3幕 三人の王 5
グレイスの去った議場は時が動き出し、燈羨は呆然と神苑信者の折り重なる屍を見つめていた。煌玄が走り寄り、燈羨の体を支えた。
「弥杜徽の死体がない。」
我に返った麗威は燈羨の前に歩み寄り、跪いた。
「あれは弥杜徽様ではございません。」
確かに弥杜徽の顔をしていた。しかし、あれが羅梓依の牢で出会った眼帯の男だと、麗威にはわかった。
「あれは弥杜徽の顔をしたまったく別の人間だと言うのだろう?羅梓依の時と同じだ。ならば本当の弥杜徽はもう死んでいるのだ。そうだな?」
麗威は頷いた。
「麗威、すぐに神式官一位に白山行きを命じてくれ。それから煌玄、この国のすべての神苑信者の家に使者を送れ。きっと、全員死んでいる。」
一体なぜあの男が命を捨ててまでこの身を助けてくれたのか、麗威はわからなかった。しかしあの男がこの国から信仰を根絶しにしたことは疑いようがなかった。数千人いる神苑信者をひとりで斬り殺したのか、それとも弥杜徽になりすまし自殺を説得したのか、方法は皆目見当がつかないが、あの男はそれをやってのけた。今まで当たり前のように心に存在していた信仰が、ひとりの男により消し去られた。麗威は宙に投げ出されたように、何も掴むことのできないことに恐怖を感じた。しかし、同時に、あの男への強い憧れが心を支配していくことを止められなかった。
「麗威、行きましょう。」
煌玄に促され、麗威は煌玄と共に議場をあとにした。
壇上で身を起こした達に義葦が駆け寄った。
「何だ?何がどうなったんだ?」
「やっぱりカラスだった。」
「あ?」
「見ただろ、カラスが来て、信者をみんな殺して自殺した。」
達は立ち上がり、燈羨に歩みを進めた。軍士達が慌て、燈羨の前に立ちはだかったが、燈羨は構えを解くよう軍士達に手を振った。
「いい。これは灯己の配下だ。」
戸惑いつつ警戒を解く軍士達に、燈羨は死体を運び出すよう命じ、護衛から外した。燈羨の言葉に、軍士達は死体の運び出しに取り掛かった。
「燈羨。」
帝王を呼び捨てにする達に、軍士達が揃って鋭い視線を投げたが、燈羨は、気にするな、というように目くばせし、軍士達を議場から送り出した。議場には燈羨と達と義葦だけが残された。
「晶が来たよ。」
燈羨はゆっくりと達へ視線を移した。
「灯己が追っていったけど、帰ってこない。殺し合いを始めたかもしれない。」
「そうなったとして、灯己が死ぬはずない。」
「そうだね。でも、晶は死ぬかもしれないよ。灯己が、殺すかもしれない。」
達の強い眼差しを、燈羨は怪訝に見返した。
「あんた、灯己の心がわかるんだろう?わかっていて、灯己に晶を殺させるの?灯己がどんだけすごい王の器だとしても、灯己の王はあんただ。王が、家臣を不幸にするのか?それが王か?」
義葦の固い拳に後頭部を叩かれ、達は頭を抱えた。
「いてえな!」
達は義葦を振り返った。
「アル人だからって何でも言っていいと思うな。」
文句を言い合う達と義葦の横を、燈羨は通り過ぎ、議場の扉を開けた。
「帝王、どちらへ?」
「二人のところ。二人が行くところなんか一つしかないだろう?」
達と義葦は顔を見合わせた。ぽかんとしている二人を顧み、燈羨は息を吐いた。
「あの二人が生まれた場所だよ。北の禁域。」
紫宝宮の丘で、晶は足を止め追って来た灯己を振り返った。二人はしばらく黙ったまま見つめ合った。沈黙を破ったのは晶だった。
「あの時、あの鳥籠で、師姉がおれに手を差し出したのは、師姉がおれを求めていたからです。」
灯己はじっと晶の赤い瞳を見つめた。
「師姉に必要なのはおれです。わかっているでしょう?」
「そうだ。」
灯己の言葉に口を開いた晶を、灯己は目で制した。
「だが、それはこの国には関係のないことだ。おれがどんなにおまえを求めようと、この国の帝王は燈羨だ。おまえじゃない。」
