の鐘が、その時刻を告げた。

「五位様、今宵は大いにお酒が進まれましたこと、良き宴でございましたね。夜風が気持ちようございますよ。」

 灯己や繰弄にはとても真似できない貴族言葉を、雨寂はその階級に合わせ巧みに話すことができた。小姓の格好をした雨寂が、酔っぱらった足取りの獲物をがっしりと支え、広場を横切ろうとしている。あと十歩だ、と灯己は数える。

「八、七、六、五、四、三、」

 支える振りをし、雨寂は獲物を灯己の潜む木の根元へ突き飛ばした。間髪入れず、灯己がその上に飛び降り、首を掻っ斬る。念を押し、心臓を刀で抉る。完全にこと切れていることを確認し、立ち上がろうとした。

「師姉!」

 雨寂の叫び声とほぼ同時に、矢が灯己の長い髪を掠めた。僅かに灯己の頭部を外し、矢は木の幹に刺さった。雨寂の声に反応していなければ、射られていた。こんな失態は滅多にない、いや、一度だってなかった。偶然にすぎないと、灯己はとっさに考えた。鳥市の計画に失敗はない。たまたま、ここに、弓を持ったそこそこ腕の立つ者がいたのだ。灯己は振り向きざまに雨寂の体を羽交い絞めし、首元に刃を宛がった。

「もう一度射れば、この小姓を殺すぞ。」

 回廊で弓矢を構えていた軍服の男は、じっと灯己を狙っていたが、灯己の言葉を聞くと、弓矢を捨てた。大きな男だ。灯己は迷った。見られたからには、生かすという選択肢はない。しかし、軍服を着ているということは、帝軍士だ、帝軍は帝王の直属、帝王派の人間を殺すことは許されていない。灯己の一瞬の迷いを見破ったように、軍服の男が剣を抜き灯己に襲いかかった。灯己は雨寂を放し刀でその剣を受けた。二人の刃が鋭い音を立ててかち合う。灯己は雨寂に目くばせし、逃げるように促した。雨寂には小姓に化けたまま逃走経路を確保してもらわなければならない。雨寂はそれを無言で承知し、さっと身を翻すと闇に消えた。

 男の剣を受け、灯己は僅かに焦りを覚えた。久しく感じていなかった感情だった。貴族豪族相手であれば向かうところ敵なしのフクロウであるが、さすが天下の帝軍だと灯己は内心喜びを禁じえなかった。年の頃は三十手前か。であれば第二部隊か第三部隊か。殺さずとも目を潰せば追跡は不可能だろう。それでも義葦には怒られるだろうか。灯己は男の左目に狙いを定めたが、寸前で男が躱し、灯己の刀は男の左肩を斬った。軍服の切れ目から、肌に焼き付けられた帝軍の忠誠印が露わになった。忠誠印の上下に焼きつけられた、四本の線。

「第一部隊だと!?」

 思わず声を上げてしまった。この年恰好で第一部隊の軍士とは、若い。その驚きは灯己を冷静にした。帝王選りすぐりの精鋭部隊である第一部隊の軍士であれば、殺すことは出来ない。灯己は間合いを見て跳び下がり、すばやく闇の中へ姿を消した。


 暗闇の中を走る灯己は、腕に傷を負っていることに気付いた。興奮状態で戦っていたために、痛みに気付かずにいた。

「あの若さで第一部隊とは、帝軍を甘く見すぎたな。」

 顔を見られたことが気がかりだが、裏街に戻りさえすれば、ありとあらゆる汚らわしい人間を放り込んで煮詰めた巨大な鍋のような貧民屈で灯己という一人の人間を見つけることは不可能に近い、と灯己は心を宥めた。

 近くで気配を感じ、さっと茂みに身を隠すと、すぐ傍を軍服の男たちが駆けて去った。先ほどの男ではない。賊が入ったことが既に広まっている。急がなくては、雨寂の身も危うい。頭の中に、知りうる限りの城の間取り図を思い描く。雨寂と落ち合うのは西だ。四隊からなる帝軍のうち、西門を守る第四部隊が最も下位であり、若い軍士が多い。経験が浅いため隙を突きやすい。灯己は身を潜めている茂みの背後を顧みた。高い垣根の向こうから花の匂いがする。おそらくどこかの貴族の庭園だろう。ここを突っ切れば近道になる。刺客が出たと騒ぎになっているのであれば却って好都合、庭に出る貴族はいないはずだ。灯己は垣根に登り、その向こうに飛び降りた。月は雲に覆われているが、夜目に強い灯己には、そこが梅園の苑であることがわかった。ひとの気配を探すが、感じない。足を進めようとしたその時、微かに笛の掠れた音を聴いた。

