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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
24/30

3幕 三人の王 3

 燈火の森の入り口に、その訪問者が立つや否や、宙に浮遊していた妖魔の魂が、一斉に騒めきだし、妖魔の虫や小動物も、ぎょっとしたように住処へ逃げ帰った。足を踏み出すごとに、妖魔の魂が道を開いていく。

 達は灯己の屋敷前の階段で手すりに寄りかかり昼寝をしていた。常冬の千城には珍しい小春日和で、陽の当たる階段は昼寝にうってつけの場所だったが、わざわざそこを昼寝場所に選んだのではなく、家の鍵を灯己から預かるのを忘れ、灯己の帰りを待つ間に寝てしまったのであった。ぽかぽかと陽を浴び気持ちよく寝ていた達は、不穏な気配に鼻をくすぐられ、目を開けた。

 達の目の前には、赤い癖毛の背の高い少年が立っていた。達は目を擦り、その少年を見つめた。どう見ても晶だと思った。しかし、達の知る晶とは全くの別人にも見えた。まず背が高い。体つきもまるで青年のようだ。そして、目が赤い。

「晶、なの?」

 恐る恐る達は尋ねた。少年が僅かに頷いたように見えた。達はいっぺんに目が覚め、がたりと音を立て立ち上がった。

「晶!探してたんだよ!ねえ、戻って来たの?灯己のところに。」

 駆け寄ろうとした達を、晶は掌で制した。透き通った赤い目の冷たさに、達はどきりとした。

「あなたがここにいるのが見えたので、お礼に来ました。」

「お礼?」

「母を、殺していただきありがとうございました。」

 頭の先からつま先へいっぺんに体温が下がるのを達は感じた。

「おれがやったんじゃ、」

 晶は達の言葉を遮るように達の義手を指差した。

「あなたが母を殺し、封印を受け継いでおれの力を解放してくれた。感謝します。」

 達は言葉を継げなかった。喉に異物が貼り付いたようだった。

「ここはあなたの世界じゃない、もう帰られたほうが身のためです。」

 達は大きく息を吸い、唾を飲みこんんだ。帰れないんだ、と言った。

「おれ、今あんたの母ちゃんの夢の中にいるんだ。ペルが仕えてる神苑の死の宮ってところに行って、なんかいろいろやって風見さんに夢から覚めてもらわないといけないんだけど、それ、すげえ大変らしいの。だからもうこっちで暮らそうと思ってる。」

 それに、と達は言葉を続けた。

「おれ、あんたのこと、母ちゃんから頼まれたんだ。」

 少しも表情を変えずに達を見下ろす晶の赤い瞳を、達は真っ直ぐ見つめた。

「なんでグレイスのところに行ったの?灯己のところに戻ってきなよ。あんなに、幸せそうにしてたじゃん。」

 不意に晶が口角を上げ、鼻で息を吐くように笑った。

「戻れないですよ。おれにはやるべきことがある。」

「なにを?」

「玉座を取り戻します。」

 冷たい風が晶の赤毛を撫ぜて過ぎた。

「それに、この国の秩序も。」

「秩序?」

「妖魔の王とその主がこの国の覇者でなければならないのです。この国の秩序を保つためには。それがこの血を受け継いだ者の責任です。国の秩序を守ることができるのはこの妖魔の王を継いだ者だけ。帝となるべきものの義務です。」

 澱みなく紡がれる晶の美しい声は、他人が書いた台本を読まされているようだった。まるで心が籠っていない。

「それ、本心?」

 達の言葉に、晶の口の端が僅かに笑ったように見えた。

「秩序を取り戻したいのは本心ですよ。この国は、妖魔の王が治めるべきなんです。そうやってずっと秩序を保ってきた。」

「アルのおれから言わせてもらえば、君子に求められるのは血筋でも腕力でもない、人格と才覚だろ。あんたにはそれがあるのか?少なくともおれは、自分の母親を殺してくれてありがとうなんて言う君主は嫌だね。人間がなっちゃいないよ。それにおれさ、あの帝王のことはちょっと買ってるんだ。」

 晶はしげしげと達を見つめた。

「買っている?あの帝王を?馬鹿なんですか?あれは奇鬼です。この世にいらないモノなんですよ。」

 達は目を瞠り、晶を見つめ返した。

「何言ってんの?生まれて来たからにはいらないなんてこと絶対にないよ。」

 晶の目に怒りの炎がちらついたのを見たと思った瞬間、晶の肌からどす黒い陽炎が立ち上り、二人の周りは一瞬で炎に包まれた。達はぎょっとし晶に詰め寄った。

「何してんの!?」

「要らないんですよこの世に奇鬼なんて、まして燈一族には、そう教えられてきたんですからおれは、この身をもって。」

 達は振り返った。灯己の館にも火が回り、炎が立っている。達は晶に掴みかかった。

「消せよ!灯己が帰って来られなくなるだろ!」

「もう、帰る場所なんてないんですよ、おれにも、あのひとにも。」

「いや、そういうんじゃなくて物理的な問題で!」

 燃える盛る炎に照らされる晶の少し幼い面影が残る頬と、達を見つめる温度の無い赤黒い瞳の不釣り合いさに、達は戸惑った。あんなにかわいくて素直だった晶が、なぜこんなことになってしまったのか、おれが風見さんを死なせてしまったからなのか。そう思うと涙が滲んだ。胸ぐらを掴む達の手を晶は簡単に捩じり、達は尻餅をついた。

