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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
18/30

2幕 飛都の子ら 10

 千城の中門広場では三日三晩千人もの泣き声が続いたと言う。

 灯己の靴の硬い踵が薄暗い地下室への階段に足音を響かせていた。階段を降りると石造りの長い廊下が続き、いくつもの扉が並ぶその中程に、軍士の立つ扉があった。軍士が灯己に気付き敬礼をした。

「麗威軍将はいるか。」

「は。中にいらっしゃいます。」

 頷き重い扉を押そうとすると灯己を、軍士が慌て止めた。

「私が参りますので。」

「大丈夫だ。慣れている。」

 軍士は俄かに青褪め、身を引いた。

 灯己は重い石造りの扉を押し、中へ足を踏み入れた。まず異臭が鼻を突いた。目が慣れると、部屋中に死体が並べられているのが見えてくる。その中を動く幾人かの軍士に麗威は指示を出していたが、灯己に気付くと足早に駆け寄った。

「元帥。このようなところにおいでにならずとも、指笛で呼んでくださいましたら私から参りましたのに。」

 帝軍内にはいくつかの用途のための指笛の旋律が決められており、麗威と灯己の間にも互いを呼ぶ指笛がある。

「死体には慣れている。」

「ご謹慎中では?」

「解くと勅令があった。」

「帝のご様子はいかがですか。」

「かわるだろ?煌玄のほかは近づけないよ。」

 ここには幾人いるのかと灯己は尋ねた。

「この部屋で二百。ほか五部屋に運んでございます。このような大勢の遺体安置場所がなかったのでこちらの空いていた地下貯蔵庫へ運びましたが。」

「早いところ身内のもとへ戻さないといけないが、あの様子ではな。」

「中門広場をご覧になりましたか?」

「ああ。正后を鬼だと叫ぶ者、神だと崇める者、ただ泣き続ける者、意味のないことを喋り続ける者、あんな連中を一緒にしておくなど狂気の沙汰だ。何が始まるかわかったもんじゃない。」

「しかし、家に帰そうにも、帰ろうとしないのです。」

 灯己は頷いた。しばらくそうさせておくしかない。

「それで、正后様はどうしたんだ。」

 麗威はすっと目を伏せ、灯己を外へ促した。

「ご案内します。」

 地下から出た二人は回廊を抜け、庭を横切り、千城の奥を北へ進んだ。森の中を進んでいくと高い城壁が現れた。麗威はその城壁に沿い、歩いて行く。城壁の終わりに門が現れ、門番に軍士が一人立っていた。麗威と灯己の姿を認めると、一礼し、幾重にも重ねられた鍵を一つずつ解いていった。門が開き、麗威と灯己はその先に足を踏み入れた。門の先は朽ちかけた昇り階段がなだらかに続いている。麗威は先に立って進んだ。

「こちらです。」

「どこへ続いている?」

「ここから先は昔から北の禁域と呼ばれ、立ち入ることを禁止されておりました。長い間誰も訪れずにおりましたので今では存在を忘れられた場所でございます。」

 晶が居た場所だ、と灯己は思い出した。

「なぜ、立ち入ることを禁じられた?」

「ここはかつて阿陀良帝の離宮でした。」

 庭を進んでいくと荒廃した屋敷が見えてきた。

「紫宝宮と呼ばれていたそうです。阿陀良帝が夫の紫芭へ贈った宮殿であったと伝え聞いております。阿陀良帝の没後は忌むべき場所として燈峻帝が入ることを禁じたと。」

「この屋敷を開けた時、目の見えない老婆がいなかったか?」

 灯己の問いに、麗威は不審な面持ちを向けた。

「いえ、おりませんでしたが。」

「そうか。」

「こちらにかつていらしたことが?」

 いや、と灯己は首を振った。

「噂を聞いたことがあった。」

「阿陀良帝が崩御されてから一度も人の手を入れずにいた場所ですよ。」

「ここに正后様を入れたのは帝の命か?」

 はい、と麗威が頷いた。燈羨がこの離宮の存在を知っていたことを灯己は意外に思った。

 麗威は、扉を開き、回廊へ灯己を導いた。

「こちらに。」

「なぜ、あのようなことをしたのか、正后は話したのか?」

 麗威は首を振った。

「筆談を拒否されています。」

 二人は回廊の終わりへ行きつき、扉の前に立った。

「正后様には猿轡をお噛みいただいておりますが、万が一、正后様がお口をお開きになりましたら、すぐにお耳をお塞ぎください。神言反呪は短いもので三言ですが完結しなければ効果はございません。」

 麗威が鍵を開け、扉を押した。暗がりの中に一筋、天窓から光が差している。その光の中に、羅梓依が座っていた。手を縛られ、猿轡を噛み、足には錘をつけられている。

 麗威はその姿を見るや、顔を背けた。灯己は天上まで張り巡らされた鉄格子へ近づき、羅梓依に膝を折った。

「正后様。お初にお目にかかります。飛都帝国軍元帥灯己にございます。」

 羅梓依は生気のない目で灯己を見た。嗅いだことのない匂いが灯己の鼻孔をくすぐった。

「なぜ、あのようなことをなさいました?」

 ぴくりとも動かない嵌め硝子のような羅梓依の目を灯己は覗いたが、そこには何の意志も感じられなかった。

「正后様。お話して頂かないことにはずっとこのようなところでお過ごしいただくことになります。どうかご弁明を。」

 しばらくじっと羅梓依を観察していたが、灯己は諦め、敬礼し麗威を外へ促した。

「また参りますので。」

 そう言い残し、麗威は鍵をかけた。外へ出ると陽射しがまぶしく降りかかり、灯己は目を細めた。

「麗威と正后様は幼いころ同じ館で育ったそうだな。あのようなお姿は見るに堪えないだろう。」

「いえ。お気づかいは無用にございます。私は帝軍士の務めを全うするまででございます。」

 灯己は振り返ると、じっと麗威を見つめた。

「その言葉に偽りはないな?」

 麗威は訝しげに灯己を見上げ、頷いた。

「忠誠印に手を。」

 麗威は言われるままに左腕の焼印に右手を当てた。

「帝が広場に駆け付けた時、耳を塞ぐよう言ったのがお前だったとは確かか?」

 焼印から離れそうになる手を、麗威ははっとして抑えた。

「なぜわかった?なぜ正后様が神言反呪を口にすると知っていた?」

 灯己の強い語気に気圧されるように麗威の手が焼印から離れた。

「手を離すな。」

 麗威は忠誠印のある左腕を強く握った。それは、と口籠り、張りつめた沈黙が続いた。

「その忠誠印に触れるのが辛いのか?」

 灯己の問いに、麗威は耐えきれず苦悶に喘いだ。

「私めにございます。」

 麗威は膝から落ちるように跪いた。灯己はその背を見つめた。

「夢を、見ておりました。」

「夢?」

「お許しください!お許しください!お許しください!」

 麗威は髪を振り乱し、何度も平伏した。灯己は初めて見る麗威の激情に呆気にとられ、しげしげとその姿を見つめた。

「いいえ、許されません!私のしたことは許されぬことです。どのような刑罰でも、いえ、どのような刑罰をもってしても、許されることは望みません。厳重な処罰をお願い致します。」

 灯己は膝を折り、麗威の肩を支えた。

「麗威。お前の犯した罪とはなんだ?何が許されず、何を許されたいと?」

 麗威は祈るように両手を合わせ額につけた。涙が溢れ零れた。

「私は、幼いころから羅梓依様ががかわいくてかわいくて仕方がなかったのです。麗の者は竜胆の一族から毒虫のように嫌われております。この心は一生報われることはないとわかっておりました。」

「それが叶う夢を見たと?」

「夢の中であの方は私だけのものでした。そのために、私は夢の中で、乞われるままに禁忌を、神言反呪を教えておりました。」

 麗威の咽び泣く声が、灯己の胸を濡らした。

「申し訳ございません。」

 灯己は麗威を胸に抱いた。

「恋に身を焦がすことは罪ではない。誰に許しを請うことでもない。おまえの心はおまえの自由だ。」

「まさか夢の出来事がこのように現実へ立ち現われるとは思いもよらず、このような、羅梓依様をこのようなお姿にしてしまうなど。」

 麗威は灯己の膝に顔を埋め泣き崩れた。

「夢にも思わずか。」

 灯己は深く息を吐いた。

「夢を操られては手の打ちようがない。」

 確かに、ペルの言う通りかもしれない、と灯己は思った。ペルの言う通り、ひとの心を自由自在に弄ぶグレイスは恐ろしい魔物だ。舐めていたかもしれない。灯己の体は芯から怒りに滾っていた。


 その夜、文官舎広場に集まり夜を越そうとする羅梓依近衛隊志願者たちの中に、達はいた。中門の惨劇のせいでそれどころではなくなった徴兵だったが、徴兵を進めていた文官たちは既に集まっていた民を無下に追い返すこともできぬまま、いくばくかの食料と夜具を与え、彼らは文官舎広場に留め置かれていた。薪を囲み話をする者もいれば、すでに寝ている者もいた。

 達は夜具を被り、薪の傍で寝転がっていた。あの時、中門広場で見た光景を思い出していた。三日三晩繰り返し思い返した。たくさんのひとが倒れ、門が閉められていく、その中で軍士たちに揉みくちゃにされる女の姿を、達は広場の後方でぽかんと口を開けて見つめていたのだった。

「何をやってるんだ、薫のやつ。」

 この世界へペルに連れて来られた時、姿形が変わっているかもしれない薫を見つけられる自信が達にはなかった。しかし、正后の姿を見たとき、達はすぐにわかった。薫であると。

