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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
27/30

3幕 三人の王 6

 灯己が初めて人を殺したのは、義葦のもとへ身を寄せた半年後のことだった。灯己に剣技を教えたのは繰弄だった。繰弄は農家の子だったが、湿暖州は気候に恵まれた土地故に豪農が多く、多くの農民の子が州校へ通っていた。繰弄の通っていた州校では剣術の授業があったのだという。州校一だったと繰弄が自慢した腕はあながち嘘ではなく、初めて灯己と二人で殺した男にとどめを刺したのは繰弄だった。

「おめえはまるでだめだな、見込みがねえよ。」

 一撃で殺すことができなかった灯己は、獲物の男と互いにぼろぼろになるまで斬り合った。とどめを刺した繰弄は死んだ男とその横で息を弾ませている灯己を見下し言った。

「おめえみてえな弱っちくて何もできねえ餓鬼、おれが義葦のじじいに要らねえって言えばすぐ捨てちまえるんだぜ。」

 灯己と繰弄の年は一つしか違わなかったが、灯己は何も知らず、繰弄は何でも知っていた。己が何者かも分からない灯己にとって、人生を悟りきっているような繰弄は随分大人に見えた。しかし、殺し屋鳥市の名が世間に聞こえるようになるにつれ、灯己が眩しく眺めていた繰弄の顔には影が落ちるようになった。繰弄は仕事の最中、突然に腕を降ろし、無防備に斬られるという奇行を繰り返した。あの頃のことを、灯己は今でも夢に見る。

 ああ、またあの夢を見ている、と灯己は思った。無抵抗に斬られた繰弄を背負い、灯己は夜の道を走っていた。繰弄の流す血が灯己の上着に沁み込み、背を濡らしていく。このくそ野郎、と灯己は何度も悪態を吐いた。鳥市の隠れ家の戸を乱暴に開けると、津柚が悲鳴を上げた。

「繰弄、どうしたの、ひどい傷!」

 灯己は津柚には構わず、大声で義葦を呼んだ。義葦が奥からやってきた。

「うるせえ、どうした?しくじったか?」

 灯己は舌打ちして義葦を睨んだ。

「向こうに五人もいるなんて聞いてねえぞ!」

「ほお、そんなに出てきたか。」

「とぼけんな!」

「きっちり仕留めたんだろうな?」

「あたりめえだ!じゃなけりゃ生きてねえよ!」

「一気に片付けられてよかったじゃないか。また出張る手間が省けた。」

 二人の間に津柚が割って入った。

「そんな話してる場合か!じじい、早く手当てしてやれよ!」

「ふん、急かさなくとも、おれが生きてる限り、こいつは死なせねえよ。これきしの傷、おれにかかればどうってことねえさ。」

 灯己は玄関の土間に立ったまま、義葦にひょいと抱かれて奥へ運ばれていく繰弄を見ていたが、二人の姿が襖の向こうに消えると背を向け扉を開けた。

「どこ行くのさ、こんな時に?繰弄の治療を見ないのかい?」

 咎めるような津柚の言葉に振り返らなかった。

「もう見飽きた。訓練場に行ってる。治療が終わったら教えてくれよ。」

 灯己はぴしゃりと戸を閉め、出て行った。

 鳥市の数多ある隠れ家の中で、今根城にしている雨州の村の百姓屋敷は裏手に森が広がり、その一角に灯己はいくつもの巻き藁を作り、剣の練習場にしていた。灯己は黙々と巻き藁を切り続けた。少しでも気を逸らすと、繰弄が刀を持つ手をぶらりと下げ、無抵抗に斬られた様を思い出してしまう。灯己は力を込め巻き藁を斬った。真っ二つに斬り裂かれた巻き藁がずるりと土の上に落ちていく。背に気配を感じ、灯己は血走った目で、背後を振り向いたが、森の道を進んでくる者が義葦であるとわかると灯己は刀を降ろした。義葦は灯己の傍まで来ると、小川の流れに血だらけの手を浸け、清めた。義葦の手についていた繰弄の血が水の中に溶けて流れた。

「これから今日の金を受け取りに行ってくる。あいつが目え覚ましたら動かねえように言っとけ。」

「どのくらいで動けるようになる?」

「さあなあ。だいぶ血が足りねえよ。あんなに斬られやがって。」

「向こうがあんなにいるとわかってたらあんなへましなかった。」

 灯己の言葉に、義葦が顔を上げ灯己を見た。

「へえ、そうかえ。」

 言い訳がましさを見透かしたような義葦の目から灯己は顔を逸らした。義葦は水から手を引き上げると手拭いで拭きながら立ち上がった。

「まあ、人数が多かった分金がとれるからな、儲けたと思え。」

 舌打ちした灯己を意に介さず、義葦は背を向けた。

「じゃあ行ってくる。繰弄をよく見とけよ。」

「義葦!」

 灯己の大声に、義葦が振り向いた。

「繰弄がへましても、おれが何とかする。おれがもっと強くなって、あんな傷、もう負わせやしない。だから、」

「繰弄を放り出さないでくれって?」

 はっとして口を閉じた灯己に、義葦は冷ややかに微笑んだ。

「口で言うは容易いのう。聞き飽きたわい。」

 森の中でひとり灯己は項垂れ、奥歯を噛みしめた。

 隠れ家に戻ると、灯己はわざと大きな音を立て階段を上がり、乱暴に襖を開けた。布団に寝かされている繰弄の横に腰を下ろすと不機嫌な顔を作り見下ろした。

「なんであんなことした。」

 繰弄は黙ったまま答えなかった。

「繰弄。なぜ、腕を下ろしたんだ?なぜ、わざと斬られるようなことした?」

「思い出すんだよ。」

 灯己は仏頂面のまま、繰弄が言葉を継ぐのを待った。

「こいつを斬ってやろうって、刀を振り上げるだろ、そうするといつも思い出す。頭の中にぱっと花が咲くみたいに、くそじじいに売られた日のことを思い出す。母親や、兄貴達がおれを見る目を。」

 灯己が何も言わずにいると、繰弄は苛立ったように声を荒げた。

「おまえは、覚えてねえから生きてられるんだ。おれは、おれがこうして生きてることが憎い。なんでおれだったんだ?なぜおれがあのじじいに売られなきゃならなかった?なぜおれなんだ?なぜおれがよりによって鳥市の義葦に。人殺して、金をもらって、それで生きてどうすんだよ?」

