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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
20/30

2幕 飛都の子ら 12

 灯己の執務室の前まで来た煌玄は、その部屋から漏れ聞こえる声に、足を止めた。

「このところあまりにも多くのことがございましたので、帝はご体調が芳しくありません。」

 舞霧の声に、夕凪が続けた。

「そういうわけですので、灯己様、お見舞いに行かれてはいかがでございましょう?」

「いやだね。」

 不機嫌な声に、元帥のぶすりとした表情が目に浮かぶと煌玄は口元を緩めた。しかし舞霧はめげない。

「そんなご遠慮なさらずに。」

「おれは忙しい。珠峨が死んで終わりじゃないんだ、麗威のことも蘭莉のことも、まだ何も決まってない。あの野郎だって臥せってる場合じゃないのに、煌玄が甘やかすから。」

 煌玄は苦笑を漏らした。

「だいたい煌玄のような有能な配下を躾役として片時も離さず傍に置いておくなんて宝の持ち腐れも甚だしいだろ、ちゃんと軍部の仕事させろよいつまでも躾役に甘えんな。」

 思わぬ評価に、煌玄は目を瞠った。夕凪が咳払いののち、阿るような口調で、ところで灯己様、と言葉を継いだ。

「帝からのお申し入れをお断りになったというのはご冗談でございますよね?」

「申し入れ?」

「ええ、ですから、正后としてお迎えするお申し出を。」

 どきりとし、煌玄は思わず耳を聳てた。

「受けるわけねえだろ。」

 ほっと胸を撫で下ろした煌玄の耳に双子の悲嘆の叫びが飛び込んできた。

「なんてこと!」

「なぜお断りになったのです!?」

「おれは裏街の人間だよ。」

「そのようなこと関係ありますか!灯己様が帝の后になられるのであれば怖いものなしではございませんか!」

「別に后にならなくてもおれは燈羨の傍にいる、ずっと。」

「それではだめなのです!帝のお子を身籠っていただかないことには!」

 煌玄ははっと顔を上げた。

「何を言っている?」

 灯己の訝し気な声に、双子が慌てて口を噤む気配を感じた。煌玄の胸に驚きと悲しみが押し寄せては返し、瞼が熱く熱を帯びた。ああ、と煌玄は天上を仰いだ。知っていたのか、女官長殿らは。そうか、そのための女官長だったのか。燈峻帝がなぜ、あの悪名高い同族食いの双子をわざわざ拾い女官長に仕立て上げたのか、煌玄はやっと理解した。理解すると同時に、むくむくと嫉妬が首をもたげた。煌玄はわざと大袈裟な咳払いをし、失礼仕ります、と声を張り上げた。入れ、という灯己の声に従い煌玄が扉を開けると、顔面蒼白の面持ちで煌玄を見上げる双子と目が合った。

「蘭莉と麗威のことで煌玄を呼んでいるんだ。おまえたちはもう帰ってくれるか。」

 は、と小さく返事をし、双子は膝行して煌玄に席を明け渡した。

「煌玄様、私どもの話をお聞きあそばしまして?」

 舞霧がぎくしゃくとした笑顔を向けた。

「どうぞ戯言とお聞き流しくださいましね。」

「戯言にしてはいささか差し出がましいかと。」

 煌玄の珍しく棘ある口調に、双子はびくりと肩を震わせた。

「女官長殿、くれぐれも他言無用になさいませ。」

 煌玄の冷たい一瞥に双子はそそくさと席を辞し、風のように去った。煌玄は扉を閉めると、灯己に向き直った

「しばらく参じることができず申し訳ございませんでした。」

「燈羨は臥せっているのか?」

「ご気分が優れぬご様子で」。

「あいつの気分は良いことの方が稀だろ。」

 煌玄は苦笑した。視線で座るように促され、灯己の前に腰を下ろした。

「お断りになったのですね、帝のお申し出を。」

 灯己は怪訝な瞳を煌玄に向けた。

「受けた方がよかったとでも?」

「いえ。」

 しばらく二人とも無言に沈んだ。煌玄は伏せた睫毛の隙間から灯己の顔を盗み見たが、何の感情も読み取れなかった。

 珠峨の処罰だが、と灯己が切り出し、煌玄は顔を上げた。

「燈羨はどうすると?領地替えだけではないのだろう?」

「いいえ。珠峨殿のなさったことで罪に上げられることはないのです。ただ一つ責められるのは、羅梓依様の躾役でありながら、羅梓依様の傍若無人なお振舞を咎めなかったこと。それがあの惨事に繋がったと。役職に能わぬという理由で与えることのできる処罰は領地替えが限度なのです。」