「明日になったら入隊検査やってもらえるんだろうか。」

 と薪を囲んでいる男の一人がぽつりと呟いた。

「いいや、無理だろう。」

 と答える男がいた。

「正后様の騒ぎでそれどころじゃねえよ。この近衛隊自体なかったことになるかもしれねえ。」

「正后様の騒ぎ?」

 と呑気に尋ねる者に、おいおい、と苦笑が広がった。達は夜具の中で男たちの会話に耳を傾けた。

「正后様がまじないでたくさんの人を処刑したって、中門広場でえらい騒ぎだよ。知らねえのか?」

「ここから中門広場はだいぶ遠いからなあ。」

「おれはあの場にいたぜ。」

 と別の男が声を上げた。

「見たのか?」

 と男たちの関心がそちらに集まる。

「ああ。おれたちの家族は正后様のおっしゃる通りに耳を塞いだんだ。そのとたん、目の前が死体の山だ。」

 息を飲む気配が達にもわかった。

「恐怖というよりも、神を見たと思った。神々しかった。」

 しばらく、誰も口を開かなかった。だれかの鼾と焚火の燃える音だけが続いた。

「それじゃあ、正后様はどうされてるんだ?」

 達ははっとして耳を聳てた。

「北の禁域に幽閉されていると聞いた。」

「北の禁域?」

「あの噂のか?妖魔を閉じ込めているっていう。」

「いや、阿陀良帝が愛人の紫芭を住まわせたっていう屋敷があるんじゃないか。」

「いや、おれは阿陀良帝が死んだ娘を祀るためにつくったってきいたぜ。」

「ああ、阿陀良帝と紫芭とのあいだに出来た姫か。すぐ死んじまったっていう。」

「いや、死産じゃなかったか。」

「それでその禁域に幽閉されて、正后様はどうなるんだ?」

 男たちが黙った。達は夜具から顔を出し、男たちを振り返った。

「その北の禁域ってのはどこにあるんだ?」

 黙りこくっていた男たちが一斉に達へ視線を移した。

「そりゃあ北だよ。千城宮の北のはずれだ。高い城壁に囲われてるって噂だ。」

 呆れたように一人の男が答えた。

「それは遠いのか?」

 男たちは顔を見合わせ、首を竦めた。

「千城宮は魔の城だからな。果てがどこかなんておれたちにわかるもんか。」

 乾いた笑い声を立て、男たちは達から視線を逸らした。正后の話などなかったように、話題は別のものへ移っていた。達は夜具から這い出ると、そっと男たちの傍を離れた。


 麗威は食事の盆を持ち、紫宝宮の扉を開けた。牢の鍵を外し、鉄格子を潜った麗威は、一筋の月光に照らされる羅梓依の足元に蹲る黒い影を見るや、素早く盆を置き、腰の剣に手をかけた。月の光に白い歯列が浮かぶ。笑っている。犬歯を剥き出しにして笑いながら立ち上がったその影に左の手が無いと気付いた麗威は、それが珠峨の屋敷で時々姿を見かけた下男であることを思い出した。

「どうやってここへ入った?」

 麗威は剣に手をかけたままその男に問うた。わけもねえよ、と男は答えた。男が歩み、眼帯をかけた顔を麗威に見せつけるように寄せた。

「ご主人様の庭でお会いしたことがありますね。ええ、あんたの夢の中でさ。」

 麗威は息を飲み、後退りした。見たことがあると思ったのは、夢の中だったのだ。思い返せば、珠峨の屋敷を訪れたことなど一度もなかった。

「これも夢かって?違いますよ。」

 男は笑いを堪えるように肩を震わし、舐めるように麗威を見つめた。

「この女は死ぬよ。あんたがそう導いた。あんたの欲が。おれはよくわかるぜ、あんたの気持ち。好きなものほど憎い。好きなものほど不幸になれと願う。禁を犯してでもその欲を満たしたいあんたの気持ちが。」

「違う。私は、羅梓依様の不幸など願っていない。」

「欲のために禁を破って、結局、不幸になるのさ、おめえ自身が。可哀想に。」

 一歩、二歩と近づく男に気圧され、麗威は一歩、二歩と下がり、冷たい鉄格子に背をつけた。

「この女を救いたいかよ?」

 男はわざとらしく憐憫の表情を作ろうとし、しかし出来かねるというように吹き出した。

「だが、残念、この女はもう死んでるんだ。」

 麗威は耳を疑った。

「どういうことだ?」

「この女はただの容れ物だ。他人の魂を入れてるから生きてるように動いてる。」

「そんな馬鹿なこと。」

「馬鹿なことだがこの女が望んだことだ。」

「なぜ、なんのために。」

「帝王に愛されるためさ。近頃の正后様ときたらまるで人が変わったようだと思わなかったか?」

 同じことを彰豼が言っていた、と麗威は思い出し愕然とした。確かに羅梓依は変わった。しかし麗威は、正后としての重責に耐え、懸命に無理をしているのだと思った。幼いころから引っ込み思案で意志の弱い羅梓依を誰よりも知っていた麗威の目には、そんな羅梓依の姿が尚更愛しく映った。まさか別人に人格を乗っ取られているなど、思いもしなかった。

「健気じゃねえか、命を捨てて、自我を捨てて、愛されようとするなんて。そうそうできることじゃねえよ。」

 男は芝居がかった仕草で首を振った。

「だが可哀想にな、それでも帝王は愛してくれなかったのさ。自己犠牲なんてのは結局、自己満足だよ。なあ、おめえはどう思うよ?死んで別世界に女助けに来たっていうおめえは。」

 男が麗威から視線を移し犬歯を剥き出しにして笑った。男の視線の先には白い息を切らし、膝に手をつき喘ぐ一人の青年が居た。

「よう、達。灯己にも小鬼にも頼らずに来たのかよ。よくここがわかったな。」

「こういう古い塀にはだいたい抜け穴があるんだよ。それに、あんたの声でかいから、屋敷の外まで聞こえたぜ。」

 顔を上げた青年は、脱獄犯ウエダタツだった。ウエダタツは息を整えながら躊躇することなく牢へ入った。眼帯の男には目もくれず、羅梓依に近づくと、肩を抱き、その瞳を覗いた。ぎょっとし羅梓依へ駆け寄ろうとする麗威を、眼帯の男が制し、まあ見てろよ、囁いた。

 ウエダタツは羅梓依の拘束を解き、猿轡を外すと、まっすぐに眼帯の男へ顔を向けた。

「おれが死んで薫を探しに来たのは自己犠牲なんかじゃねえからな。死ななきゃ来れねえって言うから仕方なく死んだだけだし、装飾なしに、そのまんまの意味で、薫を助けられるのはおれしかいねえからだよ。」

 な、とウエダタツは羅梓依に頷いて見せた。

「こんなふうに縛られて、口塞がれて、黙ってる女じゃねえだろ、薫。お姫様ごっこで腑抜けになったかよ。」

 羅梓依が腕を振り上げ、ウエダタツを叩いた。その拳はぼふりと柔らかい音を立て衣を打ち、ウエダタツの胸に埋められた。そこにいるのは麗威の知る羅梓依ではなかった。

「もう、戻れないよ、私、人殺しだもの。」

 羅梓依の姿をした女は泣いていた。

「大丈夫、これは、夢だ。な、そうだろ?」

 ウエダタツに同意を求められ、眼帯の男はにやにやと笑った。

「あんたの意志次第だぜ、大量殺人鬼のお嬢さん。これを夢にして元の世界に帰るか、この世界で罪を償うか。」

「勝手に魂攫ってきて、人殺しさせたのはあんたたちだろ、それで罰を受けるのは薫なのか?」

 眼帯の男が鼻で笑った。

「やりたくもねえことやらされたって?」

 羅梓依の姿をした女の顔から血の気が引いて行くのがはっきりとわかった。

「薫?」

「殺したかったのさ、そいつは、何千人も、そうだろう?アルじゃずっといじめられて続けて、みんな殺してやりたいと思ってたんだ、だからやらせてやったのさ。どうだよ、気持ちよかったかよ?」

 眼帯の男のけたたましい笑い声が半球の天井に響き渡った。羅梓依の姿をした女は、床に蹲り、泣いていた。

 ああ、と麗威は天を仰いだ。本当に、羅梓依はいなくなってしまったのだ。羅梓依の衣を被りぐずぐずと泣いているこの女に、これ以上羅梓依を汚されるのは我慢がならなかった。麗威は立ち上がると、女の髪を掴み上げ、その横っ面を引っ叩いた。

「もうこれ以上羅梓依様の姿で、醜態を晒さないでくれ。これがおまえの夢ならば、さっさと醒めることだ。死者を還す神言反呪はないが、夢から醒めぬ者を呼び起こす神言呪なら、ある。おまえがまだ死んでいなのであれば、返すことができる。」