「誰が来たの?」

 澄んだ少年の声を聞いた。雲の切れ目から月明かりが差す。その少年は灯己の目の前の木の幹にも凭れていた。灯己は驚きのあまり身動ぎできず、少年を凝視した。確認したのだ、誰もいないと。気配はなかったのだ。雪が舞うように、白梅の花びらが二人の間を風に乗って流れていく。白くなめらかな頬、大きな黒々とした瞳、細かく刺繍の施された上等な上着、凝った細工の靴、一目見ただけで、相当な高位の子供だとわかる。訝し気にじっと灯己を見つめていた少年が、突然ぱっと明るく頬を染めた。

「ねえ、前に会ったことあるね?」

 灯己は身構えたまま表情を動かさずに、少年を見つめた。頭の中では警鐘が鳴っている。こんなことをしている場合ではない。わかっているが、少年から目が離せなかった。ざっと強い風が吹き花を散らした。

「ねえ、ほら、ちょうどこんな、まるで吹雪のような白梅の苑でさ。」

 少年が一歩灯己に近づいた。

「僕がまた会える?って訊いたら、君はこう言ったよね。」

 花嵐が舞い、灯己の視界を遮った。

「滅びる前にって。」

 嵐が静まると息がかかるほどの距離に、少年がいた。灯己は後ろの垣根に高く飛び退きながら刀を抜いたが、少年は灯己の刀を軽く避けた。灯己の刀が、少年の背後の枝を斬り飛ばし、梅の花びらがほろほろと少年に降りかかった。

「ねえ、会ってしまったから、滅びるのは僕?それとも君?あるいは二人もろともに?」

 いたぞ!という声と共に、松明の明かりが灯己の姿を浮かびあがらせた。灯己は我に返り、投げ刀を一本、声を挙げた兵士に投げた。それは喉元に命中し、松明が地に落ち火が消えた。灯己は垣根から元居た路地へ飛び降り、後は振りからずに西へ走った。

 少年は白梅の苑で一人、軍士たちが曲者を追う喧噪を聞いていた。騒ぎが遠のくと、垣根の向こう側から、静かに名を呼ばれた。

「燈羨様。」

 垣根の隠し扉が開き、煌玄が身を屈めて現れた。

「騒がしいね。」

「五位殿が亡くなりました。」

 燈羨はつまらなそうに、ふうん、と鼻を鳴らした。

「殺されたのだろう?あれは父のことが嫌いだからね。」

「燈峻様は決してそのようなことは。」

「わかっているよ。刺客だろう、父のご機嫌取りの誰かが、出しゃばった真似をしたんだ。」

「今宵は危のうございます。黄雲殿にお戻りください。」

「おまえ、怪我をしているね。」

 煌玄は慌てて肩の傷を隠し、稽古にて、と短く答えた。燈羨の黒い瞳がじっと煌玄を見下ろす。

「おまえほどの者に傷を負わすことのできる軍士がこの帝軍にいるのか?」

「恥ずかしながら、いまだ若輩者にございますれば。」

「おまえも会ったのだね?あれに。」

 ぎょっとして煌玄は燈羨を見上げた。

「ひどく美しかった。そうだろう?」

 恍惚として頬を紅潮させ、燈羨は微笑んだ。

「僕はこれから滅びてしまうのかもしれないよ。」

 うっとりと呟く燈羨を見つめる煌玄の胸にじわじわと染みていく得体の知れないもの。私はこの感情を知ってる、と煌玄は思った。だが、名は知らぬ、知りたいとも思わぬ、知らずにいれば、ないと同じだ。梅の香をのせた風が、冷たい煌玄の頬を撫ぜて吹き去った。


 闇の中を西へ走る灯己の耳に、鳥の鳴くような指笛の音が微かに届いた。灯己は音のした方角へさっと向きを変え、走りながら聴こえた通りの調子を真似て指笛を吹く。もう一度同じ音が聴こえた。先ほどより近い。灯己が同様に応える。森の中からさっと雨寂が現れ、灯己を茂みに引きずり込んだ。