「刺客のことは?あれを手引きしたのは珠峨だ。」

「証拠がございません。在りもせぬ証拠を探すより、羅梓依様の自作自演の一環であったとする方がよろしいかと。」

 灯己が眉根を寄せた。

「よろしいかと?誰にとって?」

 煌玄は口を結んだ。

「すべて羅梓依の罪にするつもりか?」

 口を開かぬ煌玄に、灯己が苛立ちをぶつけた。

「羅梓依の罪状を増やせばそれだけ麗威の罪も重くなるんだぞ。」

「致し方ないことかと。蘭莉の無罪を証明するには、下女の死因が神言反呪であることを麗威に示してもらわなければなりません。すべて麗威が羅梓依様に神言反呪を伝えたことに端を発するのです。いずれにせよ麗威の処罰は免れぬこと。」

「どうせ処罰を科すならどれだけ罰が重くなろうと変わらぬと?それは燈羨の意か?」

 微かに揺らいだ瞳を隠そうと、煌玄は目を伏せた。

「そんなこと、燈羨が許すとは思えない。」

「罪は罪。麗威も受け入れております。」

「おまえ、麗威を言いくるめたのか?」

「私が申し含むまでもありません。麗威はあれを羅梓依様へ伝えた時から、覚悟していたと申しております。」

「飛都の良心と呼ばれる煌玄の言葉とは思えないな。」

「私が何と思われようと構いません。灯己様。元帥職は帝軍の法の番人でもあるのですから、くれぐれも情に絆されませぬよう。」

 灯己の鋭い目が煌玄の頑なに結ばれた口元を見下ろした。

「おまえの世界には、おまえと燈羨しか存在しないのか?」

 煌玄は伏せていた瞼を上げたが、灯己の強い眼差しの眩しさに、再び目を伏せた。

「この世でたった二人きりだとでも思っているのか?」

「まさか、そのようなこと。」

「おれにはそう見える。まるでこの世でたった一人、燈羨を守れるのは己だけだと。たった一人きりで、おまえはいったい何と闘っているんだ?」

 灯己を見上げた煌玄は、目玉の中に驚きと畏怖が往来し、眼球に涙が幕を張るのを自覚した。

「私が、何と闘っているかと?」

 なんと、無自覚なことか、この方は。煌玄はぐっと瞳に力を宿し、灯己の眼光を跳ね返した。

「あなたです。妖魔の王、炎鷲の宿るその御身こそ、私の、いいえ、燈羨様にとって脅威そのもの。」

 その時、灯己は体の中で、妖魔が息を飲んだ気配をはっきりと感じた。

「王魔の器であるあなたは、そう思うだけで王座を奪うことができる。」

「何を言っている?」

 灯己は目を瞬き、眉を顰めた。

「もはや私の前で隠す必要はありません。私は知っているのです、紫玉楴様、あなたのことを。」

 どくり、と心臓が大きく脈を打ち、灯己は突然の胸苦しさに息を止めた。じっと魔物が息を潜め、灯己の体の中で己の気配を隠そうと必死になっている。それはあまりにも滑稽に思えた。灯己は息を吸った。

「シギョクシ?」

「おそらく、女官長のお二人も気付いておりましょう。どんなに気配を隠そうと、女官長殿は焔鷙様炎鷲様の同族。あなたのお傍にいて何も感じぬはずがない。だから、あんなことを仰ったのです。あなたに帝のお子を身籠れなどと。あなたが帝のお子を産めば、帝のお血は正当な妖魔の王としてこの国に受け継がれる。」

「何のことだかわからん。」

「あなたは、ご自分がどれほど脅威であるか、あまりにも無知です。何故、無知を貫くのですか。あなたが無知を演じる限り、私はひとり闘い続ける。あなたから燈羨様をお守りできるのは私だけ。」

