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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
28/30

3幕 三人の王 7

 遠くにはためく幾千もの赤い旗を、ペルは眺め、息を吐いた。振り返り、乾冷の地に並び立つ無数の墓石を眺めた。風に乗り微かに耳に届く神言呪は薫が唱えているのだ。魂が休まる呪文だとかいうそれを、薫は飛都へ来てから毎日この墓地を訪れ唱え続けている。ペルは声を辿り薫の背後に立った。

「意味ないってわかっていてもやりたがるのはアル人のよくわからないところだよね。」

 呪文を止め、ペルを顧みた薫に、ペルは呆れ顔を隠さずに続けた。

「言ったでしょ、ここに葬られた魂は、今、みんな阿陀良の中に入っちゃったんだ。ここに埋められてるのは、空っぽの死骸だよ。」

 やらないよりマシ、と薫はそっけなく答えた。

「自分の罪悪感を慰めることにしかならないのに?」

「罪悪感がなくなったら、人間て終わりよ。」

 それは確かに、とペルは頷いた。風が強く吹き、ペルの折られた十指がぶらぶらと風に靡いた。

「もう行こう。薫にはさっさとやることやってもらわないと、おれだっていつまでもユビジチとられてるわけにいかないんだから。」

 薫の傍らで腕を組み墓石に背を預けていた津柚が突然警戒するように気を張り、誰か来る、と囁いた。息を潜め辺りを見渡した薫の目に、墓標の波間で陽の光を反射する何かきらきらするものが映った。薫は立ち上がり、背伸びしてそれを探した。

「晶だ。」

 薫の瞳が赤い髪を捕らえるのと同時に、ペルが呟いた。薫が走り出していた。

「あんたが風見妙の。」

 突然知らない女に腕を掴まれた晶は驚き、その手を振り払おうとしたが、薫は晶の腕を離さなかった。晶の傍らに居た翠が臨戦態勢を取ったが、晶は冷静にそれを制した。

「誰?何?」

 薫を追ってきたペルは薫が晶の腕を掴んでいる状況にぎょっとした。

「げ、何やってんの!」

「ペル。」

 晶は怪訝にペルとその隣にいる小柄な女を見た。それが師姉の記憶の中に居た鳥市の女だと気付き、更に不可解に顔を顰めた。

「何?何なの?」

「晶こそ、何してるの。」

 動揺を隠そうと質問を返したペルに、晶はそれを見透かしたように冷たく答えた。

「おれがおれの国でなにをしようとおれの勝手でしょ。」

「あなたがあなたの国で何をしようがあなたの勝手だけど、達は違う。達を、私に返して。」

 晶はぽかんとして薫を見つめた。は?と口を歪ませ、嫌悪感を込めた瞳で薫を見下げた。

「知らないよ。勝手に来たんでしょ。」

「風見妙に、あんたのお母さんに頼まれたから来たのよ。」

 知らないよ、と晶は声を荒げた。

「おれを捨てた母親のことなんて知らない!」

 薫の掌が晶の頬を強かに打った。晶は呆気にとられ、茫然と薫を見つめた。

「知らないって何!?何様!?達はあんたを心配してんのに!そうやってひとりで恨みばっかり募らせて、いいことなんかなんもないんだから!ちゃんとしてよ!達に心配かけないでよ!」

「はあ?」

 晶の瞳に怒りの火花がちらつき、ペルは慌てて薫を羽交い絞めにし口を押えた。

「まあ、まあ、まあ。」

 ペルは薫を引き摺るようにして、万が一晶が炎上しても火が届かない位置まで距離を取った。薫は暴れ、ペルの手を口から引き剥がした。

「恨みがなんだって言うのよ。そんなの何の役にも立たないのよ、生きていくのに。そんなものがなきゃ生きてけないなんて言い訳よ。」

「おまえに何がわかる?」

「いじめられ続けた気持ちは私にだってわかるわ。みんな殺したいって思い続けてきた。でも、殺してみてわかった、それだけだって。殺すことは、救いじゃなかった。ただ、命を奪った、それだけのこと。生物学的に死んだ、それだけなのよ。」

 晶と薫はじっと対峙した。今にも火花が散りそうな晶の煌々と怒りを灯す瞳を、ペルは息を詰めて見つめた。

「おまえがどうであったか、なんて、おれには関係ないだろ。おまえがそうであるからおれもそうであると思うなんて気持ちが悪い。」

 晶は吐き捨て、薫から目を逸らした。

「ちゃんとしろと言ったな?おれは生まれたときからずっと、恨みを抱えて生きて来たんだ。ただ、妖魔の血を継いでしまったというだけで、痛めつけられ続けた理不尽への怒りを、晴らさない限り、おれはちゃんとなんか生きていけない。」