「あの奇鬼の王を買ってると言いましたね?見せてあげましょうか、あれが本当はどんな王なのか。」

 すっと手を差し出された晶の手を、達は反射的に握ってしまった。晶が達の手を握った瞬間、二人は異空間へ投げ出された。見渡す限りが闇だ。

「北の禁域をご存知ですか。」

 ぽかんとしながら、達は晶の問いに答えた。

「え、ああ、正后様が捕らえられていたあれ。」

「ここがそうです。」

「え?」

「見せてあげます、おれの記憶を。」

 晶がぐっと達の襟を引き寄せ、達の額に自分の額をつけた。

「あれがどんな帝王か、よく、目を見開いて、この目を見てください。」

 言われた通りに赤黒いその瞳を覗くと、晶の姿は消え、暗闇の中の檻の中に、達は一人で佇んでいた。一度同じように灯己の瞳を覗いたことがあったことを達は思い出した。あの時はただ灯己の記憶を見ただけだったが、今、晶の記憶がまるで達の記憶のようにすり替わり再現されようとしているのだと気付いた。どんどんと体がだるく、重くなり、倦怠感に耐えられず達は牢の中に座り込んだ。体中が痣だらけ傷だらけで血が滲んでいる。どこもかしこも痛い。不意に暗闇に切り込みが入り、僅かに光の線が見えた。ギイっと音がし、扉が開いたのだと分かった。扉はすぐに閉まり、再び闇となった空間に、仄かな明かりが灯った。揺らめく蝋燭の火影に、少年の姿が浮かび上がった

「晶。」

 少年の引き摺る金属の棒が床を擦る。

「晶、遊びに来てあげたよ。」

 牢の錠を開け、少年は牢へ足を踏み入れた。

「ほら、嬉しいだろ?ほら、もっと喜んでよ、ほら、もっと声を上げて嬉しそうに。」

 少年の振り降ろした金属棒が冷たい床を叩く、その音が耳の中にぐわんぐわんと跳ね返り、達は眩暈を覚えた。後退りしようとするが、体が重く思うように動かない。

「逃げないで。遊ぼう。僕と一緒に遊ぼうよ。」

 見上げた達の目に映るのは仄暗い狂喜に塗られた幼い燈羨の顔だった。

 燈羨が金属棒を振り上げ、達は思わず頭を抱えて叫んだ。達が叫べば叫ぶほどに、容赦なく振り降ろされる憎しみは達の肌を打ち骨を折った。終わりがなかった。どれ程の時間嬲られ続けたのかわからなかった。ふと達が目を開くと、達が見ているのは晶の瞳だった。

「まだ三日目です。」

 息も絶え絶えに喘ぐ達の胸元を離し、捨てるように晶は達の体を放った。

「こんなもんじゃない。おれは毎日こうやって兄と遊び続けなければいけなかった。あの日グレイスが現れ、師姉に外へ連れ出されるまで、何年も何年も何年も毎日毎日毎日。」

 重かった体のだるさが消えていることに気付き、達は身を起こした。しかし、体の痛みは残っていた。

「ねえ、晶。あんたの親は、あんたが燈羨にいじめられてることを知らなかったの?」

 晶は目を見開き、達を見下ろした。それまで表情の乏しかった顔に、明らかに動揺の色が差した。憎まれていたから、と晶は口籠った。

「憎んでいると言われたことがあったのか?」

 晶の頬が奇妙に歪んだ。

「おれは父親の顔を知らない。一度も会うことを許されなかった。それは、おれが父親から力を奪った存在だったからだ、だから、父からも、兄からも憎まれた。」

「本当にそうだったの?確かにあんたの記憶は散々なものだけど、燈羨とちゃんと話したことないだろ?おれは燈峻帝を知らないけど、晶は風見さんと燈峻帝が恋して望んで生まれた子だよ、賢帝って言われた燈峻帝がその子を牢に閉じ込めて育児放棄するなんて考えられない。グレイスなんじゃないの?ねえ、風見さんと取引したグレイスが、そうさせたんじゃないの?」

 口を開こうとした晶が、ふっと気を失ったように膝から崩れ落ち、闇の中に蹲った。

「晶!?」

 晶に駆け寄ろうとし達が立ち上がったその時、闇の中に花が咲くように開くものがあった。それは金の瞳を持つ二つの眼球であった。大きな二つの目が達をじっと見つめ、笑うように形を変えた。

