2幕 飛都の子ら 13
千城宮の最も北にあるその宮殿の檻の中に、紫玉楴は居た。この世に生まれ落ちてより十二年、紫玉楴はずっとここに居た。たったひとつの外界との繋ぎ目である填め殺しの天窓に、紫玉楴は梯子をかけ、雨が硝子を打つ小さな衝撃音をぼんやりと聴いていた。
「姫様。」
先ほどから何度も呼ぶ刹季の声に、紫玉楴は返事をしない。
「姫様、長く窓の傍におりますと御身体を冷やされますよ。」
斜めに立てかけた梯子に紫玉楴はだらりと体を預け絶妙な均衡を保っているが、いつ落ちてもおかしくない危うさに、刹季ははらはらした。
「姫様、危のうございます。降りてくださいませ。」
「うるさいの。何用じゃ。」
こんな寒い日に、暖かい給仕室で昼寝でもしておればよいものを、何くれとなく様子を見に来る刹季の気が知れぬ、と紫玉楴は思う。
「さっさと申して戻れ。」
やっと口を利いた紫玉楴に、刹季は愁眉を開いた。
「紫芭様がお目通りを乞うておいでです。」
紫玉楴の顔が嫌悪の色に塗り替えられた。
「いつものように追い返せ。会いとうない。」
「またそのように父を邪険にするのか。」
音もなくぬるりと牢の外に現れたその男を、紫玉楴は冷たい瞳で睨んだ。雨に濡れた長く豊かな黒髪が紫の衣に張り付き、衣は濡れて一層深く男の美しさを匂い立てた。
「紫芭様、お着物がこんなに濡れて。」
慌てて滴を拭おうとする刹来に、紫玉楴は冷たく言い放った。
「よい、そやつはいくら濡れようが平気なのじゃ、その汚れわしい男に触れるな、刹季。」
「ひどいお言葉。」
紫芭はくすりと笑うと、温かい茶を持ってくるように言いつけ、刹来を給仕室へ帰した。
「何の用じゃ。」
「父が娘に会うのに用がいるか?」
「虫唾が走る。汚らわしい色魔が。母を手籠めにした男を、誰が父などと呼ぶものか。」
紫芭の高笑いが半球の天井に響いた。
「阿陀良の望む通りにしてやっただけだ。おまえが母から嫌われているのは私のせいではないぞ。おまえが阿陀良の力を全部奪ったからだ。」
紫玉楴は紫芭から顔を背け、目を閉じた。
「帝の寵愛がそんなにも誇らしいか?ただの憑代が偉そうに。神が降りねば、紫芭、そなたなどただの蛇であったというに。」
「ええ、そうですとも。神に選ばれた蛇、そして阿陀良帝にも選ばれた。」
紫芭の懐から白い蛇が顔を出し、紫芭の体を這い降りると、紫玉楴の梯子を上った。
「選ばれぬ私を笑いに来たか?」
「この牢よりほかを知らぬ娘に世の中の話をしに来てあげたというに、かわいげのない。」
茶の支度をした刹季が戻り、椅子と小さな卓を用意するとその上に美しい装飾の施された茶器を並べた。刹来の注いだ茶から豊かな湯気が昇り、芳しい香りが広がった。紫玉楴は足元へ這い上がって来た白蛇を掬い上げ、その頭を撫でた。
「ならば紫芭、叔父上の話をしておくれ。」
香り高い湯気の奥で紫芭の眉が僅かに動くのを、紫玉楴は冷たい瞳で見つめた。
「叔父上の話を、紫芭。そなた、いつもしておるであろう?叔父上はどうされておる?」
紫芭は茶に口をつけ、温かい液体を一口飲み込んだ。
「本日は燈峻様をまだお見かけしておりませんね。」
「嘘ばかり。」
紫芭の青い瞳がぎょろりと紫玉楴を映した。紫玉楴は黒い水晶を填め込んだような瞳で、青い目玉を見つめ返した。
「知っておる。そなたの瞳がいつも叔父上を見ておるのを。」
青い瞳の中に陰りを認めた紫玉楴はようやく溜飲を下げた。
「そなたの本当の黄金の目玉が、見たいものをすべて見ることができるように、私も見ることができる、私の望むものをすべて、炎鷲の目玉を借りて。」
