表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
25/30

3幕 三人の王 4

 どうして気付かなかったのだろう、と灯己は組んだ掌を額につけ、項垂れていた。天蓋の中で眠る燈羨の苦し気な息遣いに、胸が締めつけられる。グレイスと対峙したのち気を失った燈羨は高熱にうなされ、寝台の横には双子女官が付きっ切りで看病していたが、半日経っても燈羨の熱は下がらなかった。

 なぜ、と灯己は考え続けた。なぜ晶を虐げていた者が燈羨だと気付かなかったのか。気づいて然るべきだったのだ。あの檻に入れられる者は王魔の器であり、それを虐げる者は肉親に決まっているのだ、この国が出来た時から。

「おまえに気付けるはずがない。」

 体の中に響く炎鷲の声に灯己は耳を傾けた。

「おまえは見ぬことを選んだ。この城の、燈一族の一切を。」

 灯己は窓際の椅子から立ち上がり、燈羨の枕元へ進んだ。あの時、十二のあの夜、逃げなければ、この男をこれ程までに苦しめることはなかったのだ。

「燈羨は、強いな。おれは逃げたが、燈羨は戦ってきたのだから、ずっと。」

 双子が静かに涙を落とした。

 扉が叩かれ、扉近くで控えていた煌玄が立ち上がった。

「灯己!」

 達の声に、煌玄が扉を開くと、そこには達と義葦が立っていた。煌玄は二人を寝所へ招き入れた。義葦が燈羨の元へ歩み寄るのを見届け、灯己は達へ視線を投げた。その視線に気付いた達に、灯己は無言でついてくるよう示し、部屋を出た。

 灯己のあとについて緋天殿の階段を下り、中二階の中庭に足を踏み入れた達は、紫陽花の咲き乱れるその庭に目を丸くした。冬しかないと言われる千城に夏の花が咲いているとは思いもしなかった。奥宮で羅梓依の一室として宛がわれた部屋に面したその中庭は、かつて紫芭が特別に造らせた庭であった。それはつまり、この千城で最も忌み嫌われた場所を意味していた。紫芭が愛し、羅梓依が狂っていった庭。奥宮が閉鎖された今、この庭に近づく者はいなかった。これほど密談に適した場所もなかろうよ、と灯己は自嘲気味に思った。まだ春宮であった阿陀良と一介の男妾であった紫芭が逢瀬を重ねたと言われるこの呪われた庭に、自ら足を踏み入れようと思う日が来ようとは、と灯己は息を吐いた。

 灯己は回廊の階段から花の中に降りた。

「晶に、会ったのだな。」

 回廊に立ったまま、達は頷いた。

 晶が、と呟いたまま、灯己は言葉を継がなかった。

 思い返せば、と灯己は思った。あの牢に晶が居たことも、おれが一目で惹かれたことも、燈の血のせいなのだ。

 花の中でじっと目を瞑る灯己の動揺がだんだんと鎮まり、心が波のない水鏡のように静かに均されていくのが達にはわかった。達は灯己に歩み寄った。

「燈羨の弟が晶だってわかって、灯己はそれでもやっぱり殺そうなんて言わないよね?」

 灯己は目を瞑ったまま答えなかった。達は懸命に首を振った。

「和解すべきだよ。灯己。灯己が二人を思うなら、灯己が和解させるべきだ。」

 灯己が瞼を上げ、不可解なものを見るように達を見つめた。

「和解だと?さもこともなげに言う。おまえは憎しみを知らなすぎる。北の禁域に閉ざされていた日々を、晶は絶対に忘れやしない。」

 でも、と達は灯己の肩を揺すった。

「でも、燈羨は後悔してるんだ、義葦さんだって言ってた、償うに遅すぎることはないって。」

「償う必要があることをしてしまった時点で、すでに償うには遅すぎる。」

「灯己。」

「あれは、あの恨みは、あの鳥籠に入った者にしかわからん。ただ、王魔の血を受け継いでしまったというだけで、肉親から憎まれる理不尽さ。何もできずひたすら加虐され続ける日々は地獄だ。」

 達は奥歯を噛み、灯己の肩を掴む手に力を込めた。

「じゃあ灯己は、灯己は晶の苦しみを知っているのに、同じ思いをしてきた晶を殺すって言うの?」

「この世の帝王であるべきなのは、燈羨だ。あれは、帝王としての才がある。なによりも、燈羨はこの飛都帝国の歴史の中で、先代帝から憎まれず、帝位を継ぐことを認められた唯一の王だ。この存在は奇跡に近い。おれは、見ていたいんだ。燈羨の統治する飛都を。」

「おれだって、燈羨のことは買ってんだ。妖力に頼らない王が統治する国、理想的だと思うよ。だけど灯己、」

 達は灯己の胸ぐらを掴んで引き寄せ、灯己の目を掬い上げるように覗いた。

「誰かを殺さなきゃ成り立たない理想的世界なんて、そもそもの理想が間違ってるんじゃないの?生まれてきたからには要らないなんてこと絶対にないんだから。殺していい理由にならないよ、理想論は。」

 僅かに灯己の瞳が揺らいだ。達は畳みかけた。

「灯己は、晶に生きてほしいと願ったんじゃないの?よく思い出して。晶のこと、晶を千城から連れ出した日のことよく思い出してよ。あの時の自分の思いを、灯己の思いに応えて晶を育ててくれた雨寂の気持ちを灯己は無下にしようっていうの?」

 灯己の眉根に深い皺が寄り、灯己は達から顔を背け瞼を閉じた。

「ここは、アルじゃないんだ、達。」

「灯己。」

 回廊にひとの気配が動き、達は灯己の襟を離した。振り向いた灯己に、回廊で煌玄が目礼した。

「煌玄か。帝の具合は?」

「義梁丈様の煎じてくださったお薬で熱は下がって参りました。」

「そうか。」

 灯己は乱れた襟を整え、達に向き直った。

「達、この話は終いだ。晶のこと、おまえを巻き込んで怖い思いをさせた、すまなかった。」

「納得いかないね。」

 奮然とし、達は灯己を睨んだ。灯己は眉を顰めた。

「おれだって、燈羨のことは買ってるんだ。帝王で居続けてほしいと思ってる。だけど、晶のことを殺すのは違うと思う。おれ、晶の母ちゃんに会ったんだ。」

 灯己と煌玄は驚きに目を瞠った。

「晶の母親は、アルの人間だった。灯己は知らないかもしれないけど、煌玄さんは知ってるんじゃないか、妙って女。」

 煌玄は猜疑に満ちた瞳で達を見つめた。もちろん知っていたが、あの女官が燈峻帝のお傍近くに勤めていたのはほんの短い間のことだった。親の看病で宿下がりした女官の代わりに入っただけの、臨時雇いだったのだ。生涯正后様のみを愛し清廉潔癖の賢帝と評された燈峻帝が臨時雇いの女官に手を付け子を成したなど信じ難いことであった。しかし、妙の姿を思い出した煌玄は、大きな体を震わせ、思わず灯己を見た。そして、何もかも理解した。