 灯己は体を流れる血が、泡立つのを感じていた。

「なんとか言え、魔物。」

 灯己の声に応え、ざわり、と妖魔が骨を滑るように蠢いた。灯己の肌から炎が立ち昇り、ゆっくりと灯己を取り巻き大きな鳥を形作った。

「知りたくないと言ったのはおまえだ。」

 灯己の体の奥から沸き上がるように発せられた地を揺らすその妖魔の声は煌玄の肌をびっしりと粟立てた。

「煌玄。」

 妖魔に名を呼ばれ、体の芯がびりびりと響いた。高圧的な気配に、煌玄は膝を折りそうになるのを必死に堪える。これが、妖魔の王、炎鷲。すべての妖魔がひれ伏す、死の炎。

「要らぬことだ。この灯己に、過去は要らぬ。すでに捨てた。知る必要はない。おれは、この地を捨てたのだ。」

 煌玄はぐっと歯を食いしばり、涙をいっぱいに湛えた瞳で真正面から灯己を、灯己に纏わりつく妖魔を見据えた。

「ならばなぜ、お戻りになった!?一度見捨てたこの城に、炎鷲様!」

 色を失った灯己の足元からぐつぐつと熱い妖気が沸き上がり、熱風が灯己の軍服の裾を翻した。

「この国を一度捨てた炎鷲様、そして彼の主であるあなたに、この国を、わが帝王を、お守りすることができるはずがない。炎鷲様、あなたはわかっているはずだ。去るべきだと。それとも、玉座を奪いたいと?」

「臆病者が!」

 妖魔の怒号と共にごおっと熱風が吹き荒れ、煌玄は体が飛ばれそうになるのを踏ん張って耐えた。

「おまえの主が求めたのだ、この灯己を!この灯己が手を伸べてやると言っているのに、それを自ら手折るとは、我らなくして、燈羨がこの国を生きていけると?愚か者め!」

 煌玄の瞳から、涙が零れ落ちた。落ちた涙が熱風に流され蒸発して消えるのを、灯己はぼうっとした頭で見つめていた。

「ならば灯己様!」

 吹き上がる風に煌玄の軍服が激しくはためく。

「ご自身の真の力を自覚されたとき、あなたは変わらぬ忠誠を燈羨様に誓うことができますか!?あなたが燈羨様の本当のお姿を知ってもなお、あの方を、」

 煌玄は言葉を切り、ぐうっと悲愴に顔を歪めた。嘲るように妖魔が笑った。

「言えぬか、臆病者め。この灯己に流れる血を切り開いて見せろと息巻きながら、己の心臓は眼前に掲げることができぬか。」

 妖魔の言葉に、煌玄が意を決し口を開こうとしたそのとき、廊下を走ってくるけたたましい足音が聞こえた。煌玄が剣に手を掛けると同時に扉が開き、小さな黒い影が飛び込んだ。ぼんやりとしていた灯己ははっと我に返り、剣を抜こうとする煌玄を制した。

「ペル!どうした?」

 飛び込んできたペルは灯己の軍服に縋り付いた。

「達がやばいんだ!花街で紫芭の配下だった女に襲われた、あれは妖魔じゃなきゃ対抗できない、お願い、助けて、達を助けて!」

 突然灯己の体から爆風が放たれ、ペルの体が吹っ飛び、壁に叩きつけられた。窓の硝子が次々に割れ、砕け落ちた。煌玄は咄嗟に顔を腕で覆いそれらを凌いだ。爆風が止み、煌玄が顔を上ると、ぐちゃぐちゃに散乱したものの中心で、灯己がぽかんとしていた。