「返してくれ。」

 ウエダタツが強い眼差しで麗威を見上げた。

「薫を返してくれ。いいだろう?カラス。約束したよな?」

 眼帯の男は犬歯を剥き出しにして笑った。

「やれるなら、やってみろ。」

 薫と呼ばれた女が怯えた瞳で眼帯の男を顧みた。

「私を逃したら、あなた、あれに何をされるか。あなただって、あれに生き返らせてもらったんでしょう?」

「生き返らせてもらった恩があるとでも?」

 男は声を立てて笑った。

「そもそもおれが灯己に殺されるように仕組んだのだってあいつなんだぜ。」

「グレイスの傍を離れたら私と同じその体、長くは持たない。」

「てめえの心配なんざいらねえよ。さっさと帰っちまえ、しみったれ女。」

「薫のこと悪く言うなこいつはしみったれなんかじゃねえぞ!どんなにだれに何を言われたって、他人の被り物つけて現実逃避するようなやつじゃない。」

「うるさい。」

 麗威は短く怒鳴った。

「おまえとおまえは耳を塞げ。」

 麗威に指されウエダタツは口を噤んだが、眼帯の男はにやにやと笑っている。

「寝てるやつ起こす呪文、起きてる者が聞いたところで関係ねえだろ。」

 麗威は強い意志を込め首を振った。

「知ってはいけない呪詛だ。」

 二人は顔を見合わせ、耳に手を当てた。麗威はぐすぐすと泣いている女の肩を抱き、それを囁いた。その途端に羅梓依の体は麗威の腕の中へ崩れ落ち、腐臭が広がった。羅梓依の体は見る見るうちに朽ちた。

「この女の魂は目覚めるべき体に帰した。」

「本当にこれでよかったのか?」

 気が抜けたように朽ちた体を見つめていたウエダタツに眼帯の男が尋ねた。

「あの女がアルで目覚めても、これまでと何も変わらねえんだ。この飛都という夢の中で死んじまったほうがどれだけ幸せだったか知れねえ。」

「だっておれが生きててほしいんだもん、薫には、おれの傍で。」

 男は声を立てて笑い、笑いながら咳き込むと蹲り背を震わせ、腐った泥を吐いた。

「カラス、大丈夫?」

 駆け寄ったウエダタツの手を男は振り払った。

「おめえに心配されることじゃねえ。おめえはさっさと灯己のとこ行けよ。いつまでも異界でうろうろするな。目障りだ。」

 ウエダタツは男の言葉にしばらく躊躇していたが、やがて立ち上がり、麗威を振り返った。

「あー、あの、その節は大変お世話になりまして。」

 麗威に歩み寄り頭を下げた。

「おれが逃げたからあんたたちに容疑がかかったって聞いて、申し訳ありませんでした。」

 もういい、と麗威は頷き、灯己の執務室の場所を簡単に教えた。ウエダタツはもう一度頭を下げると踵を返し紫宝宮を出て行った。

 麗威は牢の中で二人きりになった男の背中を見つめていた。男から漂う強い香は羅梓依が焚いていた香と同じものだった。

「おまえも、死んでいるのか?」

 腐りゆく体の臭いを隠す香なのだ。麗威の問いに、男は振り向かなかった。

「おれはこの女とは違う。この体はおれのものだし、この魂もおれのものだ。」

「一体どうやってこんなこと。神苑にだって死者を蘇らせる術はないはずだ。」

「神苑ねえ。」

 男はゆっくりと揺らめくように振り向いた。

「なんだってあんたは神なんか信じてんだ?」

 なぜ、などと麗威は考えたこともなかった。生まれた時からそう決まっていた。

「おめえ、死ぬつもりか?神なんかのために。神言反呪と心中しようってのか?」

 麗威は怪訝に男を見上げた。

「珠峨の婢を殺したあの呪文。」

 どきり、と麗威は身を固くした。

「知りもしねえ神言反呪を知ったかぶって罪を着るのか?」

「違う。あれは、確かに神言反呪だった。」

 麗威は思わず声を荒げた。

「私が羅梓依様にお教えした。」

「なら、もう一度言ってみろよ。おれは死んでるからな。聞いても死なねえからいくらでも言って構わねえよ。」

 言葉を継げぬ麗威を、男は見下げ、鼻で笑った。

「あんたの知っている神言反呪じゃないんだろ?あれは羅梓依が作り出したんだ。なあ?だってのになんだって、それを自分の咎にする?」

「神言反呪を作り出すことは禁忌だ。これ以上羅梓依様の罪を上塗りしたくない。」

「どうだかなあ。」

 男は乾いた声で笑った。

「楽しかった、だだそれだけなんだろ。夢の中で愛弟子羅梓依様と紡ぐ蜜月、掌の中で羅梓依様の才能を開花させるのが。」

 男は血の気の引いた麗威の白い顔をつまらなそうに見つめた。

「おれも同じ夢を見たことがあったよ。はじめはおれが先生だったんだぜ、あいつの。」

 あいつ?と訊き返した麗威の声など聞こえぬかのように、男は続けた。

「だがそれも、今にして思えば、神の掌の上で転がされていただけのこと。あいつを不幸にするためだけにな。」

 男が不意に強い眼差しを麗威に向けた。男のまっすぐな視線に、麗威は魂が射竦められたように、息を止めた。

「あんたはわかっているはずだ。それでも、神を崇めるかね?神様の言う通りに生きるか?」

 麗威の目の前に、男は手を差し出た。

「おれは神に抗うぜ。来いよ、おまえも。」

 麗威は、首を振った。強い意志を込めて頭を振ったつもりだったが、微かに、鼻先が左右に動いた程度だった。男が笑うような鼻息を漏らした。

「まあ、そうだな。今はあんたにとってその女を弔って泣く時間だ。」

 男は差し出していた手を引っ込めると、長い外套の裾を翻し、麗威に背を向けた。

「だがな、神様に弄ばれっぱなしで黙ってる義理なんざねえと思うぜ、おれは。」

 固い踵を鳴らし、男は紫宝宮を出て行った。羅梓依の腐臭と男の残り香の立ち込める牢の中で、麗威は一人、腐った土となった羅梓依を胸に抱きしめた。涙は出なかった。男の残した言葉が、強烈に胸を焦がしていた。


 夜半に突然執務室の戸が叩かれ、現れた達に灯己は驚いたが、達の話が終わらぬうちに、灯己は達へ森の屋敷で待つように言いつけると、執務室を飛び出し珠峨の屋敷へ走った。しかし灯己が珠峨の屋敷へ着いた時、珠峨はすでに自害し果てた後だった。主人の突然の死に家人が右往左往する中、一人の年老いた下男が茫然とする灯己に声を掛けた。

「元帥様が来られたらこちらへお連れするよう、主から申し遣っております。」

 長い廊下を進み、奥の応接間へ灯己を案内すると下男は暗い廊下へ戻って行った。灯己が下男から渡された火起こしで燭台に明かりを灯すと、揺らめく明かりに浮かんだ二つの金の目玉が笑った。思った通りだと、灯己は息を吐いた。

「おまえが珠峨だったのだな、グレイス。」

「もっと早く気付いてくださると思っておりました。私は少しも隠しておりませんでしたのに。」

 燭台の明かりに浮かび上がったグレイスはゆったりと長椅子にもたれ、灯己に向かいの椅子に座るよう促した。灯己は示された椅子に腰を下ろした。

「珠峨を殺したのか?」

「殺した?私が?いいえ。私は珠峨でありましたが、彼の自我もちゃんと共存させて差し上げたのです。あれが死を、自ら選んだのですわ。羅梓依というお人形が無くなってしまって、将来を悲観したのでしょうね。」

「一体何のために、羅梓依にあんなことさせた?」

 グレイスは脚を組み、頬に手を当て、思案するような仕草をして見せた。

「そうですね、見てみたかったのですわ。愛されない悲しみや憎しみがどれだけの力を持って破滅を導くのか。」

「それだけのために、羅梓依や、珠峨の命を?」

「珠峨には冬しか知らぬ千城宮でこの世の春を見せて差し上げましたわ。」

 灯己様、と珠峨は組んでいた脚を解き、灯己へ顔を寄せた。

「呪い憑きをご存知ですこと?」

 灯己は顔を顰め、首を振った。

「この国の始まりから代々燈一族に憑りつく神の呪い人形とでも言いましょうか。帝王は決して呪い憑きに逆らってはいけないのです。」

 灯己は眼差しでなぜ、と問うた。

「神がそう決めたからです。」

 灯己は鼻白んだようにグレイスを見つめた。グレイスはさも楽しげに笑った。

「そんな顔をしてもだめですよ、信じないことと存在しないことは等しくないのですから。あなたが信じまいと、神は帝王の御前に呪い憑きを降ろし、帝王はその意のままとなってきたのです。燈羨帝の呪い憑き、それが珠峨でした。」

「珠峨の体に憑りついたおまえがその呪い憑きだってなら、おまえは呪いそのものじゃねえか。」

「その通りです。」

 グレイスは満ち足りた笑顔で頷いた。おかしい、何かおかしい。辻褄が合わない。灯己はとりとめなく巡る違和感の端を手繰り寄せようと、じっと目を瞑り考えた。

「神の呪い人形?呪いは神の意志だ?それが真実なら、神の意を遂行するおまえは神苑の反逆者じゃねえよな?」

 グレイスは目を細め、眉を上げた。

「おまえこそが神の意志だと?じゃあ、ペルはなんだ?」

「さて、なんでしょう。私にもわかりません。」

 グレイスは肩を震わし笑った。灯己は笑うグレイスを見ていた。初めて、気味が悪いと思った。グレイスとペルのどちらかが正しいのではなく、どちらも同じくらい気がおかしいのではないか。

「一体何の恨みがあって燈一族を呪うんだ?」

「わかっていただいたところで呪いは解けません。」

「馬鹿馬鹿しいな。」

 灯己は吐き捨てた。

「馬鹿馬鹿しいだろうよ、何百年も恨み続けるなんて、飽きねえのか?」

「それが不思議と飽きないのです、楽しくて仕方がないくらいです。」

 グレイスは金の目玉を細めた。

「どんな手を使って燈の一族を苦しめるか思案することほど楽しいことはございません。」

「気狂いだ。」

「そうおっしゃる灯己様こそお気は確かですか?一体何の義理があって燈の帝王へ肩入れするのか。帝王に捕らえられた時、あなたは死にたかったはず。死んでいればよかったものを、何をのうのうと生きていらっしゃるのです?」