「生まれてからずっとそうなの?一度もその痛みが癒されたことはないの?」

 晶ははっと胸を押えた。脳裏に灯己と暮らした日々の幸福が去来し、それは甘く晶の胸を痺れさせた。

「一瞬でも幸せを味わったことがあるなら、人を不幸に陥れることがどれだけ非道かわるでしょ。」

「この会話に意味がある?」

 晶は歪な笑みを湛え薫を見下げた。

「おれを説教しても、達には何も伝わらないよ。帰るか帰らないか、それは達が決めること。」

「そらそうだ。」

 今まで黙っていた津柚が口を開き、皆が津柚へ視線を向けた。

「達をアルに返すっていうのは、薫、あんたをこっちへ連れてくるための口実でね。」

 薫は目を見開き、ペルを振り返った。ペルは薫から手を離し、頭を掻いた。

「えーと、まあ、そうね。申し訳ないけど、帰るか帰らないかは達の自由だから。」

「騙したの?」

「これは、繰弄の遺志だ。」

 津柚の言葉に、翠が顔を上げた。津柚は翠の瞳に頷いて見せた。そして薫と晶に向き直った。

「この世界を、一からもう一度、作り直してくれないか。それができるのは薫、あんたとそれから帝王。それに帝弟、あんたたちだけだ。」

「どういう意味?」

 晶は目の前に立ちはだかる小柄な女を怪訝に見つめた。その女の強い眼差しは、晶の背を薄ら寒くした。本気で世界を変えようとしているのだとわかった。この、小さな女が。

「この国は今までも何度も何度も、あの呪いの塊と化した神から与えられる憎しみの輪廻を断ち切ろうとして、そして失敗して来た。だけど、今ならできるんだ。そしてそれができるかどうかは、晶にかかってるんだよ。」

 ペルの言葉を後押しするように、そっと翠が晶の袖を握った。それは弱々しい力だったが、晶は振り切ることができなかった。今、とてつもなく壮大で危険な思惑に引き摺り込まれたのだとはっきりと悟った。


 千城市街を取り囲む城壁北の門を取り囲んでいた豪族連合軍の兵士たちは、門が内側から開く気配に俄かに緊張を増し、一斉に武具を構えた。開いた門の隙間から漏れ出るすさまじい怒りの妖気に、カタカタと足元の小石が振動している。皆震えが止まらず、息を潜め開く門を凝視した。開いた門の中に立っていたのは背の高い女軍士だった。赤い目がじろりと連合軍を睨んだ。その女が醸し出す段違いに強力な妖気と威圧的な態度に、連合軍の兵士の幾人かは吐き気を催した。

「帝軍元帥灯己である。」

 そう名乗ると、女は後方に目くばせした。すると、門の奥から青い上等な上着を纏った青年が現れた。その青年が誰なのか知る者は一人もいなかったが、連合軍の兵士は皆、無意識のうちに気圧され、一様に膝を地に着けていた。青年はにこやかに微笑んだ。

「そなたらが主に会いたい。案内してくれまいか。」

 豪族連合軍の野営本拠地は、迷路のようにいくつもの天幕が張り巡らされ、灯己と燈羨、そして義葦は、いくつもの天幕を過ぎた。どこをどう歩いたのかわからぬようぐるぐると歩かされているのだろうと灯己が考えていると案内役の豪族兵士が振り向いた。

「義梁丈様はこちらでお控えください。ここから先はお二人でお進みください。」

 灯己と義葦は顔を見合わせたが、義葦は頷き、その天幕に残った。兵士は続きの間の幕を上げ、灯己と燈羨に中へ進むよう促した。灯己が幕を潜ると、その先には暗く長い廊下が続いていた。野営地にも関わらず上等な絨毯が敷かれている。灯己は先に立ち、歩みを進めた。長い廊下はいくら進んでも終わりがなかった。

「灯己。震えているの?」

 柔らかい燈羨の声に、灯己は己が緊張していることを初めて悟った。少し笑み、ああ、と答えた。

「触れてもいないのによくわかるな。」

「わかるさ。おめえのことは。」

 ざらり、と肌を撫でるような声に、胸がどきりと高鳴り、灯己は足を止めた。振り向いてはいけないと分かったが、振り向きたい衝動を抑えられない。あれは死んだのだ。この声は幻惑だ。わかっているのだ、これは罠だと。

「おめえのことならおれは嫌ってほどわかるんだ。だが、おめえはおれのことなんか少しもわからねえのさ。」

 ああ、と灯己は押し潰されそうに痛む胸を抑え、長い外套を翻した。そこにいるはずの燈羨の姿はなく、繰弄が鋭い犬歯を見せ、笑っていた。

「繰弄。」

 繰弄の片目が金色であることに、灯己は気付いていた。それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。

「繰弄。なぜ、死んだの。」

 繰弄は犬歯を剥き出しにして笑った。ああ、繰弄だ。その姿を見ただけで、灯己の瞳には涙が幕を張った。

「わからねえだろ。そうさ、おめえはわからねえのさ。どれだけ考えても、おめえにはわからねえ。なぜだかわかるか?おれはな、おめえには一度だっておれの心を見せたことがねえからな。」

 灯己の瞳から涙が落ちた。

「おめえと心が通うくらいなら、いっそ殺されでもしたほうがマシだ。そして、その通りになった。灯己。」

 繰弄はいかにも繰弄らしい下卑た笑みに顔を歪ませた。

「何を傷ついたみてえな顔してやがる。まさか、思ってもみなかってのか?そうさなあ、おめえはいつだって、誰もから必要とされてきた。そうさ、人から必要とされりゃよ、それだけで生きていけると思ってんだからなおめえは。思い出すぜ。おめえが初めて殺した夜のこと。覚えてるだろ。」

