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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
23/30

3幕 三人の王 2

 緋天殿の燈羨の執務室で、義葦は跪き、およそ百九十余年振りに燈の帝王への拝謁を叶えた。初代燈王と決別し永きに渡り市井の下郎に身を落としてもなお尊き燈一族へ憧れを募らせ、しかし二度と叶わないと諦めていたことが、こうして現実となっていることに、義葦は胸がいっぱいであった。

「初めてお目にかかります。初代御治療長を務めました義梁丈、今は義葦と申します。」

 声が掠れ、震える義葦に、燈羨は柔らかく微笑んだ。

「よく、戻ってきてくれたね。感謝する。」

 義葦の皺の中の窪んだ目から涙が落ちるのを見、灯己はそっと執務室の扉を閉めた。執務室の前室では、達が呆けたように口を開け、天井を見上げていた。

「よく義葦を連れてきてくれた。ありがとう、達。」

 達は灯己の言葉を半ば聞き流し、豪奢な造りの天井や毛足の長い上等な絨毯に見惚れていた。

「すっげえなこの城!お城なんて初めて入ったわ。門で守衛に声かけるのだってすげえ緊張したし、女官長さんが迎えに来てくれるまでの間居たたまれなかったわ、なんだこの変な服の小僧ときたねえじじいはっていう。」

 灯己は眉尻を下げた。

「悪かった。この目になってからおいそれと動きまわれなくてな。」

 達は灯己に視線を向けた。灯己の赤い両目は暗い場所では黒く見えないこともないが、明るい場所に出るとやはりはっきりと赤く見える。

「どうするの、その目で、これから。隠せないんでしょ?」

「隠せないこともない。子供の頃は炎鷲の目を使わない時には黒く見せることもできた。訓練次第だな。」

「ふうん、変な造りだね。」

「難しいんだ、炎鷲の力を加減するのは。慣れるのにしばらくかかる。その間は外に出られん。だから頼みがあるんだ、達。」

 あ、と思った時には、灯己は既に達の足元に膝を折り、頭を下げていた。しまった、と達は思った。

「燈羨の秘密を知る、この世界の者でないおまえにしか頼めないことだ、達。」

 灯己が頭を下げるなんて、脅迫よりも質が悪い。

「燈羨の弟を探してほしい。」

「弟?それって、」

 灯己の纏う緊迫した気配に気圧され、達は思わず言葉を切った。

「焔鷙を受け継いだ弟だ。おれはそれを殺さなくてはならない。」

 達は、しばらくその言葉を理解できなかった。はっと我に返り、訊き返した。

「殺す?なんで?」

「この世に帝王は燈羨だけだ。弟が現れれば、燈羨の嘘が暴かれる。」

「待ってよ灯己、灯己は知らないの?弟が、誰だか。」

「幼い時に姿を消したと、燈羨が。」

「馬鹿、馬鹿、馬鹿。」

 達は頭を振った。知らないのだ、灯己は、晶が燈羨の弟だと。そして、燈羨も知らないのだ、晶が灯己の元に居たことを。灯己がそれを知っていたら殺すなんて絶対に言いっこない。

「灯己、聞いて。」

「失礼仕ります。」

 前室の扉が叩かれ、煌玄の声に達は言葉を遮られた。

「入れ。」

 煌玄が扉を開け、膝を折った。

「段取りがつきました。」

 灯己が頷き、達へ顔を向けた。

「詳しいことは改めて話す。悪いが義葦の治療が終わるまで待っていてくれ。終わったら夕凪か舞霧に取次ぎを頼んで大門まで送ってもらうように。あのじじいに城内をふらふらされると困る。」

 ああ、うん、と達が頷き終るの待たずに灯己と煌玄は連れ立って部屋を出て行った。達は前室の凝った造りの椅子に、身を投げるように座った。言わなければ、早く言わなければ。今すぐにでも灯己を追いかけて言わなければならないのではないかと思いながら、体は重く、立ち上がる気になれなかった。晶が弟だと知って、それでもなお、灯己が殺すことを選んだらと思うと心臓が竦んだ。そんなことは絶対にないと思う一方で、華巻で見せた灯己の元殺し屋らしい徹底した振舞を思い出し、プロの殺し屋として生きてきた灯己にはできないことではないのかもしれないという気もした。誰か他の人が灯己に言ってくれないだろうか、と達はぐったりと椅子に凭れかかり、豪奢な天井飾りを見つめた。