「おれには生きる呪いがかかっている、燈羨の。」

 はっ、とグレイスが吐き捨てるように笑った。

「まさか、それを信じていらっしゃるとは、あなたほど嘘に敏い方が。」

 灯己は口を閉じ、答えなかった。

「あなたが生きたいというわけですか、あの帝王の傍で。」

 考えたこともない、と灯己は思った。

「おれが、燈羨の傍らで生きることを望んだことなど一度もない。あいつに生かされているからあいつのために生きてる、それだけだ。」

 グレイスの金の瞳から光が消え冷ややかに灯己を見下ろした。

「私、あなたのそういうところ、昔から大嫌いです。」

「昔から?」

「あなたときたら懲りずに私を怒らせる。」

「おまえとおれの間に昔何があったか知らねえが、怒ってるのはこっちだ。麗威の気持ち利用しやがって。」

 グレイスはふん、と鼻で笑った。

「くだらぬ。」

「なんだと?」

 灯己は立ち上がり刀に手を掛けたが、目の前にいる者がただの幻影であることを思い出し、奥歯を噛んだ。

「弄ばれる側にも落ち度はあるのですよ。あなたが怒っても仕方がないのです。」

「怒るのはおれの感情だ、好きにさせろ。」

 はいはい、とグレイスは呆れたように肩を竦めた。

「ならば私が怒るのも私の勝手でしょう?」

 グレイスは立ち上がり、灯己の瞳を覗き込むように顔を寄せた。

「私、あなたの大事なものを奪いますから。」

 グレイスが瞬くと燭台の火が消え、全てが闇に沈んだ。灯己は闇をじっと見つめたが、もうそこにグレイスの気配はなかった。灯己は部屋を出た。喪に服す暗く長い廊下を歩く歩調は次第に速まり、灯己は走り出していた。グレイスの言葉に胸が押し潰されそうな不安に駆られた。灯己は珠峨の従者への挨拶もそこそこに屋敷を辞すると文官の広間を駆け抜け、緋天殿の階段を駆け上がった。

「燈羨は!?」

 燈羨の寝所の扉番は、血相を変え駆けてきた元帥に驚きながら、中にいらっしゃいますと答え、主へ訪いを告げた。

「申し上げます、元帥灯己様が、」

 灯己は扉番の言葉が終わらぬうちに、扉を開け、寝所へ入った。燈羨は柔らかい天蓋の中にいた。灯己は脚の力が抜けるように、片膝をつき、深い安堵の息を吐いた。

「どうしたの、そんなに急いて。」

 燈羨は寝台から降り、天蓋を潜った。灯己の前に歩み、膝を床につけ灯己の顔を覗いた。

「灯己?」

「なんでもない。」

 灯己は燈羨から顔を背け、立ち上がろうとしたが、燈羨がそれを阻んだ。

「こっちを向いて、灯己。」

 今燈羨の顔を見たら泣いてしまうと思った。灯己は執拗に顔を覗き込もうとする燈羨の頬の押しやり、手を振り払った。

「やめろ。胸騒ぎがしただけだ。おまえが無事ならそれでいい。なぜひとりでいる?煌玄と双子はどうした?」

「羅梓依と珠峨が死んだ。」

 はっとし、灯己が振り向くと、燈羨は目を伏せた。

「羅梓依は朽ちてしまった。珠峨は殉死したのだと、遺書があったらしい。」

 燈羨の声は落ち着いていた。灯己は燈羨の頬に手を伸ばし、こちらに顔を向けた。

「おまえ、気付いていたのだろう?羅梓依がすでに死んでいたこと。」

 燈羨の暗い瞳が灯己を見つめた。

「死は、彼女が望んだんだよ。」

「おまえのためにだ。おまえに愛されるために。」

「愛されたら愛さなくてはいけないの?」

「そうじゃない。そうじゃなくて、わかっていてなぜ、そうさせたんだ?珠峨の思うが儘に。」

「あれは、呪い憑きだ。帝王は、決してそれに抗えない。」

「誰がそんなこと決めた?」

 燈羨が目を見開いて灯己を見上げた。灯己は続けた。

「誰が、神に逆らっちゃいけないなんて決めたんだよ?ここは飛都だ。飛都帝国だ。帝王より偉いやつがいてたまるかよ。」

 燈羨の瞳が涙で大きく膨れ上がり、黒目が零れるように涙が流れ落ちた。

「そう、君ならそう言うと思っていたよ、灯己。だから僕は、どうしたって君を手に入れたかったんだ、呪い憑きの手を借りてでも。君がきっと呪い憑きから僕を救ってくれるって、わかっていた。だから。」

「どういうことだ?」

「羅梓依の体が欲しいって言うから、あげた。その代りに、僕は君をもらった。」

「もらった?」

 燈羨の手が灯己の袖を強く握った。

「逃げないで。もう二度と逃げないで。君はもう僕のものなんだから。そんな気持ちの悪いものを見るみたいに、僕を見ないでよ、灯己。」

 一体いつから始まっていたのか、一体いつから仕組まれていたのか。繰弄が燈峻帝を殺したあの夜のことも、まさか燈羨が、珠峨が計画したことなのか。燈羨への疑念で灯己の胸が塗り潰されていく。

「ねえ、灯己、いつだったか白梅の園で出会ったときのことを覚えている?吹雪の日のことだよ。」

 灯己はやっとの思いで口を開いた。声が掠れる。

「吹雪?白梅の花嵐が、そう見えただけだろう。」

「やっぱり、忘れているんだね。あの日よりも、もっとずっとずっと昔のこと。あのとき、君は上等な赤い着物を着ていた。僕は君に尋ねたんだ、また会える?って。そうしたら君はこう言った。滅びる前に、って。」

「夢だ。」

「夢じゃない。だって、灯己は僕の笛が吹けるだろう?笛の名手の夕凪ですら吹くことのできないあの笛を、君はいとも容易く奏でてみせたじゃないか。それもそのはず、だってあの笛は、僕が君からもらったものなんだから。」

「そんな覚えはない。」

 燈羨が指を伸ばし灯己の髪を梳いた。

「僕はずっと探していたんだよ、君のことを。再び出会ったら滅びてしまうとわかっていても。」

 燈羨は灯己の頬を撫ぜると、口を開き噛みつくように灯己の唇を覆った。灯己は燈羨を押しやり、立ち上がった。

「やめろ、やめてくれ。」

 灯己は疑心に満ちた瞳で燈羨を見下ろした。この男からこんなにも狂おしく求められることが嬉しくてたまらない、自分の心が信じられなかった。この感情はまともではない。受け入れるべきではないと灯己の理性が叫ぶ。

「灯己?」

 燈羨は立ち上がり、灯己の顔を覗き込んだ。

「灯己、泣いているの?なぜ、泣くの、灯己。」

「なぜこんなにもおまえを愛しく思うのか、おれには理解できない。」

「それは君が僕であり、僕が君だからだ。」

「わけのわからないことを言うな。」

 燈羨は柔らかく灯己を抱きしめた。灯己はその手を振り解くことができなかった。



 暁の空から牡丹雪が落ちる燈火の森を、半ば走るように、息を乱し突き進む灯己の後を、煌玄は追っていた。

「元帥!」

 煌玄の声が聞こえているはずの灯己はその声を振り切るように進んでいく。

「元帥!灯己元帥!」

 灯己を追う煌玄は既視感を覚えていた。いつだったか、こうして雪の舞う中、少女を追い森の中を走ったことがあった。しかしそれがいつだったか、あれが誰だったのか、記憶は薄暗い過去の片隅に引っかかったまま、目の前に立ち現れてはこない。

 灯己は屋敷の玄関扉を勢いよく開け、飛び込むと振り返りもせずに、後ろ手で錠を下ろした。外套を取ると外套掛けに掛けることもせず、脇に抱えたまま二階へ上がった。居間でうつらうつらしていた晶は灯己が帰って来たことに気付き、玄関に出たが、すでに灯己の姿はなかった。玄関扉を激しく叩く音に晶はびくりと体を震わせた。

「元帥!灯己様!」

 聞き覚えのある煌玄の声に、晶は急いで戸を開けた。

 息を切らし頬を上気させた、しかし顔面蒼白といった面持ちの煌玄がそこにいた。

「晶様、元帥は?」

 晶は階段に目を向けた。

「お部屋はどちらです?」

「奥の、突き当り。」

「失礼致します。」

 階段を駆け上がっていく煌玄の後ろ姿を見送った晶は、外套も身に付けず取りもあえず千城から飛び出してきたというような出で立ちの、初めて見る煌玄の取り乱した姿に呆気にとられていた。

 煌玄は大股で廊下を突き進み、灯己の部屋の戸に辿り着くと、扉を叩いた。

「灯己様!一体どういうことですか!煌玄の目を見てお話し下さい!ご説明を!帝のお部屋からあのようなお姿であのように慌てて出て行かれるなど!」

「言うな!」

 煌玄ははっとし口を噤むと、振り返った。不安そうに煌玄を見上げる晶がそこに居た。

「師姉、どうしたの?」

 煌玄は微笑もうとし、しかしがうまく笑えず、歪む頬を大きな掌で隠した。溜息を吐き、扉へ向き直った。

「元帥。正后に迎えるという帝のお申し出をお受けになるおつもりなのですか。」

 晶が目を見開いて煌玄を見上げた。

「帝が、あなたを愛しておいでだということを、存じておりました。ですが元帥は聡明なお方です、帝のお気持ちを受け入れることはないと信じておりましたのに。よりによって正后様がお亡くなりになられた日にあなたは。」