 繰弄は長い廊下の先を指差した。天井から一人の男の屍が吊るされていた。その男のことは、灯己もよく覚えていた。

「おめえが初めて殺した男だ。見ろよあの傷。おめえがびびってちっとも殺せねえで、あんなに傷負わしちまった。ああ、こいつはだめだと思ったよ。見込みがねえって。それがどうだ、灯己、ほら、おめえの人生死屍累々じゃねえか。」

 灯己ははっとし、暗い廊下を見た。長い廊下の両脇に、ずっと先まで夥しい数の死体が吊るされていた。それは、灯己がこれまで殺して来た人々だった。

「どうしてこうなったって?おれは知ってる。」

 繰弄は最初の死体を指差した。

「こいつを殺して戻ったおめえを、じじいが誉めたからだ。あの時のおめえの顔がおれは忘れられねえよ。なんで、そうまでして、認められたがるんだ?ひとを殺して、それがおめえの生きる価値になるなんざ、気持ちがわりいと思わねえのか?そうだ、思わねえのさ、おめえは。」

 繰弄の虚空のような暗い眼窩が灯己に向けられた。

「おめえほど気持ちのわりい生き物はいねえよ、灯己。」

 違う、と灯己は叫んだ。

「違う。繰弄。おれが鳥市で殺して来たのはおまえを死なせたくなかったからだ。おまえに、必要とされたかった。」

 は、と吐き捨てるように繰弄は笑った。

「おれがおめえを?まさか。必要なわけがねえだろ。おめえに出会わなければ、どれだけよかったかしれねえ。なんでおめえ、生まれて来たんだ?だっておめえはそもそもこの世に必要のねえ存在じゃねえか。この世に要らねえ子供だっただろう?」

 灯己が顔を上げると繰弄の姿は消えていた。

「繰弄?繰弄、どこ?繰弄、」

 死体の連なる暗い廊下を、灯己はふらふらと歩き出した。両脇に吊るされた死体は紫に変色し、皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちていく。皮膚の破片は紫陽花の萼になり死体の羅列は紫陽花の茂みに変わっていたが、灯己はそれには気付かず、無我夢中で繰弄を探し進んでいた。紫の茂みの中に人影が浮かび、灯己は手を伸ばした。長い髪が灯己の手の甲を撫ぜた。

「あなたがこの世に要らない存在だと知っていたならば、これほどまでにあなたを憎まずとも済んだでしょうに。」

 可愛らしく幼い声で、そのひとは灯己を詰った。紫陽花の茂みの中に立つ羅梓依を、灯己は呆けたように見つめた。そのひとの片目が金色であること気付く余裕もないほどに、灯己は憔悴していた。

「私の世界はあの方だけがすべてだったのに。私はあなたのせいで死んだのに、どうしてあなたはそんなふうに生きていられるの? あたかも自分が正しい人間であるかのように。あたかも自分が愛されている人間であるかのように。」

 紫陽花の中庭に風が吹き、羅梓依の髪が靡いた。

「紫玉楴。あなたが生まれてきて、幸せになった人間がこの世にいたのでしょうか?みんな不幸よ。ほら。あなたさえいなければ、あの方だってあんなこと、する必要がなかったのだわ。」

 風に舞う紫陽花の萼に見えた欠片は赤い火の粉であった。夥しい数の紫陽花の茂みは炎であった。灯己は羅梓依の指差したものを見た。炎の中で睦み合うように口づけを交わす燈峻と阿陀良の姿があった。

「姉上、ああ、愛しい姉上、お許しください。あの子さえいなければ、あの子さえ生まれて来なければ、私たちは永遠に分かつことなく同じひとつの魂でいられたのに。」

 燈峻の金の瞳がまっすぐに灯己へ向けられた。

「そなたが生まれて来なければどれほどよかっただろう。」

 灯己は炎の中に崩れ落ちた。燈峻の腕の中で阿陀良が目を開き、灯己を見た。

「紫玉楴。」

 その声に、灯己の体は硬直した。

「紫玉楴よ。」

「母上、お許しください!」

 灯己は暗い鳥籠の牢の中に蹲っていた。額を床に擦りつけ、譫言のように謝罪を繰り返した。

「師姉。」

 震える灯己の肩に手を伸ばし、晶は背後から灯己を抱きしめた。

「師姉。泣かないで。おれだけは、おれだけは絶対にあなたを要らないなんて言わないから。師姉。」

 灯己はかたかたと震え続け、謝罪を繰り返している。晶の存在など、見えていなかった。ひたすらに忘我の境地を彷徨う灯己を、晶は強く抱きしめた。

「お願い、師姉。こっちを向いて。おれを見て。」

 どれだけ晶が懇願しても、灯己の目は晶を見てはくれなかった。晶は牢の外で煙管を吸うグレイスへ鋭い視線を向けた。

「師姉に何をしたの。」

「彼女が受けるべき憎しみを、思い出させて差し上げただけです。」

「約束が違うよ。おれの師姉を返して。」

 グレイスは煙管の煙を吸った。透き通ったグレイスの体の中を模様を描くように白い煙が躍っている。

「返す?これこそが、紫々ですよ。母親からの憎しみを一身に浴びてこの世に産み落とされた子。不幸になるよりほかに、この方には選択肢などはじめからないのです。」

 愕然と目を剥く晶を、グレイスは冷たい金の瞳で見下ろした。

「ひとを呪うとはこういうことです。」


 灯己の背に続き幕を潜った燈羨は、次の幕に誰もいないことに驚き、来た幕を振り返った。今入って来た入り口は無くなっていた。その部屋は細長く、長い食卓があり、食卓の上には豪華な食事が用意されていた。燈羨はぼんやりと幕の中を見渡した。不意に椅子を引く音がし、見ると細長い食卓の反対側に、阿陀良が腰を下ろしたところだった。阿陀良は優雅な仕草で燈羨へ席を勧めた。