「お初にお目にかかります。グレイシー・ディティと申します。眼球のみのご挨拶で大変失礼致します。」

 達は二つの眼球に食って掛かった。

「謝るとこそこじゃないんだけど!おれあんたにはハラワタ煮えくり返ってんだよ!」

 物怖じしない達の態度に、グレイスは一瞬目を瞠ったが、笑うようにそれを細めた。

「まあ、初対面ですのにひどいことを仰って。」

「うるせえ。全部自分で仕組んだくせに、あたかも人のせいでそうなったみたいに思わせて争わせて、汚ないんだよ!あんたなんだろ、晶をあの変な牢屋に閉じ込めたのは、それで燈羨の憎しみを晶にぶつけて、何年も何年も憎しみを育てて今こうやって兄弟が争うように、初めに種をまいたのは、なあ?だって、あんたは風見妙から晶をもらう約束をしてたんだから、晶を燈峻帝から引き離すことができたのはグレイシー・ディティしかいないんだから。」

 グレイスは答えず、達をじっと見ていた。

「おれは燈峻帝のことなんか知らないけど、あの風見妙があんなにも好きになった男なら、自分の息子たちをそんな目に合わせるはずがない。」

 グレイスは長い溜め息を吐いた。その溜め息はやがて苛立ちの吐息に変わった。

「ああ、ああ、ああ、あなたを殺してしまいたい、今すぐ!」

 闇の空間がいっぺんに殺気立ち、達は思わず息を飲んだ。

「ですがあなたは今死者の夢の中。私には手が出せないのです。忌々しい。死の宮を手放してしまったことが悔やまれますよ。」

 言葉は穏やかだが、おぞましい殺意に、達は肌が総毛立つのを感じた。

「あなたのような清く正しいアル人が私に反感を覚えるのはもっともなことです。ですが、あなたには関係のないことなのですよ?この世界に、あなたは関係がない。あなたも、あなたの意志も、この世界には要らないのです。」

「おれにはもう、アルに帰るという選択肢はないんだ。だから、おれの世界はここだ。」

「ロディと仲違いでもされましたか?」

「ペルは、今もあんたを慕ってる。それを知ってしまったから、おれはペルを頼れない。」

 ふん、とグレイスは鼻を鳴らした。

「ばかですね、あなたのような清く正しいアル人がこの世界で生きていけるとでも?」

 達はグレイスの両目に真っ直ぐに向き直った。

「生きていく。」

 乾いた声でグレイスが笑った。

「あなたは世界を知らないからそんな大口が叩けるのですよ。ですが根拠のない虚勢は時に人を魅了するのですから不思議です。そして強い運命の星を背負う者は虚勢を現実にしてしまう。あなたはご自分がその星のもとに生まれたとでもお思いですか。」

「そんなこと考えたこともない。」

「でしょうね。あの燈王でさえ、はじめはそうでした。」

 グレイスはそこで黙り、晶、と声を掛けた。肌がひりつくようだったグレイスの殺気がいつの間にか和らいでることに達は気付いた。グレイスが呼ぶと、魔法が溶けたように晶が意識を取り戻した。

「晶、達を飛都へ戻して差し上げなさい。このようなアル人一匹が出しゃばったところで一体何ができるというのです?」

 口を開こうとした晶を、グレイスは鋭い眼差しで制し、達へ視線を移した。

「達。この闇を出たら、灯己の元へお行きなさい、そしてこう申すのです、燈羨帝の弟はグレイシー・ディティと共に居る、名を燈晶、幼名を晶、赤毛で頬に傷があり、幼少期を北の禁域で過ごしたと。」

 晶、とグレイスに呼ばれ、晶はぎくりとしたように身を固くした。

「ここに達を隠したところで、つまらぬ時間稼ぎにしかなりませんよ。」

 晶は目を閉じ、小さく深呼吸を繰り返した。目を開け、手を達に差し出した。

「師姉に、伝えてください。」

 達は晶の顔を見上げた。赤く燃えるような瞳が、しっかりと達の視線を受け止めた。

「飛都の帝王はおれです。あの偽物を選ぶことは許さない。師姉の片割れは燈羨じゃない。おれです。」

 晶の手がぐっと力を込め達の手を掴んだ。その途端に檻が割れ、暗闇が弾け飛んだ。

 我に返ると、達は灯の森に戻っていた。晶とグレイスの姿はなく、灯己の館は無残に燃え落ちていた。まだ燻る火が、ぱちぱちと音を立て木材を燃やしている。達は晶に握られた手を見た。それから森の奥に聳える、千城を顧みた。



 夏の昼下がり、大きな白い雲がゆったりと青空を流れていくのを、達は裏街のぼろ屋の二階で欄干に頬杖をつき眺めていた。灯己の屋敷が燃えてから三日が経っていた。

 一階から、おーい、と呼ぶ声が聞こえた。

「おーい、達!いるんなら返事しな!」

 聞き覚えのある声に、達は、ほーい、と返事をした。

 階段を上がってくる足音が聞こえ、雨寂が襖を開けた。

「ほーいじゃねえよ間抜け面して。」

 雨寂が切り盛りする飯屋「松江」は灯己に呼び出されたのがきっかけで、それからも達は何度か一人で昼飯に訪れていた。灯己は達を自分の手先だと紹介し、達もそれを特に否定しなかったため、雨寂からはそう思われているようだった。いつもタダで食べさせてくれた。