「妙はアルでグレイスに殺されたんだよ。」

 奮然と、しかし静かに、達は言った。

「おれは、死なせたくなかった。ひとの命ひとつなくなることがどれだけ残されたひとを悲しくさせるか、わからないの?この国のひとたちは。ねえ、灯己。灯己には簡単なことなの?」

 触れようとした達の手を、灯己は振り払った。冷たい風が夏の庭に吹き込み、灯己の軍服の裾と髪を煽って過ぎた。

「おれが、簡単に晶を殺せると、そう思うか、達。」

 達を見つめる灯己の眼差しに、達は金縛りにあったように息を飲んだ。口を開こうとした達を、灯己は手で制した。

「決めたことだ。心を乱すようなことを、もう言わないでくれ。」

「灯己。」

「達。おれがどれだけ晶を必要としてようと、関係がないんだ、この国には。この国は燈羨のもの。おれは、燈羨の犬。」

 反論しようと息を吸った達は、しかし、それを言えなかった。全身の力が抜け落ち、足元にばらばらと音を立て転がるような錯覚を味わった。

「国って何なの。帝王って何なの。」

 消え入るような達の声に、煌玄が向き直り、口を開いた。

「生きるよすがです。」

 達は煌玄に目を向けた。その視線を受け止め、煌玄はゆっくりと頷いた。

「飛都なくして、帝王なくして、私たちは生きて行けません。」

 灯己が達に歩み、肩に手を置いた。その手の温かさに、達ははっと振り向いた。

「おまえの目を借りることができれば、どれだけこの世界が歪かわかるかもしれない。だがおれは、燈羨の世界を愛しているんだ。」

 振り向いた達を見ることなく、灯己は階段から回廊に上がると、そのまま回廊を歩いて去った。煌玄が達に目礼し、灯己の背を追っていく。達は紫陽花の茂みの中にひとり残され、佇んだ。

「おめえはこの国に関係のねえ生き物だ。この国に通す義理なんか端っからねえだろう、好きにしなね。」

 しわがれた声のするほうへ達が顔を向けると、回廊の柱の陰に義葦が立っていた。

「おめえにはこの国の秩序も帝王への忠誠心も関係がねえ、ただ、おめえ個人の信条に従って生きればいい、灯己とは違ってな。なに、仕事なら裏街にも中街にもいくらでもある、帝王への忠誠心だの信仰心だのなくとも、生きていける。」

「こんなバカみたいな話、ないよ。」

 階段に座り煙草に火をつけた義葦に、達は詰め寄った。

「だって灯己は晶に生きていてほしくて、牢から連れ出したのに、それなのに殺すなんて。」

 義葦は空を仰ぎ、鼻の穴から煙を吐いた。

「あいつにとっての守るべき命が、晶とかいう小僧から燈羨帝に変わったというだけさ。あれはそういうやつだ。」

 怪訝に見つめる達の瞳を、義葦は面白いものを見るように見上げた。

「あれはな、誰かを庇うことでしか生きていけないのさ。だから、カラスと組ませた。とんでもねえ力を持っていても、それを自分のためには使えねえ、ひとりじゃ生きていけねえ。帝王は生きるよすがだと煌軍将が仰ったが、灯己にとってもそうさ、あれはひとのためにしか生きていけねえのさ。」

 義葦は心底うまそうに煙草を吸い、深い息と共に煙を吐き出した。

「必要とされるから生きてる、それだけだ。それだけのやつだよ、灯己は。」

「そんなの、誰だってそうじゃないか。ひとに必要とされるから生きられる、だけど、だからって、敵対するひとを殺していいなんてならない、絶対、まして、晶なんだよ。」

 義葦は何も言わなかった。煙を燻らせる義葦を達は黙って見ていた。煙が目に沁みた。鼻の奥がつんと痛み、涙が滲んだ。


 燦燦と光の降り注ぐ紫陽花の中庭を、煌玄は振り返った。花の茂みの中に立つそのひとを達と思ったが、太陽の光を反射し銅色に輝く癖毛の煌きに、煌玄は思わず目を細めた。辺りを見回すが、灯己の姿も達の姿もなかった。

「晶様。」

 赤い髪が揺らめき、煌玄を顧みた。光の中に浮かび上がる、大人びた晶の姿に、煌玄は目眩を覚えた。晶は赤い目玉だけを動かし煌玄を見上げた。

「お久しぶりです、煌玄様。」

 優雅な仕草で、晶は一礼した。

「煌玄様にはお世話になりましたのに、恩を仇で返す無礼をお許しください。それだけを、どうしてもお伝えしたく。」

 ああ、と煌玄は息を吐いた。これは夢なのだ。夢を見せられているのだと理解し、幾ばくか緊張が解れた。

「元帥の元を離れ、どうなされていたのですか。」

「運よく、私を拾ってくれた方がおりまして。私が燈一族であることを知りました。」

「なぜ、黙って灯己様の元を去られたのです?」

 変化に乏しい晶の表情は、何度か灯己の屋敷で言葉を交わしたあのあどけない少年とは全くの別人のようだった。しかし、どれだけ外見が変わっていようとあの晶様であれば心を揺することはできる、と煌玄は思った。

「晶様が行方を晦ましてからの灯己様は、見るに堪えないほど気を落とされて、まるでお心の半分を失われたかのようでした。」

 晶は煌玄に背を向けた。

「そうでしょうか。お元気そうではないですか。大勢の軍士と、それに帝王があの方には付いていらっしゃる。私など、ほんの一時お傍で過ごしただけの存在。ほんの一瞬、偶然に運命が交差しただけに過ぎません。」

「あなた様はどうなのです?」

 煌玄の問いに、晶は振り向きそうになったが、思い留まり体を固くしたのがわかった。煌玄は畳みかけた。

「灯己様と晶様は、まるで、魂の半身を分かち合ったようだと、私は常々思っておりました。まるではじめは一つの魂であったかのように、言葉や文字などまるで必要ではないほどに、お互いをわかり合い、そしてお互いを必要としているのだと。なくてはならない存在、まるでお二人は阿陀良様と峻様のように。」

 注意深く晶の背を観察していた煌玄は、その背が微かに震えていることに気付き、ざわりと悪寒が走った。

「このようなことで、煌玄様からお叱りを受けるなどと、思ってもみませんでした。」

 振り向いた晶は笑っていた。

「こんなふうに、兄上はいつも煌玄様からお説教をされていましたね。煌玄様はいつでもひどく大人びて、正しいことを仰る。甘ったれの兄上にとっては兄のようであり、父のようであり、いいえ、実際それ以上の存在であった。私はいつも、羨ましく思っていたのです。このように煌玄様に叱られることができて夢に出た甲斐がありました。」