「お掛けなさい。」

 燈羨は言われるままに、食卓へ着いた。

「好きに食すがよい。」

 そう言うなり、阿陀良は素手で皿の上の物を次々と掴み、口へ放り投げていく。

「灯己は?」

 燈羨の問いに、阿陀良は口に食事を詰めながら、知らんのう、と答えた。

「あなたの娘だ。」

「あれは死んだ。」

「死んだのはあなただ。」

「死んだ人間が生き返るわけなかろう?」

 せせら笑う阿陀良を、燈羨は静かに見つめ返した。

「生き返りではない、傀儡の死者だ。傀儡の死者は腐物を食べる。」

 皿の上の豪華な食事は、よく見るとすべて腐り、虫がたかっている。

「僕の妻も気付いた時には食事を共にしなくなり、自室で腐物を食べていた。瀕死の者に他人の魂を入れ傀儡にする、神苑の禁術。そのお体、長くは持ちますまい。」

「だが、七日は持つぞ。」

 阿陀良は口の中のものを飲み込んだ。

「おまえは阿呆よの。数百年間恨み繋いできた我らに、七日で話がつくと思ったのか?やはり奇鬼じゃ。おまえが七日で戻らねばこの世が変わる。おまえをここから出さねば良い。」

「今、ここで僕を殺してしまえば七日と待たずにこの世はあなたのものだ。」

 阿陀良は食事の手を止め、燈羨を見た。

「殺しはせぬ。真の王であるおまえを殺すことはできぬ。真の王を殺め手にした王座に座ってみよ、一瞬で石獣の餌となろう。」

 燈羨は目を瞠り、阿陀良を見つめた。

「我が愚弟が、王となってから石獣の間に足を踏み入れたことがあったか?」

 燈羨の瞳の揺らぎに、阿陀良は目を細めた。

「我は、真の王であったのだ。おまえと同じに。あんな石ケモノは正義の審判なんぞではない。ただ、正当に王位を引き継いだ王を認める、それだけのものだ。どれだけ悪政を強いろうが、奇鬼だろうが、そんなことは石ケモノどもの知ったことではない。この憎しみの連なる燈一族で最も尊ばれるべきことは、正当に王位を継ぐこと。」

 茫然とする燈羨に満足したように、阿陀良は再び食事に食らいついた。

「七日待て。」

「待ってどうなる?」

「新王へ譲位せよ。」

 新王?と燈羨は訊き返した。

「晶に?それとも、あなたに?」

 阿陀良は首を横に振った。

「晶が子よ。昼も夜もなく睦み合えば子も授かろうて。そして生まれくる晶が子に譲位すると宣下せよ。」

 燈羨は怪訝に阿陀良を見つめた。

「我が望むは完全なる王の誕生。分かれた我ら姉弟の二つの魂が再び一つに宿る体よ。」

 燈羨はがたりと音を立て立ち上がった。

「晶と、灯己の子を!?」

「我の魂をその子に入れるのじゃ。今はあまた他人の魂を得ねば動かぬこの朽ちた体も、赤子の体であれば我の魂一つで乗っ取れようぞ。あの弟がこの世に生まれてこなければどれほどよかっただろうと思い続けてきたのであろう?あの木偶がようやっと我らの役にたとうというのだ。喜ばしかろう?」

「我らの?」

「おまえは赤子である我の後見帝となれ。副帝の銘もできたようであるしの、二人でちょうどよかろう。」

「副帝は晶だ。」

 阿陀良は、ふん、と鼻で笑った。

「子が出来れば、知っておろう?王魔の力は皆、子に吸われてしまう。王魔の宿らぬ帝弟に、なんの価値があろう?誰が必要とする?そうなれば生きていようと死んでようと構わぬ。お前が殺さぬと言うなら、紫宝宮の籠にでも入れておけばよい。」

 呼吸を圧迫するような嫌悪感に、燈羨は眉を歪め、目を瞑り、浅い呼吸を繰り返した。その様子を見つめ、阿陀良が優しく微笑んだ。

「のう、王よ。」

 阿陀良の柔らかい声色に、燈羨の心臓は高鳴った。

「わかっておるぞ。かわいい甥よ。おまえの望みが我にはよくわかる。」

 阿陀良は手に持っていた食物を乱暴に投げ捨てた。腐物が幕に飛び散り、布を溶かし、穴を空けた。阿陀良は椅子に立ちあがり、テーブルに足をかけると、つかつかと食卓の上を歩き、燈羨へ進んだ。阿陀良の爪先が次々と食器を蹴散らし、べちゃべちゃと幕に飛び散った腐物が次々に穴を空けていく。燈羨の前へ立ちはだかった阿陀良はすっと屈み、燈羨の瞳を覗き込んだ。阿陀良の口からむわりと腐臭が舞った。