「この、魔性め。」
茶椀を乱暴に卓へ叩きつけた紫芭の顔を彩る怯えの色に紫玉楴は満足し、紫芭から顔を背けると、雨の当たる窓を見上げた。
「私に怯える必要があろうか?好きにすればよいのじゃ。そなたは自由なのだから。私には自由あるものをどうすることも出来ぬ、どうしようとも思わぬ。」
紫玉楴は撫でていた白蛇を放った。蛇は梯子を這い、紫芭の懐へ戻った。
「母をその手に収めたように、叔父上もそうしたらよかろうよ。神の宿ったそなたに、出来ぬことなどなかろうに。」
「あれは美しい。堕落しきったおまえの母とは違う。」
「汚らわしいそなたが、潔癖を尊ぶか。」
紫玉楴は声高に笑った。
「汚らわしいからこそ、清きに焦がれるか。」
紫芭はがたりと席を立ち、紫玉楴に背を向けた。
「紫芭殿がお帰りじゃ、刹季、見送ってやれ。」
「結構。おまえはこの可哀想な姫君の孤独を慰めておやり、この籠の鳥の。」
肩越しに紫玉楴を顧みた紫芭の憎悪が燃える青い瞳に、刹来はぞっと身震いした。紫芭が去ると、紫玉楴はだらりと梯子にぶら下がり、宙で半回転し石の床へ降りた。
「おまえも下がれ、刹季。」
「お茶をお召し上がりなさいませ。」
「あれのくれたものに口をつけろと?」
刹来はゆっくりと首を振った。
「姫様。今やこの城で紫芭様のお手のつかぬものなどございません。衣服も、装飾も、お食事も、この城のほぼすべてが紫芭様の財によるもの。」
「わかっておる。」
そうだとも、この私の半分は紫芭によって生み出されたのだから、何よりも汚いのだ、と紫玉楴は息を吐いた。
「わかっておるが、抗いたいのじゃ。刹季、私をひとりにしておくれ。」
刹季が去った牢で紫玉楴は一人、石畳の上にぺたりと座り、長椅子に頬をつけ体を凭れた。
「この世でただひとり、あの汚い手に触れず美しいままは叔父上だけよ、のう、炎鷲。」
「どれだけ峻が美しかろうが、おれにはおまえが最上だ、紫玉楴。」
体の中に響く低く静かな声に、紫玉楴は僅かに頬を緩めた。
「おまえこそ、おれに最もふさわしい。おまえであればこの紫宝宮の結界を破ることなど訳もないというのにいつまでもこんなところに留まる気が知れぬよ。」
「ここを出ては母上がお可哀想じゃ。母上に宿っていたお前を、私が奪ってしまった。母上に私の力を見せつけるようなこと、しとうない。」
「子を成せば、すべての妖力が子に受け継がれるのは燈一族のならい。おまえが気にすることではない。それを受け入れられぬは阿陀良の器が小さいのだ。そもそも阿陀良は、おれを受け入れる器ではなかった、はじめから。だからあれの父親は早くにお前を生ませたのだ。」
「あの汚い呪い憑きに娘を下賜するとは、先代帝は娘ををよほど憎んでおったのか。」
「そうではない。」
呆れたように、炎鷲は息を吐いた。
「阿陀良は生まれつき体が弱かった。とても長くおれを宿せる体ではなかったのだ。五代は何よりも阿陀良の体を案じていた。あれはあれで、阿陀良を愛していたのだ。」
紫玉楴は目を閉じた。
「それが先代帝の本意なら、愛とは残酷よの。そのせいで、私は母から疎まれておるのだから。私は、その愛が憎い。」
紫玉楴が目を開けると、黒い瞳は燃えるような赤色に変わった。その瞳は謁見の間の阿陀良と燈峻の姿を映していた。張りつめた糸が今にも切れそうな二人のやりとりを、紫玉楴はじっと見つめた。
「母上は、じき叔父上に殺されるだろうか。」
炎鷲は答えない。