 煌玄は晶が上等な口をきき、煌玄の意図をはぐらかしたことに唖然とした。

「晶様、なぜ、このようなことを?誰の差し金ですか?誰に唆されたのです?」

 晶の顔からゆっくりと笑みが消えた。

「おれの意志ですよ。」

 笑みの消えた晶の、艶のない赤黒い瞳の冷たさに、煌玄は背がひやりとした。

「誰の指図でもない、おれの意志です。だって、なんの力もない兄上が、皆の目を誤魔化して帝王の座にふんぞり返っているこの国の状況を、黙って見過ごすわけにはいかなじゃないですか。自分が本物の帝王であると知っているのに、あの偽物を黙って見上げていろと?」

「波乱を起こすというのですか。」

 晶が鼻で笑い、煌玄は初めて見る晶の歪んだ表情に、心臓が竦んだ。

「煌玄様。『千城の良心』と称えられる煌玄様にはわからないでしょう。おれの尊敬する煌玄様がそんなに嫌だと仰るなら、おれは何もしなくたっていい、おれが何もしなくたって、この瞳を前にしたら誰もがおれが真の帝王と認めるでしょう。おれは指一本触れずに帝王の座を奪うことができる。この城も、この国も、すべて。」

「そんなことをしていったい何になると?」

 晶は呆れたように笑った。

「あなたは、憎しみを知らないのですか?もしあなたが憎しみを知らないのならば、おれが見せて差し上げますよ。どれだけおれが燈羨を憎んでいるか。」

「あなた様のそのお変わり様、灯己様が見たらなんと思われるか。」

 晶の瞳がめいいっぱいに見開かれ、煌玄を睨んだ。

「もう、遅い。」

 憎しみ。その一端を見た。煌玄は夜具の中で目を覚ました。全身にびっしょりと汗を掻いていた。見せられたそれは彼が抱える膨大な憎しみの一端にすぎないのだ。寝具の中で大きく息を吸い、吐いた。指一本触れずに、この国を奪う。あの方にはそれができる。煌玄は身震いし、夜具を跳ね除けると上着を羽織り自室を出た。緋天殿の回廊に出ると雨の音が耳を打った。道理で寒いはずだと煌玄は上着の前を掻き合わせ、燈羨の寝所へ急いだ。嫌な予感がしていた。燈羨の寝所の扉に扉番がいないのを見、煌玄はその予感が的中したことを悟った。勢いよく開けた扉の向こうに煌玄が見たものは、開け放れた窓から吹き込む雨風に柔らかく靡く天蓋だけだった。


 代表二位会議の再審が始まるまで蟄居を命じられた麗家の屋敷はしんとし、陰りの匂いに覆われていた。風に煽られた雨が時折乱暴に窓を打ち過ぎていく。

「出迎える者もないとは、準神格家に次ぐ名家と謳われた麗家が見るに堪えませんねえ。」

 雷鳴が轟き、闇の中でグレイスの姿が雷光に浮かび上がっては消えた。

「この麗家ほど帝王一族に利用され蔑ろにされた家もないのではありませんか?こうまでされてよくもまだ帝に仕えておられる。」

 麗威の部屋の扉を開けたグレイスは、おや、と片眉を上げた。

「これはまあ、驚きました。」

「次にあなたが憑りつくとすれば、それは麗威しかいません。」

 稲妻に照らし出された燈羨の横顔を、グレイスはしげしげと見つめた。

「僕を殺す人物は、麗威が最も相応しいと、あなたならそう考えるでしょう。麗威の愛する羅梓依を狂わせたのは僕だ。」

「麗威をどこへ隠したのです?私の目の届かないところへ?小賢しい真似をなさいますな。」

「怖くないから。」

 真っ直ぐにグレイスを見つめる燈羨の張りつめた頬を、グレイスは訝し気に見つめ返した。

「僕はあなたが怖くない。あなたは、僕を殺せない。僕だけじゃない、あなたは灯己も、煌玄も、この飛都のすべての生き物を殺すことができない。あなたはそう、燈王と約束したから。」

 グレイスは鼻を鳴らした。

「義葦に要らぬことを吹き込まれましたね。珠峨に怯えていたあの燈羨様はとまるで別人ですわ。それで、麗威を隠し私との密会に臨まれた訳を伺いましょうか?」

「灯己は麗威の記憶を消して彼女の罪をすべてなかったことにしろと言う。」

「あの方らしいお考えです。」

「僕はそうは思わない、それでは何も解決しない。でもそうしなければ、あなたが麗威に憑りつき、僕を殺すと灯己は言う。」

「まさにそうしようと思っていたところです。」

「それで、あなたは満足するの?」

 グレイスは眉を寄せ、燈羨を見た。

「僕を殺して、晶を帝位につけ、それであなたは?」

「満足しますとも。」

 グレイスは己の肩を抱き身を震わせた。

「私の喜びは灯己様の苦しみ。心を寄せるあなたが死ねば、どれだけ灯己様はお悲しみになるでしょう。考えただけでぞくぞくしますわ。」

「それで?それで終わりか?」

 燈羨の問いに、グレイスは鼻白んだように冷めた視線を向けた。

「終わるものですか。私は灯己様を殺すことはできませんが、死にたいほどの苦しみを与えるは容易いこと。死ぬまで甚振り続けますわ。それこそ死を切望するほどの苦痛を与え続けましょう。」

