3幕 三人の王 8
ペルと薫は神苑の白い門の前に立っていた。ペルは手に持つ燭台に火を付け、薫に渡した。
「ここから先はおれも行けない。死んだ者だけだ。」
薫は神妙に頷いた。
「いい?一息で戻っておいで。あちら側で息を吸ったら、あんたの仮死は終わり、本当に死ぬからね。健闘を祈る。」
ペルは門の扉に手を添え、薫に目くばせした。薫は大きく息を吸い、息を止めた。ペルが力を込め扉を開けると、そこには白い靄が覆う暗闇の世界が広がっていた。薫が足を踏み入れると、ペルは素早く扉を閉めた。
薫は暗闇の中を一本の蝋燭の灯りだけを頼りに、靄を払いながら進んだ。目が慣れてくるとそこにはたくさんの眠れる死体の棺が並べられていることがわかった。棺は透明なガラスでできていて中の人の顔は見えるが、皆目を瞑っているので判別が難しく、薫は息が漏れないように口に両手を当てながら、一つ一つの死体の顔を火で照らし覗き込み歩いた。薫はひとつの棺の前で立ち止まり、その顔を覗き込んだ。しばらく迷ったが、また歩き出した。また一つの棺の前で立ち止まり、覗き込む。しばらく見つめたが、首を傾げ、先ほど覗いた棺へ戻った。しかしまた首を傾げ、二体の死体の間を行ったり来たりを繰り返した。次第に息が苦しくなり、薫は意を決し、はじめに足を止めた棺の蓋を開けた。風見妙の顔を、薫は保健室で三度程しか見かけたことがなかった。目を瞑っている顔を見てそのひとだと言い当てる自信はなかったが、今この棺の中で眠っているこの女がそうだと、不思議と信じることができた。薫は妙の死体を揺り起こそうとしたが、死体はぴくりともしなかった。薫はその冷たい手を握り締めた。お願い、目を覚まして、と何度も心の中で祈った。だんだんと意識が朦朧としてくる。お願い、達を返して、夢から覚めて、お願い。消えゆく意識の中で懸命に祈り続ける薫は、突然肩を掴まれ、思わず息を吐いてしまった。目の前には達が居た。開いた薫の唇を塞ぐように唇で覆うと、自らの息を吹き込み、止めて、と素早く囁いた。薫が慌てて手に口を当てる間に、達は薫を担ぐと、出口へ向かって走った。
達は死の宮の扉を開け、転げ出た。外で待っていたペルが慌てて扉を閉めた。薫は地に膝をつき荒い呼吸を繰り返しながら達を振り返った。達はペルに掴みかかっていた。
「薫に何やらせてんだよ!」
「だってやりたいって言うから!何回も止めたよ!でもやるって言うから!」
薫は、達、と名を呼んだ。達は振り返り、ペルの襟を放すと薫に歩み、顔を覗き込んだ。
「薫。危ないことするな。」
久しぶりに聞く幼馴染の声に、薫は胸が押し潰れそうな幸福で満たされた。
「だって、達が。達がいなきゃ私。」
達は首を小さく横に振った。
「大丈夫だよ。」
薫は懸命に首を振った。
「大丈夫じゃないよ。」
「薫。助けに来てくれたじゃん。何だってできるよ、もう。薫、強くなった。」
「だって達が、」
「薫。おれはここに残る。薫のいる世界で、おれは幸せにはなっちゃいけないんだ。」
「どうして?私がするよ、私が幸せにするから。」
達は眼差しで薫を制した。薫はどきりとして口を閉じた。
「おれ、屋上で風見妙の手を放した。おれが、殺したの。」
薫の瞳に溜まっていた涙が流れ落ちた。達はその涙を拭った。
「おれ、風見妙の子を面倒見たいんだ。あの子に、ちゃんと生きてもらいたい、あの子が生きることを手伝いたいんだ。この世界で。」
「償いのために?」
達は微笑んだ。
「ペル。薫の記憶を消してほしい。」
薫は目を見開き、ペルを顧みた。
「嫌、やめて、お願い、達のこと忘れさせないで、お願い、達。」