「妖魔を宿さない母上が、焔鷙の力を受け継いだ叔父上と戦ったところで何ができよう。」
「焔鷙の力は、まだ覚醒してない。峻は焔鷙と相性が良くないからな。」
「叔父上の力がこのまま目覚めなければいい。」
「当分目覚めないさ。」
「なぜ、叔父上は子供をつくってもまだ焔鷙が体にあるのじゃ?なぜあの子供には受け継がれなんだ?」
紫玉楴は瞬き、炎鷲の目玉に黄雲殿の羨を映した。
「あれは出来損ないさ。羨は奇鬼だ。」
「あれが奇鬼か?奇鬼は異形をしているとか、欠落があるとか聞くが、そうは見えぬ。」
「今にわかる。可哀想だが、長くは生きられまいよ。この城ではな。」
赤い瞳に映る羨は頬を輝かせ、煌玄と遊んでいる。
「羨はよいの。あのような遊び相手がおって。」
羨を抱き掲げ愛しそうに笑いかける煌玄を、紫玉楴は見つめた。
「あれがおれば、奇鬼でもよいわ。あれがずっと、守ってくれる。」
ざわり、と骨を撫でるように炎鷲が蠢いた。
「紫々にはおれがついている。」
「私が子を産んだらいなくなる。」
「ならば石女であればいい。なんならそうしてやろうか?」
「私が死んだらどうする?おまえを解放する前に私が死んだら?おまえは私の亡骸に閉じ込められたままになるぞ。」
「それも一興。おれは土の下で永遠におまえの亡骸を守り続ける。」
紫玉楴の唇から、ふふ、と笑い声が漏れた。
「妖魔の王が形無しじゃ。妖どもの笑い種ぞ。」
紫玉楴はおかしそうにくすくすと笑った。
「おれはそれでもいいと思っている。」
「馬鹿を申すな。」
鼻で笑った紫玉楴の声が幾分か幸福そうであることに、炎鷲は満足した。しかしとめどなく共鳴する紫玉楴の悲しみが、いずれこの娘を不幸にすると、炎鷲はわかっていた。
「炎鷲、私は叔父上に母上を殺させはせぬよ。どんなことをしてもじゃ。」
すべての妖魔がひれ伏すこの力をもってしても、あの母親の愛は得られぬ。その悲しみがこの紫玉楴を狂わせぬよう、守らねばならぬと炎鷲はこの紫玉楴の体に宿った時から心に決めていた。
しかし、炎鷲の思いもよらぬ方法で、紫玉楴は尋常と狂気の境を迂闊に超えてしまった。紫玉楴は魂だけを分離し、紫宝宮の結界を抜け出した。紫玉楴の体に宿る炎鷲はその体であればいくらでも制御することが出来たが、魂の幻影となった紫玉楴を制止する術を持たなかった。炎鷲は紫宝宮に残された紫玉楴の体に留まり、紫玉楴が燈峻を惑わし、籠絡していくのを、ただ見ているしかなかった。
雪の中を走る紫玉楴に、炎鷲は叫び続けた。
「紫々!紫々!戻れ、紫々!」
紫玉楴は頭の中に響くその声を振り払うようにして走り続ける。
「馬鹿め!」
「うるさい!」
紫玉楴は身を投げ出すように雪の上へ倒れた。
「紫々。何をやっている?おまえともあろう奴が、何を血迷ったことを?」
紫玉楴は雪の中に倒れたまま、雪に頬を付け、じっと雪の降る灰色の空を見つめていた。紫玉楴の小さな体の中には溢れんばかりの後悔が満ちていた。炎鷲が息を吐いただけで零れてしまいそうに張りつめているそれを揺らさぬように、炎鷲は静かに声を掛けた。
「だから、やめろと言ったんだ。」
「もう、遅い。」
「自業自得だ、馬鹿め。」
堰が切れたように、紫玉楴の目から涙が落ちた。
「叔父上が、私に情を移せば、母を殺すのをやめてくれると思ったのじゃ。阿陀良がどれほどの愚帝とて、この私の母ぞ!」
ああ、と炎鷲は頷いた。
「それなのに、叔父上は!」
「峻は阿陀良を殺してお前を救い出すつもりだ。」
「私はそのようなこと望んではいない!」