 燈羨は窓際を離れ、静かにグレイスへ歩み寄った。

「ねえ、僕を見て。」

 燈羨はグレイスの白い頬に指を添え、グレイスの金の瞳を覗き込んだ。

「僕は日に日に父に似ていくだろう?おまえの愛した燈峻帝に。」

 ぞくりと悪寒が走り、グレイスは喉を鳴らした。

「言っただろう?僕はおまえの心がわかる。僕が、おまえを愛す。」

 雷鳴が轟き、雷光が燈羨の顔を闇の中に浮かび上がらせた。

「おまえは僕に愛されたいんだ。」

 グレイスは燈羨の目を見つめたまま、小さく首を振った。

「あなたは、私を恐れるべきです。私を恐れなさい。」

「僕がおまえを愛す。」

 グレイスの金の目玉から涙が流れ落ちた。

「心を持ったことは間違いでした。心を持ったがために、私は神でなくなった。」


 ペルは震える自らの手を、ぎゅっと握りしめ、目を瞑った。眉間に深い皺が寄った。

「何がそんなに怖いの。」

 美しい鐘のような響きのその声に、ペルは背後を顧みた。赤い癖毛が、死の宮の宮殿へ射し込む眩い光に反射し、ペルは目を細めた。

「死神の遣いが、燈羨を殺すことがそんなに怖いの?」

「晶、どうしてここに?この死の宮は飛都の生き物が生身で来られる場所じゃないよ。」

 驚きに目を丸くするペルを歯牙にもかけぬ様子で、晶はペルの佇む泉の淵へつかつかと歩み寄った。

「神の息のかかったおれにできないことなんてないよ。」

「神の。」

 ぎょっと顔色を変えたペルに、晶は冷めた視線を向けた。

「どうして、戻って来た?あんたは、師姉の味方だと思ってた。あんたがいてくれると思ったから、おれは師姉の傍を離れたんだよ。」

 ペルは俯き、泉の水面へ視線を落とした。晶は呆れたように鼻息を吐いた。

「そんなんで燈羨を殺せるの?殺したくないんでしょ?」

「飛都は、神の手を離れた世界なんだ。そうして、完成した。おれの意志どうこうじゃない、神が手を出してはいけない国なんだ。」

 言い訳がましいペルの言葉に、晶は語気を荒げた。

「そんな掟、もうとっくに破られてる、神によって。」

「あの方はもう神じゃない。」

 この世界にもう神はいない、とペルは呟いた。

「あの方は神をやめて呪いとなった。おれは、あの方を、救いたかった。数百年をかけて、あがいた。あの方が呪いに身を窶したこの数百年間、だけど、殺すことも、封印することも、まったく意味が無かった。救おうなんて、思い上がりだ。おれは、」

「どうでもいい。」

 言葉を遮られ、ペルは隣に立つ晶を見上げた。

「言い訳するな。燈羨を殺せないならそれでいい。おれが殺すんだから。」

 晶はペルの首根を掴み、泉を覗かせた。

「ほら、燈羨の心臓を探してみろよ。さっきまであんなに死にそうだったのに、もう死の気配がない。」

 ペルは透き通った水面を見つめた。幾万もの輝く硝子が底に沈んでいる。浮いているものもある。

「さっきまでそこに浮かんでいたのが燈羨の心臓だよ。でも、もう沈んでしまって見つからない。」

 ペルは目を凝らし、それを探した。晶の手の力が緩み、ペルは土の上に膝をついた。

「どうして神はあんなものを造ってしまったの。」

 そう力なく呟き、晶はペルの隣で膝を折った。

「ほら、見てごらん。」

 晶の掌がペルの顔を覆い、赤い目玉がペルの瞳を覗いた。ペルは言われる儘に、晶の赤い瞳に映るふたつの人影を見つめた。

「あの奇鬼、奇形の鬼が、ほら、神をも喰らおうとしているよ。」

 晶の赤い瞳の中に、向かい合う燈羨とグレイスの姿が浮かび上がった。燈羨は、グレイスの落とす涙を見ていた。グレイスの落とした涙は床に小さな池を作った。

「私は心が欲しかった。心とはどうしたら手に入るのかと、この世界の始まりに、私は燈王に尋ねました。」

 グレイスの深い声が涙と共に床へ落ち、足元でさざ波となる。

「愛おしむことだ、と彼は答えました。ですから私は約束したのです、あなたを愛おしむ、だからあなたの尊ぶこの世界の一切を殺めぬと。私は、心を手に入れる代わりに、この世界の一切を殺すことをやめたのです。以来、私はこの約束を一度たりとも破っていません。」

 グレイスは涙を拭った。

「ええ、あなたは似ていますとも、私が恋焦がれた峻に。ですが、あなたは似ても似つかない、私の最も愛したはじまりの王、燈王には。私の造った最も不出来なもの、それが奇鬼、あなたです燈羨。どれだけあなたに愛されようと、私は満足しないでしょう。」

「この世で最も不出来の王は燈王だ。彼は、ひとであることをやめた。力に憧れその体を王魔の巣とし、そうして精神を病んだ。」

「そうですとも。あれは私の子の中で一番美しかったのに、誰よりも美しく作って差し上げたのに、あれは私ではなく、妖魔の王を選んだ。そうして醜く死んでいった。私のものでいればよかったのです。すべてをあげることができたのに。私は、なにもかも、持っていたのです。ただひとつ心の他でしたらなにもかも。それなのにあれは自ら心を捨て、妖魔の王を形作るただの箱となってしまった。約束したのですよ、私が心を持つならば、必ずや心からを愛しむと。」

 燈羨を見つめるグレイスの瞳に金の焔が揺らめいた。

「あなたもまた私を謀るのですね。あなたの心は灯己様と共にあるというのに、私を愛するなどと心にもないことを。」

「おまえがそれを望んでいるのだ。燈の王に愛されたいがためだけに、こうして幾世も憑りつき続ける。」

「私の心は呪いそのもの。あなた方燈のご一族を呪うことでしか私の心は満たされない。私は、あなた方を呪い続ける。」

 グレイスの足元から魚が吐くような気泡がぽこぽこと昇り、グレイスが笑った。

「ご覧なさい、同胞が怒っているようです。あなたの紡いだ憎しみの輪廻から生まれた呪いの子ですよ。」

 グレイスは白い頬にうっすらと笑みを浮かべ、長い爪の先で燈羨の柔らかい唇を撫でた。

「私を愛すと?ええ、どうぞ愛してくださいな。どれだけ私を愛してくださろうと、私はあなた方が大嫌い。憎しみの輪廻を繋ぎ、呪いの坩堝へ導いて差し上げますとも。さあ、苦しみなさい。」

 グレイスが瞬くと共にその姿は小さな魚となり、涙の湖へぽちゃりと音を立て落ちた。

 晶は一度瞬き、ペルの顔から手を離すと泉へ視線を向けた。水面へ上がってくる小さな魚を晶は素手で掴むと水面へ投げつけた。

「あれはおれが殺すと言ったでしょう。ちょっかい出さないでください。」

 乱暴に水面へ叩きつけられた魚はグレイスの姿となり、グレイスは水を滴らせ、泉から這い上がった。笑っていた。

「ええ、是非そうしてくださいな。」

 晶はじろりとグレイスを睨んだが、グレイスはくつくつと笑い続けていた。笑い続けるグレイスを、ペルは愕然と見つめていた。これがかつてこの世をお創りになった神だろうか。暗がりで濡れそぼり、顔を歪ませ笑っているこの方が、かつてこの世の光そのものであったあの方だろうか。たかが、二百年じゃないか。この飛都が建国されたかが二百年。たったそれだけの間に、これ程までに変わってしまうとは。心を持ったがために。