「何でここ居るってわかったんですか。」

「おめえじじいと仲いいだろ。じじいの隠れ家順に回ったんだよ。しかしまあ、おめえが行くとこ火事ばっかりだな。前に住み込みしてた妓楼も火事んなったし、師姉の館も火事だ。おめえがやってんのか?」

 達は苦々しく顔を顰めた。

「違いますから。ほんと勘弁して。」

「どうだかなあ、じゃあしばらくどこ行ってたんだよ?」

「えーと、ちょっと異空間に。」

 雨寂は胡散臭そうに達を眺めた。

「いや、これ本当なんで。」

 雨寂は肩を竦めた。

「まあ、いいけどよ。師姉が心配してたぜ、姿がみえなくなったって。おめえの放火だなんて師姉は疑ってねえから、師姉のとこ行ってやれよ。」

 姿を隠した訳ではなかったが、晶と会ったあと、達は、館が焼けてしまったので別のところへ行きます、とだけ雨寂の店の店員に伝言を頼み、義葦の隠れ家のひとつを貸してもらった。晶のことを灯己に伝える気になれずにいた。

「おめえ、千城に留まるつもりなら働き口探さねえと、師姉の頼みだっていつまでもうちでただ飯食わせるわけにはいかねえんだからな。」

 灯己の世話焼きめ、と達は心の中で呟き、欄干に頬をつけ溜息を吐いた。

「ねえ、晶って、どうして鳥市に入ったんですか?どっから連れて来たの?」

 晶?と雨寂は意外そうな顔をした。

「晶は鳥市じゃねえよ。師姉が千城で拾ったんだ。」

 達は驚き雨寂を振り返った。

「え?千城で、灯己が?」

「あいつの素性についちゃおれも知らねえんだが、初めて会ったとき、あいつは牢に繋がれててさ。異様な感じがしたな。ちっせえ子供が、広い牢に一人でボロきれみたいに転がって、足枷までついて、どう見たって尋常ななりじゃねえだろ、おれは関わらないようにしようって言ったんだが、師姉が妙に気にしてさ。」

「灯己が、晶を牢から連れ出したの?」

「カラスが燈峻帝を殺した日だよ。あの日、師姉とカラスで千城に行って、師姉は晶を連れて戻ってきた。」

 しばらく、雨寂は口を閉じ、記憶の澱を掬い上げているのか、ぼんやりとした。

「なんでこんな餓鬼って、思ったよ。何でこんな餓鬼、師姉が助ける必要があるって。聞いたら、師姉はこう言ったんだ。初めて、ひとを救いたいと思ったって。ひとを殺すことしか考えたことの無かった自分が、初めて、生きていてもらいたいと思ったって、晶には。」

 達は目を瞑り、その台詞を口にする灯己の姿を思い描いた。

「牢に繋がれていた訳を晶は?」

 雨寂は首を振った。

「おれたちは逃げるのに必死で、それどころじゃなかったし、あいつも喋ろうとしなかった。そもそもほとんど言葉を知らなかったんだぜ。だから色々教えてさ、三年なんてあっという間だった。やっと落ち着いて店開いたころにはもう出生とかどうでもよくなったてたな、情が移っちまったし。」

 雨寂は俯いていた顔を上げた。

「晶の何が知りてえのか知らねえけど、晶は素直でいいやつだよ。家族として、それだけは言えるぜ。」

「それ聞いたら喜ぶだろうな。」

 ようやく、決心がついた。

「おれ、ちょっと灯己のとこ行ってきます。」

 勢いよく立ち上がり、階段を駆け下りた達の背に、雨寂が叫んだ。

「あ、おい、働くとこなかったらうちで雇ってやってもいいぜ。」

「うん、考えとく!」

 達は通りに走り出した。


 執務室で向かい合う灯己の顔を、燈羨は静かに睨んだ。

「麗威の記憶を消す?」

「ああ。」

 白い燈羨のこめかみに浮かぶ青筋を、灯己は珍しいものを見るように眺めた。

「記憶を消してなかったことにしようと言うの?灯己がそうしたように?」

 ぴんと幕が張ったような緊迫感に、夕凪と舞霧はおろおろと燈羨と灯己の顔を交互に見やった。

「そうだよ。」

 灯己は低い声で答えた。

「そもそも麗威は親から神言反呪を受け継いでいなかったということにすればいい。あれを羅梓依に教えたのが麗威だと知っているのはここにいるおれ達と煌玄だけなのだから、手の打ちようはある。羅梓依が実家の秘伝を勝手に習得したと言ってそうでないと証明できる手段はない。もう死んでいるんだしな。」