 どうしようもねえよ、と灯己は思った。どうしようもねえ、それがおれ達の生きていく手段だとおれに教えたのは繰弄おめえ本人じゃねえか。灯己は思わず笑った。

「死にたきゃ死ねよ。」

 繰弄はぎょっとしたように灯己を見上げた。灯己は立ち上がった。

「死にたきゃ勝手に死ね。おれの足を引っ張るな。」

「じゃあ助けんじゃねえよ!」

 灯己はじっと繰弄を睨んだ。

「馬鹿か。てめえを放って帰りゃおれがじじいにぶっ叩かれるじゃねえかよ。死にたきゃおれを殺してから死ねよ。」

 繰弄の顔にさっと赤みが増した。

「殺してやるよ、てめえのことなんか、今すぐに!」

「こんなザマのお前に、おれが殺せっこねえだろ。一生かかってもおれに追いつきゃしねえよ。」

「灯己!てめえ!ふざけんな!殺してやるよ!どれだけかかったっててめえを殺してやるよ!」

 繰弄は立ち上がり灯己に掴みかかろうとしたが、ふらりと布団の中に崩れ落ちた。繰弄の罵声を聞きつけ様子を見に来た津柚が、布団の上で目を回している繰弄を見つけた。

「ちょっと、灯己、繰弄に何言ったんだよ!刺激しちゃいけねえことくらいわかってんだろ!?殺す気かよ!」

 灯己が鼻で笑った。

「死にやしねえよ。おれを殺すまでは死なねえってよ。」

 灯己は部屋を出た。背に喚き散らす津柚の声を聞きながら、灯己は階段を下り、靴を引っ掻け外へ出た。

「死なせないよ、おれが。」

 灯己はぐっと拳を握り、群青の空に散らばる金色に輝く星を見上げた。

「生きるんだ。」


 白山の頂上に聳え立つ神苑信仰の総本山、竜胆家の屋敷の講堂に足を踏み入れた煌玄以下第一部隊の面々は目を瞠った。講堂には何百という白い棺が規則正しく並べられ、その中には神苑信仰の信者と思われる人々が、白い死装束を纏い、納められていた。すべての死体は防腐処理を施され、皆眠っているかのように穏やかな死に顔だった。その静謐な様はさながら神苑の言い伝えにある死の宮の光景そのものだった。一体この屋敷で何が起こったのか、あの偽物の男と本当の弥杜徽様とそして信者の者達の間でどのようなやり取りがあったのか、煌玄は思いを馳せようとしたが、我に返り、やめた。ごく事務的にこれらの棺を焼くよう、隊の者へ言いつけた。棺を焼く炎は三日三晩燃え続け、それでもすべてを焼くには至らなかった。四日目に、千城から彰豼がやって来た。

「煌玄様。彰豼様と第四部隊の皆様がご到着されました。」

 軍士の言葉に、煌玄は少しやつれた顔を上げた。講堂の入り口に立つ彰豼と目が合うと、彰豼は獣のように軽やかな足取りで駆け寄った。

「煌玄様、ご苦労様にございます。」

 彰豼は煌玄の足元に膝を折り、敬礼をした。

「女官長様からお言伝です。帝がお目覚めになったとのこと、千城へお戻りください。」

 煌玄は無意識のうちに安堵の溜息を吐いた。

「そうか。」

「白山の見分、我が隊が引き継ぎます。第一部隊の皆様は千城へ。元帥からの御指示です。」

「灯己様が?」

「は。三百を超える死者に加え、市中の信者の家からも棺が運び込まれ続けると聞きました。連日では気が滅入るだろうとの仰せで。」

 確かにその通り、屈強な肉体に強靭な精神を持ち合わせた第一部隊の面々といえども、毎日数十人の死体を焼くのは精神に応えるものがあった。

「わかった、あとは頼もう。」

 そう答えた煌玄に、彰豼は辺りを憚るようにして一歩身を寄せると、声を落とした。

「あの、煌玄様。元帥はお体の具合がよろしくないのでしょうか?大葬儀の後、十日も寝込まれたと聞きました。それから一度も公にお姿をお見せになりませんし、今回のご指示も、女官長殿からの御伝言でした。お体を悪くし、元帥の職を御退任されるのではと、噂する者もおります。」

 煌玄は目を見開き、それから苦笑した。

「いや、御病気ではないのだ。心配するな。」

 しかし、と煌玄はしばし考え込んだ。御退任の噂が立っているとなると、これは危ういかもしれぬ。煌玄は顔を上げ、彰豼に向き直った。

「彰豼。こちらは交代しなくてよい。すぐに第四部隊の諜報組を三十二すべての豪族屋敷へ潜入させるように。それから州境界警備を厳重強化するよう、編成を頼む。」

 彰豼はぽかんとし、はあ、と意図を図りかねるような返事をした。煌玄は穏やかに笑み、彰豼へ丁寧に言い含めた。

「燈羨様の御代になり豪族の蜂起がほとんど無くなったのは、灯己様が元帥であるからだ。一夜にして二つの豪族を滅亡させたフクロウの名がこの飛都に生きている限り、豪族蜂起の抑止力となっていることは否めない。豪族狩りの猟犬と恐れられた蘭莉が牢に居る今、灯己様御退任の噂が流れたとなれば豪族たちにとっては千城へ攻め込む絶好の機だ。」

 彰豼はさっと姿勢を正し、直ちに取り掛かります、と声を張り上げた。

「彰豼、千城から国境に軍を送れば目立つだろう、この白山を拠点するといい。」

「は。」

 煌玄は副隊長を呼び、あとのことを託すと、一度千城へ戻る彰豼と連れ立ち、参道を下った。

「この白山はすでに燈家のご領地に?」

 彰豼の問いに、煌玄は、ああ、と頷いた。

「ご当主様がご自害され、ご一族も信者もみな自決してしまった。独立を宣言するということは、即ちお取り潰しを意味するが、我々が命を下すまでもなく、竜胆家は自ら廃絶を選んでしまった。」

「なぜです?」

 わからない、と煌玄は首を振った。ひとの気持ちであればなんでもわかると思っていた時代が煌玄にはあった。ひとの心は容易く手に取ることができ、そうしてこちらの思うようにいくらでも手の中で捏ねて形を変えることができると思っていた。しかし、灯己に出会い、その考えは一変した。この世には心を手の中で丸め込めぬひとがいるのだと、はじめて思い知った。そしてこの世は深く暗いのだということも知った。煌玄の到底手の届かぬ深く暗い場所にあまたの意志が蠢いている。

 千城へ戻り、燈羨の寝所の扉を開いた煌玄ははっとして足を止めた。双子女官の姿はなく、寝所には灯己一人だった。灯己は頬杖をついて窓際の椅子に座り、眠っていた。暖炉に火が灯り部屋は暖かかったが、灯己の居る窓辺は底冷えする寒さだった。煌玄は燈羨の衣装棚から肩掛けを取り、灯己の肩に掛けようとしたが、灯己は目を瞑ったまま片手でそれを制した。

「畏れ多いぞ、帝の衣をおれに貸すなど。」

 灯己はゆっくりと目を開け、煌玄を見上げた。

「おまえらしくもないことを。」

 煌玄は微笑し、手に持っていた肩掛けを畳んだ。

「灯己様があまりにお苦しそうなお顔をされていらっしゃったのでつい。何かよくない夢を?」

「いや、いい夢だったよ。」

「灯己様がお眠りになっているのを初めて拝見しました。灯己様でも夢を見られるのですね。」

「おれを何だと思ってるんだ。おれだって夢くらい見る。よく見る夢があってな、子供のころの、ある夜のこと。」

 灯己はまだ夢の中にいるような緩慢な仕草で寝台に顔を向けた。

「一度目を覚ましたが今はまた眠っている。熱はない。」

 煌玄は寝台に寄り、天蓋を掬った。燈羨の穏やかな寝顔に安心し、天蓋を降ろした。

「弥杜徽の亡骸は見つかったのか?」

「はい、講堂の祭壇で、棺に納められていました。他の信者も同じように、丁寧に棺の中に納められておりました。その光景は古い絵に描かれた死の宮そのものでございました。」

「それを、あれがやったと?」

 あれ。弥杜徽に成り代わっていたあの男。

「おそらく。」

「おまえは会ったのか?あれの最期を見たのか?」

「はい。」

 灯己は口を噤み、煌玄から顔を背けた。煌玄は息を飲んだ。みるみるうちに灯己の赤い瞳が涙で膨らみ、紅玉が零れ落ちるように涙が流れた。驚きのあまり言葉をかけることができぬまま、煌玄は涙を落とす灯己を見つめていた。灯己は口を開こうとし、しかし発した言葉は嗚咽となり、灯己は両手で顔を覆い、伏せた。