晶は首を振った。
「師姉にはわかるはずでしょう。いいや、師姉にしかわからない。おれがこの場所で受けた苦しみ。真の王が、偽りの王に虐げられる屈辱が、どれほどのものか。」
「わかるよ。わかる。おまえの悲しみが、おれにはわかる。この世でこの悲しみをわかりえ合えるのはおれとおまえだけだ。」
灯己は目を瞑った。眉根に深い皺を寄せ、灯己は目を開いた。その目で、真っ直ぐに晶を見つめた。
「この悲しみをここで止めることができるのも、おまえとおれだけだ。晶。」
灯己は草の上に膝を折った。
「燈羨を、許してくれ。お願いだ、晶。」
晶の足元からぐつぐつと土が煮え立ち、灯己の膝が触れる地が熱を増していく。
「なぜ?どうしてそんなことが言えるの?そんなに、あれのことが好きなの?」
「そうだ。」
「あれがどれだけのことをおれにしてきたか知っていて、それでもあれが好きだと言うの!?どうして!!師姉、あなたの半身はおれなんですよ、あなたが取り戻すべきはおれなんです、あなたが選ばなければならないのはおれです、おれを選ばなければ、あなたは満たされない、絶対に!」
師姉、と晶の美しい声が灯己を呼んだ。目の前に差し出された手を、灯己は見上げた。
「おれの手を、取ってください。師姉。おれの手を取りさえすればいい。共に、この国の真の王に。」
灯己は自らの掌を見つめ、首を横に振った。
「だめだ。おまえは、飛都の王になるべきではない。」
「何で、」
「おれもだよ、晶。」
晶はびくりと体を揺らし、差し出した手を引いた。
「殺して奪うことを選んだ王を、真の王と呼べるか?」
灯己は立ち上がり、晶を見つめた。
「おれは、おれを虐げた母を、結果的に殺した。後悔しているんだ。とても後悔している。」
「結果論だ。やらなければ、あなただって今も憎しみを増殖させ続けていた、そうに決まっている。恨みは晴らさなければ消えることはない。」
「晶。」
懸命に首を振る晶に、灯己は歩み寄った。かつて身を折り撫でていた晶の頭は今や灯己に並び、灯己は手をほんの少し伸ばすだけで晶の頬に触れることができた。
「違うんだよ、晶。許してさえいえれば、この苦しみを知らずに済んだ。」
「おれは、あなたに憧れてきた。」
頬に触れる灯己の手に、晶は己が手を重ねた。
「あなたの体に染みついたその後悔さえも、おれには尊い。あなたがそうしたというなら、あなたの舐めた辛苦をおれも舐めたい。」
晶は灯己の手を強く握った。
「おれは、燈羨を殺すことができる。あなたが母親を殺したように。憎しみをこの手で、殺したい、殺さなければ、おれは生きてゆけない。」
晶の透き通った紅玉のような瞳が赤黒く濁り、火花が散った。体からゆらりと黒い陽炎が昇った。
「おれがおれであるために、この憎しみがおれを生かす。おれは、燈羨を殺す。」
灯己は息を飲んだ。ごおっと音を立て、一瞬にして晶は炎に包まれた。炎は大きな鳥となり、羽ばたいては火の粉を散らす。
「晶!やめろ!」
繋がれた晶の手から灯己の体へ熱が伝わり、体に宿る炎鷲の血が晶の焔鷙の焔に呼応し騒ぎ出す。灯己は必死にその衝動に耐えた。
「炎鷲、だめだ、出てきては、焔鷙に応えてはだめだ!」
炎鷲の外へ出たい欲求に抗えず、灯己は瞳が熱を帯びるのを感じた。油が体へ染み広がっていく。目から火花が散り、肌が炎に包まれた。灯己の肌から燃え上がった炎は大きく羽ばたき、晶の炎を受け止め跳ね上げた。
北の禁域の丘の上、夕闇に燃え上がった大きな二羽の火の鳥を、グレイスは目を細め見つめていた。
「かつて比翼の鳥としてひとつの命に二つの心を宿したこの世の覇王が、こうして別の魂に宿り爪を向け合うなどと、誰が想像したでしょうね。」