 ひとりいるな、と達は思った。最も灯己の傍にいて、全てを知る者が。あの妖魔、炎鷲だ。あれは絶対に知っている。おれの右手が切り落とされた時、いまあれに力が戻れば酷いことになるとはっきり言ったのを聞いた。知っていて灯己に言わないのはどういうつもりだ、と達は腕組みをして考えた。あれは灯己を燈一族から切り離すためとはいえ、灯己が殺し屋の道に進むのを黙って見ているような輩だ。善悪の価値観がそもそもひととは違う。晶のことも、灯己が気付かずにうまいこと殺せればいいとか考えているのかもしれない、と達は勘ぐった。でもそんなことできるわけない、と達は頭を椅子の背もたれに預け、執務室の扉を見やった。破れかぶれな気持ちで、もうそろそろ治療が終わる頃だろうかと燈羨と義葦の話し声に聞き耳を立てた。

 燈羨の執務室では、達の見立て通り、義葦が燈羨の治療を終えたところだった。

「これであらかた終わりました。おひとつしかない御身、お大事になさいませ。」

 ありがとう、と燈羨は微笑んだ。

「これほどの腕がありながら、この城を離れてから一度として御治療長の座を顧みず市井で暮らしてきたとは実に潔いことだ。」

 いいえ、と義葦は低頭した。

「いいえ、私は汚い仕事をたくさんして参りました。」

「この治癒の術で燈王の命を繋ぎ続けていれば、そなたもこの世の覇者となっただろうに、なぜ、その地位を捨て、人殺しの親となることを選んだ?」

 燈羨の言葉に、義葦は低頭したまま微笑み、(さが)でございましょうね、と呟いた。

「強いものに惹かれる性。憧れると同時に、私よりも強いそれを私の力で操ってやろうという欲が私にはありました。欲深き性ゆえ。灯己を引き取り燈王と同じ人殺しへ育てたのも、この性に導かれし業なのでございましょう。」

 顔を上げた義葦は、神妙な面持ちで義葦を見つめる燈羨の眼差しに、胸を突かれた。この若く美しい王の眼差しにひどく惹かれるものがあった。これまで誰にも話したことのない胸の内を打ち明ける気持ちになっていた。いや、この王には話さねばならない、という使命感が胸の中に満ちていた。

「私がこの城を去ったのは、この世の覇者の命を、己の術によって摂理を曲げてまで長らえさせることに、恐怖を覚えたからにございます。妖魔の王が、どのようにして燈一族の子へ受け継がれていくか、帝王様はご存じでおりましょうか。」

「印を移すと伝えられているが、」

 燈羨は言葉を切り、暫しの間を置き、そうではあるまいね、と付け足した。

「はい。帝位を譲る際に王魔の封印を解き、子に印を移す、世の人々はそのように信じておりますが、祖帝が王魔と結んだ契約は血の契り、王魔が子に宿るのは子の命が生まれたとき、つまり腹に宿ると同時に王魔が受け継がれるのです。これを知るものは、私と歴代帝王、そして王の死と共に殉職を誓う躾役のみでございましょう。帝王から妖力が消え、赤子に王魔の力が宿ったと知れれば、地方の豪族どもはもとより、帝は家臣からも命を狙われ、春宮の力は悪用されます。ですから、帝王はこれを固く秘し、ある程度お子が大きくなってから形式上印を譲るという儀式に乗っ取り譲位し、後見帝としてお子を補佐されて参りました。」

「歴代帝王の婚期が著しく遅く、子の誕生が歳をとってからの方が多いのはそういうわけなんだね。」

「さようにございます。自らの地位と子の命を守るため、秘密裏に繰り返されて参りました。」

 しかし、と義葦は続けた。

「この王魔継承の歴史は、憎悪の歴史でもありました。今までどれ程の帝王が、子に力を奪われ憎まずに生涯を終えることができたでしょう。」

 燈羨は、ああ、と目を瞠った。

「そうか、あれは、あの鳥かごの座敷牢は帝王が子供を閉じ込めておくためのものだったんだね、この国ができたときから。」

 義葦は頷いた。

「あの別邸に閉じ込められた最初のお方は、燈王のお子を孕まれたお后様でございました。燈王は自らの力が子に移ったことを知るや、腹の中の胎児を殺そうとなさいました。何度も、その度にお后様を瀕死の目に合わせ。」