「おれは、恨まれたままだ。」

 灯己の手の指の隙間から涙が流れ落ち、灯己の赤い上着を濡らした。

「あのくそ野郎。」

 灯己は天上を扇ぎ、荒い呼吸を静めようと大きく息を吸った。

「灯己様。」

「おれは弱くなってしまった。死はいつも他人事だったのに。簡単に殺すことができたのに。」

 灯己は背を丸め、膝に額を埋めた。

「晶を殺すと燈羨と約束したのに、おれは晶をきっと殺せない。」

 灯己の嗚咽を、天蓋の中で燈羨は夜具にくるまり聞いていた。身じろぐ気配と共に、灯己様、と呼ぶ煌玄の声が聞こえた。

「あなたは、間違っておりません。一度、旦那様のお庭でお見かけしたあなた様は今のあなた様のようでした。血も涙もない冷酷非道な血濡れフクロウは伝説上の生き物、あなた様はこうして血の通う体から温かい涙を流す方です。あなたはお母上の命を助けるために自らの幸せを犠牲するような方です、そのあなたに、晶様を殺すという重荷を負わせた私たちが間違っていたのです。」

 燈羨の耳の中に、達の言葉が蘇り、燈羨は目を瞑った。

「あんた、灯己の心がわかるんだろう?わかっていて、灯己に晶を殺させるの?灯己がどんだけすごい王の器だとしても、灯己の王はあんただ。王が、家臣を不幸にするのか?それが王か?」

 煌玄の柔らかい声に、灯己の嗚咽が止んだ。

「灯己様、どうか、お苦しみにならないでください。きっと他に方法がございます。」

「灯己。」

 燈羨の声に、灯己は慌てて涙を拭った。煌玄は燈羨の寝台へ駆け寄り、燈羨の体を支え起こした。

「お加減はいかがですか。」

 燈羨は頷き、灯己を手招きした。灯己はその手に吸い寄せされるように燈羨へ歩み寄った。

「憎しみに、立ち向かったら負けだって。あの呪いの塊がそう言ったよ。ねえ、向けられる憎しみに立ち向かわない、そんなことができると思う?」

 顔を見合わせた灯己と煌玄を、燈羨は満足そうに見つめた。

「僕にはわかったよ。」

 にこりと笑う燈羨を怪訝に見つめる灯己の背で、失礼仕ります、と舞霧の声がした。

「入れ。」

 燈羨の声に扉が開き、舞霧が膝を折った。

「彰豼様からご伝達にございます。乾冷州の然氏に蜂起の動きあり。」

 やはり乾冷か、と煌玄は呟いた。

「ずいぶん早い、やはり彰豼の軍士は優秀だな。」

 感心したように灯己が微笑み、煌玄へ視線を向けた。

「煌玄、乾冷はおまえが然氏をなだめたばかりだろう?」

「はい。しかし、今豪族の中で軍力が揃っているのは乾冷のみ、更に然氏の我欲の強さ、一族の気性の荒さを考えれば、どんな些細な好機も見逃さないでしょう。」

「おれが退任する噂があるらしいな?しかし、それだけで動くだろうか?前回のように譲位の混乱に乗じてというならわかるが。」

 舞霧は扉を閉めてから三人に歩み寄り再び膝を折ると、声を落とした。

「諜報組が接触した然氏の下男が申すには、頻繁に然氏を訪れ、蜂起をけしかける者がいると。」

 舞霧の声が僅かに震えている。

「その者、燈羨様の血族を名乗っていると。」

 三人は息を飲み、茫然と舞霧を見下ろした。

「帝、ご指示をお召しください。」

 逸る心臓を抑えるように、燈羨は目を瞑り深く息を吸った。長い時間をかけ息を吐き、瞼を上げた。

「あんな寒くて乾いた土地取り潰したところで何の役にも立たないから今まで大目に見ていてやっていたのに。神苑信者の墓を建てる土地がなくて困っていたところだ、然氏を潰して乾冷を千城の墓にしろと彰豼に伝えろ。」

 舞霧は顔を上げ、燈羨の顔を見やった。次の言葉を待っているのだと燈羨はわかった。燈羨は努めて尊大に、舞霧を見下ろした。

「晶のことは見逃せ。殺すな。」

 燈羨は舞霧、煌玄、灯己の顔を順に見つめた。

「晶の憎しみに立ち向かわずに、僕が王であり続ける方法を考えたんだ。」

 三人の熱い眼差しが注がれていることに燈羨は幸福を感じた。彼らがいなければ帝王は帝王たり得ない。

「僕は、父から王になることを望まれた王だ。父は後から生まれてくる子が王魔を宿すことを知っていたはずだよ。それでも僕を王にした。お前たちは皆、揃いも揃って父のことが大好きだったろう?ならば、父が僕に望んだことがわかるね?」

 燈羨は寝台を降り、窓から降り注ぐ光の中へ進んだ。

「僕がそれをやる。」

 光を纏い自信に満ちた燈羨の横顔に、煌玄と舞霧は目を細めた。灯己はじっと、その後姿を見つめていた。


 円形の議場に、彰豼とその精鋭の部隊数十人が入った時、すでに詔の議は始まっていた。遅れてやって来た彰豼たちを睨む文官もいたが、彰豼たちは気にすることなく、武官席の最後尾に着くと静かに腰を下ろした。今朝方乾冷州の然氏の首を取って帰ってきたその足で駆けつけたのだった。彰豼は欠伸を噛み殺しながら議場を見渡した。文官は二位までではなく、帝の御尊顔拝謁を許される五位まで集められ、席はひとつの空もなくぎっしりと埋めつくされていた。

「すごい人数だな。」

「やはり元帥の御退任が発表されると言うのは本当だろうか。」

 若い隊士たちの囁きに、彰豼はしっと指を立てた。隊士たちが口を噤むと、壇上で交互に詔を読み上げる夕凪と舞霧の声がはっきりと聞こえてきた。

「これより執政官の順位制度を廃止、執政院を置くこととする。執政院の構成員に序列はなく皆同列とする。執政院の議会開催は帝王並びに副帝のご参議を必須とし、構成員のみでの開催を禁ずることとする。」

 議場の人々は、それが聞き間違いであるかのように、皆、ぽかんとして双子を見上げた。

「この度執政官一位の廃止に伴い、新たに帝王の執政補佐官として副帝を定めんとする。副帝は帝王のご推挙により決定し、その権限は帝王の五分の四に当たると定めんとする。」

 しかし、聞き間違いではないのだと理解するや、一斉に騒めき始めた。

「副帝ですと!?」

「五分の四の権限と!?」

「五分の一である正后様よりも大きな権限をもつとは!」

 舞霧は騒めきを歯牙にかけぬ様子で続けた。

「こたびの副帝の制定、および執政院の新設は、執政官一位への権力の一元化を防ぐことを目的とし、これすなわち臣の力を剥奪することにあらず、要らぬ諍いを避け、臣を護ることにあり。」

 畏れながら、と叫ぶ者があった。袖から壇上を見守っていた灯己は、皆の視線を集める男へ目を向け、微笑んだ。

「なんだ、おめえの言う通りだな。」

 灯己の隣で義葦が笑った。

「ああ、木槌が異議を唱えるに決まってるんだ、こういう時は。」

 灯己の予想した通りに、木槌は憤懣たる表情で立ち上がった。

「副帝とおっしゃいましたが、そのような、帝王様に次ぐ権威を持つにふさわしい人物が、この千城に、いえこの飛都帝国にいらっしゃるというのですか!?」

 そして灯己の期待した通りの言葉を言ってくれる。義葦が鼻を鳴らした。

「だが、ここから先、おめえの思うようにいくかね。あれが来ていなきゃ話にならねえ。」

「必ず来るよ。そうなるよう仕込んでおいた。」

 騒めきが広がる中、壇上の玉座に鎮座していた燈羨がすっと手を天にかざした。その途端ぴたりと騒めきが止み、皆の視線が残らず燈羨へ釘付けになった。燈羨はゆっくりと壇上に進み出た。

