2幕 飛都の子ら 9
乾冷州の豪族然氏の蜂起を未然に抑え込むため二十日ばかり千城を離れていた煌玄は、千城へ戻ると一番に灯己から呼び出された。灯己の執務室へ訪いを入れると、すぐに灯己が返事をした。煌玄は汚れた軍服の埃を叩き、灯己の執務室の扉を引いた。
「今朝戻りました。」
「乾冷の件、うまく行ったようで何よりだ。」
謹慎になったと聞いていたが、灯己は平服で執務机についていた。煌玄は膝を折り、灯己に頭を下げた。
「恐れ入ります。思いのほか手間取り申し訳ございませんでした。蘭莉のこと、あらましは女官長殿から聞きました。」
「燈羨には会ったか?」
「これから参ります。」
「今回の件、おれは手を出せない。あれがそう手をまわした。」
「帝が?」
「だからお前の口から頼んでくれ。代表二位会議の審議が再開する前に蘭莉に会わせてほしい。蘭莉の口から聞かなければならないことがある。」
煌玄は己の頬から血の気が引いていくのを気取られぬように頭を一段低くした。
「蘭莉が何を探っていたのか、」
「お待ちください。」
話を遮られ、灯己は低頭する煌玄の後頭部を見やった。
「そのことに関しては今しばらくご辛抱を。」
「そのことに関しては今しばらくご辛抱を、だと?」
焦るあまり言葉選びを誤ったと煌玄はすぐに後悔したが遅かった。
「おまえ、蘭莉が何を探っているのか知っているな?」
煌玄はじっと身を固くし、いいえ、と答えた。
「それを探り続ければこうなると分からなかったのか?」
俯く煌玄の額から汗が床に落ちた。
「蘭莉に危険を冒させてでも、おまえの知りたいことがあったというわけか。」
煌玄ははっとして顔を上げた。
「燈羨の躾役として片時も帝の傍を離れたことがないと言われるおまえでも、知らぬことがあるのか?」
「どういう意味でしょうか。」
どくどくと心臓が早打ちし、このひとに白を切り通すのは不可能だと、警鐘を鳴らす。
「燈羨にはおまえの知らぬ隠し事がある。それを知るために一位殿を探った、いや、違うな。」
灯己は煌玄の表情を観察するように鋭い視線を投げ続ける。
「おまえはその隠し事を知っているが確証がない、だが燈羨に問いただす度胸もない、だからそれを知っている一位殿を探った。」
煌玄のほんの僅かな表情の変化から核心へ迫ろうとする灯己の観察眼に、煌玄は背筋が凍った。
「お待ちください。」
思わず床に平伏した煌玄は、床がぐつぐつと揺れ、石粒を揺らしていることに気付いた。ピリピリと空気が振動しカタカタと窓硝子が音を立てる。ざわりと肌を総毛立たせる禍々しい妖気に煌玄はぞっとして顔を上げた。
「おれを何だと思ってるんだ?」
その妖気が灯己の怒りだと気付いた時、目の前に立つのはフクロウそのひとだと思い出した。かつてフクロウが積み重ねた屍の悲惨なあり様が脳裏に蘇り、その記憶が煌玄の体を痺れさせた。
「上官のおれが、おまえを助けてやると言っているんだ。」
煌玄は高圧的な灯己の気迫に耐えきれず、床に額を付けた。
「今しばらく、お願いでございます!」
灯己はじっと煌玄の背中を見下ろしていた。
「それでも言えぬと言うのか。」
徐々に硝子の振動がおさまり、同時に灯己の昂ぶりが下がっていくのがわかった。
「おれを頼りたくないのなら、それはおまえの自由だ。」
「元帥。」
灯己は外套を手に取り、出かける用意を始めた。
「秘密ばかりだな、この城の人間は。でもおれはおれの思うようにするからな。おまえが言わない秘密をおれが勝手に知っても、文句言うなよ。」
「元帥、どちらへ?」
「花街だ。」
煌玄はぽかんとして灯己を見上げた。
「花街ですか?」
「おまえにも言っておかなければならないな。脱獄したウエダタツを見つけてきた。今花街の妓楼で預かってもらっているが、おれの手先として羅梓依の近衛隊へ入隊させる。」
城を離れている間に起こっためくるめく展開に煌玄は、は、と返事をするのが精一杯だった。床の上に煌玄を残し、出て行こうとした灯己が振り向いた。
「もう一度言うが煌玄、おれを頼ってもいいんだからな。」