「我が怖いか?我を嫌うか?おまえが我を嫌うは、おまえが我に似ておるからじゃ。おまえは、おまえが嫌いよの。」

 腐臭に涙が滲む目で、燈羨は阿陀良を見つめた。

「よう、我を見よ。おまえは我と同じことをしたのじゃ。我と同じ咎を。我らは同じ憎しみでできておる。我らは同じ苦しみでできておる。のう、王よ。おまえの苦しみを分かつことができるのは我だけじゃ。」

「違う。」

 阿陀良は燈羨の襟を掴んで引き寄せた。

「我と組め。」

「意味のないこと。あなたが再び帝王になったところで変わりはしない、生前と同じ暴君となるだけだ。」

「ひどいことを申すの。」

 阿陀良は微笑み、燈羨の襟を放した。

「我はな、わかったのじゃ。この世界に我が必要とされるために、我が何となるべきか。」

 阿陀良は食卓の上に立ち上がった。無数に空いた無数の幕の穴から、阿陀良へ光が射した。

「我は、この世の神になろう。」

 燈羨は茫然と阿陀良を見上げた。

「我は、神になるぞ。我が神となり許してやろう、お前の罪を。」

 燈羨は阿陀良を見つめたまま首を横に振った。

「意味のないことだ。あなたに許されることなど、僕は望んでない。僕は、僕の罪が、咎が、晶に許してもらえるなんて思っていない。恨まれて当然のことをした、その報いは受けなければならい。」

 燈羨は強い意志を込め、阿陀良を見つめた。

「僕には、あなたは要らない。」

 阿陀良の肌がふつふつと粟立ち、納まりきらぬ妖気が肌にいくつも穴を空け漏れ出た。憎しみの気配が阿陀良を覆っていた。二人はじっと対峙し、しばらく無言で見つめ合ったが、言葉を継いだのは阿陀良だった。

「よい。決裂じゃ。ならば、帰るがよい。あとはどうなっても知らぬぞ。」

 阿陀良はふいと燈羨に背を向け、食卓から降りた。燈羨は慌て背を追った。

「灯己は。灯己を返して!」

 阿陀良は凶悪な笑みを湛え、燈羨を顧みた。

「返す?あれははじめから我のものよ。」

「だめだ。」

「あれは我が憎しみを腹いっぱいに詰め込んでこの世に産み落とした子よ。決して幸せにはさせぬ。」

 燈羨は必死に阿陀良につかみかかったが、ふわりと避けられた。

「燈羨帝のお帰りじゃ。丁重にお送りせよ。」

 阿陀良の言葉を合図に今までどこに居たのか、槍を持った豪族連合軍の兵士たちがわらわらと集まり燈羨を取り囲んだ。阿陀良は幕を掬い、次の間へ姿を消した。

「阿陀良!」

 兵士たちの槍が、燈羨の鼻先へ突きつけられたその時、パチパチと音が聞こえ、一瞬、全員の意識が音へ向けられた。煙の臭いが鼻を突く。燃えているのだと理解するのに間はかからなかった。はっとして兵士たちが振り向くと、幕に炎の影が躍り、支柱と共に隣の幕が崩れた。わっと混乱する兵士たちへ、炎の中から、二人の兵士が走り出て斬りかかった。走り出て来た一人の男は華麗な剣捌きで豪族軍の兵士たちを圧倒し、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。もう一人の兵士は感動したように手を叩いて興奮していた。燈羨は呆れ、拍手を止めるように身振りで制した。それは連合軍兵士の格好をした達だった。剣を鞘に収めたもう一人の兵士が兜を取り、振り向いた。

「本当におめえの行くとこ火事ばっかだな。」

「いやこれおれじゃないからね。義葦さんの煙草が原因だから。」

「あれ、そういやじじいは?え?焼けた?」

 咳き込む声に、燈羨が目を向けると、煙の中から義葦が現れた。

「おい、雨寂、達、ふざけんじゃねえぞ。穏便に脱出させろって言っただろ。」

 雨寂と呼ばれた、先ほど見事な剣技を披露した青年は、ち、と舌打ちした。

「いやこれあんたの煙草の不始末だからね。おれたちそれに便乗しただけだから。」

 舌打ちをし返した義葦は、燈羨の視線に気づくと駆け寄り、跪いた。

「ご無事ですか。」

「ああ、僕は。」

 あーよかった、安堵の息を吐いた達に、義葦は、よかねえぞ、と罵声を張り上げた。

「どうやってこの火の海ん中、城まで帰るってんだ、ああ?」

 罵声を浴びても達はけろっとし、灯己は?と燈羨に尋ねた。燈羨は首を振った。

「わからない。途中で別々にされてしまった。灯己を取り戻さないと。ひどいことされる、あの母親に。」

「灯己が?ひどいことされる?灯己がするんじゃなくて?」

 頷く燈羨を見た面々は、すっと背が冷えるのを感じた。あの灯己がひどいことをされるなんてよっぽどだ。しかし、と義葦が努めて明るい声を出した。

「しかし、まずは帝王様の御身。帝王様がお戻りにならねば千城が悪夢を見ましょう。」

「この火の中帰れればだけどな。」

 と溜息を吐いた雨寂の頭を義葦が叩いた。

「帰るんだ馬鹿。」

「どうやって?」

 全員がむっつりと黙り込む中、達ははっとして顔を上げた。

「ねえ、おれ、ひとつ試してみたいことあるんだけど、いい?」

 燈羨を見ると、燈羨は促すように頷いた。達は目を瞑り、全意識を集中し、ある感情を呼び覚ました。

「おれは今すごく寂しいんだ。そう、すごく寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、ペル、ペル、来て!お願い!」