二人の力は拮抗し、攻撃はぶつかり合い、周りの木々を燃やしどんどん火が燃え広がっていく。対峙するほどに炎は燃え上がり、互いの力が互いの力を引き出し歯止めが利かなくなっていく様子を、グレイスは面白そうに見つめた。近づいてくる足音に背を向けたまま、グレイスは口を開いた。
「お久しぶりですわね。灯己を預けたあの夜以来でしょうか、義梁丈。お変わりなく。」
北の禁域の丘に辿り着いた燈羨と達と義葦が見たものは、煌々と燃え上がる二羽の火の鳥と、その炎に照らされたグレイスの後姿だった。義葦は呆気にとられ、思わずグレイスに慣れた口をきいた。
「なんだおめえ、そいつらは。」
「灯己と晶、いえ、今は炎鷲と焔鷙。灯己の理性がまだほんの少しばかりあの体に留め置かれてありましょうから、こうして火が燃え広がらずにおりますが、灯己が敗れた瞬間、この世界は火の海となりましょうね。私が腕によりをかけて造った世界が、まさかこのお二人によって灰にされようとは。」
グレイスが三人を振り返った
「ねえ、ご覧なさい。憎しみが自ら国を滅ぼそうとしていますよ。ご覧なさいな、ほら、憎しみに引きずり込まれ、理性を失っていく、晶も、灯己も。面白いですねえ。憎しみに立ち向かった時点で負けなのです。どちらも負けなのですよ。」
「あんたには、憎しみを消すことができるのか?」
グレイスはゆっくりと達に視線を移した。
「できるものですか。できるなら、とっくに消していますよ。まず、私自身の心から。」
グレイスは空を仰ぎ、夜へ移ろうとしている群青の空に瞬き始めた星を見た。
「そろそろ煌玄様が白山で弥杜徽の骸を見つけているころでしょうか。」
燈羨が進み出た。
「なぜ竜胆家を滅ぼした?」
グレイスはきょとんと瞳を瞬き、燈羨を見つめ返した。
「私は滅ぼしていませんが?」
「あんたが差し向けたんじゃないのか?」
達の言葉に、グレイスは心底面倒くさいというように息を吐いた。
「あれはカラスが勝手にやったことですが、仮に私がそうしろと命じたとして、どうでも良いことでしょう?弥杜徽とカラスがどんな取引きをしどうしてカラスが弥杜徽になり変わったのか、なんてこと、あなた方にはどうでも良いこと。あれは、竜胆の家は、はじめから私のモノなのです、私が私のモノをどう始末しようと、あなた方に事細かに説明する義理はございません。あなた方が覚えておくべきことはただ一つ。」
グレイスは燈羨に人差し指を向けた。その指先を、くっと下へ指し示すと、とたんに重力が増し、燈羨、達、義葦は地面に叩きつけられ、動けなくなった。またこの前と同じ重力が増すやつだ、と達は歯を食いしばった。
「私の不興を買うと苦しい目に遭うということだけ。奇鬼にアルにくたばりぞこないが這いつくばって良い眺めですこと。」
グレイスは燈羨の頭を踏みつけた。
「この世の要らないモノどもが。」
達は燈羨の頭を踏むグレイスの脚を掴み、力を込めた。
「この世に要らない者なんてない。生まれて来たからには要らないなんてことない。」
は、とグレイスは吐き捨てるように笑った。
「実にアル人らしい考え方ですこと。ですがその概念すらも、私が与えたものなのですよ、達。すべて私が与えたのです。私が与えものを私が奪おうと私の好きでしょう?この美しい飛都に、アルという失敗作から生まれた人間がいることが私、我慢がなりませんの。あなた、ロディに言って記憶を消してしまいましょうね。」
グレイスは達の手を払い、踏みつけ、義葦の体を蹴りつけた。そうして三人の体を順に蹴り続けた。どれだけ足蹴にされ続けたかわからない。衝撃が止み達が目を開けると、目の前の燈羨は気を失っていた。グレイスは荒げた息を整えせせら笑った。
「しばらくそこへ這いつくばって己が無力を痛感なさい。二人の炎が燃え尽きたとき、立っているのが晶であれば、即ちあなた方に訪れるのは死。今のうち互いに別れを惜しむがよろしいでしょう。それまでに内臓が潰れなければですが。」