「師姉、遅いよ、西門にもう帝軍が張り付いちまった。」

「悪い。」

「どうする?騒ぎが落ち着くまで隠れているか?」

「いや、匂いで気付かれるかもしれない。」

 灯己は腕の傷を見せた。雨寂が目を丸くする。

「師姉に傷をつけるようなやつがいるのか?この千城に?」

「ああ、おれも気付かなかったが、あの弓の、第一部隊の軍士だった。」

 へええ、あの若さでねえ、と雨寂はひとしきり感心したが、思い直し顔を曇らせた。

「それじゃ師姉の血の匂いを嗅いで番犬が追ってくるかもしれねえのか。」

 帝王が抱える帝軍軍士の数は数万人とも言われ、強力な妖力を持つ妖魔が多く存在する。中でも鋭すぎる嗅覚を持ち「番犬」と渾名される男は刺客稼業で最も警戒すべき人物だった。

 灯己はある案を口にした。今までにも何度か考えたが、まだ実践したことはなかった。

「北に隠れるのはどうだ。」

「北って、まさか、北の禁域か?」

「ああ、帝王に忠誠を誓う軍士ならまず近寄らないだろ。」

 雨寂の顔がみるみるうちに青褪めていく。

「嫌だ。」

「嫌とか言ってる場合じゃない。」

 灯己は立ち上がると辺りを警戒しながら北へ向かって足早に歩き出した。慌てて雨寂が追いかける。

「師姉、待って、北の禁域だぜ?妖魔の森だぜ?妖魔がうじゃうじゃいるっていうあの。」

「入ったことないだろ。おれもない。ただの噂かもしれない。」

「だって、あの暴君阿陀良がありとあらゆる凶悪な妖魔を閉じ込めたっていう噂が本当じゃなかったら、阿陀良の時代が終わってもまだ禁域なんて呼ばれてないだろ?入ったやつの一人や二人いてもおかしくないだろ?それがいないんだから。」

「うるせえな、妖魔が怖いならおれがやっつけてやるから黙ってついて来い。」

 子供をいなすような灯己の口調に、雨寂はがっくりと肩を落とし、仕方なく後に続いた。

「なんで師姉は妖魔が怖くないの?」

 なぜと問われても、怖いと思わないのだからとしか答えようがない。

「義葦のじじいだって妖魔じゃねえかよ。怖いか?」

 雨寂はぐっと言葉に窮した。確かに、鳥市の座長である義葦も妖魔である。怖いかと聞かれれば、別の意味で怖い。表社会では孤児拾いの慈善家で通っているが、実態は生活に窮する家から子供を買い取り殺し屋に育てる極悪人である。没落した家の借金の形に鳥市へ取られた雨寂は義葦から逃げられない。逃げれば、家族が殺される。繰弄と津柚も身分は違えど事情は同じようなものだ。

「師姉はじいさんのことだって怖くないんだものなあ。」

 項垂れる雨寂の呟きに、灯己はしばらく黙っていたが、おれは家族を覚えていないからな、と言った。

「おまえたちは偉いよ。ちゃんと義葦のいうこと聞いて家族を守ってんだからな。子供を人殺しに売るようなひでえ親でも親は親だもんな。」

 雨寂は顔を上げ、前を行く灯己の背中を見つめた。時々、灯己が家族のことを覚えていないと言うのは嘘なのではないかと思うことがある。家族に売られた悲しみを、なかったことにするための嘘なのではないかと。しかし、灯己に限っては、親に売られたのではなかったそうだ。灯己は義葦の拾い子だったという。もし灯己を拾わなければこんな商売始めなかったかもしれねえ、と義葦が漏らしたのを一度だけ聞いたことがあった。

 ふいに灯己が振り向き、雨寂はぎくりとしたが、灯己が顎で示す方へ視線を移すと、月光に照らされた木々の奥に、蔦の絡まった高い壁が見えた。北の禁域を囲う壁。ひとの背丈の十倍はある。登って超えるのは容易ではない。灯己は壁の元に屈み、茂みをかき分け始めた。

「何してるの?」

「こういうのはだいたい、あるんだ。」

 ほら、と言い、灯己が草をかき分けて見せる。そこには小柄な大人が一人通れる大きさの穴が開いていた。

「行くぞ。」

 灯己は躊躇なく、その穴に身を屈め入っていった。そのあまりの容易さに、雨寂は不安を覚えた。いくら灯己の勘がいいとはいえ、こんな簡単に穴が見つかるのであれば、これまでも一人や二人入ったことがあるのではないか。入った人間がいて、それでもなお禁域と呼ばれ中身が暴かれないのは、そこが本当に恐ろしい場所だからではないのか。