「魔物、何した。」

 灯己に纏う妖魔からは、禍々しい怒りの妖気が立ち上っている。

「小鬼!そんな義理がおれにあるとでも思っているのか!」

 妖魔の怒号に、ペルは煌玄と共に身を竦めた。

「思ってません!」

 ペルは身を起こすと、両手をつき頭を床にこすりつけた。

「思ってないけど、お願いです、おれはあいつをこの国で死なせるわけにはいかない。だから、お願い、おれと一緒に来て!」

 ペルは素早く灯己の腕を掴むと、金の光で文様を描き、そこへ灯己を引っ張り飛び込んで消えた。

 様々なものが散乱した灯己の執務室で、煌玄は一人茫然としていた。


 煌玄が双子の話を廊下で立ち聞きしていた丁度その頃、達はペルと共に花街の華巻を訪れていた。

 とにかく晶に会わなくては、と達は思った。グレイスに殺される前に、風見妙から達に託された晶の力のことを直接会って話したかった。しかし、灯己の元を去った晶の所在を知る手立てはない。唯一望みがあるとすれば、カラスだけだと達は思った。羅梓依の牢で会った夜、カラスはグレイスとは手を切るような話をしていたが、姉様方が噂するようにカラスが大姉様の恋人なら、華巻に来る可能性はある。それに賭けるしかなかった。

 近衛兵に志願した達の安否を案じていた華巻の姉娼妓たちは、達の帰還を喜んで迎えた。しかし、黒のお方のことに話が及ぶと、表情を曇らせた。正后様の事件の頃から急に黒のお方の足が遠のき、それと同時に、大姉様はお部屋に籠るようになり、店にも顔を出さなくなったという。

「でも達が顔を見せたら大姉様もお元気になるかもしれんねえ。」

 姉様方の相手をペルに任せ、達は嬋紕の部屋へ向かった。ペルのことは近衛兵の徴兵で知り合った遠くの地方出身の子ということにした。ペルの一風変わった身なりを珍しがり、あれやこれやと質問攻めにしている姉様方の声がだんだん小さくなり、達は離れの一間の前に膝をついた。

「大姉様、お久しぶりでございます、達です。」

 達は嬋紕の部屋の襖の前に手をつき、声を掛けたが、返事がない。不作法とは思いつつ、少しだけ開いている襖の隙間から中を覗いた。中には誰もいなかった。じっと耳を澄ますと、コトコトと微かに音がする。達はそっと襖を開け、中に足を踏み入れた。音のする方へ近づいて行くと、それは鍵の付いた箱の中から発せられているようだった。鍵は開いていた。開けてはいけない嫌な予感と、開けずにはいられない好奇心が、達の中で交錯した。達は、そっとその箱の蓋を持ち上げた。

 箱の中にはひとの首があった。

 達は思わず叫び、尻餅をつき箱を放り投げた。箱の中の首がごろりと畳の上に落ち、艶やかな黒髪が畳の上に広がった。血色の良い肌は死人とは思えず、作り物の人形の首だろうかと達は目を凝らして見つめた。

「死んでいるとは思えぬ美しさであろう?」

 背後から声を掛けられ、達はぎょっとして振り向いた。そこには、大きな白い蛇が鎌首をもたげていた。

「この方は私の神よ、達。乱暴に扱ってくれるな。」

 赤い舌をちろちろと出し、大きな目玉に達を映すその蛇の喉から発せられる声は、嬋紕の声だった。

「え、大姉様?」

 蛇はぬめぬめと動くと、畳に転がっている生首に巻き付き、その唇に口づけをした。途端に蛇は絶世の美女へ姿を変えた。美しく冷たい瞳に見下ろされ、達は尻餅をついたまま後退った。

「神?この生首が?」

「我らの一族で初めて神となったお方。死してもなお、その妖気は我らを美しくさせてくださる。」

 嬋紕は生首を拾い上げると、恍惚とした表情でその頬を撫ぜた。

「達、よく戻りました。あなたがその土産を携えて戻るのを待っていましたよ。」

 嬋紕の美しい指が、達の手を指した。

「神へ捧げましょう。真の王の誕生を祝って。」

 嬋紕の顔がぐわっと歪み、口が裂け、鋭い牙が達に襲い掛かった。間一髪でペルが達に飛びつき、二人は牙を逃れ畳に転がった。

「叫び声が聞こえて来てみたら、何、どういうこと!?」

 蛇女を見上げたペルは、そのとぐろに抱かれた生首を見るとぎょっとして腰を浮かせた。

「紫芭!!」

「シバ?」

 蛇の尾が、ペルを廊下に弾き飛ばし、ペルの目の前で襖が閉められた。ペルは襖に駆け寄ったが、襖に触った途端、眩暈に襲われ膝をついた。悪寒に奥歯が鳴るのを止められない。