「灯己らしくもない、ずるい手だ。」

 灯己は口元を緩めた。

「おれらしい?おれは昔からずるくて汚いぜ。」

「そんなことないよ。どうして僕を怒らせるの?」

 灯己は燈羨から目を逸らし、息を吐いた。

「麗威は生きているべきだ。あいつが生きていくには、知らなかったことにするしかないんだ。」

「僕だって麗威が生きることを望んでいるよ。だけど、そんなやり方で、麗威が本当に生きていけると思うの?自分の罪を忘れて。」

 灯己が燈羨に視線を戻すと燈羨の真っ直ぐな眼差しにぶつかった。

「僕は、麗威がどれだけ羅梓依を好きだったか知ってる。僕ならば己が罪を忘れたくない。愛する人を破滅に導いた罪ならば尚更。」

 灯己は息を吐き、燈羨を見つめ返した。

「羅梓依を破滅に導いたのが麗威だと?」

 燈羨はその眼差しを受け止めた。

「僕だよ。」

 だからこそ言っているんだ、と燈羨は言葉を続けた。

「僕に神は味方しない。だから、僕自身が僕の臣を幸せにしなきゃいけないんだ。」

「ならば幸せにしろ、麗威が生きてさえいればこれからお前の努力でいくらでも幸せにすることができる。そうだろう?まずは生きていなければ始まらん。」

 扉が叩かれる音に、緊張の糸を張り続けていた双子はどきりと体を震わせた。扉の外から煌玄の声が灯己様、と呼んだ。舞霧が駆け寄り、扉を開けると、煌玄とその横に伝令の軍士が膝を折っていた。

「失礼仕ります。達と申す者が、元帥に謁見を求めております。」

「達が?」

 灯己は目を瞑り、炎鷲の目を借りた。大門の傍で手持無沙汰にしている達の姿を見た。私が参りますわ、と夕凪が申し出た。

 夕凪の背を見送り扉を閉めようとした舞霧は伝令の軍士がまだそこにいることに気付いた。

「まだ何かあるか?」

 煌玄の問いに、軍士は低頭したまま、蘭莉様のことにございますが、と言った。

「御処分はお決まりになったのでしょうか。」

 灯己と煌玄は顔を見合わせた。

「第二部隊の者か?蘭莉のことは気になるだろうが審議には時間がかかるゆえ、」

 煌玄の言葉が終わるのを待たずに軍士が口を開いた。

「やはり、魂の処刑をなさるのでしょうか。それとも、咎を麗威様にお被せになり、麗威様をご処分なさるおつもりで?それともまさか、すべて羅梓依様の罪とし、お咎めなしにされますか?」

 一同はぎょっとし跪く男から一歩足を退いた。灯己は刀に手を掛け、声を張り上げた。

「所属隊と階位、名を名乗れ。口が過ぎる。」

「名乗る名はございませんが、昔から皆様にはこう呼ばれております、呪い憑き、と。」

 俯いていた顔を上げた伝令の、前髪の奥から覗く金色の目玉。

「燈一族に憑りつき永き時を過ごしてまいりましたが、自らこの呼ばれ名を口にしたはこれが初めてでございますよ、燈羨様。なぜだかお分かりにございますか?これほどまでに、私の意に沿わぬ帝王はあなたが初めて。ぜひご退位し真の帝王に玉座をお譲りなさいませ。偽りの王よ。」

 灯己はつかつかと軍士の前に進み出ると、剣を抜きざまに軍士の首を落とした。息を飲む一同を振り向き、灯己は言った。

「金の目玉を持つはバケモノだ。」

 首を落とされた軍士が、くくく、と笑った。首のない体がぐにゃりとしなり、溶けた。

「さすがは灯己様、私の目玉を分けた者よ、よく存じていらっしゃる。」

 軍士の首から流れ出る血が、どんどんと絨毯に染み渡り、同時に軍士の頭も溶け、血溜まりの中に金の目玉だけが残った。血の波に押され、金の目玉がころころと燈羨の足元へ転がった。その場の全員が、あ、と息を飲み、燈羨の元へ駆け寄ろうとしたその時、突然、絨毯の血が、一斉に空中に跳ねあがり、宙で止まった。やられた、と灯己が思った時には既に遅かった。時が止まったように、体が動かない。空気が弾力を持ち、瞬きをすることすらできない。金の目玉だけが重力などないようにぽんと跳ね、燈羨の耳元で止まった。目玉から順に人型が形成されていき、それはグレイスの姿となった。グレイスは長い爪で燈羨の頬を撫ぜ、首に手を添えた。

「古くは神苑の呪い憑き、今はグレイシー・ディティと呼ばれております。この姿をお見せするのは、歴代帝王の中でもあなた様が初めてですわ、燈羨様。」

 その威圧的な存在感に、煌玄と舞霧は息もできないほどに気圧された。煌玄が子供の頃に見たあの紫芭に似て、しかし紫芭とは比べものにならない恐怖。グレイスはにこりと笑った。