煌玄の返事を待つことなく、灯己は執務室を出て行った。一人執務室に残された煌玄は、しばらく床の上にぺたりと座り込んでいた。灯己のあまりの勘の鋭さに、毒気を抜かれ、力が入らなかった。それにあの妖気だ。あれは、ひとではない。灯己元帥はひとではないのか。しかし、妖魔でもない。ならばあれはなんだというのか。煌玄はよろよろと立ち上がり、扉に縋るようにして執務室を出た。行先は決まっていた。気を引き締めなければ敵わぬ相手だ。煌玄は灯己への疑念を一時振り払うように、二度頭を振り、息を吐くと口元を引き締めた。
奥宮の扉を前に、煌玄は仁王立ちでそのひとを待ち構えた。回廊を歩いて来る姿を認めると、低頭し待った。
「おや、煌玄様。どなたか女官に御用ですか。」
男でも女でもなく同時にその両方でもある深い声に、煌玄は顔を上げずに答えた。
「一位殿にお話しさせていただきたき儀がございます。畏れ入りますが暫く。」
「まあ、なんでございましょう。内緒話とは嬉しいこと。」
珠峨は軽やかに笑い、人気のない部屋へ煌玄を誘った。煌玄は案内された部屋に入ると隣り合うすべての襖を開け、他にひとがいないことを確認した。珠峨は煌玄の張りつめた様子を歯牙にもかけず、にこやかに微笑みながらそれを見つめていた。
「乾冷州の平定ご苦労さまでございました。さすがは煌玄様ですわ。」
「蘭莉のことにございます。」
珠峨は唇に微笑みを湛えたまま、眉尻を下げた。
「どうなさいました、煌玄様らしくもなくずいぶんとご余裕のないこと。」
「どうか、蘭莉と話をさせていただきたい。」
「それはできませんわ。」
珠峨の頬から温かい笑みが消えた。
「だめですよ。蘭莉殿は、戦場のほかで殺めてはいけないという軍律を破ったのですから。可哀想ですが致し方ありません。」
珠峨はちらりと流し目を送った。
「軍律と刑罰のお勉強は士官学校一年生の必修科目でございますね。軍律を破った者は最高刑にかけられます。そしてこれは不可避。煌玄様も軍士でしたらおわかりでしょう? 」
優雅に首を傾げ、珠峨は上目遣いに煌玄の瞳を覗き込んだ。
「蘭莉殿のような優秀な軍士を失うことは軍部にとっても大きな損失でございますけど、帝にとってもご不憫なことでございますわ。忠義を尽くしてくれた軍士をご自身で処刑しなくてはいけないのですから。しかしこればかりは私が代わりにというわけには参りませんので。死しても何度となく蘇る妖魔を完全に消滅させる魂の処刑は、王魔の力が宿る真の飛都帝国帝王にしか為し得ないのですから。」
煌玄は思わず喉を鳴らして唾を飲みこんだ。
「お可哀想ですが、どんなにあなたが帝をお守りしようとも、こればかりはどうしようもありませんわ。」
珠峨は煌玄の肩を優しく擦り、部屋を出ていった。煌玄は脂汗が浮かぶ額を拭い、眩暈によろめく上体を壁に手を伸ばし支えた。この時初めて、煌玄は珠峨の目的を悟った。なにもかも、そのためだったのだ、蘭莉に自分の周りを嗅ぎまわらせたのもそのため。私はそれにまんまと乗せられたのだ。あの男と燈羨様は互いの秘密を握る者同士、決して互いの手を放さないと思っていたのが甘かった。煌玄は部屋を飛び出し珠峨を追った。
「珠峨殿!」
煌玄は珠峨の手首を掴んだ。
「お待ちください!このようなことをして、ご自身が無傷で済むとお思いか!?」
珠峨の冴え冴えとした瞳が、冷酷な光を灯し煌玄を見つめた。
「このようなこと、とは?」
煌玄ははっと息を飲んだ。
「このようなことと言われるようなことを私が致しましたか?」
珠峨は静かに、煌玄の手にもう片方の手を添えた。
「煌玄様、私の痛みをお気遣いくださるとはお優しい、なれど、もともと傷だらけのこの身、一つや二つ傷が増えようと数えるに及ばず。煌玄様、手をお放しください。城内での文官への乱暴は軍律で禁じられていますよ。」
煌玄は手を放した。
「もっとも、あなた様が刑に処されたところで、世界は何も変わりませんから少しも面白くありませんわ。蘭莉殿とは違って。」
珠峨は優しく煌玄の胸を押すと背を向け、立ち去った。
煌玄は膝から崩れ落ちそうになる脚に力を込め耐えた。珠峨が変えようとしている世界は、燈羨様にとっての地獄だ。止めなくてはいけない。いますぐに止めなくては。しかし、止める方法が煌玄にはわからなかった。それはもう始まってしまったのだ。