「我が心なる臣よ。この世にただ一人、副帝の称号を授けるにふさわしい者がいる。」

 吸い寄せられるように燈羨を見つめる人々の熱い眼差しを、灯己は眩しいものを見るように見つめた。ただ一挙でまわりの者をひとり残らず惹きつけてしまう天性の帝王たる才を持つこの帝王を、この帝王の御代を終わらせるわけにはいかないのだ。燈羨の美しくよく通る声が、議場に響いた。

「共に王魔の血を受け継ぐ我が弟、晶!」

 どよめきが起こった。

「晶、前へ。」

 燈羨がすっと掌を議場へ差し出した。皆の視線がその掌の差し示した先へ移っていく。視線の先に、晶がいた。

「晶。おいで。」

 若く、燃える目玉を持つその青年の姿に、彰豼は打ち震えた。然氏の下男に副帝を定める噂があると流せ、という灯己からの指示が、この帝弟をここへおびき寄せるためのものだったのだと理解し、然氏に謀反をけしかけたという燈の血族を名乗る者の存在がハッタリではなかったことに、背筋が凍った。謀反も起こさぬうちに取り潰しとなった乾冷の、その意味の重さを今にして実感したのだった。

「弟ですと!?」

 思わず叫んだ木槌が腰を抜かしたように椅子へへたりと身を沈めた。

 晶は怒りの灯る瞳で壇上の燈羨を見上げた。その手を取り、今ここで灰にしてやることだっておれにはできるのだ。体を預けていた扉から背を離し、通路へ歩みを進めた。一歩一歩燈羨へ向かっていくその姿を、皆が驚愕の表情で食い入るように見つめている。あの目、あの赤い目は、と口々に叫ぶ人々を晶は一瞥した。そうだとも、この目をよく見ろ、おまえたちの王の証だ。晶は壇上に上がり、燈羨の前へ進んだ。じっと見つめ合う晶と燈羨を、舞霧と夕凪はまんじりとして身構え、晶が燈羨に触れようものなら身を挺して飛び出す覚悟で、息を殺していた。

「飛都帝国代七代帝王燈峻が子、晶にございます。」

 美しい鐘の響くような晶の声に、人々は溜息を漏らした。皆が茫然と晶と燈羨を見つめる中、我に返ったように再び木槌が立ち上がった。

「お待ちを!お待ちください陛下!その者が副帝など、納得がいきません、どうかご説明を!燈羨様に弟君がおられるなど聞いたことがございません、その者が燈峻帝のお子だと、何の証拠がございますのか!」

 燈羨はちらりと木槌へ冷たい視線を投げた。

「そちにはこの晶の赤き瞳が見えぬか。」

 しかし、と食い下がる木槌へ、燈羨は微笑みかけた。

「この晶に我が王魔が片割れの宿りしことを証明せよと?」

 皆が息をするのも忘れ、燈羨と木槌、そして晶を見守る。燈羨は晶へ向き直ると、声を張り上げた。

「では晶、魂の処刑にてその力、証明するがいい。死刑囚蘭莉の魂をそなたの王魔の炎で焼き消してみよ。」

 議場がどよめきに揺れた。

「晶。魂の消滅を成したとき、我が弟として副帝の権を授けよう。異議のあるものは名乗れ!」

 議場は一転、水を打ったように静まり返った。

「我が盟友にして半身である王魔、そして彼が主なる我が弟よ。我に忠誠を誓い我が最良の僕となり共にこの国を創ってくれるな?」

 晶は呆然とし、ただ、目の前にいる兄を見上げることしかできなった。

「誓いの印を。」

 燈羨の声に、舞霧は壇上の松明の中から火の燃える鉄の棒を取り出し、燈羨に渡した。晶ははっと我に返り、その燃え盛る棒を見上げた。その先には火で熱せられた鉄の印がついている。しまった、と思った時には遅かった。夕凪と舞霧が晶の腕を押さえつけ、片肌を脱がせた。燈羨はその印を掲げると、晶の左肩に押し付けた。強烈な熱と痛みに、晶は仰け反り、声を上げそうになったが、堪えた。肌の焦げる匂いに、議場の人々は顔を顰めた。晶の肌から湯気が立ち、醜く膨れ上がる様に、文官は思わず悲鳴を上げ、帝軍入隊の儀式で見慣れている武官の者も、自らの肉の痛みを思い出し思わず歯を食いしばった。

 双子が晶の肩から手を放した。晶は床に手をつき、何度も呼吸を繰り返し苦痛に耐えた。まんまとやられたのだ。この男の僕である証を刻まれたのだ。憎しみをいっぱいに湛えた瞳で晶が見上げた燈羨は、瞳に涙をいっぱいに溜め、晶を見下ろしていた。

「ごめんね、晶。ありがとう。」

 晶にだけ聞こえる囁きに、晶は奥歯を噛んだ。今だけだ。今は、生かしておいてやる。いつだって、おれは殺せるのだ、おまえを。

「さあ、帝に忠誠のお言葉を。」

 灯己は袖から晶と燈羨を見つめ、その誓を呟いた。

「この身。」

 晶は屈辱の苦悶に耐え、喉の奥から声をひねり出した。

「この身、」

「この体。」

「この体、」

「この命。」

「この命、」

 灯己の唇から零れ落ちる囁きと晶の紡ぎ出す苦痛の叫びが重なる。

「燈羨帝王に忠誠を誓います。」

 議場は歓声に包まれた。同時に、晶と燈羨の目から涙が零れ落ちた。

 袖の義葦は灯己の隣でむっつりと顔を顰め煙草の煙を吐き出した。

「憎しみを招き入れただけじゃねえか。」

 灯己は静かにそれを肯定した。

「今は、そうだ。」

 義葦は横目で灯己を見上げた。

「おめえ、あれをなんとかできると思ってるのか。憎しみを消せるとでも?」

「できやしないさ。おれにはな。」

 義葦、と灯己に呼ばれ、義葦は怪訝に眉を顰めた。じじいではなく義葦と呼ばれるのは何か頼みがあるときだけだ。

「義葦。晶の躾役をやってくれないか。官位はやれないから無位になるが。初代治療長の銘がある、体面はなんとかなるだろう。」

 義葦は溜息と共に煙を吐き出した。

「子育てはもううんざりなんだがな。いい子に育った試しがねえ。」

「晶は元からいい子だ。」

「け、親馬鹿が。」

「おれを人殺しに育てたこと、後悔しているか?」

「そうさな、いいことねえよ、人殺しの親なんざ。」

「だろうな。」

 だから頼みたいんだ、と灯己は義葦をまっすぐに見つめた。

「おめえは二度と、人殺しを育てねえ。だろ?」

 義葦は肩を落とし、煙を吐いた。


 暗い地下牢へ続く階段を降りる足音が鳴るより早く、蘭莉はその芳しい香りに胸が詰まり、思わず涙を落とした。

「蘭莉。」

 美しくよく響くその声は蘭莉の胸を震わせ、蘭莉は最敬礼したまま、顔を上げることができなかった。燈羨は微笑し、蘭莉の牢の鉄格子を握った。

「僕の代になって、高位の妖魔がおまえと双子だけになったことを、誰も訝しがらないのが不思議だったけれど。おまえは僕が奇鬼だと気付いていたのだね?気付いていて、僕を助けてくれていたこと、感謝している。おまえが居なければ、僕はとうの昔に妖魔たちの餌となっていただろう。」