「さあ、ロディ。」

 黄金の仄暗い瞳を向けられ、ペルはどきりと身を揺らした。

「麗威の審議が始まる時間ですよ。あの万年二位のおでぶさんがどこまで軍部を追い詰めらるか見ものですね。」


 また来ている、と津柚は気怠く頬杖をついたまま目玉だけを動かし、屋台の前に立つその少女を見やった。透き通った大きな翡翠の瞳のせいか、顔立ちは幼く見えるが、無駄のない筋肉のついたしなやかな体つきから推測するに十五、六にはなっているだろう。風車で遊ぶ歳でもあるまいに、と津柚は少女から目を逸らした。その少女はもう五日程、毎日やってきて屋台の前に立ち、風車を眺めていた。しかし津柚が声を掛けると踵を返し逃げてしまう。初めて声を掛けた時、津柚は逃げる少女の身のこなしのあまりの俊敏さに唖然とした。まるでフクロウを見たと思い、思わず舌打ちした。

 何度声を掛けても逃げるのだから、今日はもう放っておくことにし、津柚は頬杖をついたまま目を瞑った。声を張って客を呼び込むような商売ではない。一本売れたところで子供の小遣いで買える代物、大した稼ぎにはならないのだ。金に困っているなら風車売りなどやらない方がいい。

 津柚には一生遊んで暮らせる金がある。鳥市の金だ。鳥市が離散したのち、津柚は点在する隠れ家を廻り金を根こそぎ持ち出した。義葦には津柚の仕業と気付かれただろうが、追っ手を向けられることはなかった。年端もいかぬ子供を人殺しに育て死ぬほどの目に遭わせながら富豪どもから巻き上げた法外の金を、義葦は殆ど手を付けずに貯め続けていた。いつか何かに使うつもりだったのか、それともただ豪族貴族の金をふんだくるのが楽しかったのか。おそらく後者なのだろう。いったいあの八年間は何だったのだろうかと津柚は金に埋もれながら思った。金のために親に売られ、鳥市の交渉役として人殺し稼業に生きたあの八年間が紡ぎ出したものは金だけだったのに、その金には何の使い途もなかったのだ。

 ぱたぱたと子供の足音が近づき、津柚は目を開けた。子供が三人ほど屋台の前に集まり、色とりどりの風車に手を伸ばそうと背伸びをしている。津柚は腰を上げ、一人の子供の目線の先の一本を手に取った。

「こいつかい?ほら、先に金を出しな。」

 懐から小銭を出そうともたもたしている子供の背後で、緑の瞳が煌いた。子供の横から細い手がすっと伸び、一本の風車を取った。あ、あの餓鬼、と津柚が目を剥いた時にはすでに少女は踵を返し長い髪を靡かせ走り去っていた。津柚は条件反射のように少女を追い走り出していた。田舎の乾いた長い一本道を、少女は走り続けた。


 円形の議場にざわざわと人々が集まり、席を埋めていく様子を、達は最後列に座り眺めていた。通例であれば代表二位会議により決定される麗威の審議だが、羅梓依による一般市民の大量殺人に関わる審議のために、燈羨は特別に市民の傍聴席を設けることを許した。異例の事態に人々は驚き、傍聴席を求める列は大変な行列となったが、達は義葦と共に朝から抽選に並び、貴重な二席を獲得したのだった。

「ああ、くたびれた。あんなに列に並ぶとはな。灯己に言えば用意してもらえただろうに。」

 隣の席でぶつぶつと文句を言い続ける義葦に辟易していると、隣の席に腰を下ろしたひとが微かに笑った。見上げるとそれは灯己だった。商家の主人のような恰好で、帽子を目深に被っている。

「何、その恰好。」

「目を隠すのにちょうどいいのがこれしかなかった。」

「いや、普通に帝王と一緒に御簾の中にいればいいのでは?」

 灯己は答えずに足を組んだ。

「ペルのことじじいから聞いた。」

「え、ああ、うん。」

「おまえ、本当にアルに帰らないつもりか?」

「うん。」

 思案するような灯己の顔に、達は吹き出した。

「灯己ってさ、意外に世話焼きだよね。」

「は?」

「ペルがあっちについたから仕方なく飛都に残るんじゃないから、おれ。ちゃんとしたいんだ、晶のこと。あいつ、おれに母を殺してくれてありがとうございますって言ったんだよ、信じられる?あの晶が。でも晶をそうさせたのは、おれにも責任があるんだ。だっておれが風見さんの手を離したことに違わないんだから。」

「余計な世話焼きはあなたの方です。」

 美しい鐘の様な声に、達と灯己ははっと背後の通路を振り返った。

「あなたに何かできるなんで思い上がりです。アル人が。」

 温度のない赤い瞳に見下げられ、達は思わず晶に手を伸ばした。

「達、触れるな、幻影だ!」

 達が晶に触れた瞬間発火し晶の体はぼうっと煙に消えた。晶の幻影に触れた達の義手がどんどん溶けていく。

「え、何これ!」

「おめえ何だ、どうした?」

 達の異変に気付いた義葦が慌てふためき達の手を取った。

 晶が居る、見ている。灯己は目を瞑り、炎鷲の目を借りた。議場の隅から隅まで神経を張り巡らせ、二階の桟敷に晶の姿を見つけた。目を開けた灯己と視線が合うや否や、晶はふいっと背を向け議場を出た。それを追い座面を飛び越えた灯己に達も続こうとしたが義葦に取り押さえられた。

「おめえはだめだ。せっかくくっつけた手が腕まで溶けてなくなるぞ。こっち来い。」

「でも!」

 灯己はちらりと視線を達に寄越し、いい、義葦、頼んだ、とだけ言い残し駆け出そうとした。達は咄嗟に灯己の手を掴んだ。

「晶を殺さないで。この国の憎しみの輪を断ち切れるのは晶だけなんだよ。」

 振り向いた灯己の赤い瞳が見開かれ、達を凝視した。たじろぎ揺らめいた瞳を見られまいとするように、灯己は顔を背け、達の腕を振り切ると走り去った。

「おめえはこっち来い、すぐ直さねえと。」

 達は義葦に引き摺られ議場をあとにした。


 翡翠の瞳の盗人を追い走り続けた津柚は立ち止まると身を折り、膝に手をついて喘いだ。もういい加減にしてくれ、と津柚は汗に濡れた顔を上げ道の向こうでこちらを振り返る少女を見た。少女の背後に立ち込める雨雲を見、どっと疲れを感じた。雨州との州境まで来てしまった。ここへ来るまで、どうせ子供の小遣い程度の代物だ、もう諦めて戻ろうと、津柚は何度も少女に背を向けたが、少女はその度に津柚に石を投げ、津柚を逆上させた。津由が足を止めると少女もまた立ち止まり、津柚がついてくるのを待っているように見えた。

「あんた、一体なんのさ、おれをどこに連れて行こうっての。」

 津由が近づくと少女は津柚に視線を向けたまま後退りし、雨州との州境を超えた。霧雨が少女の体を濡らしていく。少女の纏っていた乾いた埃が雨に打たれ匂い立った。少女は津柚から視線を逸らさずに、懐から黒い布きれを差し出した。それが何なのか、津柚はすぐにはわからなかったが、雨に濡れていくその布きれから立ち昇る匂いに、肌が震えた。