 ダン、と内側から拳で戸を殴る音に、晶は身を竦めた。

「おまえの言う通りだ、煌玄。私は、私が恥ずかしい。」

 煌玄は目を伏せた。

「頭を冷やしたいんだ。一人にしてくれ。」

「私も取り乱しました。改めます。」

 煌玄は扉から離れ、背を向けた。驚きと不安に満ちた瞳で煌玄を見上げる晶に、微笑み返す余裕のない己を恥じた。

「早朝に突然お騒がせし申し訳ございませんでした。」

 玄関へ見送りに来た晶に、煌玄は頭を下げた。

「寒くないの?」

 晶の言葉に、煌玄は初めて外套を着ていないことに気がついた。思わず苦笑が零れた。

「慌てて出てきたので。大丈夫ですよ、軍士ですから。」

「師姉が、正后になるの?」

 煌玄の顔が曇った。

「帝のお望みであれば、」

 煌玄はしゃべりすぎたことを恥じるように、ばつの悪い笑みを浮かべた。

「失礼致します。」

 煌玄は頭を下げ、背を向けた。森の中を歩いていく煌玄の姿を、晶は見送った。

 牡丹雪の降る暗い朝の森を、煌玄はとぼとぼと歩いていた。先ほどから胸に閊えている記憶が、蘇りそうで蘇らない気持ちの悪さに息がつまりそうだった。あれはいつだったか、燈峻帝を旦那様と呼んでいた頃のことだったか、今日と同じように雪の中を、少女を追って走ったことがあった。旦那様のお庭で、あの時あの少女はなんと呼ばれていたか、あれは。

「シシ。」

 晶の声が耳の中で蘇り、煌玄は足を止めた。そうだ、確かにシシと呼ばれていた。だが、同時に記憶の中から蘇った声は、体の芯を凍らせるような妖魔の声だった。雪の中に倒れこむ少女。シシと呼ぶ妖魔の声。鮮明に記憶がよみがえったことを、煌玄は自覚した。いっぺんに周りの景色が当時の景色へと変わっていく。上等な赤い外套を羽織った一人の少女が雪の中に倒れたまま、動かずにいる様子を、煌玄は木の陰から見つめていた。空気を重く振動させるような声に、煌玄は射竦められ、動けずにいた。

「紫々。なにを、やっている?」

 その声は、少女の肌から発せられ、そのあまりに禍々しい妖気は煌玄の体を髄から震撼させた。

「おまえともあろう奴が、何を血迷ったことを?」

 シシと呼ばれた少女は雪の中で倒れたまま、雪に頬を付け、じっと雪が降っているのを見つめていた。妖魔の声が溜息を漏らすように掠れた。

「だから、やめろと言ったんだ。」

「もう、遅い。」

 赤く薄い唇から漏れた美しい声は、悲しく濡れていた。

「自業自得だ、馬鹿め。」

 妖魔の吐き捨てるような叱責に、少女は涙を落とした。少女の涙の滴が雪を穿つ。

「馬鹿め、おまえともあろう者が。」

「炎鷲。私は死んでしまいたい。」

 少女は仰向けに転がり、両手を空に伸ばした。

「炎鷲、私を殺しておくれ。私の体からお前を解放してやろう。」

 煌玄は記憶から這い出すと燈火の森の中で目を開いた。森の奥に聳え立つ灯己の屋敷を顧みた。こんなことがあるのだろうか、こんな偶然が。戻ることも、進むこともできぬまま、煌玄は雪の降る森にひとり立っていた。



 煌玄を見送った晶は足音を忍ばせ、灯己の部屋の前へ戻った。扉を叩こうとし、聞こえてくるすすり泣く声に、手を止めた。灯己の泣き声を聞いたのは初めてだった。堪らなくなり、晶は階段を駆け下り、燈火の森へ飛び出していった。

 薄暗い森の枝枝から小さな妖魔たちがしきりに話しかけてくるのを、晶は無視して歩き続けた。やがて森の出口に着いた。ペルに連れて来られてから一度も森の先へ出たことがなかった晶はその先に広がる草原を見渡した。風が鳴り、「こちらへ」と囁き声が耳を掠めた。晶は誘われるままに足を踏み出した。しばらく広大な草原を歩き振り返ると草の向こうに黒々とした森、その後ろにそびえ立つ巨大な千城宮が見えた。

「まだ月の残る、凍てつく朝にお散歩ですか。」

 耳を撫でるような声に、晶は振り向いた。風吹き渡る草原に立つ、グレイスの姿があった。

「お供致しましょうか。」

 おれを呼んだのはこれだったのだ、と晶は気付いた。

「おまえは、あの森に入れないのか?」

「ええ、夢を介さねば。あれは妖魔の住処。私、妖魔どもには親の敵の如く嫌われておりますの。他の場所でしたら、どこへでもお供仕ります。」

「千城に行きたい。」

 グレイスは、おや、というように片眉を上げた。

「千城とは、あのお城のことですか?」

 晶は頷いた。

「逆方向ではありませんか。」

「森を出たのは初めてなんだ。」

「千城宮で、何を?」

「帝王に会って、師姉を正后にするなと言う。」

「なぜ?」

「師姉が、苦しんでるから。」

「灯己様は正后になりたくないと?」

 晶は力強く頷いた。

「師姉は、帝王なんか好きじゃないよ。」

 グレイスはにこりと微笑んだ。

「それはどうでしょうか。灯己様と帝のお心はとても複雑に結ばれています。他の者にはわからない深い因縁と絆がございます。」

「でも、師姉は泣いていたよ。」

「涙の訳ほど他人に推し量りがたいものはございません。」

 でも師姉は、と言いかけた晶を、グレイスは白い手で制した。

「それに、千城に行き着いたところで、残念ながら一般の方は帝王に拝謁することはできないのです。本来、帝は天ほどに遥か手の届かぬお方。」

 肩を落とす晶を、グレイスは冷たい瞳で見下ろした。

「一般の方は、です。私にできないとは申しませんでしょう?」

 ぱっと顔を上げた晶に、グレイスは片目を瞑って見せた。

「今朝は文官の集いがあります。そこに紛れこませて差し上げましょう。」

 グレイスが晶の肩をひと撫ぜすると、晶の衣服はたちまち小姓の衣服に変わった。

「グレイシー・ディティに不可能など殆どないのですよ。」

「どうして、おれにこんなことをしてくれるの?」

「あなたが、灯己様の片割れだからです。」

 晶は不審な面持ちでグレイスを見上げた。

「私と灯己様は浅からぬ縁で結ばれておりますのに、灯己様は幼い時の記憶を無くされ、まるで覚えていないのです。それが悲しい。」

「おまえも、師姉が好きなんだね。」

 ぎょろりと金の目玉が晶を見下ろした。

「好き、ですと?」

 グレイスから立ち昇る冷気に、晶の肌がいっぺんに粟立った。地獄の底から吹き上がるような憎悪の念が晶の足元を凍らせていく。

「逆ですよ。私は、あの方を、憎んでいるのです。心の奥から、この世の底から、誰よりも、深く。ですから、あの方のすべてを奪いたいのです。愛する者すべて、何もかも。あの方は、不幸にならなければいけない方なのですよ。」

 グレイスの放つ凶悪な怨念に圧され今にも膝を折りそうになりながら、晶は必死に踏ん張った。

「そんなことさせないよ。おれが、そんなことさせない。」

「あなたに何ができるというのです。」

 晶はぐうっとグレイスを睨み返した。張りつめた晶の頬を、グレイスの氷のような指がゆっくりと撫ぜた。

「晶様。私は、あなたが欲しいのです。灯己様の愛する、あなたが欲しいのですよ。私のもとへおいでなさい。私のもとで強くおなり遊ばせ。師姉のもとにいるよりずっとお強くして差し上げますよ。」

「おれが強くなったって、師姉と離れたら意味がない。」

 グレイスは方眉を上げ、晶を見下ろした。

「意味ですか。奇鬼児であるあなたが師姉とともにいることに何の意味があるのです?あなたは私の助けなしではあの千城に入ることもできず、帝にものを述べることもできない。」

 晶はぐっと奥歯を噛んだ。

「私を拒むと仰るのなら、このまま師姉が帝王の手に落ちるのを、指をくわえて見ていればよろしいでしょう。師姉が望まぬ道へ進むのを、為す術なく眺めているがよろしい。」

「おれが、帝王に言ってやる。」

「できるものですか。」

「できる。」

 しばらく二人はじっと睨み合っていたが、不意に緊張の糸が切れ、グレイスが、ふふふふ、と鼻歌を奏でるように笑い始めた。

「ならば、試してみればよろしい。そののち、あなたは私に乞うでしょう、強くなりたいと。あなたは必ず、私を求めることになる。私たちは同志となるべき運命なのです。晶様。あなたの欲が私を満たし、私の欲があなたを満たす。」

 晶はグレイスを睨み続けた。

「そんなことあるものか。」

「すぐにわかるでしょう。さあ、お行きなさい。」

 グレイスが掌を広げ、晶の頭から順に触れると、晶の体は触れられた順に消えた。草原に強い風が吹き、その風に思わず目を瞑った晶は、目を開けた時、千城宮の中庭に居た。驚ききょろきょろとあたりを見渡す晶の近くを、文官たちが急いで過ぎて行く。晶もその波に従い、広間へ入った。