「しかし私は、呪い憑きから帝をお守りすることができませんでした。やすやすと彼の計略に落ち、」

 蘭莉の目に涙が膨れ上がり、溢れて流れた。

「申し訳ございません。」

 燈羨は震える蘭莉の肩に手を伸ばした。

「謝るのは僕の方だ。おまえの無実を知りながら、おまえを刑に掛けなければならない。」

「致し方ないことにございます。あれが神言反呪でないことが証明された今、私の罪でないと証明する術はございません。」

「おまえの死を、僕は決して無駄にしない。蘭莉。僕は必ず、この呪われた燈一族の憎しみの輪を断ち切ってみせる。」

「そのためにこの命を捧げられること、幸せに存じます。」

「蘭莉、顔を上げて。おまえの顔をよく見せておくれ。」

 顔を上げた蘭莉の頬に、燈羨はそっと触れ、その凹凸の形を指で覚えるように何度も撫でた。

「祖王を助けこの帝国を作り、初代からよく務めてくれた。帝軍の宝だ。ありがとう。」

 頬に触れる燈羨の手を蘭莉は恭しく握り、額に掲げた。

「さようなら。」

 燈羨の指が蘭莉の指先を離れた。遠ざかる足音の優雅な歩調を聞きながら蘭莉は、目を瞑ればありありと脳裏に蘇る、美しい刺繍に覆われた靴、その靴に包まれた白く細い燈羨の足首を思った。いつも燈羨の傍に跪いていた蘭莉の目前には、燈羨の美しい足があった。燈羨の残した香りを胸に抱こうと息を吸った蘭莉は、僅かに混じる異臭に、ゆっくりと瞼を上げた。

「美しい主従愛ですこと。」

 暗い闇の中に、金の目玉が転がっていた。

「美しい主従愛で結ばれた帝王の手足を手折るのが私の楽しみでしたのに、あなたを手折ることになるとは。」

 金の目玉からグレイスの人型が出来上がっていく様を、蘭莉は表情を変えずに見つめた。

「勇敢なる我が兄弟よ。飛都でのお遊戯は楽しかったですか?自らの命を絶やすまでめり込むとはみっともないこと。」

「みっともないのはあなただ、いつまでも愛されなかった未練を引き摺って、己が作り上げた世界を己が手で不幸にするなど、神の成すことか。」

「あなたが神苑を捨て妖魔に身を窶し、こうして命を捧げるほどの価値が、この世界にはあったのですか?」

「あなたの作った世界は美しかった。だが、あなたの目にはもう見えることはない、この世界の美しさが。」

「ならばあなたが何を見て来たのか、私に見せてくださいな。死にゆくあなたがその目に見たもの、形見に私がもらいましょう。」

 グレイスは蘭莉の顔へ指を伸ばし、目玉を抉り取った。グレイス長い指に挟まれた蘭莉の黒い目玉は、空気に触れた瞬間に金へ変わった。宇宙の闇のような漆黒が、蘭莉の眼窩にあった。

「いつか必ず、あなたを消し去る者が現れる。」

 グレイスはうっとりと、蘭莉の金の瞳を松明の明かりに透かしてみせた。

「皆、私から去っていく。私を滅ぼそうとも私を求める者が現れるなら、嬉しいこと。」

 グレイスは自らの片目の空洞に蘭莉の目玉を填めた。その途端、この世の創生から今に至るすべての蘭莉の記憶が金の瞳の中に次から次へと溢れて流れた。そのあまりの美しさに、グレイスは甘い嘆息を漏らした。我に返った時、グレイスは処刑場にいた。今正に、蘭莉の処刑が始まろうとしていた。

 鎖に繋がれた蘭莉の前に立つ晶を、五位以上の文官とすべての武官が息固唾を飲んで見つめていた。晶の赤い瞳に火花が散り、晶の体から黒い靄が立った。一瞬にして晶の体が炎に包まれ、観衆からどよめきが起こった。

 炎の燃え盛る掌を、晶は蘭莉の胸に押し充てた。ごおっと炎が立ち、蘭莉の体が炎の中に消えた。すべての観衆が息を飲んだ。それはあっと言う間の出来事だった。蘭莉の姿は灰も残らず消えた。

 地鳴りのような歓声が沸き起こった。蘭莉の一度も怯むことの無かった勇壮な死に様と帝弟の強大な力に、武官は涙を流しながら一糸乱れぬ所作で敬礼した。

 体から火が引くと晶はがくりと膝をつき、荒い呼吸を整えようと必死に肩で息をしながら、壇上奥の燈羨を顧みた。燈羨は頷き、立ち上がった。そして、晶に拍手を送った。次々と文官たちが立ち上がり、拍手に包まれる処刑場で、グレイスは一人、ぼんやりと蘭莉の消滅した空間を見つめていた。

「蘭莉よ。命をかけるほどにこの世界を愛したあなた。愛とは何です?あなたの見てきた世界を覗いても、私にはわからない。私は厄災。呪いの塊。」

 グレイスは観衆に背を向け、処刑場を出た。これまでに感じたことのない倦怠感に覆われていた。ずるずると体を引き摺るようにして千城郊外を過ぎ、雨州を超え、冷州へ入った。乾冷州の荒涼とした原野に、グレイスは立った。取り潰された然氏の領地は燈家が領地とし、無数の墓となっていた。

「興醒めですよ、晶。あなた方には血の滴る悪夢がお似合いなのです。殺し合ってこそ燈一族。もっと血を。もっともっと血を。もっと、悔いを。もっともっと憎しみを。」

 グレイスは荒涼とした墓場に蹲り、土の中に手を入れた。ずるり、と引き摺り出した手に掴んだ死霊へ、にこりと微笑みかけた。


 黄雲殿の紅雀の室に晶は居た。今にも吐きそうな気持の悪さに耐えながら、晶は背を丸め、寝椅子の足元に蹲っていた。

「へえ、紅雀の室をもらったとはねえ、正式に認められたってことよ、帝王の一族だってな。」

 しゃがれた声に振り向くと、くしゃくしゃで皺だらけの小柄な老人が部屋の中に居た。

「勝手に入ってこないでください。」

「躾役は勝手に入ってもいいんだ。」

 躾役が欲しいなんて言ってない、と晶は吐き気に耐えながら呟いた。

「躾役がいるのは貴族の中でも四位以上の御令息御令嬢だけだ、誇りに思った方がいい。」

「知ってるけど。」

 躾役になれるのは専門の教育を受けた者だけだ。この老人がそれをやってきたとは到底思えなかった。晶の疑念に満ちた視線を受け、老人が宥めるように頷いた。

「おれが誰だか知らねえのかい?あんたの師匠の師匠はおれだよ。」

「知ってるけど。」

 灯己の瞳の中の記憶を見せられた時、この老人の姿を見た。義葦という名であることは雨寂から聞いていた。

「だからなんだっていうの?」

 晶の険のある態度を面白がるように、義葦はにやにやと笑いながら晶の顔を覗いた。

「ずいぶん青い顔してるじゃねえか。ふん、そんなに怖かったか、魂の処刑は。」

 晶はじろりと義葦を睨んだ。

「初めてにしちゃよくやったよ。まあ、初めても何も、人生でそう何回もやることじゃねえが。歴代の王でもあれをやったやつは二人しかいねえ。」

 義葦は片眉を上げ、鼻を鳴らした。

「別にやらなくったってよかったんだぜ?おめえにはやらねえという選択肢もあったんだ。あれをやらねえで帝王の正体を暴くっていうやり方だってな。だが、おめえはやることを選んだ。あの王に、弟と認められる方を選んだ。」