笑いながら丘を下りて行くグレイスの背に達は叫んだ。
「おい、待てって!もし晶が死んだら!?助けなくていいのか!?」
振り向いたグレイスの、目玉のない眼窩が達を見ていた。それは達が潰した目玉が入っていたはずの空洞だった。宇宙の闇のようなその窪みの漆黒に、達はぎょっとし、首を竦めた。
「私、死にたい者は死ねばいいと思っておりますので。」
深く、ざらりと胸を撫ぜる声が、冷たい風に消えた。グレイスは姿を消していた。達は這いつくばったまま、ごうごうと燃え盛るふたつの炎を見上げた。時折その中に、灯己と晶の姿が見えたが、すぐに炎に遮られ、その姿は見えなくなった。
昼下がり、薫は制服姿で有明駅のホームを歩いていた。イヤホンを耳にはめ込み、スマートフォンの動画アプリを開くと、素早く高校名と自殺というワードを検索欄に打ち込んでいく。ずらりと動画リストが現れる中から、薫は一つの動画を再生した。
「昨日午後五時過ぎ、東京都港区の私立高校で三年の女子生徒が屋上から飛び降り、搬送先の病院で亡くなりました。同時刻屋上では二年の男子生徒が意識不明の状態で発見され、病院に搬送されましたが、意識は戻っていないということです。二人の生徒に何があったのか…」
ホームにアナウンスが流れ、ゆりかもめの車両が入ってくる。ドアが開くと薫は画面に目を落としたまま車両に乗り込み、空いているボックス席へ座った。動画を連続再生にし、達と妙のニュースがエンドレスで再生されていくのを、薫はじっと聴いた。次の駅で薫の席にひとが座り、薫はふと視線を上げた。薫の向かい側には年齢不詳の化粧っ気のない女、薫の隣にはやたら目の大きな、ストールをぐるぐる巻きにしニット帽をかぶった少年。薫は周りを見渡した。平日昼間のゆりかもめは空いており、他の席には誰もいない。なぜ、空いているのにこの席に座るのだろうと薫が不審な視線を向けると、向かいの女と視線が合った。女だけではなく、目の大きな少年も、じっと薫のことを見つめている。ぎょっと身じろぐ薫に、化粧っ気のない女がそっと囁いた。
「怖がらないで。」
薫は二人の様子を窺いながら、恐る恐るイヤホンを取った。
「飛都を知っているね?」
少年の言葉に、薫は目を瞠り二人を何度も見やった。そうしているうちにみるみる青褪めていく薫の顔に、津柚とペルは確証を得た。ペルは薫の手を握った。薫は咄嗟に手を引こうとしたが、ペルは力を込め離さなかった。
「大丈夫、あれはあんたのせいじゃない、あれは、夢だ。あんたは、あんなことしてない。あんたがやったんじゃないんだ。」
今にも泣き出しそうな薫に、ペルは優しい声で応えた。
「怖い思いをさせて悪かったね。あれは、夢なんだ。」
「でも、覚えてるんだね?」
覗き込んだ津柚に、薫は小さく頷いた。津柚とペルは顔を見合わせた。
「毎日夢に見る。」
消え入りそうな声で、薫は言った。
「毎日夢で、何千人という人を殺してしまうの。死体の山。目覚めて、毎朝ベッドの中でニュースを検索する、殺人、大量殺人、私の名前。ヒットしないことを確かめて、安心して。だけど夜になると毎日眠るのが怖い。だって私、本当は殺したかったんだもの。私をいじめたひとをみんな殺してしまいたかった。」
「達が助けに来なければ、君は本当の殺人者になっていたかもしれない。」
ペルの言葉に、薫は顔を上げた。
「達は、またあの世界に行ってしまったんだ。助けられるのは、君しかいない。大丈夫、心配しないで。だっておれ、専門家だから。おれの手にかかれば痛くもないしかゆくもない、たった一度の衝撃でらくーに飛都に行けるんだから。ね?」
青褪めた薫に、ペルは安心安全の笑顔を湛え頷いてみせた。