「おまえ、それ、繰弄の服。」

 少女はさっと踵を返すと、道から逸れ、脇の山へ入って行った。

「おい、待て!」

 くそ、なんであの餓鬼が、と悪態を吐き、津柚は少女を追い山の中へ分け入った。雨州と乾州の州境に聳えるこの山が白山であることを津柚は知っていた。ご禁制の聖域、神苑信仰の総本山、竜胆家のご領地。こんなところに入ったことが知られれば刑罰は免れないと分かっているが、それがなんだ、と津柚は思った。山の頂上へたどり着き、木々を分け、進むと、視界が開けた。小さな滝が流れ落ち、池を作っている。その池のほとりに、少女が立っていた。つかつかと歩み寄る津柚に、少女はまあ待てと言うように掌を向けると、木の葉を毟り池に浮かべた。水に触れた葉は途端にぼろぼろと崩れ溶けて消えた。

「これ、神苑の死の宮に繋がってるっていう死の淵か?」

 少女は頷き、握り締めていた繰弄の服の端切れを池に浸した。

「あ、てめえ、何する!」

 そう言いかけた津柚は息を飲んだ。繰弄の服は溶けずに水に浮いていた。聞いたことがある、死んだ者の残り香が死の宮へ導くと。津柚が顔を上げ、少女を見ると、少女も同時に津柚の顔を見つめ、頷いた。

「繰弄が呼んでいるのか?この死の淵の向こうで。」

 少女は繰弄の布切れを掬い、津柚へ握らせた。頷き、水面を指す。飛び込めと言うのか、死の淵へ。津柚は口の端で笑った。いや、悪くない。こうして生きていてもおれは死んでいるようなものだ、繰弄のいない世界で、あのときからずっと。死の淵で繰弄に会えるなら今よりどれほどましか。津柚は繰弄の布切れを抱き、池へ飛び込んだ。

「おやまあ、死の淵からお客様がいらっしゃるとは、久しく訪れる方はおりませんでしたのに、不思議なことがあるものです。」

 目を開けると津柚は泉の浅瀬に座り込んでいた。泉のほとりに、真っ白なひとが立っている。爪先から髪の先まで彫刻のように真っ白で均整の取れた、ひととしては奇妙な不自然さに津柚は眉を顰めた。目だけが金色に光り微笑みながら津柚を見つめている。

「この泉は私の涙でできているのですよ。私の涙に心臓が溶けないとは、無情のお心をお持ちですの?」

 これが死神だろうか、と津柚は思った。

「繰弄はどこ?」

 金の瞳が津柚の握る布切れを映した。

「あなたのような無信仰者が神苑の迷信を信じるのですか。死者の残り香が死の宮へ導くなどと。」

「信じてない。繰弄はだって死んでないだろ。」

「彼は死者であり、同時にそうではないとも言えます。私は神苑を追放された身ですから、彼が死んでしまったら生き返らせることなど不可能なのです。」

 気狂いだろうか、と津柚は思った。生きるだの死ぬだのそんなことばかり考えているやつはたいてい気狂いだ。

「神苑にだって蘇生術はないって聞いたことがあるぜ。あんた、何者だよ、ここは死の宮じゃないのか?なんで神苑を追放されたやつが神苑の死の宮に居る?」

「随分と迷信にお詳しいこと。神に興味があおりですの?」

 津柚は顔を顰め目の前に佇むそれを見た。先ほどまで均整のとれた彫刻のようだったのに目玉ばかりがぎらぎらと金の光を宿し他はただ白く生気のない煙のように朦朧として輪郭がはっきりとしない。

「ここは私が私のために造った死の宮。なぜ竜胆家のご領地がこの私の死の宮に繋がっているかと?竜胆家の祀る神とは、私だからですよ。私の国です、飛都は。私が造って差し上げたのですよ。それなのに、どうして悪さをしようとするのでしょうね、この私を謀って。」

 白いそれは泉へ指を向けた。

「ご覧なさいな。」

 津柚は白い指で示された水面へ目を向けた。そこには飛都の様子が映し出されていた。津柚は身を乗り出し、水面を凝視した。円形の議場に多くの人が集まり、壇上に軍服の女が立った。その女性の前で、でっぷりと太った男が何かつらつらと喋っている。津柚は耳を澄ました。

「麗威軍将は正后様の御心証の悪さがご出世に響くことを危ぶみ、自らの隊から新たなお妃様の入内を画策し、刺客の入場を手引き、正后様の暗殺を謀りましたが、これが失敗したため、正后様がかつてよりご興味を示されていた本家の秘術、神言反呪を正后様へお伝えすることで正后様の御寵愛を取り戻そうと、そうされたのではありませんか?」

 軍服の女は青褪めた顔で大きく頭を振った。

「木槌様、それは違います。私は決してそのような野心は持っておりません。」


 議場の外の廊下で、達は義葦に手当てをされながら、漏れ聞こえてくる木槌と麗威のやり取りに首を傾げた。

「なんだってこの木槌とかいう二位殿は麗威軍将をこんなふうに追い落とそうとするの?グレイスの手先じゃないんだろ、あの太ったおっさんは。」

「そりゃあどうだかしれねえが。」

 義葦は咥え煙草のまま手を動かし、溶けた義手の再生を試みていた。

「珠峨が死んで正后様も亡くなった今、帝王様には軍部がべったりだからな。躾役が第一部隊軍将で武官第一位てのはもう手の出しようがねえが、第三部隊の第三位ならあの万年二位殿でも叩けるって計算だろ。軍部の戦力削って少しでも自分に分が回るようにしてえのだろうさ。」

「麗威軍将のことあんなふうに言って燈羨の心証がよくなるとは思えないけどなあ。」

 議長の声が聞こえ、達は耳を聳てた。

「なぜ、門外不出の秘術を、あなたが知ることが出来たのか。」

「それは。」

 口籠る麗威に、騒めきが広がっていく。

「それは、我が一族が代々その秘術を預かる裏神格家にございますれば。」

「その証拠は?」

 達はふと、嗅いだことのある匂いを感じ、顔を上げた。達と義葦の座っている廊下を、白装束の一団がしずしずと歩いて過ぎていった。

「証人の出廷!」

 役人の言葉に、騒めきを増す議場の扉が開き、白装束の一団が議場へ入って行く。その先頭を歩くベールに顔を隠した女が、ちらりと達に視線を送ったように見えた。鋭い犬歯を見せ、笑った。

「竜胆家ご当主弥杜徽様がご証人となります。」

 ご当主様だ、と口々に人々が叫ぶ声を聞きながら、達は唾を飲み込んだ。

「義葦さん、今のひと見た?」

「ああ、竜胆家のご当主弥杜徽だろ、正后様の姉さんの。」

「いや、あれ、カラスだよ。」

「ああ?」

 達と義葦は立ち上がり、議場の扉へ走った。扉を開けると、弥杜徽は燈羨の居る御簾の前に跪き、その御簾をじっと見つめていた。達は飛び出そうとしたが、義葦に体を抑えられた。