 晶は反論しようと口を開けたが、せり上がった胃液が口いっぱいに広がり、慌てて口元を押えた。義葦は呆れたように息を吐いた。

「薬飲め、楽になるから。」

「いい。」

「痩せ我慢すんな。王の仕事は体が資本だぜ。今まで体の弱い王の御代が長続きした試しがあるか?体の弱い燈羨帝が四年も帝王やってるなんて奇跡みてえなもんだが、あれはまわりに恵まれてるからできてることだ。おめえには、誰もいねえ。おめえが潰れても、助けてくれる臣下はいねえんだ。今はおめえ自身が強くなるしかねえ。」

 義葦は懐からいくつか小袋と小鉢を取り出し手早く調剤すると小鉢を晶に差し出した。

「ほら、飲みな。」

 晶は体を起こし、渋々小鉢を受け取ると、口の中に薬を落とした。そのあまりの不味さに、また吐きそうになったが、義葦に力ずくで口を押えられ、どうにか飲み込んだ。晶はしばらく身悶えていたが、やがて静かになり、ぐったりと寝台に横になった。

「ちいせえ頃の灯己もよくその薬を飲んでたよ。不味い不味い言いながらな。あれも初めて人を殺したときは震えが止まらなかったもんだ。」

 いくらか表情が和らぎ、目を閉じた晶が眠りに落ちたのを見届け、義葦は紅雀の室を出た。黄雲殿はひっそりとし、ひとの気配は皆無だった。扉番もいねえのか、と義葦は悪態を吐いたが、思い返せばどの時代も、春宮とはこのように冷遇されていたのだ。紫宝宮の鳥籠に入れられるか、そうでなければ、この閑散とした黄雲殿で外との人付き合いを一切許されず、躾役とたった二人きりで譲位されるその時まで過ごすのだ。帝から愛されていた羨ですらその慣例に従い、孤独な幼年期を送った。ただ違ったのはあの口やかましい双子女官がいたことだろう、と義葦は少し笑った。燈峻帝が奇鬼の羨を妖魔から守るため、悪食の噂高い双子を世話役に付けたのだろうが、口うるさい女官がいたことは羨にとって僥倖だったのだ。あの双子がいなければ今の燈羨は存在しなかっただろう。はたしておれが煌玄様とあの双子の役割を果たせるだろうか、と義葦は思案しながら黄雲殿の廊下を歩いた。

 その頃、義葦の思案を知る由もない晶は、体の骨を舐めるような焔鷙の不穏な騒めきに、目を開けた。寝台を降り、窓へ駆け寄った晶は、ぎょっとして目を見開いた。乾冷州の方角から数百の死霊の魂が空に浮かび、吸い寄せられるように北の禁域へ向かって列を成している。晶は外套を羽織り、窓から外へ降りると、北の禁域へ走った。紫宝宮へたどり着いた晶は膝に手を着いて息を整えた。無数の魂が列を成し紫宝宮へ入って行く。晶は意を決し紫宝宮の中へ足を踏み入れた。湿った埃の匂いが、鳥籠の牢の記憶をいとも容易く鮮やかに呼び起こし、体が冷たくなっていく。魂の進む廊下をたどっていくと、地下へ続く階段へ続いていた。晶は階段を下った。階段を降りるとその先には石造りの長い廊下があり、進んでいくと奥に明かりが見えた。恐る恐る近づいた晶は、灯りの傍らに人影を見定め、走り出した。

「刹来!」

 扉の傍らで揺り椅子に腰かけ、ぼんやりとした表情で蝋燭を持つのは、刹季だった。

「刹季!ずっとここにいたの?ねえ、刹季。」

 刹来は心ここにあらずという様子で、ぶつぶつと何か呟きながら揺れ続けた。石の扉が鈍い音を立て開いた。晶が顔を上げると、扉の奥にグレイスがいた。グレイスはつまらないものを見るように、刹来に縋り付く晶を一瞥した。

「お懐かしい再会ですか。ああ、そうです、ここは、あなたのお生まれになった場所でしたわねえ。」

 グレイスは刹来を指差し、それは、と言った。

「それはもう耳も聞こえなくなりましてね。ですがどうしても鍵を放さないので、ただ、この日のためだけに置いておいたのです。いらっしゃい、晶。」

 晶は躊躇いつつも刹来の手を放し丁寧に膝に置いた。グレイスのあとに続き、恐る恐る石造りの扉の中へ入った。

「ご覧なさいな。」

 グレイスが指し示したのは石造りの部屋の中央に設えた祭壇だった。祭壇の中央には棺が祀られ、硝子の棺の中にはひとりの女が眠っていた。吸い込まれるように次々とその女の体へ死霊の魂が入って行く。

「この魂は?」

 晶の問いに、グレイスは、乾冷の墓です、と答えた。

「取り潰された乾冷州の豪族、自害した白山の信者、羅梓依に殺された民衆。皆あの土地に埋められました。燈羨に恨みを抱く者達ですよ。」

 魂が吸い込まれていくごとに、屍のようだった棺の中の女の肌が、だんだんと血の色を帯びていく。魂の列の最後のひとつが体内へ吸い込まれたとき、女の唇が赤く色づいた。グレイスは棺に歩み寄ると硝子の蓋を取った。

「お目覚め伺い申し上げます、陛下。」

 グレイスの声に、女が瞼を上げた。

「こうして再びお会いできることをお待ち申し上げておりました。」

 差し出されたグレイスの白い手に女は小さな手を重ね、液体の満ちた棺の中から体を起こした。

「遅い、愚臣め。」

 グレイスは笑みを漏らし、お変わりなく、と跪いた。女の死人のような目玉がちらりと晶に向けられ、晶は背がぞくりと冷えるのを感じた。

「峻様が次男、晶様にございます。」

 グレイスが晶を紹介したが女は興味を示さず、長い髪をばさりと払い立ち上がった。グレイスが晶に向き直り、微笑んだ。

「飛都帝国第六代帝王、阿陀良様にあらせられます。」

 晶は水の滴る阿陀良を見上げた。その高圧的な威風に思わず膝を折り、無意識のうちに頭を下げていた。阿陀良はグレイスに一瞥を向けた。

「寒いの。今はいつじゃ。」

「燈羨様が御代にて。」

「我が世は常春であったな?」

「さよう。」

「早う、春にせい。」

「仰せの儘に。」

 晶は呆然と二人のやりとりを見つめていた。一体何が始まるのか、何をしようとしているのか。晶の疑念を読み取ったように、グレイスが微笑みを湛えながら晶を顧みた。

「憎しみ合うのですよ。」

 さあ、とグレイスが白い手を晶へ差し出した。

「殺し合いましょう。晶様。」

「生き返ったの?」

 晶の問いに、グレイスは首を振った。

「阿陀良様は死んでいなかったのです。私は紫玉楴との約束を違えていないのですよ。」

 仄暗い金の目を細め、グレイスは笑った。

「ですから、灯己様は不幸にならなくてはいけません。」


 廊下を忙しなく行き交う足音に、煌玄は目を覚ました。夜明け前の薄暗い部屋で、煌玄は外套を羽織り剣を取った。丁度その時、扉が叩かれ、軍士が声を張り上げた。

「煌玄様に申し上げます!諜報組より報告有り、三一全ての豪族氏族が一斉に蜂起、千城へ進軍を開始したとのこと!」

 煌玄は勢いよく扉を開け、伝令の軍士に女官長をすぐに帝の寝所へ向かわせるよう言いつけると、自らは武官広場に聳え立つ見張り塔へ急いだ。見張り塔の階段を上り切ると、その頂上にはすでに灯己がいた。灯己は振り向かず、夜明け前の飛都帝国を見つめていた。煌玄は灯己の傍らに進み、同じ方角へ視線を向けた。