 躊躇する雨寂の耳には、しかしもうすぐそこまで近づいている軍士たちの声が聞こえていた。壁の向こうへ隠れるほかに選択肢はなかった。意を決し、壁の穴へ潜り這い出ると、灯己が背を向け呆けたように立っていた。雨寂もしばし唖然としてその庭園を見つめた。これが、凶悪な魔物を閉じ込めた牢獄だろうか。とてもそうは見えない。長い間使われていなかった寂れた雰囲気があるが、昔はさぞ美しかったであろう凝った造りの庭と立派な屋敷は、帝王の別荘といった趣である。

 灯己が引き寄せられるように一歩、また一歩と屋敷へ近づいていく。

「師姉?」

 知っている、と灯己は漠然と思った。この庭を、この屋敷を、灯己は見たことがない。だが、この妖気を知っていると灯己は思った。外界から閉ざされたこの空間に塵として積もる、残り香のような妖気を、知っていると。

 雨寂は灯己を追いかけた。灯己が扉の取手に手を掛け、押すと、湿った古い埃の匂いが鼻を掠めた。燭台の光りに照らされ、荒廃した玄関広間が仄かに浮かび上がる。明かりが灯されているということは、ひとがいるのだ。耳を澄ますと、ぎい、ぎい、と何かが軋むような音が聴こえる。灯己が廊下を覗くと、奥の床に光が漏れているのが見えた。引き返すべきだと雨寂は灯己の袖を引いたが、灯己は構わず明かりの漏れている扉をそっと覗いた。そこは給仕部屋であった。ぎい、ぎいと音を立て揺れる揺り椅子に、こちらに背を向けて一人の白髪の女が座っている。女がふいに起きあがり、雨寂は刀に手をかけた。

「申し訳ございません、ついうっかり居眠りを。」

 立ち上がった女を見て、灯己が雨寂を制した。じゃらじゃらと鍵の束を鳴らしよたよたと歩いて近づいて来る女。灯己が目くばせし、雨寂は女の目が見えないことを悟った。女はとりとめなく何か喋りながら歩いてくる。老婆と呼ぶには少し若いが、声はずいぶんとしわがれている。

「今宵も旦那様にお会いできてさぞお喜びになるでしょうねえ。」

 女が鍵の束の中から、一本の鍵を差し出した。条件反射のように、灯己はそれを受け取った。僅かに指が触れ、女が眉間に皺を寄せた。灯己がしまったと思った時にはすでに遅く、女はぐっと灯己の手を両手で握り確かめる。灯己はぎょっとして手を引いたが、女の力が強く手を解くことができない。

「まあまあ、何ということでしょう!」

 女が興奮した面持ちで叫んだ。刀の柄を握る雨寂の手に力が入る。

「こんなことがあるなんて、こんな盲になってもこの紫宝宮にお仕えし続けた甲斐がございました。刹季は幸せ者にございます。」

 刹季と名乗った女の目からぼろぼろと涙が零れた。灯己は気持ち悪いものを見るように、女を見下ろした。

「姫様。」

 灯己は困惑し、雨寂を見た。

「ご立派になられて、ようお戻りになりました。姫様、お声をお聞かせ下さい、この刹季めにお言葉を。」

 雨寂は肩をすくめ、諦めたように頷いた。すでに刀から手を離している。灯己は言葉を探す。

「よく、務めた。」

 女がおんおんと声を上げて泣き出し、灯己と雨寂は顔を見合わせ困り果てた。やっかいな者に捕まってしまった。もう構わず行こう、と雨寂が灯己の腕を引いた時、刹季が涙を拭き、顔を上げた。

「せっかくでございますから、どうぞ訪ねてあげて下さいませ、ね?きっとお喜びになりますわ。今ではもう旦那様しか訪れる方はいらっしゃいませんから。回廊の奥ですよ、ええ、この鍵です。」

 灯己は掌の中にある鍵を見つめた。

「ああ。」

 それだけ言い、給仕室を出た灯己を雨寂は追いかけた。

「師姉。」

「あんなばあさん斬ってもしょうがないだろう。言ってることの半分も意味がわからない。喋られたところで真に受けるやつがいるか。だいたいおれが誰かなんてわかっちゃいねえよ。」