「待て、様子を見ろ。」

 弥杜徽は御簾の前から立ち上がると、議場の民衆へ向き直った。

「今、我が神苑の秘術の存在が日の下に晒され、帝国の不安を大いに煽り、また、我が妹の罪により多くの方がこの神言反呪の犠牲になったことを、皆様に深くお詫び申し上げます。」

 弥杜徽は膝を折り、深々と頭を下げた。女の声じゃねえか、と義葦が呟き、達はうーんと唸った。

「でも、おれも義葦さんもご当主様の本当の声聞いたことないでしょ。」

「そりゃそうだが。」

 弥杜徽は立ち上がり、議場を見渡すようにして声を張り上げた。

「我ら準神格家に伝わる禁術、神言反呪。代々当主にのみ伝えられる禁術ですが、神代から伝わるこの秘術を守るため、裏神格家である一族へ秘密裏に受け継いできたことは事実にございます。竜胆家の掟を破り、禁術を我が妹に伝えたこの麗威の罪は死に値致します。」

 騒めいていた議場がしんと静まり返った。

「ですが、われわれ信者は皆家族。彼女の罪はわれら神苑信者の罪なのです。我ら神苑の信者は、帝国の皆様へ罪を償わなければなりません。この国のすべての神苑信者の命を以って。」

 聴衆がその言葉の意味するところを理解するのに、しばし間を要した。ぽかんとしている聴衆をよそに、弥杜徽は麗威に視線を向けた。

「我が教典にはひとを殺めるための神言反呪が全部で十ございます。そうであるな、麗威?」

 麗威が頷くと、弥杜徽は燈羨に向き直った。

「燈の王よ。今、ひとを殺めるための十すべての神言反呪を明らかにし、神苑を信ずる最後の十一人の身を以って、罪を贖いましょう。神苑の信者よお立ちなさい。」

 その言葉に、騒めきの中から数人が立ち上がった。傍聴席、官職の席から立ち上がった数人と弥杜徽の従者、合わせて十人の神苑信者が弥杜徽を取り囲み、輪を作った。

 御簾の中から燈羨の声が響いた。

「やめろ!やめさせろ!」

 しかし燈羨の叫びを打ち消すように、弥杜徽は声を張り上げた。

「ひとつ!」

 輪の中の信者が一人、ぼそぼそと呪文を唱え倒れた。泡を吹き、息絶えていた。しんとしていた議場は割れるような悲鳴に覆われた。

「ふたつ!」

 また一人、呪詛を呟き死んだ。壇上の麗威が扉番の軍士へ声を張り上げた。

「観衆を外へ!」

 はっとしたように扉番が扉を開けると、我先にと傍聴席の人々が押し合い、外へ駆け出した。

「三つ!四つ!五つ!六つ!七つ!」

 その間にも弥杜徽は数えを止めず、信者が次々と息絶えていく。茫然とその様子を見ていた達が我に返ると、議場に残った傍聴者は達と義葦だけになっていた。御簾が上がり、燈羨が歩み出た。その瞳は怒りに濡れていた。

「弥杜徽、私刑は禁忌だ。たとえ竜胆家だろうと、この飛都で私事に刑を科すことは許されない!」

 屍の山を足元に築き、弥杜徽はベールに隠された顔を燈羨へ向けた。

「八つ。」

 また一人倒れ、泡を吹いた。死んでいく信者には目もくれず、弥杜徽はじっと燈羨を見つめた。

「昨日まではそうでした。九つ。」

 また一人倒れた信者の屍を踏み越え、弥杜徽は一歩燈羨に歩み寄った。

「竜胆家は、飛都帝国から独立致します。」

 煌玄の合図に、軍士たちが弥杜徽と一人残った信者を取り囲んだ。

「お止めください、弥杜徽様、刃を向けることになります。」

 煌玄の忠告を弥杜徽はせせら笑った。

「おやめになるのはあなた方、この者らが我らの声を聴けば即ち死の宮を見ましょう。」

 達はたっと床を蹴り、弥杜徽に向かって走った。弥杜徽に殴りかかり、そのまま馬乗りに押さえつけた。

「いくらでも言ってみろ!」

 ベールが捲れ露わになった顔は達の知らない女の顔だった。しかし、にやりと口角を上げた唇から覗いた歯列は、確かに見たことがあった。

「カラス!」

 弥杜徽の顔をした繰弄は達の足に足を巻きつけ、一瞬のうちに形勢を逆転し達を床へ叩きつけた。取り囲んだ軍士が一斉に斬りかかるが、繰弄は腰の刀を抜くといとも容易く峰打ちで軍士達を伸した。

「おれを倒したきゃ第一部隊持ってきなってんだよ。」

 鼻で笑い、繰弄は最後に残った信者へ指を向けた。

「さあ、最後の神言反呪です。」

 最後の信者が神言反呪を唱え、血を吐いて死んだ。

 誰もその場を動けずに、茫然と死者の折り重なる惨状を見つめた。繰弄は燈羨を振り向くと、芝居がかった仕草で両手を広げて見せた。

「これですべてお見せしました。ご覧の通り、我が準神格家に伝わる神言反呪に、蘭莉様の気爆術に似たる呪詛は一つもございません。珠峨殿の婢を殺めたは羅梓依の罪にあらず、さすればこの麗威も罪に問うことは出来ませぬ。あれを殺めたは蘭莉様の気爆術なり。」

 死の泉のほとりで水面を食い入るように見つめていた津柚はぐっとグレイスを睨んだ。

「おまえ、カラスになんてことさせやがる!」

 グレイスは心底鬱陶しいというように息を吐いた。

「あれは私の指図ではありませんよ。あれが勝手にやっているのです。まったく、私の目を逃れ何をしていたのかと思えば、私の信者を根絶やしにするなど酷いことを。」

 とはいえ、とグレイスは不可解なものを見るように小首を傾げ、津柚を見下ろした。

「人殺しは彼のお仕事ですから。昔からそうだったのでしょう?そんなに怒ることでしょうか?」

「せっかく生きてたのに!」

 グレイスはけたけたと笑い出した。

「生きている?あれが生きていると?今、彼が何でできているかわからないのですか?何を食い、その体が何で形作られているか。憎しみですよ。あなたには、いえあなただからこそおわかりになるのでは?どうしてそんなに怒っていらっしゃるのです?」