 地平線から朝日が昇り、ゆっくりと帝国が光に包まれていく。飛都全土が光に照らされた時、二人は息を飲んだ。

 飛都帝国の全方位に、無数の赤い大きな旗が掲げられていた。赤い旗に記された黄金の陀の文字が朝陽を反射し、煌いて揺れる。


 中街松江の二階の座敷で寝ていた達は雨寂に軽く蹴飛ばされ目覚めた。

「おい、起きろ達!」

「え?何?何?」

 寝ぼけ戸惑う達を、雨寂は引き摺り三階へ上がった。

「待って、何?何?何?」

 雨寂は三階の窓の欄干からひょいと屋根に上り、同じことをやれと達に示した。達は眠い目を擦りながら、無理、と言った。雨寂は舌打ちし、上から達の脇の下に手を入れると事もなげに達の体を持ち上げた。この細身の料理人の腕のどこにこれほどの筋力が隠されているのか、達は目を瞠った。いっぺんに目が覚めると同時に、達の体は勢い余り屋根の上に転がった。

「軽すぎんな、おめえは。」

 雨寂は少し笑ったが、すぐに笑みを引っ込め、見ろ、と顎をしゃくった。達は目の前の瓦から宙へ視線を向けた。千城の城壁を囲む赤い旗が、ずっと遠くまで続いている。

「何?何かお祭り?」

「おめえ、違うってわかって言ってんだろ。」

 達は口を閉じ、風にはためく無数の旗を見つめた。今までに見たことのないその異様な光景は、明らかに不穏な意志を孕んでいた。

「赤い旗は、燈一族の旗だ。燈一族だけだよ、使っていいのは。それを他の氏族が使うってことが、どういうことか。」

 言葉を切った雨寂に、達は眼差しで問いかけた。雨寂は躊躇したその言葉を、観念したように口にした。

「反逆だ。取って代わるって意思表示だ。昔からそうだ。」

 達はぽかんと口を開け、旗を見、雨寂を見、また旗を見、雨寂を見た。

「いや、いやいやいや、だって、この間乾冷のでかい豪族が謀反して潰されたばっかりじゃないの、ねえ?どこの馬鹿が燈羨に歯向かおうなんて。」

 達は笑おうとしたが、張りつめた雨寂の顔に釣られるように、笑えなくなった。達は改めて千城を取り囲む旗を見渡した。あまりに多く、数えることができない。

「ねえ、これさ、全部いるんじゃない?全部の豪族いるんじゃないの?何でみんな同じ旗持ってんの?何て書いてあるの?」

 だ、と雨寂は答えた。

「ダ?」

「この飛都で、陀って言ったら一人しかいない。阿陀良だ。」


 無数にはためく陀の旗を見つめる灯己と煌玄の立つ見張り塔の階段を駆け上がる足音と共に、伝令の軍士が声を張り上げた。

「申し上げます!」

 息を切らしながら頂上へ辿り着いた伝令が二人の元へ跪いた。

「三十一の豪族は阿陀良様を擁立し連合を組み、燈羨帝の退位を要求しているとのこと!」

「阿陀良帝を擁立だと?どういうことだ?まさか、蘇ったとでも?」

 煌玄の問いに、伝令の軍士は、わかりませぬ、と首を振った。灯己は伝令を振り返らずに城壁を見つめていた。

「燈羨帝は速やかに退位し、帝位を副帝である燈晶公へ譲らなければ武力を行使すると。」

「晶様を?晶様はどうされているのだ?」

「それが、お姿が見えませぬ。」

 灯己は北の城壁に集まった群衆が掲げる最も大きな旗を見つめていた。

「晶なら、あそこだ。」

 灯己の指が示す先を、煌玄と伝令が身を乗り出し凝視した。晶の後姿が大きな旗の下へ消えた。しばらくして再び姿を現した晶は、旗の下に膝を折り、手を掲げた。晶の差し出した手を、小さな手が握った。灯己は逸る心臓に手を添え、襲い来る眩暈に耐えた。赤い旗の下から現れたのは紛れもなく阿陀良だった。北の城壁に集まった数千の豪志が一斉に膝を折り、頭を垂れた。そうせずにはいられない神々しさが阿陀良から放たれていた。阿陀良が見張り塔を見上げた。灯己は震える手を握り、その視線を受け止めた。

「我を支えし氏族の者よ。」

 阿陀良の声は城壁を超え千城内へ響き渡った。

「我が弟、燈峻の血を継ぐ者は燈羨にあらず。彼の者は奇鬼なり!」

 豪族たちは騒然となり、城外の物々しさに聞き耳を立てていた千城の住民たちは皆顔を見合わせ、首を振り、青褪め、一瞬のうちに混乱に陥った。

「正統なる帝、燈晶(としょう)を奉じよ、偽りの帝を討て!」

 阿陀良の号令に豪族たちが一斉に雄叫びを上げ、千城は轟きに包まれた。


 びりびりと肌を震撼させる豪族たちの雄叫びに、屋根の上の達は思わず耳を塞いだ。豪族たちの号令は何度も繰り返され、達は耐えきれずに屋根から三階の座敷へ滑り込んだ。

「雨寂さん、店開ける準備しようぜ。」

「いやそれどころじゃねえだろうよ。」

 達を追いかけ座敷に滑り込んだ雨寂は、達の背を怪訝に見つめた。

「おめえ、まさか、知ってたのか?帝王が奇鬼だって。」

 達は雨寂に背を向けたまま、まあ、と曖昧に答えた。どんな顔をすればいいのかわからなかった。

「ひとだろうが妖魔だろうが奇鬼だろうが燈羨は燈羨だ。」

「そうはいかねえよ、この飛都では。」

 不意に窓の外が騒がしくなり、二人は引きつけられるようにして窓辺へ寄った。声高に何か叫びながら、人々がぞろぞろと列を成し千城へ向かっていた。達と雨寂は顔を見合わせ、転げ落ちるように階段を駆け下り、店の外へ飛び出した。

 人々の背を追い千城宮の大門へ辿り着いた二人が見たものは、大門に群がる千を超える市民だった。軍士達が門前で民衆を必死に押し留めているが、皆喚きながら門へ入ろうと手を伸ばしている。二人はぼんやりとその様子を眺めていたが、不意に民衆が将棋倒しに先方へ倒れ込み、思わず声を上げた。門が内へ開いたのだ。そこには、夕凪が立っていた。群衆の中から、女官長一位様だ、と声が上がった。

「同族食いの!」

 誰かが叫んだ言葉に、その意味を知る妖魔たちは顔を引きつらせ、逃げ腰になる者もいた。しかし夕凪は表情を変えずに、すっと半身を引き、腕を門の内側へ開いた。

「千城の皆様、どうぞ、帝の謁見の間へご案内致します。」

 群衆がしんと静まり返り、達と雨寂は顔を見合わせた。帝王が民衆に会うと言っているのだ、夕凪は。それを理解するのに、千城の民はしばし時間を要した。それほどに、あり得ないことだった。

「帝王が、我々にお会い下さるのか!?」

「まさか、貴族だって五位以上の者しか拝謁できないんだぞ。」

 騒めき、感動する民衆を黙らせるように、ひとりの男が声を上げた。

「偽りの王であれば、そんなもの関係ない!」

 ぎょっとしたように、人々は顔を見合わせた。そうだ、そうだ、と声が上がった。

「そうだそうだ。王でも何でもない。」

「謁見の間というなら卷獣の間だ、正義の審判、虎巻・巻豼の、偽りの王ならば一瞬で石獣の餌よ!」

「見よう、見よう、我々を騙していた嘘つきが、魔物に食われる様を!」

 夕凪はまるで耳が聞こえなくなったかのように、罵詈雑言に顔色一つ変えず、どうぞおいでなさいまし、と言った。そうして身を翻し、意気揚々と門を潜る民衆を引き連れ大階段を上って行った。達と雨寂は群衆の最後尾につき、門を潜った。