「それでも、生まれてくるしかないのだろう、王魔の魂を宿すものであるのならば。」

 義葦は深く息を吐いた。

「私は、妖魔の王となる前の、ただのひとであった燈王に惹かれていたのでございます。この男をこの国の覇者にしてやろうと、そう思っておりました。面白うございましたよ。大した男でございました。妖魔と神が取り合うほどの男でございました。しかし王魔の力が宿り、あれは変わりました。ひとでなくなりました。王魔のもたらす栄光はひとをひとでなくすのでございます。」

 燈羨は執務室の窓から降り注ぐ陽の光を見つめた。

「二代目燈寿とそのお子、燈昂による壮絶な憎しみ合いを経て、燈一族は一族で殺しあうことを禁じましたが、それを禁じたところで、さて、この千城に、これまでどれ程の幸福がありましたでしょうや。もし我が盟友が王魔を体に棲まわせなんだら、どれ程の幸福を手にできたことか。それを思わぬ日はございません。」

 しばらく、二人は静寂の中に身を沈めていた。燈羨は視線を義葦に向けた。

「なぜ、僕にこんな話を?」

 義葦は真っ直ぐに燈羨の瞳を見つめ返した。

「あなた様は新しい。」

 はっとしたように、燈羨は口を開いた。

「僕は、」

 燈羨は開いた口を閉じ、逡巡するように、目を伏せた。

「僕も、その憎しみの連鎖の中にいる一人だ。」

 憂いに眉を顰めた燈羨の瞳に、影が落ちた。

「僕には、弟がいる。王魔の血を引く弟だ。僕は、僕の弱さを恐れるあまり、あれを憎み、また憎しみの鎖を繋いでしまった。」

「後悔されるのならば、償うに遅すぎることはございません。」

 燈羨は顔を上げ、義葦を見た。義葦はその眼差しを受け止め、頷いた。

「憎しみの輪を断ち切りなさいませ。それができるのはあなた様だけです。この血塗られた燈一族の歴史の中で、王魔の守護を持たぬあなた様が帝王として統治されることは奇跡と呼べましょう。」

「だが、僕は弱い。灯己がいなければ、煌玄がいなければ、夕凪と舞霧がいなければ、軍士たちがいなければ、官職たちがいなければ、民がいなければ、僕は帝王ではいられない。」

「それでよいのです。」

 義葦は跪き、燈羨の手を取った。額に掲げ、頭を垂れた。

「民無き世に、帝は存在しません。大切になさいませ。」


 緋天殿の長い廊下の、高い天窓から差し込む陽の光が赤い絨毯を明るく輝かせているその長い毛足を、灯己と煌玄の硬い靴が踏み、進んで行く。

「灯己様。」

 灯己は名を呼ばれたが、振り向かずに進んだ。

「先日は大変なご無礼を申しました。」

 灯己は足を止めた。

「そのお力を自覚されてもなお、帝に御身を捧げてくださること、感謝いたします。」

 灯己は息を吐いた。

「煌玄に礼を言われる筋合いはない。おれがそうしたくてしているだけだ。」

 灯己は歩き出し、煌玄はそれを追った。

「おまえは、おれを知っていたな?会ったことがあったか?」

 いえ、と煌玄は口籠った。

「一度、旦那様のお庭でお見かけしたことがありました。」

 ほんの一時の間、灯己の胸を去来したものがあった。しかし灯己はそれを掴もうとはしなかった。

「煌玄、おまえはおれを、汚らわしいと思うか。」

 煌玄は目を見開き灯己の背中を見つめた。しばらく、煌玄は口を噤み考えた。きっとこの方の望む言葉を選ぶことは骨が折れると予感した通りに、こうしていくらか共に過ごしても、全く心がわからなかった。