戸惑うペルに、達は有無を言わせぬ瞳を向け、ペル、と呼んだ。ペルは観念したように息を吐くと、素早く指で薫の額に文様を描いた。薫は気を失うようにして倒れた。横たわる薫を見つめる達の肩に、ペルは手を添えた。
「間違ってないよ。アルに帰すなら、こうすべきだ。」
ペルは薫の体のまわりの地面に文様を描き始めた。
「薫をはじめにあっちへ返したときだって、グレイスはそうすべきだったんだ。それをしなかったから、消されることになった。」
「グレイスは記憶の消し方を知らなかったんじゃないの。おれの時もペルにやらせようとしてたし、風見妙も飛都のこと覚えてた。」
「記憶を消せないなら、なぜ、神言反呪を薫に教えたんだろう。」
「ん?」
「もしかしてあの方は、滅ぼされることを、望んでいたんだろうか。」
うーん、と達は腕を組み、考え込んだ。
「そうかもしれないけど、どうかな。ただ、忘れられたくなっただけかもしれないし。」
ペルは文様を描く手を止め、達を見上げた。少し微笑み、文様を描き上げた。
「さようならだ。」
ペルの言葉に促され、達は文様の縁へ膝をつき、薫の手を取った。
「さようならだ。」
達は薫の手を放した。ペルは文様の中に入り達に手を振った。ペルと薫の姿が文様に吸い込まれて消えた。達はしばらく二人の消えた地面を見ていたが、やがて立ち上がり、遠く下界に聳える千城の城を振り返った。
千城緋天殿では寝台に横たわる燈羨の手を取り、義葦が息を吐いた。燈羨を覗き込むように双子女官と煌玄が寝台を囲み、灯己と晶は離れた窓際の椅子に座っていた。
「だいぶ落ち着いて来たが。」
義葦は燈羨の手を恭しく布団の中へ戻すと、ほっとしたように汗を拭った煌玄に、ついてくるよう顎で示した。
「灯己、おめえも来い。」
窓際の椅子で頬杖をついていた灯己に声をかけ、義葦は二人を連れ部屋を出た。部屋を出ると義葦は扉番の軍士に少し外すよう言い、軍士が去ると二人に向き直った。あんたは知ってると思うが、と煌玄に目をやり、義葦は続けた。
「燈羨様は妖力に耐性がない。先代が燈羨様の側近からできる限り妖魔を排除したのは、お力のことを隠すためでもあったろうが、近くに強い妖魔がいると、お体に障る、それもあったんだろう。」
義葦の言葉に灯己はさっと青褪めた。
「おい、それって、おれのせいなのか?おれが、炎鷲が、あいつの傍にいるから、だからずっと、あいつの体が調子悪かったって言うのか?」
義葦は煙草に火をつけ、そりゃそうだろ、と軽く答えた。
「おまえもそうだし、晶もそうだ。そもそもな、この城の至る所に妖力が巡ってんだ。ここで暮らし続けること自体、毒の中にいるようなもんだ、燈羨様にとっては。」
「治せねえのかよ。」
「治せる治せねえの次元じゃねえ。」
「千城を離れればいいのか?それなら温州の離宮に移り住むのは?」
灯己は言いかけた口を閉じた。
「いや。それでは、千城の帝王ではない。」
いえ、と煌玄が言葉を継いだ。
「いえ、少しの間だけでも、千城から離れ、ご養生するというのは?」
「だめだよ。」
燈羨の声に三人が振り向くと、扉が開き、夕凪に支えられ燈羨が立っていた。煌玄が慌てて駆け寄り、夕凪と役割を替わった。
「帝王は千城を離れてはいけないし、弱い姿を民衆に晒してもいけない。誰にも付け入る隙を見せてはいけない。いつも毅然としていなくては。」
晶はじっと燈羨の後姿を見つめていた。
「国を守るとは、そういうことだ。それができなのならば、僕はもう、帝王でいることができないのだろう。」
燈羨は不意に振り返り、窓辺の晶を見つめた。
「晶、おまえには、それができるかい?」
晶は毅然と燈羨の瞳を見つめ返した。
「できないわけがないだろ。」