「いや、そうだけど、そうじゃなくて、そこへ行くつもりなのか?」

 灯己は出口とは逆へ向かい、回廊を歩いていた。

「せっかくだ、行ってみようぜ。」

 雨寂は背筋が冷たくなるのを感じた。そうだ、この女は気がおかしいのだと思い出す。子供の頃から、そうだと分かっていた。初めて雨寂が灯己と引き会わされた時、灯己は十四であったが、既に常人離れした暗殺技術を身につけ、フクロウの名は人々の口の端に上るようになっていた。雨寂は強く惹かれた。殺し屋として生きることになった自分に示された唯一の燈明だと思った。しかし、灯己のようになれと義葦は言わなかった。

「あいつは狂人だ。頭がいかれてる。」

 ああはなるな、なろうとしてもなれねえだろうが。

「どういう意味です?」

 雨寂が尋ねると、義葦は吸っていた煙草の煙を吐き出し、人間抗わなきゃいけねえよ、と言った。意味が分からなかった。

「人殺しの人生簡単に受け入れやがって、何の疑問も持たねえ。」

 どの口が言うのだろうと呆れた。自分でそう仕立てておいて何を言っているのか。しかし、灯己と共に暮らすうちに、雨寂も義葦の言いたいことをおぼろげに理解した。ひとを殺したい欲求があるならまだしも、殺人願望を全く持ち合わせていないにも関わらず、ひとを殺すことに疑問を持たず、言われたままに殺し続けることの異常性。確かに頭がいかれていると思った。師姉は決して抗わない。何事にも抗わない人生、それは楽なようで、しかし心を持つ人間にとって、決して簡単なことではない。この人は人生を諦めているのだろうか。一度訊いたことがあった。灯己は、きょとんとしていた。

「諦めるも何も、おれはおれが鳥市のフクロウだってことしか知らないんだから、そうだろ。」

 目の前を歩く灯己がふっと笑ったのを聞き、雨寂は我に返った。

「どうしたの?」

「面白いばあさんだったな。」

「ああ、姫だって、師姉のこと。」

 笑っている灯己を見るのは久しぶりだった。

「いくら師姉が鳥市に来る前のこと忘れてるからって、それはないよな。」

「わからねえだろ?どっかの高貴な生まれかもしれないぜ。」

「ないない、おれだって貴族だったんだからわかるよ。師姉が姫様なんて、絶対にないね。」

 長い回廊の終わりに、扉が現れた。灯己が歩み寄り、鍵穴に鍵を填めた。かちりと噛み合う手応えの後、錠が外れた。二人は息を潜め、そっと扉を押した。中の気配を窺うが何も感じることができない。天窓から伸びる一筋の月光に、豪華な造りの部屋がうっすらと照らされている。異様なのは、部屋の中央に床から天井まで不自然に鉄格子が填め込まれ、ぐるりと囲んでいることだった。鉄格子のまわりには、金属の棒や鞭などの道具が無造作に散らばっている。座敷牢、いや、拷問部屋だろうか、と雨寂は考えた。それにしても歪な形状、まるで鳥籠だ。目を凝らすと、月明かりの落ちる床に、小さな手が照らされている。思わず息を飲んだ。よく目を凝らすと、その手は床の明かりから少し外れた暗がりから伸びており、暗闇の中にその手の持ち主が転がっていた。襤褸切れを纏った、小さな少年。がりがりに痩せた体の至る所に傷があり、血が滲んでいる。雨寂は灯己に視線を投げ、死んでいるのか?と問うた。灯己が格子に近づいていく。

 襤褸を纏った少年は瞼を開き、近づいてくる灯己を見た。その黒々とした瞳に、灯己が映る。魂が吸い寄せられるように、二人は互いを見つめた。

「なぜ、こんなところにいる?」

 雨寂は驚いて灯己を見た。師姉、と咎める。

「シシ?」

 澄んだ鈴の音のような声を聞いた。

「シシ、知ってる、とてもきれいな魔物でしょ?」

 少年が瞬きをして、灯己を見つめる。

「の世で一番強い生き物だって。」

 少年がゆっくりと寝返りを打ち、上体を起こした。体を引き摺るようにして灯己に近づいて来る少年が動くたびに足に繋がれた鎖がずずっと音を立てた。灯己は膝を折り、鉄格子を覗いた。鉄格子のすぐ向こうで、少年の目玉が灯己の瞳を見つめ返した。