 広間の中には多くの文官たちが集まり、ざわめいている。高鳴る胸に手を当て、晶はその中へ紛れ込んだ。俄かに壇上に火が灯り、太った男が進み出た。二位殿だ、木槌様だと僅かな騒めきののち、皆が静まり、晶もそれに倣い壇上を見上げた。

「謹んで、申し上げます。皆様もすでにご存じの通り、先ほど、正后様がご逝去あそばされました。」

 太った男の言葉に、人々から嘆息が漏れた。

「執政官一位、珠峨様も、正后様にお供し、身罷りましてございます。これは誠に悲しい出来事ですが、今最も悲しい思いをされているのは、ほかならぬ、我らが燈羨帝でございます。皆さま、どうぞ静粛に帝のお言葉を拝聴致しましょう。」

 男が壇上を下がった。ドクン、ドクン、と音を立てる胸に当てる晶の手に力が籠る。壇上の奥から喪に服した青白い肌の男がゆっくりと進み出た。人々が燈羨様、燈羨様、としきりに名を呼び掛ける。燈羨様と呼ばれる男は俯いたまま壇上に立った。

「我が心なる臣よ。」

 その声を、晶は知っていた。顔を上げたその男を、晶は知っていた。

 晶の鼓動が急速に心臓を打ち、額から汗が吹き出した。それなのに体は冷たくなり震えが止まらない。晶はよろめきながら広間を出た。よろよろと廊下の壁を伝い歩き、込み上げる吐き気に耐えきれずに膝を折り、回廊に蹲った。

 あれが、帝王なのだと、あの男が。

 かつて凍える牢の中、晶の前に立ちはだかった仄暗い瞳の少年の姿が、ありありと晶の脳裏に蘇った。振り下ろされた金属の鼓膜を劈くあの呪わしい響きまでも。

「それであなたは強くなられたれたのですか?」

 晶ははっとして顔を上げた。白い服のきらびやかなひとが晶を見下ろしていた。

「あなたは強くなりたくて、あの牢を出たのではありませんか?」

 白い服のひとは晶の前に膝を折り、晶の手を取った。

「強くなるために、強く生きるために、あなたは何をしてきましたか?あなたにしかできないことがあるでしょう。あなた自身を救えるのはあなただけですよ。」

「珠峨?」

 燈羨の声に、晶は握られていた手を振り払い、駆け出した。

「そこにいるのは珠峨なのか?」

 珠峨は立ち上がり、燈羨を顧みた。

「どこかの子供が紛れ込んでいたので、追い払っただけでございますよ。」

「子供?」

「ご心配なされますな、奇鬼児ではございません。」

 燈羨の顔から血の気が失せていくのを、珠峨は涼しい瞳で見つめた。

「あの子供のことは忘れると、約束したはずだ。」

 珠峨はにこりと笑って見せた。

「忘れるも何も、私にはもう記憶をお話しする口はございませんのよ。」

 燈羨ははっと胸を突かれたように、そこにいる珠峨を見上げた。

「そうだよ、お前は死んだはずじゃないか。何を、しているんだ。」

「帝王様へ極上の悪夢をご覧にいれたく。まだ幕間にございます。」

 珠峨の姿がぐにゃりと歪んで渦を巻き、消えてなくなった。燈羨はよろめき背を壁に預けた。珠峨が死んだとて、呪い憑きはまだこの城にいるのだ。まだ、呪われているのだ。燈羨は茫然と珠峨の消えた空間を見つめた。


 晶は森の中を走った。低木をくぐり、川を渡り、滝を潜り、滝のむこうの洞窟の中を進む。光の射す方へ洞窟を抜けると、ぱあっと明るい光に包み込まれた。一面春の光だった。萌草と色とりどりの花が咲き乱れる野に蝶が舞う。晶は眩しさに目を細めながら進み、あたりを見渡した。

「こちらですよ。」

 その声に振り向くと、満開の桜の大木の下に手招きをするグレイスがいた。

「お戻りなさいませ。」

 晶はグレイスに歩み寄った。

「おかわいそうに、こんなに青褪めて。」

 グレイスの白い手が晶の頬に触れ、頬の傷を長い爪でなぞるように撫でた。

「この世は最強の一族である我ら燈一族が治めることによって秩序が保たれている。」

 グレイスの唇から燈羨の声が零れ落ちた。

「力のない奴は力の強いものに従うほかに生きる道はないんだ。弱い者を助けてどうなると言うんだ?弱い者が生きていてこの世界の何の役に立つ?僕の役に立つか?」

 体が硬直し息を吸えない晶の様子を、グレイスは微笑みを湛え見下ろしていた。グレイスは笑いながら、晶の肺に息を吹き込んだ。晶は肩で息を吸い、何度も大きく呼吸を繰り返した。

「あなたは、強くなれるのですよ。どんなに時が経とうと、どこにいらっしゃろうと、必ず晶様を見つけだし千城へお迎えするとお約束いたしました。あなたはここにいらっしゃるべきお人ではないのです。あの牢であなたは何を思って生きてきたのです?」

 あの冷たく暗い、湿った埃の積もった牢で、考えていたこと。ただひたすらの憎しみ。それだけ。

 晶の体から、黒い念が靄となりゆらゆらと昇り立つ様子を、グレイスは目を細めて見つめた。

「よく思い出してください。あなたは何を思い、あの牢を出たのですか。あの牢にいたころの己を思い出すのです。さあ。何を思って牢を出たのです?」

 強くなりたかった。あの仕打ちに耐えられるように。

「強くなるのです。」

 強くなりたかった。あの仄暗い狂気に立ち向かえるように。

「強くなりましょう!さあ!」

 強くなりたかった。この手で、あの男の首をへし折れるように。

「強くおなりなさい!あなたにはできる!私の手を取るのです、さあ!」

 目の前に差し出されたこの手を取れば、それができるのだとすれば。

 強く風が吹き、桜の花が激しく舞い散った。グレイスが微かに笑ったようだった。

「よくご決心なさいました。」

 白い手に重ねられた晶の小さな手を、グレイスは力強く握りしめた。晶の体をぐっと抱き、頬の傷に爪を立てた。ぷし、と血の滴が大きく膨らみ、晶の頬を一筋の血が流れた。その血を指で拭うと、赤い舌を伸ばし舐めとった。ごおおっと強烈な花嵐に二人の姿が霞み、風がやむと二人の姿は消えていた。


 その日の午後、達は灯己の屋敷で目を覚ました。一階へ降りると、灯己が外から戻ったところだった。灯己へ近づくと外の冷気が香った。

「仕事?」

 灯己は達の問いには答えずに、外套を取るとそれを抱えたまま居間へ入って行った。灯己の肌は霜が降りたように白く、唇は青紫色に凍っていた。ずいぶん長い時間外にいたのだとわかった。達は灯己を追い、居間へ入った。灯己のくべた暖炉の薪にちょうど火が灯り、灯己の横顔を照らした。火にあたっても、灯己の顔は少しも明るくならなかった。

「灯己、どうしたの?」

「おまえはずっと寝ていたんだろう?」

 ちくりと棘のある言い回しが引っかかったが、達は正直に頷いた。

「え、ごめん、早起きして何かするべきだったかな?だってほら、晶が、ゆっくりしていいって昨晩言ってくれたから。」

 灯己の黒い水晶玉のような目玉にまんじりと見つめられ、達は居たたまれない気持ちでいっぱいになったが、灯己は何も言わずに首を振った。玄関の扉を叩く音が聞こえ、灯己は暖炉の前から立ち上がった。灯己が扉を開けると、そこにはペルが立っていた。

「やあ。達を迎えに来た。」

 達は慌てて玄関へ走り出た。

「アルに帰れるってこと?」

「ああ、薫の目が覚めた。」

「よかったあ。」

 安堵に膝から崩れる達に手を貸すペルを、灯己はじっと見下ろした。

「おまえ、珠峨がグレイスだと気付かなかったのか?あれだけ千城うろついていて。」

「え?」

 ペルが大きな目を見開き、灯己を見上げた。その瞳の微かな揺らぎを、灯己は見逃さなかった。

「知っていて、おれに黙っていたのか?」

 だって、とペルは口籠った。

「だって、珠峨でいる限りは、おれは手出しできないんだよ、珠峨は飛都の生き物だから。そういう決まりなんだから、神苑の。」

「は?」

 灯己はペルの胸ぐらを掴み、その小さな体を壁に押し付けた。

「その神の国の価値観のせいで、何人も死んだ。珠峨に憑りついてるのがどれだけ危ないやつか、一番知ってたくせに、それを教えることもできねえで、おまえ一体なんのためにこの国に降りたんだよ?お前がそれを教えてくれていたら、珠峨の、羅梓依の狂気を止めることだってできたかもしれないんだぞ。」

「おれは、アルの番人なんだ、アルの人間を守るのが仕事なんだもん。」

「たったひとりのアルを救うために、飛都の千人を見殺しにしたのか?」

「灯己、やめてよ。」

 達が二人の間に割り込み、ペルの襟から灯己の手を引き剥がした。

「ペルがそれを教えていたとして、今と違う結果になっていたかどうかなんて、わからないよ、そうでしょ?かもしれなかったで責めるのは違うんじゃないの?」

 灯己は奥歯を噛みしめ、達を睨んだ。達の言う通りだと分かっている。わかっているが、この憤りに蹴りをつけられない。灯己の手を逃れ床に転がり喘ぐペルが、そもそも、とほとんど息のような掠れた声で言った。