燈羨は頷いた。
「おまえに、すべてを譲ろう。」
皆が目を瞠り燈羨を見つめた。燈羨は満足そうに頷き、微笑んだ。
「ありがとう、晶。僕に、弟がいてよかった。」
晶はぐっと奥歯を噛んだ。
「燈羨様、またお熱が。無理をされてはいけません、寝台にお戻りください。」
煌玄に抱えられ寝台へ運ばれながら、燈羨は今後のあれやこれやをてきぱきと煌玄と双子に指示した。
「晶の戴冠式の準備は神式官、」
と言い掛け、晶と目が合うと、いや、と燈羨は小さく首を振り、微笑んだ。かつて神式官と呼ばれていた官位は今はない。神という概念が無くなったこの世界で、それは式事官と名を変え、千城の行事を預かる官職となっていた。かつてそう呼ばれていたことを知る者は燈羨と晶、そして達だけだった。
「晶の戴冠式の準備は式事官と相談するように。舞霧、取り次いでくれ。僕の身の振り方はすべて煌玄に任せるよ。」
は、と頭を下げ、部屋を出ていく舞霧と煌玄のあとを灯己が追い出て行った。
晶は寝台に横たわる燈羨につかつかと歩み寄った。
「師姉を、幸せにしてくれるって言ったよね?どうするつもりなの、師姉のこと。」
吹き出すように義葦が笑い、晶は義葦に視線を向けた。
「あいつが人に幸せにしてもらう玉かよ。」
義葦は笑いながら煙草の煙を吐いた。
「義葦殿、御煙草こそ帝のお体に障りますのよ。」
夕凪のきつい言い回しに、義葦はわかったわかったと身振りで示し、火を消した。
「灯己が幸せになりてえなら、自分でそれを選ぶさ。もう、不幸にならなきゃならねえ義理はねえんだからな。」
灯己は廊下を足早に進む煌玄の背を追い、その手を掴んだ。
「帝王をやめてどこに行くってんだよ?」
毛足の長い絨毯を踏みしめ、煌玄は振り返った。
「南西、例えばタオ族の草原のあたりなら地に妖力が巡らず、ほとんど妖魔がいないと聞きます。」
「あの狩猟部族の住む?あんなところで燈羨が暮らしていけるものか。」
「ですが、他にどうしろと。弱り、病まれるのを、ただ見ていることしかできないのですよ。」
灯己は口を閉じ、煌玄の手を放した。
「早急に準備を進めます。」
口を開こうとした灯己を、煌玄は強い眼差しで制した。
「灯己様は、この城にお留まりくださいますよう。お願い申し上げます。」
灯己は愕然とした瞳で煌玄を見上げた。
「おれは、燈羨の意志に繋がれた犬だ。燈羨のいない世界におれは、」
煌玄は静かに首を横に振った。一礼すると灯己に背を向け歩き出した。
「煌玄!」
灯己の声に煌玄は振り向かなかった。灯己は小さくなっていく煌玄の背を、絶望的な思いで見つめていた。しばらく廊下に亡霊のように立っていた灯己を、戻って来た扉番が見つけ、ぎょっとしたように駆け寄った。
「元帥。どうなさいました?」
灯己は我に返り、赤い目を隠すように顔を背けた。
「いいや、何でもない。ここをよろしく頼む。」
灯己は足早に扉を離れた。灯己の足は紫陽花の庭に向かっていた。その庭に続く扉を開けると、そこには夏の陽があった。灯己は回廊から庭へ降りる階段へ座り、膝に額を埋めた。冬しかない千城の呪われた夏の庭。子供の頃は父と母が逢瀬を重ねた穢れた場所だと思っていたが、こうして肌を暖める陽射しを浴びていると、元は蛇であり寒さに弱い父、そして同じくらい寒がりな母がこの庭を好んだのも、この庭を父が母へ贈ったのも道理だと思えた。寒がりな母があの冷たい紫宝宮の牢に近づきたがらないのも道理だった。同じように母も幼少期あの鳥籠に閉じ込められていたのだから、忌まわしい思い出が詰まったあの場所には尚更足が向かないはずだ。五代に愛されていた阿陀良は紫宝宮に閉じ込められ、五代に疎まれた峻は黄雲殿で育った。そのこともまた阿陀良を苦しめ峻との関係性を狂わせたのだ。暗く寒い世界から夏の陽射しのもとへ連れ出した紫芭がどれ程阿陀良を救ったか、今なら灯己には理解ができた。どれだけ汚らわしい男妾だろうと関係がないのだ、心のすべてだったのだと。