「お約束しましたでしょ、憶えてらっしゃいますか?極上の悪夢を御覧に入れますと申しましたこと。」


「なんかさあ、もうちょっと灯己に気軽に会えるようにならないの。」

 緋天殿の廊下を進む達は前を歩く女官に声を掛けたが、夕凪と名乗ったその女官は聴こえていないかのように前を向いて歩いて行く。

「ねえ、聞いてます?こんな城の奥深くに居られたら緊急時に連絡取れないから。」

 聞こえよがしに、夕凪は大きな溜息を吐いた。

「灯己様が燈一族のお血筋であるとわかった今、緋天殿にお住まいになるは当然のことです。それに、御身分を隠さねばならぬのですから瞳の赤いうちはおいそれと人前にお出になることは不可能ですわ。」

 達は、えー、と不満の声を上げた。

「緋天殿に入ることを許されるは三位以上の官職のみですから、それほどまでに灯己様にお会いになりたければ三位以上の官職におなりなさいませ。」

「そんなん無理でしょ。」

「無理でございましょうね。そもそも、あなたは今も脱獄犯として手配中なのですよ。よくもまあのこのこと千城へおいでになれますこと。」

「それ!なんで誤解解いてくれないかなー。灯己さ、完全に忘れてるよね、気付いてるなら言ってくださいよ灯己に。」

 夕凪はつんと顔を背けた。

「あのう、なんか嫌われてます?おれ。お会いするの初めてですよね?この前義葦さん連れて来た時門のところに迎え来てくれたのもう片方の方でしたもんね?」

 夕凪ははっとして達を振り返った。

「私と片割れの区別がおつきになりますの?」

「え、似てないですもん。もう一人の方はもうちょっと人懐っこいかんじですもん。」

 夕凪は、ち、と舌を鳴らした。それは夕凪が長年抱き続けた劣等感だった。

「別に嫌ってはおりませんわ、ただ、灯己様は私的な配下を持たないとおっしゃっていましたのに、こんな何だかよくわからない生き物を知らぬ間に手先にしているなんてずるいですわ。」

「え?灯己におれみたいな優秀な同志がいてずるいって?」

 夕凪はじろりと達を睨んだ。

「違います!あなたがずるいと言うのです、灯己様は私たちがどんなに志願しても配下にしてくださらなかったのに!」

「灯己の手先になりたいの?」

「申すまでもありません、炎鷲殿の配下になれるなんて全妖魔の憧れですわ。」

「だって城の仕事あるじゃんあんた、帝王付きの女官長って一番偉いんだろ?」

 ふん、と夕凪は鼻で笑った。

「ただのお目付け役に過ぎません。他の妖魔が帝に近づかないように見張るだけの。私ども双子はこの世の嫌われものですから、私どもがお傍についている限り、滅多な妖魔は帝に近づきません。」

「嫌われ者?なんで?どこが?性格きついから?」

 またしても舌打ちをしそうになったが、舞霧から窘められることを思い、夕凪は息を吐いた。

「私と舞霧は、同族食いなのです。」

「同族食い?」

「倫理観を持たぬ妖魔が唯一嫌悪すること、それが同族食いです。子供の頃、大変な空腹を強いられた私と妹は、親兄弟親族皆殺しにし、喰いました。あと少し腹がすいていたら、互いを喰らっていたでしょうね。ですが、親兄弟親族を食べ終えたところでぴたりと食欲が止まりました。」

 夕凪は達の顔を見ないよう、努めて前を向いたまま続けた。

「あの双子に近づくと食われると、この世のすべての妖魔から忌み嫌われる私たちですから、こうして燈羨帝のお傍に仕えることができるのです。」

「いつから燈羨の傍に?」

「燈羨様がこの世に生まれ落ちた瞬間から今このときまでずうっとにございます。」

 へええ、と達は感嘆の声を漏らした。

「じゃあ、燈羨は幸せだね。」

 予期していなかった反応に、夕凪は思わず立ち止まり、達を振り返った。

「今、何と?」

「え?」

「幸せと?」

 達はきょとんとしていたが、ああ、と頷いた。

「だってあんた知ってんだろ?燈羨の中に王魔がいな」

 達がその言葉を口にした途端、ぶわっと夕凪の髪が逆立ち、妖気がいっぺんにあふれ出した。ひとの形を捨てた夕凪は禍々しく鋭い嘴を持つ鳥となり、達の口を翼で塞いだ。壁際に追い詰められた達は夕凪の高圧的な妖気で壁にのめり込みそうになるのを必死に耐えた。