しんしんと降り続く雪が、紫玉楴の豊かな黒髪に積もっていく。雪の上に横たわったまま、紫玉楴は目を閉じていた。
「紫々。戻ってこい。いつまでも魂の幻影だけでうろつくな。もうじき刹季が顔を出す時間だ。おまえの抜け殻を見つけたらまた大騒ぎする。」
嘘じゃ、と紫玉楴が呟いた。
「何が嘘だ?」
「望んでいないなど、嘘じゃ。」
炎鷲ははっと息を飲んだ。
「このようになるなど、思っていなかった。私は、母を救いたかったのじゃ。いいや、そうではない。母を救って、褒めてもらいたかった。陛下に、一言でいいから、私を認めてほしかった。それなのに、私は、私は、何を間違えた?」
紫玉楴の頬を涙が伝い、雪を溶かした。
「思っておるのじゃ。私は、峻に、救われたいと思っておる。」
「あれが、阿陀良を殺してもか。」
紫玉楴の幼い顔が苦悶に歪んだ。開こうとした口を、炎鷲は制した。
「言うな。」
紫玉楴がゆっくりと瞼を上げた。
「言わずとも、わかる。」
炎鷲よ、と紫玉楴は雪を撫でた。
「峻のことを思うと、私は心が引き裂かれるように乱れる。峻のところへ行きたくてたまらなくなる。」
馬鹿め、と炎鷲は呟いた。
「おまえともあろう奴が。」
「炎鷲。私は死んでしまいたい。」
紫玉楴は仰向けに転がり、両手を空に伸ばした。
「炎鷲、私を殺しておくれ。おまえを解放してやろう。」
「出来ぬ。言っただろう、おまえが死しても、おれはおまえとともにあると。」
紫玉楴は伸ばしていた両腕を折り、両掌で顔を覆った。指の隙間から止めどなく涙が流れ落ち、腕を伝い雪を穿った。
「逃げろ。紫々。この城から。」
もはや、この娘を救うには、この一族の血から逃れるよりほかにないのだ。
「捨ててしまえ、母も、男も。それでなければ、」
炎鷲ははっと言葉を切り、紫宝宮の扉に立つ紫芭に気付いた。紫芭は瞳に憎悪を灯し、つかつかと牢へ歩むと、牢に張られた結界を簡単に解き牢へ入った。抜け殻の紫玉楴の胸ぐらを素早く掴み上げ、その横っ面を殴り飛ばした。肉体の衝撃に、紫玉楴の魂は雪の庭から体へ引き戻され、紫玉楴は呆然と紫芭を見上げた。
「この、恥知らずが!」
煌々と怒りに燃える瞳で紫玉楴を見下ろし、紫芭は固い踵で紫玉楴を蹴り続けた。
「峻の高潔を汚しおってこの魔性め!汚い!汚い!汚い!おまえは!」
紫玉楴はされるが儘に耐えた。この呪い憑きの言う通りに汚く、足蹴にされるべきことをしたのだと、わかっていた。紫玉楴の骨の折れるまで蹴り続け、息を切らし、紫芭は襤褸のようになった紫玉楴を見下ろした。
「父上。」
蚊の鳴く声で、紫玉楴は生まれて初めてその男を父と呼んだ。
「お願いがございます、父上。」
怒りで皮膚を痙攣させる紫芭の青白い顔を、紫玉楴は見上げた。
「やめろ、おまえが娘と思うだけで虫唾が走る。売女め。」
「私を捨ててくだされ。」
紫芭の瞳が驚きに見開かれた。
「私が居なくなれば、叔父上は母を殺しはしまい。」
「それほどに、おまえは己が特別と思うか?」
「そなたは叔父上を愛しておろう?叔父上の苦悩をこれ以上見たいか?」
紫芭が膝をつき、ぐったりと横たわる紫玉楴の襟を掴んで上体を引き上げた。
「おまえが居なくなり嘆き悲しむ峻の姿を私に見せるのか?私の恋い焦がれた純潔の峻はもういないのだ、おまえのせいで。あれは、私たちのような穢れが手を触れてはいけなかったのに。私はあれを見ているだけでよかったのに。」
「可哀想な父上。そなたは何も知らぬ、峻のことを。」
紫芭が目を剥き、紫玉楴の頬を叩いた。紫玉楴は頭を石の床に強かに打ち、床の上で身を丸めた。