 毛足の長い上等な絨毯の敷かれた廊下を、燈羨は足早に歩いていく。その後ろ姿を煌玄、舞霧が追った。

「燈羨様、本当に卷獣の間でなさるのですか?」

「ああ。あそこでやらなければ意味が無い。」

 煌玄の問いに、燈羨は振り返らずに答えた。振り返らずとも、煌玄には、燈羨の顔が青褪めていることがわかる。しかし、と言葉を継いだ煌玄を、燈羨は制した。

「あの阿陀良でさえも、全ての謁見をあの場所でやった。あの暴君阿陀良が帝王と認められていたのは、卷獣の間の玉座に座ることができたからだ。」

 燈羨は卷獣の間の扉の前に立った。

「僕は、ずっと認められないことを恐れていた。だって僕は偽物だから。」

 冷たく固くなっていく体を燈羨は自ら抱いた。その手が震えている。

「僕が偽りの王であると石獣が判断すれば、僕が玉座に座ったその瞬間に、僕は彼らに食い殺される。もし僕がそうなったら、すぐにみなで晶に頭を下げるんだよ。いいね?晶と戦うことを選ぶことは許さないよ。」

 燈羨は大きく息を吸い、扉を開けた。大広間に敷き詰められた赤い絨毯の先で、玉座の両脇に蹲る虎巻・巻豼の二頭の石獣がぎょろりと燈羨を見た。それを合図に、玉座の下に青い顔で毅然と控えていた夕凪がはっとして立ち上がると、絨毯の両脇を埋めつくす民衆が一斉に扉を振り向いた。燈羨は生まれて初めて、その謁見の間へ足を踏み出した。

 天上一面の天窓から降り注ぐ光の中を進む燈羨の姿を、罵声を浴びせようと待ち構えていた人々がは皆ぽかんと口を開け見つめていた。先ほどまで青褪めていた燈羨の頬は光を纏うように薔薇色に輝き、歩みは堂々と毛足の長い絨毯を踏んでいく。民衆は皆、初めて見る帝王燈羨から惜しみなく放たれる、生まれながらの気品と貫録、美しさに見惚れていた。誰もが、彼を非難するなどということは思い出しもしなかった。

 玉座の前へ辿り着いた燈羨はばさりとマントを払い、民衆へ向き直った。煌玄と舞霧も玉座の下へ控え、夕凪と共に跪いた。

「飛都帝国第八代帝王、燈羨である。」

 美しい声が広間に響き、人々の胸を震わせた。

 燈羨は玉座に腰を下ろした。煌玄、夕凪、舞霧は固唾を飲み、石獣を盗み見た。虎巻・巻豼の目が、じろりと燈羨を見つめ、頷くようにして瞼を閉じた。謁見の間はどよめきに揺れた。

「審判の石獣がお認めになった!」

 煌玄の額から汗が落ち、双子の目に涙が溢れた。

「では奇鬼というのははやり嘘か。」

「そうだ、奇鬼が王になれるわけがない!」

「豪族どもが流したデマだ。」

「なんという侮辱を。」

 騒めきの中、燈羨は立ち上がった。それだけで、一斉に皆が口を閉じ、吸い寄せられるように燈羨を見つめた。

「僕は奇鬼だ。」

 全ての者が息を止めたように、一切の音が無くなった。

「なぜ、奇鬼の僕が帝王であるのか。」

 燈羨はこの広間に集まった全員へ直接語り掛けるように、ゆっくりと視線を移していく。

「僕が燈一族の王であるのは、父がそれを望んだからだ。それだけだと、ずっと思っていた。」

 千城の民は食い入るように燈羨を見つめた。

「だが、僕が千城の王であるのは、千城の臣が僕を守ってくれているからだ。僕が飛都の王であるのは、この飛都に民が生きているからだ。皆がいなければ、僕は帝王たりえない。」

 燈羨はすっと膝を折った。

「感謝する。」

 再びどよめきが起こった。そうせずにはいられないというように、皆が膝を折り、頭を床にこすりつけた。達の他のすべての民が、燈羨に跪いていた。達は顔を上げ、最後列で皆が燈羨に跪く様を見渡していた。体の芯がびりびりと震えていた。胸が熱くてたまらなかった。涙が滲んだ。燈羨は言葉を続けた。

「僕は、かつて弟を虐げた。その報いは、必ず受けなければならない。僕一人の咎だ。僕はこれから燈晶の元へ行く。七日、待っていてほしい。七日して僕が戻らないとき、僕は死んでいるだろう。だが、僕はあなたたちの誰一人として、僕のせいで死なせはしない、約束する。僕は、飛都を愛している。」

 皆、静かな感動が胸を満たし、頭を上げることができなかった。燈羨は玉座を降り、赤い絨毯の長い毛足を踏み、扉へ向かって歩き出した。皆が平服し続ける中、達が立ち上がった。

「死んじゃだめだ。」

 燈羨は達の顔を見つめると一度だけ瞬きをし、達の横を通り過ぎた。燈羨を吸い込むように扉が開き、そして閉まった。

 跪く夕凪と舞霧の目から涙が落ちた。煌玄は涙を拭き、立ち上がると声を張り上げた。

「全千城市民へ告ぐ。これより帝がお戻りになるまでの七日間、全市民をこの千城で保護致す。皆家族を連れ、今夜までにこの城へ戻るように!全軍士は千城、千城宮の警備へ、ただちに配置せよ!」

 燈羨は背後に煌玄の大声を聞きながら微笑んだ。扉に体を預けたその体は震え、先ほどまで薔薇色に輝いていた頬は血の気が失せている。燈羨の足元に義葦が膝を折った。

「ご立派にございました。」

 燈羨は頷き、廊下の壁に視線を向けた。壁に凭れ腕を組んでいた灯己は腕を解くと、燈羨の視線を受け止めた。

「行こう。」

 燈羨のその力強い言葉に、灯己は、ああ、と答えた。

 灯己と義葦と燈羨は連れ立ち、千城の大門を出た。するとそこには彰豼が膝を折り待っていた。燈羨の姿を見ると彰豼は軍式の最敬礼をし、燈羨を迎えた。

「申し訳ございません!このようなことになるなど、我が諜報組が至らず、」

 燈羨は跪く彰豼の後頭部に手を置いた。彰豼は驚き、身を固くした。

「帝軍の士官学校教育は恐ろしい。僕が奇鬼と知って、反旗を翻す帝軍士が一人もいないとは。幸運としか言いようがない、僕は。」

 彰豼は溢れ出る涙を拭い、更に頭を垂れた。

「ご無事のお帰りをお待ち申し上げます。」

「いいかい、連合軍に弓を引いてはいけないよ。彼らも、飛都の民だ。」

「は。」

「彰豼。顔を上げて。」

 彰豼は戸惑いながら顔を上げた。

「許嫁のことは、すまなかった。」

 彰豼は目を瞠り、ぽかんと口を開け、美しい帝を見上げた。

「どうか、君には心から愛する者と添い遂げてほしい。」

 彰豼は慌てて最敬礼をし直すと、声を張り上げた。

「ありがたき幸せ!」

 彰豼の大声に灯己は仰け反り耳を塞いだが、燈羨は微笑み、言葉を継いだ。

「彰豼。もし僕が帰らぬ時は、どうか、晶を導いてくれ、良き王となるよう。」

 彰豼はぐっと頭を下げ、燈羨の美しい装飾に彩られた靴が遠ざかっていくのを見つめていた。


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