北の禁域の丘にまた夜が来た。二つの炎は絶えることなく、燃え続け、三人はいまだに草の上に這いつくばっていた。
「義葦さん、妖魔でしょ、なんとかならないの。」
「ならん。おれの妖力は治癒と成形だけだ。」
「重いよう。重くて何も考えられないよう。」
ぐちぐちと泣き言を言い続ける達に、義葦は溜息を吐いた。
「だが死なん。あれはおれたちを殺せん。そういう約束になってる。耐えろ。とにかく灯己があの小僧に勝てばいい。」
明けようとしているうっすらと明るい空を達は首を捻って見上げた。
「ねえ、こんなに火が燃えているのに、誰も見つけに来ないってどういうこと?女官長さんたちが探しに来てもいいでしょ。ていうか、探してくれてるよね?」
「あの邪神がなんかしたんだろうな。ここが見えないようにしたか何か。」
ですよねえ、と息を吐きながら、達は燈羨に目を向けた。
「ほら、燈羨なんか気失ったままだもん、ずっと。もうダメかもれしない、おれ達。」
「あんまり喋るな、無駄に体力使う。」
そう言ったきり、義葦は口を開かなくなった。眠ったのかもしれない。陽が昇り、昼になり、陽が沈み、濡れたような夕闇が降りた。その間にも絶えず二羽の火鳥は互いに絡みつき火の粉を飛ばし、ごうごうと応戦し燃え続けていた。達はうつらうつらしては目を覚まし、またうつらうつらし、幾日かを過ごした。夢か現かはっきりとしない意識の中で、達は目を開けた。夕闇の中に、一人佇む晶の後ろ姿があった。その足元に、倒れている灯己の姿を見、達ははっとし立ち上がり駆け寄ろうとしたが、躓いた。達は転んだまま、前を見た。晶だと思った後姿はしかしよく見ると晶ではなく、横たわる女性も灯己ではない。夕闇に佇む男はじっと横たわる女を見つめている。男の体からぼうっと黒い靄が立ち、炎の鳥が現れた。
「哀れなおまえよ。」
聞こえてくるその低く森を唸らせる風のような声に、達は肌が粟立った。それは灯己の中にいるあの妖魔の王の声に似て、しかし全く別の声だった。
「おまえは自らの血を愛しすぎるがゆえ、その血に穢れるのだ。なぜ血を分けたものしか愛せない?」
「それは、私ができそこないだからです。」
応えた男の声は晶に似、燈羨にも似ていた。
「私は元から欠けている。だから半身を求めずにはいられない。あなたは、戻りたくないのですか。もう一度完全な体に戻りたいとは?」
「我々は相反する意識を入れられた一つの器であった。互いに反発する力が強大な妖力を育てたのだ。五代帝は大した男であったが、相反する二つの魂を体に住まわすことに辟易していた。そしてそれは我らも同じであった。」
「もう戻ることはないと?」
「互いに望まぬ。」
「覚醒することも望まないのですか。」
男の問いに、風の唸るような軋みが男の体から漏れた。しばらく沈黙が続いた。
「なぜ、あの子に宿らなかったのです?」
「おまえの后の腹に宿った子は奇鬼よ。」
「なんと?」
「だが殺してはならぬ。」
「なぜ。」
「あれはいずれ帝王になる。」
「奇鬼が?そのようなことはあり得ない。」
「だがそうなる。あれが帝王になったとき、皆が思うだろう、真の帝王を見たと。おまえがその姿を見られぬことが残念でならぬ。」
男は黙り、息を吐いた。
「あの子が帝位を継ぐとき、私はこの世にもういないのですね。あなたはどうするのですか。私はきっと、あなたを覚醒させることはできないでしょう。それは、あなたが一番お分かりのはず。このまま我が体内で墓守になるおつもりか。」
達は瞬きをした。その途端に闇に覆われ、はっと前を見ると、ぼうっと明かりが灯った。その明かりは二羽の巨大な火の鳥であり、向かい合っていた。その足元に灯己と晶がぼろぼろになって倒れている。達は思わず立ち上がった。体が自由になっていることにも気付かず、二人に駆け寄ろうとしたが、地を這うような声に、ぞっとし、足を止めた。それは灯己の中の妖魔の声だった。