「言ってはいけません。」

 夕凪の瞳に睨まれ、達は何度も頷いた。

「二度と言わぬと?」

 妖力に圧迫され骨が軋む。達は必死に頷いた。夕凪はやっと力を緩め、達はその翼から逃れると口の中から羽を吐き出し、肩で大きく息を吸った。

「死ぬわ!」

 振り向くと夕凪はひとの形に戻り、すました顔をしていた。

「それを知ってもこんな力いっぱい守られてんだから、燈羨は幸せ者だよ!」

 夕凪は小さく首を振った。

「共犯だからです。この国の民に、嘘を吐いているのですから。しかしそうしてでもお守りしなければならない。とても弱い方なのです、我が帝は。」

 達はうーん、と唸り、でもさ、と言った。

「おれ、花街で働いてるとき昼間暇だからお姉さんたちにこの国の歴史とか伝説とか聞いてたんだけどさ、阿陀良の時代は千城の街中でもしょっちゅう争いがあって人が殺されたり、燈峻帝の時代も地方豪族がどんどん反乱起こして、豪族同士の戦争もいっぱいあったけど、燈羨の時代になってから地方で争いが起こったことも、千城の街中で戦火があがったこともまだ一度もないって、平和になったって、お姉さんたちがすげえ誉めてたよ、燈羨のこと。」

 燈羨帝は弱いんだろうけどさ、と達は続けた。

「だから、わかってるんじゃないかな、みんなが自分を守ってくれていること。」

 夕凪は目を瞠り、達を見つめた。

「それはもしかしたら今まで飛都で描かれてきた帝王の姿ではないかもしれないけど、おれはいいと思う。おれは好きだよ。そんでそう思うひと、おれの他にもいると思うよ。」

 靄が晴れるようにゆっくりと心が温まってくのを、夕凪は感じていた。しかし同時に足元からは床を凍てつかせるような不穏な冷気が昇ってくるのを感じていた。恐る恐る足元に視線を落とした夕凪が見たものは、赤い絨毯に転々とついた黒い染みだった。その染みは帝王の執務室の扉へ続いている。嫌な予感がした。夕凪の額に脂汗が浮かぶのを見た達は、すぐにその染みがよくないものだと理解した。

「あの扉は?」

「燈羨様が。」

「行こう!」

 達は夕凪の手を取り、扉へ走った。達が扉へ辿り着き、勢いよく開けた途端、二人は弾力のある空気に掴まれるようにして部屋の中へ吸い込まれた。大きな音を立て、扉が閉じられた。

「遅いではないですか、達。」

 部屋の中に転がり込んだ達と夕凪は、弾力のある空気に上から抑えつけられ、声のする方へ僅かに眼球を向けることしかできない。燈羨の後ろにグレイスの姿を認め、達は奥歯を噛んだ。

「あなたがいつまでもお打ち明けにならないので、私がこうして進行役を買って出ましたのよ、楽しいお知らせをあまりお待たせしてはいけませんわ。本日お集まり頂いたのはほかでもございません、達殿から皆様にお知らせがございます。」

 口を開こうとするが、重く、動かない。達はすべての神経を口元に集め、ぐうっと僅かに開いた唇の隙間から声を絞り出した。

「そのひとから離れろ。」

「嫌です。私、燈の一族が大好きですの、離れたくありません。」

 達はなんとか眼球を動かし、部屋を見渡した。腰の剣に手を伸ばそうとしている煌玄と灯己はしかし時が止まったように体を動かせずにいる。口を開こうとする達を面白そうに見ていたグレイスが、思いついたように、達へ口づけを投げた。グレイスが笑うと、釣られるようにして達の唇が笑った。

「燈羨帝には弟がいる。」

 全員がぎょっとしたように達へ視線を向けた。グレイスはにこりと目を細め、唇を動かした。その通りに、達の唇から声が零れ落ちていく。

「燈羨帝には弟がいる。名を燈晶、幼名を晶、赤毛で頬に傷があり、幼少期を北の禁域で過ごした。」

 茫然とする面々をよそに、グレイスは首を傾げると、ぽとり、と金の右目を掌の中に落とした。グレイスはその目玉を床に投げた。目玉は鞠のように跳ねて転がり、達の目の前で止まると、達の額に吸い込まれるようにしてのめり込んだ。達は叫ぼうとしたが、唇が動かず、うめき声となった。

「さあ、ショータイムです。達、あなたが見たものを、皆様に見せて差し上げなさい。」

 グレイスが指を弾くと、達の額の目玉から一筋の光が伸び、壁に映像を映し出した。それは達が晶の瞳の中に見た、幼い晶の記憶だった。晶の目の前に立ちはだかる少年の、狂気に満ちた瞳がこちらを見下げる。

「おっとこれは失礼、音声が。」

 グレイスが再び指を弾くと、鼓膜を裂く晶の絶叫と、狂乱したような燈羨の笑い声が轟いた。耳を塞ぎたくても塞げず、目を瞑りたくても瞑れない。ただ、愕然としてその映像を見、その声を聞き続けるしかなかった。燈羨の目から涙がこぼれ、宙に浮遊するのを達は見ていた。見ていられなかった。達はぐうっと力を集中し首をもたげ、床に額を打ち付けた。音が止み、映像が消えた。達の額から、半壊した目玉が落ち、床に転がった。グレイスは片眉を上げて見せた。