「炎鷲。」
灯己は静かに身体に巣食う同胞の名を呼んだ。炎鷲は応えなかった。
「おまえを解放してやるよ、炎鷲。自由の身に戻れ。」
「言ったはずだ、おれはおまえの血、おまえの肉、おまえが死してもおまえの屍に宿り続けると。」
「燈羨の傍にいたいんだ。炎鷲。」
鼻で笑うように、炎鷲の呼吸が骨を撫でた。
「そんなことで?おれはおまえが阿陀良の腹の中に宿った時からおまえと共に在るのだ、おまえはおれなしでは生きて行かれぬ、いいか、おれがこの身を離れれば、おれはおまえを焼き殺すことだってできるのだ。」
「そう望むならそうしたっていい。炎鷲、おまえは自由なのだからな。おれより王にふさわしい者を好きに選べばいい。おれよりも優れた者がこの世にはごまんといるだろう?」
「ああ、知っているさ!おれがどれだけこの世を見て来たと思っている?おまえよりも優れた王、王にふさわしい者をどれだけ見てきたことか!だが灯己、」
炎鷲は言葉を絶した。炎鷲の言葉にしようとしない思いが灯己に流れ込み、灯己の胸を締め付けた。灯己は泣きそうになるのを堪えた。
「妖魔の王が形無しぞ。」
「おれはおまえを失うわけにはいかぬ。おまえを失えば、二度と出会えぬ。」
灯己は項垂れ、しばらく俯いていた。
「わかったよ。炎鷲。おれの墓守になると言ったことを覚えているか。」
「ああ。」
「ならば、おれの体を墓にしろ。」
息を飲む気配を胸に感じた。
「おれを、封印するのか、灯己。」
「この手で、燈羨に触れたい、抱きしめたいんだ。お願いだ、炎鷲。」
炎鷲の葛藤が体内でぐつぐつと湧き上がるのを灯己は自らの感情のように耐えた。やがてその熱が静まっていくのを灯己はじっと待った。どれ程の時が経ったか、灯己が目を開けると、空には燃えるような夕焼けが広がっていた。
「どれだけの人間がおれの力を欲し争ったか。」
灯己は静かな炎鷲の声に耳を傾けた。
「おまえだけだ、要らぬと言うは。」
呆れたような笑みを含んだその声に、灯己は微笑んだ。
九代帝王燈晶帝の戴冠式の朝、燈羨と煌玄は旅立ちの門に立った。見送りは夕凪ひとりであった。そうするよう、燈羨が言いつけた。煌玄は第一部隊軍将を退き、新たに彰豼が第一部隊軍将となった。三位昇格、史上最年少の第一位第一部隊軍将という異例の辞令であったが、先般の乾冷州蜂起の際の功績により、彰豼の就任に文句を言う者は一人もいなかった。麗威は軍将の役を解かれたものの、三位の官位はそのままとされた。しかし麗威は自ら官職を辞し、千城を去った。羅梓依の墓を参ると告げ家を出た麗威の姿をその後見たものはない。
旅支度に身を包んだ燈羨は聳え立つ千城宮を振り返った。
「燈羨様、どうぞご無事で。」
涙ぐむ夕凪を燈羨はじろりと睨んだ。
「そんなに泣かれたら僕がすぐ死んじゃうみたいじゃないか。」
「別れのときまで可愛げのないことを。」
涙を拭う夕凪に、燈羨は微笑んだ。
「おまえたち双子に憎たらしい口を利くのが好きだったんだ、僕は。」
夕凪が身を折り嗚咽するのを、燈羨は楽しそうに笑って眺めた。
「晶のこと、この国を、頼んだよ。」
「は。この身に代えましても。」