「墓守になればよかったものを。」
それに応えるような風の唸る呼吸音に、達は震えた。
「静寂の焔鷙よ。なぜ、沈黙を破った。貴様は知っていたはずだ。燈羨がこの国の王になると。そしてそうするよう燈峻を諭したではないか。なぜ今になってこの晶に力を貸す?」
「貴様が息を吹き返したからだ。轟きの炎鷲。おれが守る墓とは貴様の墓よ。」
「口を開くか、珍しい。」
「貴様もおれもすべてを焼くことができる、この世のすべてを殺すことができる。だが貴様の炎はおれを焼けず、おれの焔は貴様を焼けぬ。そうであるから我らは生き、そうでなければ、この世は滅びる。」
「こうしてやっと別々の体を得たと言うに、おれは貴様を殺すことができぬのか。」
「できぬ。おれにもできぬ。我らは、生き続ける。」
「可哀想に。可哀想にな。我らが相容れぬが故に、我らが主もまた相容れぬ、それでも共に生きねばならぬとは。」
「貴様が業よ。貴様がこの灯己に力を戻した。」
「いいや。あやつがせい。」
炎鷲と焔鷙の視線が達に向けられ、達はぞっと身を固くしたが、その視線は達を通り抜けた。振りむくと、グレイスが立っていた。
「この悪疫。呪いの塊。」
「まあ、炎鷲ときたら、ずいぶんなご挨拶ですこと。」
グレイスは可笑しそうに笑っていた。
「あなた方が手に入れた心を、私も得た。それだけですのに。心を得たが最後、心に背くことなどできません、そうでしょう?王魔が方々。みんな同じ。みーんな同じです。私もあなた方も、灯己も晶も燈羨も達も、みーんな同じく、そうなのですよ。心を手に入れたが最後、他人と心が通じることなど奇跡。みな、相容れぬものと生きなければならないのです。それが苦しいなら憎めばよいのです。焔鷙。あなたの主人はそれを望んでいるのですよ。あなたの心はあなたの主が心。そうですわねえ?主人と心を違えることなどあなたにはできぬこと。」
焔鷙は深い息を吐き、ぼうと黒い靄となって晶の中へ吸い込まれた。
「焔鷙!貴様!」
いきり立つ炎鷲をよそに、グレイスは晶に歩み寄ると倒れている晶を抱き抱えた。炎鷲はごうっと炎を高く燃やし、グレイスに向けたが、その炎はグレイスを通り抜けた。
「私は紫芭とは違うのです。焼けませんよ。あなたが焼けるこの世のすべてに私は含まれません。残念ですね。」
グレイスは背を向けすたすたと丘を下りて行った。
「炎鷲が焼けるこの世のすべてに含まれないってどういうこと?」
達が振り向くと、そこに炎鷲はいなかった。横たわる灯己に達は駆け寄り、体を揺すろうとしたが、灯己の皮膚のあまりの熱さに手を引っ込めた。慌てて上着を脱ぎ、上着で灯己を扇いだ。
「灯己。灯己。大丈夫?ねえ。」
何度か呼ぶと灯己は目を開け、一言、暑い、と呟いた。
「灯己が熱いんだよ。」
灯己はしばらくぼんやりと夜空を見ていた。
「殺せなかったよ。」
「うん。殺せないんだって、言ってたよ、灯己たちの火の鳥が。そういうふうにできてるんだって。」
灯己は起き上がり、草の上に胡坐をかいて座った。
「そうじゃない。晶の顔を見たら、とても殺せなかった。」
達は灯己を扇ぐ手を止め、灯己を見つめた。
「おまえに言われた通りだよ。おれは、晶に生きてほしい。晶はおれの半身だ。決して相容れぬとも、共に生きていく半身なんだ。おれが晶をあの檻から連れ出したのは、晶を人殺しにするためなんかじゃない。」
「うん。」
灯己はふと目をやり、倒れている燈羨と義葦に気付いた。
「何があった?」
「いろいろあったんだけど。なんかもう本当にいろいろあったから。」
灯己は燈羨に駆け寄り、抱き起そうとしたが、思い留まり、達にそれを譲った。達は燈羨を抱き起こし、背負った。