「ペル!大丈夫?」

 襖の向こうで、達の声が聞こえ、ペルは我に返った。

「おれのことより自分のことだよ達!その生首、やばいから!」

「やばいって何?」

「特別なんだ、珠峨なんかとは違う、グレイスが特別につくった憑代、おれには敵わない。」

「え、どういうこと?」

「その女も、紫芭の妖力がかかってるなら、おれじゃ無理だよ。」

「え、じゃあどうすんの。」

「もっと強い妖魔なら。達、ちょっとだけ、耐えてくれ!絶対助けるから!」

 騒ぎを聞きつけ集まってきた娼妓たちに、絶対襖に触らぬよう言い残し、ペルは灯己の元へ急いだのだった。そうして華巻へ連れて来られた灯己は、何が何だか訳がわからない。

「お願い、灯己、グレイスの加護にあるこの世界の生き物を、おれが傷つけることは出来ないんだ、それにあれは特別な魔物だし、お願いだよ灯己、達を助けて。」

 縋り付くペルを引き剥がし、灯己は襖に手を掛けた。

「やめろ!手を貸すな!おまえには関係のないこと!」

 頭の中で妖魔が叫ぶ。襖に手が触れた途端、灯己は意識が朦朧とした。

「だからやめろと言っている!」

 灯己は首を振り、息を吸った。

「うるせえな、黙って手を貸せ。」

 灯己は意を決し、足で襖を蹴破った。びりっと嫌な妖気が体を流れ、気が遠のく感覚に襲われたが、灯己はぐっと意識をかき集め、目を見開いた。そこには、巨大な蛇に圧し掛かられている達の姿があった。廊下の娼妓たちが一斉に悲鳴をあげた。

「下がって、早く!」

 ペルが娼妓たちを誘導し店の外へ連れて行く。

「これはこれは、姫様。」

 振り向いた巨大な蛇が赤い舌を見せた。灯己は刀を抜いた。

「斬りたければお斬りなさい。いくら斬ったところで私の体はまた生えてきますから。お忘れになりまして?姫様。」

「その声、嬋紕か?」

「あんなに仲良く遊びましたのに、姫様。まだ思い出してはいただけませんの?恥を忍んでこんな醜い姿を晒しても、まだ?」

「やめろ、関わるな灯己。いますぐ目を瞑れ、この場から去れ!」

 妖魔の怒号に、灯己は体の中の血がざわりと全身を駆け巡るのを感じた。冷たい石畳の上を這う、白いぬめぬめとした生き物の姿が、突然目前に立ち現れた。灯己は刀を落とし、茫然と蛇女を見下ろした。

「白蛇か?」

 嬋紕は嬉しそうに目を細めた。

「ええ、私ですわ。紫々様。いえ、紫玉楴様。」

 灯己は目を見開いたまま、小さく首を振った。

「おれじゃない。」

「いいえあなたです、紫玉楴様。」

「その名でおれを呼ぶな!!」

 灯己の叫びに、蛇に圧し掛かられていた達は驚いて灯己を見上げた。灯己の瞳からほとほとと涙が流れ落ちた。

「あれは、おれじゃないんだ。」

「灯己?」

 嬋紕は達の上から降り、灯己へ近づいた。とぐろの中に抱いた生首に顔を寄せ、頬ずりした。

「私のことはよいのです。ですが、まさか、お父上のお顔までお忘れになりまして?」

 生気に満ちたその首を見るなり、灯己はひどい吐き気を催し、膝をついて身を折った。喉元から苦渋の叫び声が漏れる。

「灯己!?」

 灯己の体を駆け巡るのは憎悪だった。忘れていた憎しみが悪寒となり震えが止まらない。達が灯己に駆け寄り、背中を摩った。その様子を、嬋紕は微笑みながら見つめた。

「ほうら、お父上が見ておられる。お忘れになるとはなんと親不孝な。」

 灯己の額には苦しみの脂汗が浮かび、目からはとめどなく涙が流れ落ちる。

「灯己、灯己!」

 達の声がまるで聞こえていない。灯己はやがて目を白黒させ、気を失った。嬋紕が再び紫芭に口づけしひとの姿に戻り、灯己の落した刀を拾った。

「さあ、姫様、これまでの親不孝を詫びて神に贈り物を捧げましょうね。」

 達の鼻先に刀の切っ先が突きつけけられた。達が息を飲んだその時、ばたばたと廊下を走ってくる足音と共に、ペルが部屋に飛び込み、嬋紕に体当たりした。しかし細い嬋紕の体はびくともせず、ペルが弾き飛ばされた。