頭を下げる夕凪に背を向け、馬の手綱を引き歩き出そうとした煌玄は、はっとして門を顧みた。千城宮からこの門へ続く小路を、走って来る者の姿に目を瞠った。それは灯己だった。走ってきた灯己はそのままの燈羨めがけて抱き着いた。煌玄は慌てて灯己を引き離そうとし、しかしその手を止めた。燈羨は目を丸くし、灯己の顔を覗き込んだ。二人の触れた肌は煙らず、爛れず、つやつやとして互いのひやりとした体温をただ、伝えていた。
「灯己?どういうこと?」
灯己は高々と腕を捲って見せた。灯己の肌には鳥の紋が焼き付けられていた。
「灯己様、なんということを!まさか、炎鷲殿を封印されたというのですか!?」
目を白黒させる夕凪に灯己はにかりと笑って見せ、その笑顔を燈羨に向けた。
「おれはおまえのためだけに生きる。この腕は、この体は、おまえのためだけにあるんだぞ、燈羨。」
灯己の言葉に、燈羨は恐る恐る灯己の頬に触れた。白く冷たい頬の感触を何度も確かめるように燈羨は灯己の頬を撫ぜ、灯己の唇に唇をつけた。唇と離すと、灯己と燈羨は互いを見つめた。二人の頬が驚きと喜びでみるみるうちに輝きを帯び、薔薇色に染まるのを、煌玄は苦笑を湛え見つめた。燈羨と灯己は力強く抱きしめ合った。
緋天殿の執務室の窓から、晶は門で抱擁する燈羨と灯己の姿を見下ろしていた。
晶様、と声を掛けた舞霧は咳払いをし、燈晶様、と言い直した。
「燈晶帝。戴冠式が始まりますわ。」
ああ、と返事をし、晶は窓辺を離れた。
卷獣の間の扉の前で待つ晶と舞霧の元へ、夕凪が涙を拭きながら戻って来た。
「無事、御出立なさいました。」
「見送りご苦労だった。」
「では、参りましょう。」
夕凪の声を合図に、扉番が卷獣の間の扉を開けた。玉座まで続く赤い絨毯両脇にすべての武官と文官が並び、絨毯を踏み歩む燈晶へ一斉に視線を注いでいる。二頭の石獣もまた、じっと燈晶を見つめていた。晶は天窓から降り注ぐ光を纏いゆっくりと赤い絨毯の上を進んだ。階段を上り、玉座の前に立つと、ばさりと長いマントを払い、皆に向き直った。
「第九代飛都国帝王、燈晶である。」
石獣の目が、じっと晶を見つめ、頷くように瞼を閉じた。割れんばかりの歓声がの卷獣の間を包んだ。
その頃、達は千城中街の飯屋松江で昼飯を待っていた。賑わう店内の客をかき分るようにして盆にのせた飯を運んでくると、雨寂は達の前の席に腰かけた。
「おめえ、いいのかよ、こんなところいて。今日は燈晶帝の戴冠式じゃねえのか。おめえ、新帝の手先になったんだろ。」
達は雨寂の飯にかぶりつきながら、うん、そう、と答えた。
「そうなんだけどさ、やばいこと起きないもん、大丈夫。やっぱうまいなあ、雨寂さんのご飯。二号店出しなよ。人も増えたし。千城宮前店どう?毎日来るよ、おれ。」
「ツケで毎日食われちゃ来てくれない方がマシだぜ。おめえ、新帝の手先になったんだから給料いいんだろ?」
「それがさあ、歩合だって言うの、あのけちんぼ双子女官が。だからなんか事件起きないとお給料出ないのよ、ひどくない?」
「じゃあおめえ、これおれからもうちでタダ飯食おうってのか?」
達は盆の飯をすべて口にかき込み、手を合わせた。
「ごちそーさんです!」
「同じ新帝の手先でも翠とは大違いだぜ、あの働きぶり、おめえもちっとは見習えよ。」
呆れたように息を吐き、雨寂は厨房の翠を親指で示した。松江の前掛けをつけた翠は名を呼ばれ、にこにこと達に会釈した。
「まあまあ、ひとには向き不向きがあるからさ。必ず出世払いしますから!」
「また花街で稼ぐか?ん?売り込んでやってもいいんだぜ?」
「うーん、それもアリだけど。ま、考えとくわ。」
達は口の中のものを水で流し込み、席を立つと逃げるように店を出た。
「また来ます!」
「もう来んな、馬鹿!」
雨寂の罵声に達は振り向き、にかりと笑って見せた。