「そもそも、珠峨は呪い憑き、呪い憑きは神の意志。それをおれが邪魔するわけないじゃないか。」

 灯己は床に転がるペルを振り向いた。

「おまえ、何を言っている?」

 ペルは顔を上げ、灯己を見据えた。

「灯己こそ、何を言っているの?おれは灯己に、達を手助けしてもらう代わりに、晶を連れて来るって言ったんだよ。おれが灯己に約束したのはそれだけだっただろ。いつおれが、この国を呪いの神から救ってあげるなんて言ったよ?こんな国、滅びたってなんとも思わない。神を信じない国を、おれが守る義理があるとでも?呪われればいいんだよ、気狂いの神に。神を気狂いにしたのは、この国の王だ。呪われて当然なんだよ、呪われろ。」

 その通りだったのだ、とペルは思った。その通りだったのに、なぜ、あの時炎の中にいる灯己を救おうなどと思い違いを起こしたのか。グレイスがそこにいたから、グレイスの関心が灯己へ向いていたから、だから、放っておけなかった。一度はこの手の中に閉じ込めたグレイスが、結界を解いて真っ先にその姿を灯己に見せたことが我慢ならなかった。

 かつて阿陀良帝の夫としてこの世を思うが儘に謳歌した呪い憑き、紫芭。その首を蘭莉が斬り、ペルは憑りついていた呪いを神苑に閉じ込めた。一体どれだけの時をかけ、その瞬間を夢見たことか。

 気の遠くなるほどの永い時の中でペルは神を追い続けてきた。しかし、どれだけ追いかけても、神はペルの元へ戻ってはこなかった。飛都帝国の建国と共に神は呪いに身を窶し、優雅な讃美歌という気狂いを名乗った。呪い憑きとして飛都に降りることを選び、燈一族を呪い続けることを選んだ。飛都はペルから神を奪った。

 やっと奪い返したと思った神はあっと言う間に神苑から姿を消し、珠峨という傀儡に宿り、そしてまた姿を眩ました。

「ペル、言い過ぎだよ。」

「言い過ぎなものか。」

 達の言葉にペルは目を剥いて灯己を睨んだ。しかし、灯己の瞳から懐疑的なひりついた光は既に消えていた。その目に浮かぶのが憐憫であると気付いたペルはあまりの羞恥に脳天が沸騰する思いに見舞われた。灯己はゆっくりと瞬きをし、ペルを見つめた。

「どれだけ神がこの国を呪おうと、おまえ自身が呪いになる必要ねえだろ。」

 どっと噴き出した汗がペルの首を冷やした。

「おまえがおれに何か隠してるのはわかってた、でもおまえがおれに向けた厚意は嘘じゃなかったろうよ。」

 ペルは急に力が抜け、ぺしゃりと潰れるようにその場に座り込んだ。

「おまえとおれは違う世界の生き物だ、違う価値観の中に生きてる、絶対にかわり合えないところだってあるんだろ。だけど、おれがおまえを信用したことを、おまえはおれの過ちだったと言うのか?」

 ペルは床に蹲り、首を振った。かつて味わったことのない胸の痛みに、息が詰まりそうだった。

「言わないから。言わないから、おれを責めないで、灯己。」

 勝手におれを信用した灯己が悪いのだと言い捨てることができない、この心の澱みを憎いと思った。こんな国滅びればいいと思い続けてきたはずなのに、いつの間に情が移ってしまったのか。この女から蔑まれることがこんなにも辛いと思わなかった。

「ペル。」

「でも謝らないよ、おれはおれのやるべきことをやったんだ。」

 灯己の溜息が、ペルの髪を揺らした。

「謝らせたいわけじゃねえよ、馬鹿、石頭。」

「もういい加減にしなよ。」

 達が呆れたように再び二人の間へ入った。

「勝手にペルを信用した灯己も悪いし、そういう思わせぶりな態度をとったペルも悪い。」

「そうじゃない。」

 灯己はぴしゃりと達の言葉を否定した。

「おれはグレイスの呪いから燈羨を守りたい、おまえはグレイスを神苑に連れ戻したい。それは別々の道か?おれたちは互いの望みを叶えるために手を組んで然るべきだろ?わかってるくせに呪われろだの言っていつまでも意地張ってんじゃねえぞ。」

「灯己なんかに何ができるっていうのさ?」

 灯己は蹲るペルの顔を持ち上げると、その頬を伸ばせるだけ伸ばした。

「おれから信用されて嬉しかったくせに素直じゃねえな。」

 ペルの黒い肌が見る見るうちに紅潮し、ペルは慌てて灯己の手を振り払った。

「わかったよ、もう!」

 ペルは跳び起きるように立ち上がると、服の埃を払った。

「もう行くから、ほら、達。」

 ペルは達の手を乱暴に掴むと、床に文様を描き始めた。達は安堵の息を吐き、灯己に向き直った。

「灯己、この世界であんたに会えてよかったよ。本当にいろいろありがとう。」

「そりゃどうも。おれはおまえのせいでだいぶ迷惑したぜ。」

「今それ言う?」

 はは、と灯己は笑った。

「じゃあな。もう来るなよ。」

「頼まれたってもう来ません。灯己元気でね。死なないでね。」

「死ぬかよ。」

 文様を描き上げたペルが二人を振り向いた。

「じゃあ、行くよ、達。」

「うん。」

 ペルが達の手を引き、金の文様の中に飛び込むと二人の姿は吸いこまれ、文様も吸いこまれて消えた。灯己は膝を折り二人の消えた床を触った。それは何の変哲もないただの床であったが、その床は氷のように冷たかった。床だけではない。灯己の吐く息は白く濁り、冷気がぴりぴりと灯己の頬を刺した。灯己は立ち上がると振り返り、居間へ戻った。暖炉の火は消え、居間の床には霜が降り、窓は凍てつき、地獄の底のような寒さに覆われたその部屋の長椅子に、グレイスは座っていた。

「あの意地っ張りの心を溶かすとは、天晴れですこと。」

「勝手にひとの家を極寒にするな。」

「あなたこそ勝手に余計なことをしてくださいますな。」

「ペルの心を弄んで楽しいのか?」

「あれが、好きこのんでやっていることです。私には、何が楽しいのか理解できませんが。」

 灯己は靴の踵で霜を踏み、グレイスに歩み寄った。

「晶を返せ。」

 グレイスは黙ったまま、灯己を見つめた。二人はしばらくの間、じっと対峙した。グレイスは白い唇を開き、僅かに首を傾げた。

「なぜ私が?」

「おれの大事なものを奪うと、おまえが言っただろ。」

 グレイスはくすくすと笑った。

「私があなたにそう告げた時、私はあなたが真っ先に晶の元へ駆けつけると思っておりましたが。一番大事なものをあなたのお手元に残して差し上げたのは私の優しさと思っていただきたい。ひとは大事なものをいくつも抱えられるほど器用ではないのですから、丁度良いでしょう、ひとつ失くすくらいが。」

 それに、とグレイスは続けた。

「私が盗んだのではありませんよ。彼が、私を求めていらっしゃったのです。彼は、強くなることを望んでいた。あなたは一度だってそれに応えたことがありましたか?私は応えられます。口先ばかりのあなたと違って。あなたは刺客林立時代の火ぶたを切って落とした張本人、いわば災いの落とし子なのですから、口先で何を喚いたところで無力ですよ、その力を使わなければあなたの存在価値など皆無。平和な世界はあなたに似合いません。そもそも平和な世界にあなたがいる必要がありますか?ありませんよ。私はこの飛都をあなたが生きるにふさわしい世界にしてさしあげるつもりです。」

 声を上げようと吸った冷気が肺を凍らせ、灯己は思わず噎せた。グレイスは苦しむ灯己の様子をつまらなそうに見つめながら続けた。

「私はね、灯己様、あなたが平和に生きたいというならそれでも構わないと思うのですよ、あなたが帝王の妻になれば、あなたはもう刀を抜くことなく人を殺すことなく、奥宮で日々穏やかに、そうですね、猫の背中でも撫ぜながらのんびり過ごせると思うのです、そんな生活をあなたが望むならぜひそうしてほしいと思うのですよ、ええ、そうすべきだとね。しかし、あなたは正后になることを望んでいますか?いいえ、少しも、望んでなどいない。あなたの体は争いを欲しているでしょう。その刀を抜くことを。」

 咳に身を折る灯己は荒い息を殺すようにして声をひねり出した。

「おれはもう、戦うことなんか望んでない。おれが望むのは、燈羨の望む世だ。」

「すっかり絆されて、見るに堪えませんねえ。」

「晶には、関係ないことだろ、晶を巻き込むな。」

「いいえ。彼が望む世こそ、私の望む世。私たちは同志なのですよ。」

「そんなことがあるものか。」

「そう、彼もはじめはそう仰ってましたが、すぐにお認めになりました。彼とあなたは、すでに望みを分かち、別のものとなったのですよ。」

 グレイスは微笑みながらすうっと消えた。

「あなたが燈羨の望む世を望むなら、私は必ず、彼の世を地獄にしてみせます。」

「グレイス!」

 伸ばした灯己の手は宙を掴んだ。窓から柔らかい陽が差し込み、部屋の空気を温めていく。天井に張り付いた氷の粒が溶け、水滴となって床に落ちる音を、灯己はじっと聞いていた。