その日達と同じ近衛兵志願者に扮し華巻へ達を迎えに行ったペルは、娼妓の姉さん方から達はもう千城へ向かったことを告げられ、途方に暮れていた。溜め息を吐き俯いたペルの顔に影が落ちた。
「浮かない顔ですね。」
その声にペルは後ろに飛び下がり、身構えた。商家の若い娘がせせら笑い、ペルを見つめていた。右目が金に光っている。
「それが初対面のレディに対する態度ですか?」
どうして、とペルは口の中で呟いた。
「もう、充分だろ。もうあんたが手を下さなくたって、この世界の輪廻は完成したんじゃないのか。」
商家の娘の姿をしたグレイスは、微笑みを湛えたまま、じっとペルを見つめた。
「そう思うなら放っておきなさい。あなたこそ、いたずらに手出しするのはおやめなさい。私には、あなたこそ血迷っているとしか思えません。あなたのその使命感さえも、私が植えた概念のひとつだということをお忘れですか?」
ペルはぐっと言葉に窮した。
「ロディ。」
名を呼ぶグレイスの優しい声色に、ペルの胸は甘く痺れ、金縛りにあったように動けなくなった。すっとグレイスが体を寄せ、ペルの頬に触れた。
「ロディ。昔のあなたったらとてもかわいらしくて、どこへ行くにも私の後ろへついてきては、私から何でも教わりたがったのでしたね。私は、あなたこそ私の意思を継ぐ者と思っておりましたのに、ねえ、ロディ、一体私達、どこで道を違えてしまったのでしょう。」
「こっちが聞きたいですよ。あんたは、おれを裏切った。」
グレイスは高らかに笑った。
「まだそのようなことをおっしゃっている。あなたってば、好奇心ばかり強くて本当におばかさん。ふふふ、でも、あなたがおばかさんで私は嬉しい。こんなお遊びに真剣に立ち向かってくれるのはあなたしかおりませんもの。ほかの連中をご覧なさい、この世界が滅ぼうと、みなさん知らん顔しているでしょう?神苑にとって、飛都もアルもあまたある世界の一つに過ぎませんものね。ですがそれでは張り合いがないというもの。あなたのようなおばかさんがいるからこそ、私、張り切ってしまうのです。」
ペルはぐうっと歯を喰いしばった。グレイスはふと顔から笑みを消し、冷ややかにペルを見下ろした。
「今更、あなたごときがあがいたところで、何も変わりませんよ。」
ならばなぜ、とペルは問うた。
「ならばなぜ、神は、この世界を愛したのですか。」
「必要だからですよ。すべての概念が必要なのです。この世界にはありとあらゆる概念が。」
ロディ、とグレイスが呼び、両手でペルの顔をそっと包み込み額を寄せた。
「ロディ。愛することを尊ぶ、あなたは本当に美しい。あなたとこの世の不思議について問答を重ねたあのころが私には一番幸せでした。」
「ならば、なぜ。」
「あなたがアルを愛するように、私も、この世界を愛してしまった。」
グレイスは額を離し、ペルの瞳を覗いた。
「あなたのおっしゃる通り、この世界の輪廻は完成しました。ですから、もう、私の役目は終わりです。今の私は、定年退職したおじいちゃまのようなもの。のんびり趣味を楽しませてもらってもいいじゃありませんか。」
「趣味?これがあんたの趣味だって?」
「ええ。だから言いました、お遊びだって。おじいちゃまのおふざけだと思って老体いたわってほしいものですね。あなたのような若いのにむきになってこられたら、私がかわいそうじゃありませんか。」
ペルはグレイスの手を振り払った。
「それどころじゃないんだ、達を探さないと。」
「またいなくなったのですか、世話のやける人間ですこと。早く見つけて差し上げないと、今日は騒がしくなりますから。」
ペルの視界に華巻の軒先にいる灯己が入った。灯己もペルに気付いたのか手を上げるのが見える。ペルがグレイスに視線を戻すとグレイスの姿はなくなっていた。
「ペル、どうした?」
ペルははっとして灯己を見上げた。
「達の迎えに来たんだろう?どうした、顔色が悪いぞ。」
「うん、ああ、達がいないんだ。」
「そうか、入れ違いになったかな。」
灯己はまだ暖簾の出ていない華巻の戸を引いた。中二階の文机で煙管を燻らせ台帳をめくる嬋紕の姿が見えた。
「ごめんなんし、まだ店の開きませんのえ。」