 達の影の中に金の文様が浮かび上がり、小さな旋風が起こった。その中にペルが立っていた。ペルはぽかんとして炎の中に立つ四人を見つめた。

「は?」

「ペルー!来てくれた!」

 達はペルに抱き着き、そのよく伸びる頬を捏ね繰り回した。

「はあああああ!?なにこれ!どういうこと!?」

「ペルが言ってくれたんじゃん。寂しくなったら呼んでって。」

 ペルは記憶を辿り、思い至るとがっくりと肩を落とした。

「言ったわ!」

 達はがしりとペルの肩を掴んだ。

「とりあえずさ、おれたち、千城に移動させて?ね?死んじゃうから。」

 同時に義葦が指を針状に変形させペルの頭に突きつけた。

「それとも一緒に焼け死ぬか?おい、脳みそぐちゃぐちゃにされるのとどっちがいい?」

 ペルは青褪めた顔で義葦を見上げた。

「鳥市ってどいつもこいつも!!」

 一通り悪態を吐き終えるとペルは観念したように項垂れ、ちらりと時計に目をやった。

「わかったよ。一緒に千城につれてってやる。その代り、こっちからもひとつ、達にやってほしいことがある。」

「何?」

「今夜千城の全市民が、宮殿に集まるんだよね?」

「うん。」

 ペルは燈羨を振り返り、膝を折った。跪く、黒く小さなよくわからない生き物を、燈羨はしげしげと見つめた。

「神苑の使者、ペル・ロディアデスと申します。陛下。」

 ペルは顔を上げ、真っ直ぐに燈羨を見た。

「燈羨帝王。この世界は神より与えられてからこの永きにわたり、神の手によって弄ばれて参りましたが、私はこの世界を神より飛都の民にお返ししたく存じます。帝王様にお伺い奉ります、その御覚悟、ありやなしや。」

 燈羨は微笑み、その小さな黒い生き物を見つめた。

「もちろんだよ。もちろん、ある。」

 ペルは大きく頷いた。

「承知仕りました。」


 兵士に四方を守られながら幕の内の通路を進む阿陀良は、後方で小さな叫び声を聞き、足を止め振り向いた。後ろを守っていた兵士の鼻先に、幕の外から剣先が突きつけられ、兵士は身動きが取れず震えていた。

「何者じゃ。」

「鳥市を知らねえのかい、いまの若いもんは。おれたちに会ったら二度目はない。命惜しくば去ね。」

 低い女の声に、兵士たちはぎょっとしたように青褪め、口々に鳥市だ、鳥市だと叫ぶと阿陀良を捨て我先にと逃げ出した。剣が幕を裂き、現れた二人の女に阿陀良はあっと言う間に縛り上げられた。

「あんまりきつく縛ったら御老体には酷だぜ、もっと優しくしてやんな、翠。」

 せせら笑う津柚の言葉に、翠は更に縄をきつく締め、阿陀良の首元に剣先を突きつけた。

「愚民が何の真似じゃ。」

「ちょっと世界を変えようと思ってさ。」

 津柚はにかりと笑った。

「友達の遺言なんだ。」


 晴れ晴れと笑う津柚の笑顔を、グレイスは金の瞳の中に眺めながら、つまらなそうに息を吐いた。

「燈羨がこちらの陣地へ火をつけたようです。どうらや事前にこちらの兵士をすべて避難させていますね、手際のよいこと。阿陀良は鳥市の残党に捕まってしまったようです。」

 本陣の幕内で晶はグレイスを振り向いた。それに、とグレイスが忌々し気に顔を歪めた。

「ロディがかかわっていますね。燈羨は達たちに助けられてどこかへ行ってしまいましたよ。」

「なら、燈羨の戻らないうちに千城を占領する。」

 グレイスは冷ややかな瞳を晶に向けた。

「こちらから千城に攻め入ると?急ごしらえの反乱軍が帝軍に敵うとお思いですか?」

「師姉がこちらにいる限り、燈羨は絶対に攻めてこない。攻めるなら今しか、」

「おやめなさい。」

 ぴしゃりとグレイスは語気を強めた。

「ご自分でご自分の民を殺すなど、王のやることではありません。ご覧なさい、燈羨を。誰も殺さずにこの戦いをおさめようとしているでしょう。」

 晶は困惑に顔を顰めた。グレイスはぼんやりと宙を眺めながら、

「あなたは神ではないのですから、己の民を殺してもよいのは神だけ。」

 と呟いた。

「私はもう神ではありませんからね。今それをやるのはあなたではなく、阿陀良なのですよ。」

「どうしてあのひとを蘇らせたの?あれを神にするつもり?」

「代わっていただけるなら代わっていただきたいのですよ。」

 晶は不意に息苦しさを感じ胸を押えた。腐臭が鼻孔に蘇り、咳込んだ。

「あんなものが神になったら、この世が苦しみでいっぱいになる。」

「あれは私と同じ生き物です。同じように腐った憎しみを食らって生きながらえている。私が神であろうとあれが神になろうとこの世界はなにひとつ変わりません。生きることは苦しみです。この世は憂いに満ちています。」