「いえ。あの頃、旦那様に惹かれぬものなどおりませんでした。」

 灯己が足を止め、煌玄を振り向いた。煌玄は驚き立ち止まった。

「おれは、あのひとを愛していた。精一杯に。だが浅はかでもあった。」

「旦那様も、紫玉楴様を愛しておいででした。」

 そうだろうか、と呟いた灯己の瞳の陰りに、煌玄はどきりとした。

「おまえには見えていたのではないか。あの方の瞳に映っていたのが誰だったか。」

 だがそれもすべて過去のことだ、と灯己は呟いた。

「おれは、あの方の面影を燈羨に見ているわけじゃないぜ。」

 灯己の強い眼差しに煌玄はたじろいだ。

「ええ、承知しております。」

 僅かに灯己が笑ったように見えたが、気のせいだったかもしれない。軍服の長い裾を翻し、絨毯の長い毛足を踏んで歩く灯己を、煌玄は追った。

 二人は、緋天殿を出てから武官館をいくつも過ぎ、回廊を渡り、地下牢へ続く扉を開けた。

 久しく嗅ぐことのなかった懐かしい匂いに、牢の中の蘭莉は俯いていた顔を上げた。暗い階段から姿を見せた煌玄に、蘭莉は深々と頭を下げた。

「蘭莉殿。顔を上げてください。」

「やっと段取がついておまえに面会することができた。」

 灯己に声を掛けられるより先に匂いでわかっていた蘭莉だったが、灯己の目の色を見るや、思わず驚きに声を上げた。

「元帥、その目は。」

「大丈夫だ、じきに隠せるようになる。」

 蘭莉は呆然と灯己の赤い目玉を見上げた。灯己は膝を折り、蘭莉の牢に身を寄せた。

「代表二位会議の審議が再開する前に、おまえに確かめたいことがある。今更と思うかもしれないが、おまえが探っていたことだ。」

 灯己の言葉に、蘭莉ははっと我に返り、悲しい顔で頭を振った。

「それはもはや、何のお役にも立ちません。私は、珠峨が呪い憑きではないかと疑い、彼の出自を探っておりましたが、珠峨の、いえ、呪い憑きの狙いは、それを逆手にとることでした。」

「というと?」

 灯己の問いに、蘭莉は口籠った。

「蘭莉殿。灯己様は、ご存知だ。我らが帝のことを。」

 煌玄の言葉に、蘭莉は再び驚き、灯己を見上げた。頷く灯己に背を押され、蘭莉は意を決し、それを口にした。

「あれは、私が軍律を破ることで、魂の処刑を燈羨様に執行させようと画策したのです。そうして、燈羨様が奇鬼であることを暴こうと。」

 やはりそうだったのか、と煌玄は項垂れた。そうだと分かっていながら、何もできなかった無力な己を思い、虚無感に体が重くなっていくようだった。

「しかしそれならなぜ、グレイスは麗威にあれがおまえの仕業ではなく神言反呪だということを示したんだ?」

 灯己の言葉に、蘭莉は首を捻った。

「呪い憑きがそのようなことを?」

 蘭莉はしばらく考えたが、首を振った。

「こちらの苦悩を増すためとしか考えられませぬ。あれが神言反呪であることを示せば、私の罪は無くなり燈羨様の秘密も守ることができますが、羅梓依様に神言反呪を教えた麗威は確実に死罪となりましょう。それを燈羨様にお選びいただくことがどれほど酷か。」

 灯己は頷き、立ち上がった。

「蘭莉。おまえは燈羨の秘密を知ってもなお、彼を主だと思うか?」

 蘭莉は驚きに目を見開き、灯己を見上げた。

「もちろんにございます。」

「ひとならまだしも、おまえは妖魔だ。妖魔の王の宿らぬ帝を帝と思えるのか?」

 思いもよらぬことを訊く、と蘭莉は微笑みを浮かべた。

「今世の帝は燈羨様ただおひとりにて。我が忠誠は燈羨様へ捧げております。」

 吊られるように、灯己が笑った。

「その命もか。」

「はい。」

 蘭莉が真っ直ぐに灯己を見つめると、満足したように、灯己は頷いた。

「そろそろ、灯己様。」

 煌玄に促され、灯己は牢の格子から手を離した。

「ああ。牢番に用事を頼んで少しだけ外してもらったんだ。もう行かなくては。」

 段取りとつけたとはそういうことだったのか、と蘭莉は納得した。牢の囚人と面会できるのは燈一族だけなのだ。灯己元帥がその出生を明らかにし面会を可能にしたのかと思ったが、そうではないのだとわかり、蘭莉は安堵した。

「次に顔を合わせるのは代表二位会議かもしれんが、それまで腐らずにいてくれ。」

 蘭莉は最敬礼を形づくった。出て行こうとする灯己の背に、蘭莉は、紫玉楴様、と声を掛けた。灯己がぎょっとしたように振り向いた。

「紫玉楴様、よくぞ、御無事でお戻りになりました。燈峻様が生きておいででしたら、どれ程お喜びになったでしょうか。」

 灯己は毒気を抜かれたように、眉尻を下げた。

「そう言ってくれる者がこの城にいることが、私の幸いだ。」

 遠ざかる足音が聞こえなくなっても、二人の匂いを胸いっぱいに吸い、蘭莉はいつまでも敬礼を捧げていた。

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