「噛む?」

 少年の問いに灯己の瞳が驚きで見開かれ、ゆっくりと頬が綻んだ。

「噛まないよ。」

 安心したように、少年がそっと手を伸ばし、灯己の頬に触れた。獣を馴らすように、そっと灯己の頬を撫ぜる。

 その光景を、雨寂は信じられないものを見る面持ちで見つめていた。

「師姉。」

 ひと撫でごとに灯己の心が少年へ吸い取られるように傾いていく。傍で見ていた雨寂には手に取るようにそれがわかった。その様子は驚愕よりも恐怖だった。灯己が少年の汚れた頬へ手を伸ばし、くしゃくしゃに貼り付いている赤髪の束を指先で掬った。

「こんなに傷を作って、死んでしまうぞ。こんなところにたらいけないよ。」

 これほど柔らかい灯己の声を雨寂は聞いたことがなかった。堪りかね、雨寂は灯己を檻から引き離した。

「師姉、何言ってるんだ。」

「ここから出さなきゃ、こんなんじゃ死んでしまう。」

「どうした?どうかしちまったのか?」

 何者かもわからない、こんな檻に入れられて足枷までついている、たった今出会ったばかりの見ず知らずの子供を逃がそうなんて、血迷ったことを。それよりもなによりも、この子供は。

「どう見たって奇鬼児じゃねえか。」

「だけど、こんなところにいてはだめだ。」

 雨寂は力を込めて頭を横に振った。こんなに必死な灯己は見たことがなかった。ただただ、気味が悪かった。

 俄かに外の気配が騒がしくなった。刹季と何者かが声高に話している声が聞こえる。灯己が鯉口を切り、雨寂は慌てて制した。

「師姉、もうおれたちの仕事は片付いた。獲物のほかを殺すことはない、師姉、いつもの師姉ならそう言ってる。」

 灯己の瞳が揺らいだ。

「下手に千城の人間を斬ったりしたら法度に背く。この城には師姉に手傷負わせるような奴だっているんだから、ここは去るべきだ、そうでしょう?」

 足音が近づいてくる。

「師姉、あんたは、鳥市のフクロウだろ、ほかの何者でもなく。」

 雨寂が掴んでいた灯己の両肩から、すうっと力が抜けた。顔を上げたのは、いつもの灯己だった。軽く雨寂の手を払い、立ち上がると、少年に向き直り、まっすぐに見つめた。

「いつかおれがここから連れ出してやる。」

 少年の瞳の中で、二人の長い外套が翻り、扉の向こうへ消えた。しばらくし、再び扉が開いた。月明かりを背にして入って来たその人の顔は見えず、しかし、笑みを湛えていることが少年にはわかった。いつも顔に歪んだ微笑みを貼りつけてやってくるこの人よりほかに、訪ねるひとはいなかった。一度だけ、体の大きな人が来たが、あの人はこの人のことしか見ていなかった。もう来ることはないだろう。

(あきら)。」

 それが自分の名であることを、晶は最近になって理解した。理解しなければよかったと思っている。理解しなければ、この人が吐く呪わしい言葉の数々が、自分に向けられているのだと、知らないままでいられた。

「誰が遊びに来てくれたって?お前なんかのために誰が遊びに来てくれた?」

 床に落ちている棒を、燈羨がゆっくりと拾った。

「耄碌の刹季をうまく言いくるめてこの鍵を開けさせたのか?」

 鉄格子の鍵を外し、中へ入ると、燈羨は棒の先で晶の胸を突いた。晶はされるが儘に、倒れた。

「ここよりほかに世界を知らないおまえでも、ここよりほかに行きたいと思うのか?僕から逃げようと思うのか?」

 燈羨は晶に馬乗りになり、棒を喉元へ押し付ける。

「思い上がるな、お前のような奇鬼児が生きていけるはずないだろう?お前はここで死ぬんだ。お前が生まれたこの場所で一生を終えるんだよ。おまえは一生籠の鳥なんだから。一生僕が羽を毟ってやるんだから。」

 苦痛に歪む晶の、光のない瞳の中に映るのは闇の深淵だ。闇の深淵に沈む、燈羨の顔。なんて醜い顔だろうと燈羨は思った。僕は一生この醜い顔を見つめ続けるのだ、この不幸な弟の瞳の中に。


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