ただ見ているだけであったならよかったのだ、と痛む頭を抱えぼんやりと天窓を見ながら紫玉楴は思った。ただ見ているだけであれば、紫芭と同じように、あの男の清廉な美しさだけを尊び敬うことができたのだ。そのほうがどれだけ幸せだったか知れぬ。手を触れてしまえば愛しさには際限がなく欲は深まるばかり。そしてそれは峻とて同じなのだ。峻がひた隠しにしてきた己の欲の深淵の、なんと暗く厭わしき臭いの立つ闇であったことか。
「紫芭よ、すべてを見ることのできる神の目を持ち、あれほど毎日穴が開くほどに峻を見つめていてなお、あれのことを何もわかっておらぬ。」
あれが愛しているのは阿陀良だけなのだ。
「私もそなたも同じなのじゃ、どれほど峻を愛そうと、抱かれようと、幸福にはなれぬ。」
「そうだとも、なれるものか、おまえは幸福になど。」
遠くから、幾千の軍士達の雄叫びが聞こえた。遂に暴君阿陀良の粛清が始まったことを紫玉楴は知った。
「峻を止めてくれ、頼む。」
足首に縋りつく紫玉楴を、紫芭は暗い瞳で見下ろした。
「私を可哀想と言ったな。幸福になれぬと。おまえも同じと?」
紫芭は膝をつき、紫玉楴の体を組み敷いた。紫芭の長い黒髪が、紫玉楴の頬を撫で床に垂れた。
「なれぬのではない、ならぬと言え。この紫芭を可哀想と思うなら、ならぬと言え、幸せにならぬと、おまえの意志で。おまえが不幸になるならば、おまえの母を助けてやってもいい。」
紫芭の冷たい息に、紫玉楴の睫毛が凍る。氷の粒がぎっしりと詰まった紫芭の青い瞳を、紫玉楴は見つめ返した。
「ならぬ。私は、金輪際、幸せにならぬ。」
紫芭の瞳が、花が開くように底知れぬ深い黄金に変わった。
「ならば、なれ、不幸に。おまえの最も望まぬものをその目で見ろ。」
紫芭は長い爪を自らの左目に差し込み、金の目玉を引きずり出した。逃げ腰になる紫玉楴の手を掴み、有無を言わせず紫玉楴の左の眼球を掴み出すと、替わりに自らの金の目玉を紫玉楴の眼窩に填め込んだ。
「その目に焼き付けろ。」
金の目玉の中に、阿陀良と峻がいた。帝軍が火を放ち炎が立つ。峻は阿陀良に向かい剣を掲げた。
「やめろ!」
伸ばした紫玉楴の手は宙を掴み、峻の剣が阿陀良の胸に深々と突き刺すのを、紫玉楴は見た。
崩れ落ちる阿陀良を抱き抱え、峻はその毒々しく赤い唇を吸った。
やめてくれ、と叫ぶ紫玉楴の声は峻には届かない。ああ、と紫玉楴は叫んだ。叫び続けた。体の中から止めどなく沸き上がる悲しみと憎しみに、紫玉楴は自我を手放した。紫玉楴の右目が赤く揺らめき、火花が舞った。油が染み渡るように、紫玉楴の肌の色が変わり、火の粉があっと言う間に紫玉楴の体に燃え広がった。炎は大きく揺らめき、炎の鳥が羽ばたいた。鳥の吐いた炎が紫宝宮に張り巡らされていた結界を悉く焼いた。
燃え盛る炎の中で、紫芭は炎鷲を見上げた。
「やっとこの紫宝宮の結界を出る気になったか、炎鷲よ。おまえほどの妖魔の王が、こんな小娘の僕に成り下がりいつまでも暗く寒い牢でじくじくとしたみじめな暮らしを送っているなどよい笑い者よ。」
「笑いたくば笑え。おれは紫々の血、紫々の肉、紫々の魂よ。」
地を震わせる炎鷲の声が轟いた。
「おまえにはわかるまい呪いの神よ。最上の同志を得た喜びを。妖魔の王がなんだというか。燈の一族がなんだというか。知ったことか。馬鹿め。この紫玉楴を不幸にはさせぬ!」
炎鷲は嘶いたのち一層高く燃え上がると、紫玉楴の赤い瞳の中へ収束し炎は跡形もなく消えた。忘我の境地を彷徨っていた紫玉楴が紫芭を見上げた。その眼球は両目とも闇のように真っ黒であった。紫芭は怪訝に娘を見下ろした。