 そうだろうか、と晶は思った。この北の禁域で、あの鳥籠の中しか知らなかった頃、確かに晶にとってはこの世に存在することそのものが苦しみであった。鳥籠の世界は憂いに満ちていた。だが、そうではないのだと、灯己が教えてくれたのだ。雨寂が教えてくれたのだ。

「おれはそうじゃないって知ってる。」

 グレイスは目を瞠り晶を顧みた。

「雨寂と、師姉と暮らしていたとき、そうじゃないって知った。神の作る世界がそうだっていうなら、おれは神なんかいらない。おれは自分で世界を作る。」

 晶の強い眼差しを、グレイスは驚きを隠せずに見つめ返した。体が震える。あの時と同じ、あの津柚とかいう女が向けたあの強い意志と同じものを向けられているのだと、理解した。

「憎しみに生かされているあなたが何を。この飛都の、この燈一族の憎しみの連鎖から逃れると言うのですか?あなたの憎しみは?あなたの憎しみはどこへいくのです?」

「くそくらえだ。ひとをひとでなくす憎しみなんか、呪いなんか、大事に抱きしめてたって腐って汚臭を放つだけだ。おれは師姉に師姉らしく生きていてほしい。あのひとを、おれが不幸になんかしない。絶対にだ。」

「何を馬鹿なことを。この世から憎しみが消える術など、いえ、何よりも、この私から呪いが、憎しみが消えることなどない。私が、許しません。」

「あなたの許しは求めません。必要ない。」

 この恐怖を私は知っている、とグレイスは思った。この恐怖から逃れるために、私がどれだけの苦しみを味わってきたのか、この子は知る由もないのだ。その言葉を言わせぬために、私は呪いに身を窶したというのに、それを言うのか。

「この世界から、あなたを、神を、消す。」

 グレイスは吐き捨てるように笑った。

「できぬこと。私は、ものではないのです。」

「そう、あなたは、ものではない。だから、私があなたを消す。」

 聞き覚えのある女の声に、グレイスはぎょっとして振り向いた。幕の中にいつの間にか薫が立っていた。

「神言反呪で神という概念を消す。」

 グレイスは茫然と薫を見つめていたが、螺子が外れたように笑い出した。

「神という概念を消す?ははっ!ははは!!薫、あなた、よくもまあ、そんなことを!」

 ひとしきり笑うとグレイスは口を閉じ、薫の真っ直ぐな視線を、静かに見返した。それがなされようとしていることを悟った。

「薫。神という概念が、どれほどこの国に、この世界にとって救いであるか、信仰を持たぬあなたにはわからないでしょう。それを消すことが、どれほど罪深いことか。」

 グレイスは晶へ向き直った。

「晶。あなたは神なくして、神の救いなくして、この世界の人々が求める救いを、すべて己の政で満たせると?その自信があるというのですか?」

 晶は奮然と言った。

「そんな自信はないよ。」

「ない、ですが、やると?」

 晶は力強く頷いた。グレイスは高らかに笑った。

「良いでしょう、やってごらんなさい!いくらでも抗いなさい!いくら抗ったところで、あなた方は必ずまた神を作り出す、必ず私は蘇る、あなた方は必ず再び私を求めることとなる!ひとは神なくして生きていけないのです、いくら消そうとも信仰は必ず生まれるのですよ!世界に存在する概念をひとつ消すことはそれだけで世界をまるで別のものにつくりかえること。あなたは、その見たこともない新しい世界を統べなければならないのですよ、飛都の新王よ。そんなことがあなたにできると?世界を作り変える覚悟があるというのですか?」

「おれはおれの民を不幸にはしない。どれだけ世界が変わろうと、絶対にだ。」

 グレイスは晶の強い眼差しを眩しく見つめ返した。

「ならば、やってごらんなさい。あなたがそれを成し遂げたとき、私は再び祝福となりましょう。」

 晶は頷き、薫を顧みた。薫はひとつ深呼吸をし、口を開いた。

 時を同じくして、千城の大広間の壇上に燈羨は立った。燈羨は息を吸い、大広間に集まった全千城市民の顔を見渡した。深く息を吐き、燈羨は自らの耳を塞ぐと口を開いた。

 また同じ時、全豪族の集まる四方の城壁のそれぞれに、津柚、雨寂、義葦、達が立った。ペルから渡された紙切れを開き、その文字列に達は顔を顰めた。カタカナで書かれたそれは見慣れた薫の字だった。どういうことだとペルを見ると、ペルはいいから早く言えというように目くばせした。達は城壁の前に集まった兵士とその家族の面々を見渡し、息を吸うと、口を開いた。