「憎んでいれば傷つけていいなんて道理はないぜ。」

 グレイスは目を瞠り、しげしげと津柚を見つめた。

「道理ですって。元鳥市のあなたが。ははあ、なるほど、だからあなたはひとり、千城から遠く離れ、憎しみを内に閉じ込めて生きてきたと言うわけですか。元鳥市のあなたがこんなにも理性的に生きているとは思いませんでした。理性で憎しみを飼いならすとは天晴れですが、人間にそんな芸当ができるとは思えませんね。」

 グレイスは津柚の首根を掴むと泉のほとりに這いつくばらせ、水面すれすれに津柚の顔を押し付けた。

「神から逃れたカラスの死霊が、抱え続けた憎しみにどう決着をつけるのか、ご覧になったらいかが?」

 水面に映る弥杜徽の顔をした繰弄は、刃を掴んだ手を頭上に掲げた。

「飛都帝国からの独立を宣言した今、この竜胆家は帝王燈羨の命を受けることなく、我らが信念のみに従い、信徒を処すことができる。」

 天に掲げた刃が、差し込む陽の光に煌めき、繰弄は目を細めた。

「我、ここに我を処し、神苑の正当なる遣い、神格家を廃す!」

 切っ先が宙に孤を描き、繰弄は自らの心臓に刃を突き立てた。

 津柚は思わず泉へ飛び込んだ。

 議場の燈羨は繰弄に駆け寄ろうとしたが、煌玄に引き留められた。倒れた繰弄はずず、と体を這わせ、燈羨に手を伸べた。

「燈の王、この世に信じるべき神なんていねえぜ。なくしちまったほうがいい、神なんて。」

 繰弄の体はぽろぽろと崩れ朽ちていく。

「あなたはもう殆ど死んでいるのですから、過ぎたおしゃべりは不相応ですよ。さあ、口無き屍におなりなさい。」

 その深く耳障りな声と共に、辺りが暗くなった。繰弄は力を振り絞り、辺りを見渡した。時が止まったように、繰弄の周りのすべてのひとが動きを止めている。白い靄が立ち上り、グレイスが姿を現した。

「ですが繰弄、私も鬼ではないのです。最後にご褒美を差し上げますわ。感動の再会を。」

 グレイスは涙ぐみ、指先で涙を拭った。その一滴の涙が、指先から床へ落ちていく。落下する涙の滴が膨らみ、その中から津柚が現れた。津由は脇目も振らずに繰弄へ駆け寄った。

「繰弄!!繰弄!」

 津柚が掴んだ繰弄の腕はぼろりと津柚の手の中で崩れた。

「津柚。」

「繰弄、いかないで、待って繰弄!」

「せいぜい、別れを惜しむがよろしいでしょう。」

 立ち去ろうとするグレイスを津柚は振り向いた。

「おい、おまえ!なんなんだよ、なんでこんなこと!」

 繰弄は手を伸ばし、津柚の腕を握った。肌に触れた手の温かさがぼろぼろと崩れる感触に、津柚は込み上げる涙を拭き、繰弄へ向き直った。

「津柚。恨むな。おまえは、呪いになるな。」

 涙を流す津柚に、繰弄は顔を近づけ、津柚にしか聞こえない声で囁いた。

「津柚、おれの遺言だと思って、聞いてくれ。」

 そして繰弄から語られた遺言を聞いた津柚は、驚きに目を見開き、繰弄を見つめた。

「本気か?そんなことができると思ってるのか?」

「ああ。できる、頼むよ、津柚。おれにできないことだっておまえはできるんだから、姉貴面してさ、やってくれよ。」

 犬歯を剥き出しにして繰弄が笑った。

 不穏な気配を感じ、グレイスは振り向いた。そこに居るのはグレイスにとっては死に損ないの三下と物語の主役にはなれぬ端役の女であるのに、なぜかグレイスの不安を煽った。グレイスは小さく息を吐いた。その吐息は砂嵐となり、繰弄の体を吹き消していった。津柚の腕の中から繰弄の体はぼろぼろと崩れ風に攫われていった。

 茫然と座り込む津柚の元へ、グレイスは歩み寄った。

「彼は、出会った時すでに死にかけていたのですよ。お友達に殺されて。あなたの大嫌いなあのお友達にです。あなたが恨むべきは私ではありません。」

「恨んでない、あんたのことは。もう一度、繰弄に会えた。」

 津柚は掌を開いた。小さな手の中に、繰弄の体を形作っていた土塊が残っていた。津柚はその土塊を口へ運び、飲み込んだ。津柚はグレイスを見上げると、手を伸べた。

「ほら、おれの手を取りなよ。おれが、繰弄のかわりにあんたの駒になってやってもいい。」

 異形の虫を見るようにグレイスは津柚を見つめた。心に入り込んだこの嫌悪感を、グレイスは理解できなかった。躊躇いつつ、津柚の手に手を伸ばした。初めて感じる心の変調にグレイスは戸惑っていた。微かではあるが自分では止めようもなく、指先が震えている。まさか、恐怖だろうか、とグレイスは首を傾げた。なぜ、私がこの娘に恐怖を抱くのか、まるで理解ができない。津柚がグレイスの手を力強く握り、グレイスは静かに津柚の手を放した。ロディ、と議場の隅の暗がりに呼びかけると、ペルが姿を現した。

「これはペル・ロディと言って世界を行き来する使者です。何でも言ってよろしいですよ。さ、ロディ、あとは頼みます。」

 グレイスが姿を消すのを見ながら、ペルは嫌な予感に胸が騒めくのを感じていた。津柚と自分の足元に文様を描き、議場から白山のご領地山中に移動した。それは死の淵のほとりだった。津柚は辺りを見渡したが、津柚をそこへ導いた翡翠の目の少女の姿はなかった。

「おい、おまえ。」

 津柚はペルを振り向き、手を差し出した。

「よろしく頼むよ。」

 ペルは恐る恐る津柚の握手に応じた。その手を取るや否や、津柚はペルの体を土に叩きつけ、関節を取って身動きを封じるとペルの十指の骨をすべて折った。

「あー!!何してくれんの!?何式の挨拶!?」

「繰弄の遺言でね。指を戻してほしかったらおれをアルへ連れていけ。」

「は?この指がなかったら文様が描けないからアルにも行けないよ!」

「だから交換条件だと言っている。」

「何言ってんの?頭おかしいんじゃないの!一回折れた指で能力使えると思ってんの!?」

「何言ってんだ?おれはあの義葦の弟子だぜ?じじいのように妖術遣いじゃないが、治癒の術は叩き込まれてんだ。治せるに決まってるだろ。ほら、言うこと聞けばいくらでも治してやるんだから、どこがいい?次は足か?腕か?おれの言うことを聞くか、次に骨を折る場所か、どちらでも選ばせてやる。」

 ペルは愕然として目の前の小柄な女を見上げた。そうだ、こいつも鳥市の一員だったのだと思い出した。鳥市ってのはどいつもこいつもろくでもないのだと忘れていたことを悔やんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