「誰?」
怯えたように後退りした娘の姿に、紫芭は体中の血が煮え立った。
「まさか、まさか炎鷲、おまえ、紫玉楴の記憶を封じたというのか?」
怒りに震える手で、紫芭は紫玉楴の襟を掴んだ。
「記憶をなくして、すべてやり直そうというのか!おまえは言ったではないか!金輪際幸せにはならぬと、この私を憐れんでそう言ったではないか!」
気味の悪いものを見るように、紫玉楴であったその娘は紫芭を見上げ、嫌々と首を振り、紫芭の手を逃れようとした。
そこにいるのはもはや紫玉楴ではなかった。記憶を失くした誰とも知れぬひとりの娘を、紫芭はじっと見つめた。
「捨ててくれと言ったな。そうだとも、捨ててやろう、おまえを地獄に捨ててやろう。」
紫芭は娘の手を掴むと素早く抱き抱え、走り出した。炎上する城を走り、千城街を抜け、紫芭は千城から離れた山あいの村に立つと、古宿の戸を叩いた。宿の主人が子買いの義葦へ取次ぐ合間、娘は眼下に広がる千城街の燃える城を眠そうに目を擦りながら見ていた。炎鷲よ、と紫芭は語りかけた。
「おまえは私を呪いと言うが、おまえの方がよっぽど呪いよ。おまえを我がものとした燈の王たちが幸せであったことが一瞬たりとてあっただろうか?どれ程おまえがこの飛都の王を慈しもうとも、幸せにはできぬよ。」
炎上する千城宮へ戻った紫芭が見たものは、紫宝宮に座り込む燈峻の後ろ姿だった。紫芭は高鳴る胸を抑え、ゆっくりと燈峻に近づいた。
「峻様。いえ、燈峻様。」
紫芭を見上げた燈峻の、悲しみと絶望に打ちひしがれた顔に、紫芭はぞくりと肌を震わせた。ああ、と甘い息が漏れる。これで、私だけのものだ。紫芭は細い指で、そっと燈峻の頬に触れた。
「紫々をどこへやった?」
紫芭は首を横に振った。
「逃げたのでしょう。」
突然忙しない足音と主に、軍士が幾人か駆け込み、紫芭を取り囲むように膝を折った。紫芭はそちらに視線を移した。
「紫芭様、ご覚悟を!」
そう声を上げたのは蘭莉であったか。確かめる間もなかった。取り囲む軍士が一斉に剣が抜き、いくつもの刃が体を貫いた。目の前に立ちはだかる蘭堂の巨躯が剣を振り上げ、その腕を振り下ろした。
灯己は目を開けた。足元に紫芭の首が落ちていると思い、跳ね起きたが、そこは燈火の森の自室の寝台の上だった。手が布団の上で何かに触れ、見ると、達が寝台の横に椅子を寄せ、灯己の傍らに上体を伏せて眠っている。窓から射し込む柔らかい朝陽が恐ろしく眩しかった。目玉が燃えるように熱い。鏡を見ずとも、瞳が赤く燃えているのだとわかった。寝台の傍らの水入れの中に、青い眼球が沈んでいる。炎鷲、と灯己は呼んだ。
「炎鷲、おまえがおれの記憶を封じてくれていたのか。」
体の中で蠢く気配を灯己は心地よく思った。母の腹の中からずっとひとつであったのに、一体どうしてこの同志を忘れることができたのか、信じられない。
「おまえが生きていくには、あまりにもひどい記憶だ。」
過保護め、と灯己は笑った。
「おれはおまえの血、おれはおまえの肉。おれはおまえの魂だ。灯己。おまえには、生きていてもらわなければ困る。」
鼻の奥に痛みを覚え、灯己は目を瞑った。頬を伝う涙が雫となり、達の頬の上に落ちた。灯己は指先で達の頬を拭った。拭っても拭っても落ちる涙に、達がうう、と身動ぎ眉を顰め、しかし眠り続けている姿がおかしく、灯己は笑いながら顔を手で覆った。
「生きるさ。おまえがいてくれるなら、おれに怖いものなどない。炎鷲。」