 その呪文が飛都帝国のすべての民の鼓膜を震わせたこの時、この国から神は居なくなった。

 その呪文を聞き届けた翠は静かに目を開けた。足元には腐った土が積もり、手には紐を握っていたが、それが何であったか、翠は思い出せず、腐臭に鼻をつまみ首を傾げた。

 晶は耳を塞いでいた手を離した。グレイスの姿は消えていた。薫がぺたりと座り込んだ。

「私、やってしまったのね。」

「うん、新しい世界だ。」

 自ら口にしたその言葉に、晶は身震いした。

「生まれたての世界。」

 晶は立ち上がり、幕を掬い外へ出た。北の禁域の丘をひとり登ってくる燈羨の姿を認め、晶は静かにそれを待った。燈羨は息を切らしながら晶の前に立った。

「晶、よくやってくれた。」

 燈羨はすっと膝を折った。

「すまなかった。僕は、おまえに許されないことをした。許されることを望んではいけないんだ。僕を、許さないでほしい。」

 晶は眉を歪め、憮然として燈羨の後頭部を見下ろした。

「おまえを許すか許さないか、おまえの意思なんか関係ない、おまえがどれだけ反省しようと後悔しようと、おれの気持ちにはなんの影響も与えないんだから。」

 燈羨は顔を上げ、晶の赤い瞳に溜まる涙を見つめた。

「おれはおまえを兄だともこの国にふさわしい王だとも思わない。おれはこの国にふさわしい王になる、そのために必ず、おまえから正当に受け継いでみせる。神に頼らず、おれの力で。」

 晶の目から涙がこぼれ落ちた。

「おれは、師姉とこの国の王になりたかった。あのひとがおれを幸せにしてくれたから、おれがあのひとを幸せにしたかったのに。」

 ぐすぐすと鼻をすすり泣く弟へ、燈羨は思わず手を伸ばした。

「触るな!」

 はっとして引っ込めた手を、燈羨は一瞬逡巡したが、そのまま晶の赤い癖毛に伸ばし、その頭を抱き寄せた。

「おい!」

 晶と触れる燈羨の掌がぷすぷすと音を立て燻る。

「やめろ!」

 暴れる晶に構わず、燈羨は両手で晶を抱き寄せ、抱きしめた。頬と頬が触れ、燈羨の頰が焼けて爛れていく。

「馬鹿!死ぬぞ、おまえ!」

「僕の弟だ。」

「おまえなんか、兄貴なものか!」

「僕の弟だ、晶。」

 晶の目から落ちる涙が燈羨の爛れた頰の火種を消した。二人は驚き、顔を見合わせた。晶が涙を拭い、涙に濡れた指で燈羨の頬の火傷に触れると、燈羨の火傷はきれいに治っていく。二人は再び顔を見合わせ、驚きに笑ってしまった。

 晶は笑ってしまったことを恥じるように顔を背けたが息を吐き、再び燈羨を見つめた。

「おれはおまえを認めないけど、ひとつだけおまえにしかできないことがある。だから、これだけは約束して。」

 燈羨は晶の強い眼差しをまっすぐに受け止めた。

「師姉を幸せにして。」

 ああ、と燈羨は頷いた。

「するよ。必ず。」 

 晶の目尻に残る涙を燈羨は掬い、温かいね、と言った。


 灯己は紫宝宮の鳥籠の中で目を覚ました。はっとして起き上がり、あたりを見回す。天窓から射し込む一筋の陽の光の中を埃が音もなく舞っているほかには、何もなかった。 

 かつん、かつん、と硬い踵を鳴らす音が遠くから近づいてくる。燈羨の足音だ、と灯己はすぐにわかった。重い扉が開き、思ったとおりに、燈羨が顔を出した。牢へ歩む燈羨に灯己は駆け寄り、鉄格子を握った。

「燈羨!晶は?母上は?なんでおれ、こんなところにいるんだ。」

 燈羨は微笑し、灯己を宥めるように、頷いた。

「阿陀良は死んでしまったよ。だから反乱軍は解散した。」

 灯己はぽかんとして燈羨を見つめた。燈羨の言葉が嘘ではないが、すべてでもないとわかった。しかし、燈羨の微笑みは真実を追及することを躊躇わせた。

「灯己、お母様に何かひどいことを言われたのかい?」

 灯己は首を振った。

「きっと、言われたんだ。でも、覚えていない。」

「それなら、今の灯己にとっては必要のないことなんだよ。」

 灯己は首を傾げた。何かが決定的に変わっているように思えてならないが、それが何なのかわからなかった。

「晶は?」

「来ているよ。外にいる。」

 燈羨が鳥籠の鍵を外し、鉄格子の扉を開いた。灯己は初めて、自分の足でその籠から出た。

 紫宝宮から出ると、丘の上に立つ晶の後ろ姿があった。灯己は歩み寄り、静かに声をかけた。

「晶。」

 晶はびくりと肩を揺らし、灯己を顧みた。

「師姉。」

 二人は互いの赤い瞳を見つめた。風が二人の外套の裾を揺らして過ぎた。

「師姉、ごめんなさい。」

 吸い寄せられるように、灯己は晶を抱きしめ、晶は強く灯己にしがみついた。

「ありがとう、晶。」

 燈羨は深い安堵の息を吐いた。その途端、燈羨の視界は白く濁り、燈羨はその場に倒れた。

「燈羨!」

 慌てふためく灯己の耳に、丘の下から晶を呼ぶ聞き慣れた声が向かってきた。見ると達が走ってくる。

「おーい、晶!おい、てめえ!」

 達は駆け寄るなり晶に掴みかかった。

「おい、薫来てんだろ、なあ、そうだろ!?どこやった?どこにいんだ!?」

 晶はうんざりしたように息を吐いた。

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