「燈羨、熱あるよ。」
「おい、じじい起きろ。くたばるにはまだ早いだろ。」
灯己は乱暴に義葦を蹴飛ばした。義葦はうめき声を上げたが、蹴ったのがグレイスではなく灯己だとわかると、けろりとした顔で身を起こし、大きな欠伸をした。
「なんだ、おめえ勝ったのか。」
引き分けだよ、と達は言った。灯己は爪先で義葦の脇腹を軽く蹴り続け、追い立てるように言った。
「燈羨がまた熱を出してる。じじい、薬持って来い、緋天殿に帰る。」
「年寄りを労われよ。」
「好きで年寄りの格好してるだけだろ。双子女官と大して年変わらねえくせに。」
義葦は起き上がると文句を言いながら丘を下って行った。燈羨を背負った達と灯己は並んで丘を下り緋天殿へ向かった。
「ねえ、晶と話した?」
「ああ。思い出した。晶と暮らしていたころのこと。」
灯己は廃墟となった紫宝宮を振り返った。
「おれがこの禁域で生きていたころ、おれは幸せを知らなかった。だから、あんなことが簡単に言えた。金輪際幸せにならぬ、などと約束できた。」
「ねえ、おれ思うんだけどさ。」
達の言葉に、灯己は達へ視線を戻した。
「グレイスとのその約束って無効じゃない?だって、破られてんじゃん、最初からその、グレイスだった人に。だってほら、灯己は幸せにならない代わりに、燈峻に阿陀良を殺させないって約束したんでしょ?結局約束破って燈峻に阿陀良殺させてんじゃん。」
その通りだな、と言い、灯己は首を傾げた。
「初めっから灯己が不幸になる筋合いなくない?」
顔を見合わせ、吹き出した達に、灯己が蹴りを入れた。
「いや笑い事じゃねえよ!」
「本当にそう!」
「グレイスのやつふざけんな!」
達に釣られるように、灯己も笑い出した。二人はしばらく笑いに笑い、咳き込んで深呼吸を繰り返した。あー笑った、と言いながら達は落ちそうになる燈羨を担ぎ直し、灯己を振り返った。
「灯己、幸せになっていいんじゃないの。」
灯己はぽかんとして達を見た。
「グレイスに義理立てする必要なんか初めから無いんだし。この国は、灯己の国なんだし。」
灯己は腕組みをしてしばらく考えてから、そうだな、と呟いた。そしてにやりと笑い、片眉を上げ達を見た。
「道理でグレイスがお前を嫌うはずだぜ。」
「あ、それなんだけどさ、おれグレイスに嫌われ過ぎてペルに記憶消されるかも。」
はは、と灯己は笑った。
「まあ、そうなってもお前ならどうにでもなんだろ。」
「それね、なんかおれもそんな気するわ。」
星が散らばる濃紺の空に、二人の笑い声が響いた。
目覚めると、晶は白亜の宮殿の寝台に寝かされていた。色とりどりの硝子がはめ込まれた天窓から、燦燦と降り注ぐ光に晶は目を細め、体を起こした。ぐったりと疲れ、体のあちこちが痛い。
晶は重い体を引き摺るようにして寝台を降りると部屋の扉を開けた。水溜まりに水滴が落ちる連続音が、晶の気を引きつけていた。宮殿の長い廊下を抜け、白い裸婦像がぐるりと取り囲む円形の玄関広間の重い扉を開けると、木々の生い茂る森が広がっていた。水音はその森の中から聞こえていた。湿った柔らかい土を踏み、濡れた青葉の匂いを嗅ぎながら森の中を進むと、俄かに視界が開け、木漏れ陽の射す泉があった。そのほとりで、泉を覗き込むようにし、女が泣いていた。水音は女の涙が泉に落ちる音だとわかった。
「どうしたの?」
恐る恐る声を掛けた晶を、女はびくりと体を揺らし振り向いた。その瞳の透き通る宝石のような緑の美しさに、晶は息を飲んだ。赤く充血した白目の中に填め込まれた澄んだ翠玉の対比が異様な妖艶さを醸し出していた。
「どうして泣いているの?」
緑の目の女は、じっと身を固くし、晶の気配を伺っているようだった。晶が一歩近づこうとしたその時、女の体が跳躍し、陽の光に刃物が鋭く光った。晶は咄嗟に手で頭を覆ったが、目を開けた時、女は土の上に蹲っていた。短剣がくるくると宙を舞い、晶の足元に落ちた。