「ペル!」

 間髪入れずに達へ振り降ろされた刀に、達は目を瞑ったが、それは達を斬らなかった。達が目を開けると、切っ先は目の前で止まっていた。ペルが目の前に立ちはだかり、素手で白刃を掴んでいた。

「ペル!」

「要は、こいつに託された力が晶に戻ればいいってことだろ、蛇女。達を殺されるよりはずっといい、おれはこいつをこの世界で死なせるわけにはいかないんだ。」

 ペルはぐぐっと力を入れ、嬋紕の刃先の向きを力ずくでずらしていく。

「達、少し痛いけど我慢しろよ。」

 ペルは刃先を達の右手首に宛がった。

「死ぬ痛みよりはずっとましだぜ、たぶん。」

 ペルが力を抜き、その反動で嬋紕は達の右手首を切り落とした。

「ぎゃあああ!!」

 達の悲痛の叫びと共に、切り落とされた達の掌の印から膨大な妖気が溢れ空へ昇り立ち、その妖気は炎となり、燃える鳥となった。鳥の羽ばたきが新たな炎を生み、嬋紕の部屋は炎に包まれた。達とペルは一瞬にして逃げ場を失い、抱き合ってその鳥を茫然と見上げた。その時、気絶していた灯己の体から炎の鳥が舞い上がり、達の掌から生まれた鳥に応戦するように絡みついた。灯己の鳥が羽ばたくと、達とペルを取り巻いていた炎が弱まり嬋紕に火が燃え移った。嬋紕は叫び声と共に黒く変色し灰も残らず消えた。達の掌から出た鳥は、一度嘶くと空へ舞い上がり、火の粉を散し禍々しい妖気の渦となって姿を消した。

 ペルは達と抱き合ったまま、燃える部屋と、そこに残った巨大な炎の鳥を、口を開けて見上げた。今渦となって姿を消したのが達に封印されていた焔鷙なら、これはそれと対をなす炎鷲なのだ。なぜ、炎鷲が灯己から現れたのか、ペルは考えようとしたが、炎鷲の高圧的な気配に気圧され、頭が少しも回らない。炎鷲はじろりとペルに一瞥をくれた。

「焔鷙を復活させたな。あの力が今戻ればこの飛都は酷いことになると、わかっていて。」

 地を揺らす声に圧倒されペルは言葉が出ない。

「そのアル人を助けるためにこの国を滅ぼすか?神苑の神の遣いとは名ばかり、おまえもこの悪党どもと同じよ。好き勝手にこの世界を弄ぶ。所詮他人事だ。」

 炎鷲が口から炎を吐き、紫芭の生首を焼いた。紫芭の首は干からびるように燃え、灰も残らず消えた。眼球だけがぽとりと畳の上に落ちた。ペルはぞっとし顔を青くした。火に気づいた隣の館の遊女たちが叫び声を上げ逃げる足音が遠くに聞こえる。

「連れて行ってやれ。当分は目を覚まさぬ。」

 炎鷲が灯己を指し、達は横たわっている灯己に駆け寄った。

「これも持って行け。」

 ペルは炎鷲から投げられたものを受け取った。それは目玉だった。

「うわっ!」

「紫芭から取り戻してやった。灯己の目玉だ。」

「え?なんだって?」

「早く連れ出せ、おれの炎に灯己は焼かれないがおまえたちは焼け死ぬぞ。」

 ペルの問いに炎鷲は答えず、妖気の渦となり灯己の体へ潜り込んで消えた。

「待って!」

「ペル、早く、早く逃げないと火がまわるよ、早く!」

 振り向くと、達が左手で懸命に灯己を背負おうとしている。ペルは慌てて灯己を背負い、部屋をあとにした。

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