 珠峨の葬儀は実に質素なものであった。この世の権勢を欲しい儘にした一位殿の葬儀とは思えぬほど、それは静かに始まり、静かに終わった。燈羨は参列もせず弔辞も贈らず、珠の一族へ領地替えを命じた。珠峨の一族は千城の都をひっそりと去った。羅梓依の遺骨は生家の竜胆家へ送られた。燈一族の墓には入れぬという燈羨の強い嫌悪を表し、それは実質的に交友の断絶を意味するものであった。

 二人の死から程なくし、燈羨は中門広場で亡くなった大勢の骸を弔った。それはこれまで崩御したどの帝王の葬儀よりも仰々しく華々しいものであった。並べられた千の棺ひとつひとつに花を供え進む燈羨の耳には参列した人々のすすり泣きが幾重にも響き、人々の呪わしい言葉が燈羨のマントを引き歩みを阻むように感じた。燈羨は目を瞑り荒い呼吸に身を折りながら一歩、また一歩と進んだ。

 全ての棺に花を供え終えた燈羨は、ぐったりと困憊し、広場に設けられた御簾の中へ戻った。まだやることがたくさんあった。引き取り手のある死者の遺体は丁重に家へ返し、引き取り手のない遺体は千城で焼かなければならない。

「煌玄。」

 煌玄は燈羨の手を取り、ゆっくりと執務室へ続く回廊へと導いた。

「良くおつとめになりました。」

「あんなものではぜんぜんだめだ。すぐ管財官一位を呼んでくれ。三百五十二の墓の手配はどうなっている?それに見舞金の配分は?」

「は。すぐに。燈羨様、お顔色が。少しお休みになりませんと。」

「今やらねばあっという間に反感が膨れ上がる。」

「しかしお体を壊されては。」

「言っただろう煌玄、僕の治める飛都は永遠に安泰だって、僕はお前に約束しただろう?」

「燈羨様。」

「煌玄、もう、珠峨はいないんだ。この国はもう、僕のものなんだ。」

 燈羨が立ち止まり、煌玄は振り返った。

「だけど僕は呪われている。神は僕を助けてくれない。それでも、僕は生きていかなきゃならない。」

 燈羨が目を瞑り蹲った。煌玄は慌て駆け寄り、燈羨の背を撫でた。燈羨は膝に頬をつけ、深い呼吸を繰り返した。

「灯己が泣いているね。」

 煌玄は撫ぜる手を止めた。

「お見えになるのですか。」

「予見じゃないよ。僕にはわかるんだ、灯己のことが。」

 燈羨が瞼を上げ、煌玄を見た。熱を帯びた潤んだ瞳に、煌玄は思わず喉を鳴らした。

「灯己が来てから僕は変わっただろう?僕は灯己に良く思われたいんだ。良い帝王だと。灯己が欲しかった。ずっとだ。煌玄、僕を軽蔑する?そのために呪い憑きを受け入れた僕を。」

「何を仰います。」

「煌玄、何があっても僕の傍を離れないと、約束したことを覚えているね?」

「無論にございます。」

「僕は、おまえを拘束し過ぎた。僕を軽蔑しているならあの約束を反故にしてやってもいい。」

「燈羨様。」

「僕が幼いころから、ずっと、おまえは僕の傍で不安を抱えているね。だけど僕は、おまえの不安を拭うことはできない、一生。」

「そのようなこと。」

 煌玄は首を振った。

「どうして僕を責めない?千城の良心と渾名されるお前だ、そんな不安そうな目で僕を見続けるなら、僕を詰ればいいのに、なぜ、何も言わない?」

 煌玄は項垂れ、苦悶に顔を歪めた。

「私が、私の手で、燈羨様をお救いしたかったのです。珠峨の手ではなく、私の手を、とっていただきたかった、とっていただけると自負しておりました。」

「煌玄。」

「でも、私は無力でした。」

 ふ、ふという笑い声に、煌玄は顔を上げた。

「可笑しいね。こんな無力な僕たちが、この国の帝王と第一部隊軍将だなんて。」

 くすくすと笑う燈羨の目尻に浮かぶ涙の粒を、煌玄は指で拭った。その手を燈羨は取り、頬につけた。冷たい頬に、煌玄の熱が伝わっていく。

「煌玄。なぜ僕が、呪い憑きに手を伸べてまで、灯己を元帥に仕立てたか、わかるだろう?必要なんだ。この国には灯己が。」

 煌玄の脳裏に雪の中を走る少女の長い黒髪が躍った。

「いけません。あの方は。触れてはいけないものです。」

 燈羨は悲しみを湛えた瞳でじっと煌玄を見つめ、ゆっくりと首を振った。

「煌玄。ねえ、煌玄。君にも、僕にも、必要なんだよ。僕たちはもう、灯己なしでは生きられない。」

「呪い憑きが、灯己様に替わっただけです。」

「違う。」

 燈羨の強い語気に、煌玄はびくりと胸を震わせた。

「違うと分かっているだろう?煌玄。」

「あの方は、呪い憑きよりも、燈羨様にとって脅威となる者。」

 燈羨は煌玄の手を離し、立ち上がった。

「僕はね、灯己が好きなんだ。」

 歩き始めた燈羨を、煌玄は追うことができなかった。離れていく燈羨の後姿を、煌玄は回廊に膝をついたまま見つめていた。燈羨は一度も振り向かなかった。長い回廊の先に、燈羨の姿は小さくなり、やがて見えなくなった。雪が降り始めていた。道理で冷えるはずだと腰を上げた煌玄はふと、暗がりに人の気配を感じ、剣に手をかけた。陽の届かぬ暗い回廊の隅の闇に、蹲る人影があった。

「もうすぐ御命日でございますね。」

 男で女でもなく、その両方でもあるような深い声は煌玄の体を芯から震えさせた。

「燈峻陛下の御命日、すなわち私とあなた様が出会った日でもありますわ。煌玄様。」

 暗がりの中の人影が顔を上げ、金の目に光が灯った。白の衣に黒い帯、金の髪。夜回り番八位の姿形をしたそれを見るや、煌玄の鼓動は速まり額には汗が浮かんだ。

「懐かしく思い出しますわねえ。」

 煌玄は努めて冷静に、言葉を選んだ。

「あなたは、死にました。」

 煌玄を見つめる金の目玉がゆっくりと細くなり、それが笑ったのだとわかった。

「そうですよ。私は死にました。これは、夢です。夢に見るほど、私のことを考えているのです、煌玄様。」

 煌玄が言葉を継げずにいると、怖いお顔をなさって、とそれが笑った。

「せっかく死んでさしあげましたのに、お可哀想に。あなたは、私がいようといまいと、お変わりなく苦しみ続けていらっしゃる。さあ、もうお気づきになりまして?あなたのお苦しみは私のせいではなく、あなたご自身のためなのですよ。可哀想なご自分がお好きなのでしょう?」

 煌玄は思わず後退りした。

「私も、可哀想な私が大好きですの。ねえ、煌玄様。私だけですわ。あなた様のお気持ちをわかるのは、私だけ。ほうら、あなた、こんなにも燈羨様を愛しているのに、燈羨様ったら灯己様だけを見つめていらっしゃる。私、あなた様のお気持ちとってもよくわかりましてよ。」

 珠峨だと思っていたそれは、いつの間にか姿を変え、紫の衣を纏っていた。すらりとした体、黒々とした艶やかな髪、冴え冴えとした青みを帯びた瞳。妖艶な顔立ちに似合わぬ、深く低い声。

「こんなにも愛しているのに、燈峻様ときたら、寝ても覚めても紫玉楴のことばかり。ねえ、私たち、よく似ておりますね。よく思い出してください。あなたが最も敬愛する燈峻様を惑わした、あの女のこと。また、同じことを繰り返すのですか?あの女に燈羨様を奪われてよいと?私たちは似たもの同士、あの女を憎いと思えば憎いと仰ってよいのです、私にだけは本当のお気持ちを仰って。」

「憎いのは己の心の弱さ、力の無さ。あの方を憎いと思うことなどございません。」

「嘘ばかり。」

 煌玄は目の前に立ちはだかる美しい蛇のような男を見つめた。

「父親の言葉とは思えない、紫芭。」

 紫芭。かつて飛都一の富を誇り、何もかも欲しい儘にした男。

「親なればこそ、あの娘の恐ろしさを知っているのです。あれが目覚めればひとたまりもございません、あなたなど。何もかも、あれのもの。燈羨様も、この国も。あれは、ただそう思うだけで燈羨様を廃することだってできる。」

 額から流れ落ちる汗を拭うこともできず、煌玄は恐怖に耐えていた。今、あの頃の紫芭より高い地位にある煌玄はこの男に父親が処刑されるのをただ見ていることしかできなかった、十三のころとは何もかも違う。そうだとわかっていても、この男への恐怖が勝った。

「あの女から燈羨様をお守りできるのはあなただけです。」

 煌玄は唾を飲み込み、喉から声をひねり出した。

「そんなに怖いのですか。あなたは、あのお方が。」

 紫芭の姿をしたそれは、さも可笑しいというように笑った。

「私が?私はあなたの心です。この夢はあなたの見たい夢。私が恐れていること、それはあなたご自身が恐れていること。」

「私が見たいと望む夢は、燈羨様の治める御代。それだけです。」

 男の青い瞳がぎゅっと小さくなり、蛇のようにぎょろりと煌玄を睨んだ。

「うまくいくはずがない。嘘に嘘を重ねたこの世界の脆さ、飛都の良心と渾名されるあなたにわからぬはずがない。些細な切っ掛けで明日にでも滅びましょう。」

「黙れ。」

 煌玄は目を開けた。しんしんと雪の降る暗い回廊に、煌玄は一人だった。煌玄の吐く息が白く、闇に溶けては消えた。

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