「私の大事な目玉を潰すとは、ひどいひと。」

「くそくらえだ!何がしたいんだてめえは!」

 グレイスは片目で冷たく達を見下ろした。

「申しましたでしょう。」

 グレイスはその冷たい視線を灯己へ向けた。

「灯己様。私は、あなたを不幸にしたいのです。それだけです。それだけのために私は、何度でも参りましょう。灯己様、あなたのせいなのですよ、あなたはここへ戻ってくるべきではなかった。あなたがここへ戻らなければ、この帝王もこんな不幸な思いをせずにすんだでしょうに。」

「てめえで仕組んだんじゃねえのかよ!」

 叫ぶ達を忌々しそうにグレイスは見た。

「いいえ。灯己様を千城へ導いたのはこの帝王です。」

 そう、その通り、とグレイスは呟き、突然に笑い出した。

「ははは、ははははは、ああ、そうでした、ですから、帝王様、あなたは自ら好んで不幸になることを選んだのですよ、紫玉楴を呼び戻したのはあなたなのですからね、今日こうして不幸な目に合うことも、あなたが選んだ選択なのです。ああ、可笑しい。これ以上辛い思いを灯己様にさせたくないのでしたら、今すぐ、解放なさい、あなたの御心から、灯己様を消し去りなさいませ。」

 燈羨は僅かに目玉を動かし、グレイスを見上げた。燈羨の瞳に文字が浮かんでいるのを、グレイスは怪訝に見つめた。

<灯己は僕の意志に命を繋がれた犬、一生僕の傍を離れることはできない>

 グレイスの顔色がさっと青褪めた。

<妖魔の半身を分かつことがなくとも、僕と灯己は互いの魂を分かつ>

<僕には力がなくとも、僕はこの国の帝王であることができる、この国がわかる、民衆の心がわかる>

<僕にはわかる、あなたの心も>

<あなたは>

 はっとしたようにグレイスは乱暴に燈羨の胸ぐらを掴むと、思い切り横っ面をひっぱたいた。

「ばかなことをして私を怒らせましたね。やってごらんなさい、力のないあなたにどれ程のひとがついてくるか、やってごらんなさい!」

 雷が鳴り響き、稲妻が走った。闇となった瞬間に空間が弾力を失い、皆、その場に倒れた。灯己は急いで身を起こし、稲妻の明かりに映し出される面々の姿を確認した。グレイスの姿はなかった。気配も消えている。灯己は燈羨に駆け寄った。

「燈羨!」

 駆け寄った煌玄が燈羨を抱き起すと、燈羨は気を失っていた。


 グレイスは闇の中に居た。暗闇の中で足を組み、膝に頬杖をついていた。グレイスがつま先で闇を叩くと、足元から雷鳴が轟き、いくつもの稲光が地上へ落ちた。長い爪を噛み、忌々しそうに下界を眺めた。

「死ねばいいのに。ねえ、そうは思いませんか、ロディ。」

 闇はしんとし、グレイスに答えない。

「ロディ。いるのでしょう?こちらへいらっしゃいな。」

 グレイスは闇の中へ手を伸ばした。その手を引くと、闇から引き摺り出されるようにペルが現れ、グレイスの足元に崩れ落ちた。グレイスは猫を愛でるように柔らかい声でペルの頭を撫でた。

「かわいいロディ。帝王の命を取っておいで。」

 口を開こうとしないペルに、グレイスは首を傾げた。

「怒っているのですか?ロディ。まさか、怒っているのですか?ロディ。」

 這いつくばるペルの顎にグレイスは脚の靴の先を引っ掻け、顔を上げさせた。

「怒らせてしまったのなら、私が悪かったのです。そうですわね?」

 ペルは大きな目に涙を溜め、グレイスを見上げた。

「あなたを恨んで生きてきたこの数百年を、」

 グレイスはふわりと屈み、ペルを抱き上げた。

「仲直りしましょう、ねえ、ロディ。私、やっぱりあなたがいなくてはだめ。あなたほど、私を理解できる生き物は、この世にいません。あなたは、私が作り出した最高の同志なのですから。ねえ、ロディ。」

 グレイスはペルを抱きしめ、頬ずりをした。

「なんてかわいいのでしょう。お願い、私を許してくださいな。」

 ペルの目から涙が落ちた。

「おれは何度あなたに裏切られればいいのですか。」

「何度でも私はあなたに許しを乞いましょう。ロディ、あなたには私を許さないなどという選択肢はないのです。それをわかっていて何度でも私に歯向かう、なんてかわいいのでしょう、あなたは。さあ、ロディ、仲直りの時間ですよ、さあ、私にキスをして。」

 グレイスは立ち上がり、ペルに手を差し出した。ペルはその手を取らなかった。しかし、グレイスの言う通りに、それ以外の選択肢はないのだと、理解していた。ペルはその手を取り、口づけをした。

「仰せ遣わしください、我が主よ。」

 グレイスは満面の笑みを浮かべ、ペルの頬に口づけした。

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