「どうしました、あなたらしくもない、鳥市譲りの技術はどうされたのです?心が乱れていますね。」
笑みを含んだ深い声に、晶が振り向くと、晶の背後にグレイスが立っていた。蹲った女はすぐに起き上がり、晶の足元から短剣を拾うと、その刃をグレイスに向けた。グレイスを見上げる強い眼差しに込められたものが憎しみだと、晶はすぐに理解した。この女がグレイスを本気で殺そうとしているのだと。晶は背が冷やりとした。女は切羽詰まったように、意味のわからない叫びを発し、何か訴えるように掌で様々な形を作って見せた。グレイスはうんざりしたように息を吐き、首を振った。
「何度も言っているでしょう、私にはその手文字はわからないと。繰弄にしかわからないのですよ、おやめなさい、意味がありません。翠。繰弄が死んで、あなたを理解するものはこの世から居なくなったのです。弁えなさい。繰弄と共に一度は私を裏切ったあなたを、こうしてまた養って差し上げるのですから。」
翠と呼ばれた女はぼろぼろと涙を零し、嗚咽しながら蹲った。
「ですが、私を恨みたいならば、恨んでよろしいですよ。私、大好きですの、恨みも辛みも嫉みも妬みも、憎しみも。そういったものでこの世がいっぱいになったら素敵ですわ。この美しい飛都が。」
恍惚と微笑むグレイスの声は次第に震え、その目から一滴の涙が零れ落ちた。
「グレイス。」
涙に濡れた金の瞳を、グレイスは晶に向けた。
「晶、これは翠と言って、あなたのお世話をする者です。帝位につかれるあなたには、女官のひとりくらいつけなくてはいけませんからね。口が利けませんが耳は聴こえますから、あなたが困ることはないでしょう。もし翠が無礼を働くことがあれば、頬を撫ぜて差し上げなさい。これは奇鬼ですから、あなたが触れればその白い肌は一瞬で黒く焼け焦げましょう。」
翠はびくりと肩を揺らし、怯えるように晶を見た。晶は小さく首を振り、もう一度グレイス、とその名を呼んだ。
「どうしてこの国を憎しみでいっぱいにしようとするの。こんなに美しい国をあなたが造ったのに。」
グレイスは目を見開き、晶を見下ろした。
「ええ、そうですとも。私が造った美しい世界です。アルのような失敗を犯さぬよう、丁寧に丁寧に作った世界。すべての生き物が幸せになればいいと思っておりましたわ。かつて私は、祝福そのものでしたから。」
「後悔しているの?」
「後悔?」
グレイスの金の瞳が仄暗く揺らめいた。
「していますわ。していますとも。ですがそれが何だと言うのです?」
晶は言葉を継げなかった。奥歯を噛む晶を軽く笑うように鼻を鳴らし、グレイスは背を向けると森の中へ姿を消した。
鬱蒼と生い茂る森の中をグレイスは長い爪を噛みながら歩いた。殺してしまいたい、ただそればかりを思った。何もかも、私に歯向かう何もかも殺してしまいたい。あのまま神苑に居れば、死の宮を追われなければ、殺したいと思えばそれだけで殺すことが出来たのに、忌々しい。
「ロディ、おいでなさい。」
それでも、ペル・ロディさえいれば。
「ロディ。」
姿を現さないペルにグレイスは苛立ち、金の目玉で世界を見渡した。この世の隅から隅まで隈なく見渡したグレイスは僅かに眉を顰めた。この私の目を逃れる結界を張ったか、と呆れ、息を吐いた。
「また裏切ると言うのですか、ロディ。」
独り言ち、ふと、その言葉が孕む矛盾に首を傾げた。
「また?また、とは?」
はっと上げたグレイスの顔はみるみるうちに激昂に染まった。
「なんということ!あなたを裏切るのは私ですよ!あなたはいつだって私に裏切られると決まっているのに!あなたが私を裏切ると?」
グレイスの金の目玉の中に怒りの炎が燃え上がった。