煙を吐きながら顔を上げた嬋紕は客が灯己だとわかると、おや、というように眉を上げた。
「これは、達の。どうなさいました?」
「達はもう出かけましたか。」
「ええ、朝早くに。」
「そうですか、世話になりました。」
嬋紕はふふ、と笑った。
「あなたには頼らないことに決めたと仰っていましたわ、灯己様。」
やはり名を知っていたのか、と思うと同時に、妙な違和感が灯己の胸をざわつかせる。
「それよりも、こんなところにいらしてよろしいのですか、すぐにお城にお戻りになられませ。」
灯己は怪訝に眉を寄せ、嬋紕を見上げた。
「騒がしくなりますから、お帰りの道中、巻き込まれませぬよう。」
灯己は頭を下げ、嬋紕に背を向けた。嬋紕の吐く煙が絡みつく。それを払うようにして灯己は外套を翻し外へ出た。花街言葉ではなかった、と灯己は後ろ手に戸を閉めながら思った。外に出るとペルがぽかんと口を開け往来を眺めていた。
「どうした、間抜面して。」
灯己はペルの見つめる先へ視線を移した。昼間の花街には珍しい数のひとが、ぞろぞろと列をなし大門へ向かって歩いている。列をなす人々の手に握られた斧や鎌の刃が、陽を受けきらきらと眩しく、灯己は目を細めた。ペルが列を成すひとりに声を掛けたが、皆一心不乱にぶつぶつと独り言を口にし、ペルの言葉などまるで聞こえていない様子である。
「徴兵令反対、正后を廃せよ。」
「徴兵令反対、正后を廃せよ。」
灯己とペルは顔を見合わせ走り出した。大門を出た先で表街中街から合流した列が加わり、その列は大きく膨れながら千城宮へ続いていた。灯己は愕然とした。いつの間にこれほどまでに不満が膨れ上がっていたのか、全く気付かなかった。
「ペル、おれは城に戻る。」
駆け出した灯己の背を、ペルは呆然としたまま見送った。こんな計画がこの世界を創った時にあっただろうか、とペルは思った。こんなにたくさんのひとが死ぬことになるなんて、聞いていなかった。
執務室で書類に目を通していた燈羨が突然立ち上がり、椅子が大きな音を立て倒れた。
「どうなさいました?」
駆け寄った煌玄は血の気の引いた燈羨の顔を覗きこんだ。
「ひとがいっぱい死ぬ。」
そう呟いた燈羨はっとしたように口に手を当て、
「いや、白昼夢を見て。」
と取り繕うように目を伏せたが、煌玄にはそれが予知であるとわかった。子供のころから度々あったことだった。突然ぽつりと予言めいたことを口にし、それがその通りに起こった。十五を過ぎたあたりから口にしなくなったが、それは予知であると燈羨が自覚したためであり、予知しなくなったわけではないのだろうと煌玄は考えていた。燈羨がはっとして口を噤み、憂いに満ちた瞳で物思いに沈むことはしばしばあり、そうすると必ず良くないことが起こった。
煌玄は優しく燈羨を抱きしめ、震える背中を撫ぜた。
「どんな夢なのですか?」
「中門広場でたくさんのひとが。」
ばたばたと廊下を走る音がし、激しく扉が叩かれた。第三部隊五位と名乗り、軍士が声を張り上げた。
「申し上げます!城門に民衆がぞくぞくと集まっております!その数千人にのぼるかと。」
燈羨と煌玄は顔を見合わせた。
「正后様の徴兵令に対する抗議に、正后様が民衆へお言葉をお与えになると仰せになり、麗威様が正后様を引き止めておりましたが、一位殿が正后様をお連れになり、中門広場へ向かわれました。」
「行かなくては。」
ふらりと力が抜けた燈羨を、煌玄が抱き留めた。外套を燈羨の肩に掛け、自らもマントを羽織ると燈羨の冷たい手を引いた。
その頃中門広場には何千という民衆が集まり、羅梓依へ抗議の声を上げていた。広場の奥の閉じられた中門の内では、麗威が懸命に羅梓依を引き留めていた。
「正后様、いけません。帝のお許しなく民衆の前にお姿をお見せするなど。」
「手をどかしなさい。皆、私に会いにいらしているのですよ。」
二人の様子を愉快そうに見つめる珠峨が、羅梓依の手を引いた。
「正后様のおっしゃる通りですわ。民衆にお言葉をかけて差し上げたいという正后様のお優しさを邪魔するなど無粋。さあ、参りましょう。」
「珠峨様、お待ちください!正后様!」
珠峨は少しも躊躇することなく中門の扉を開けた。数千もの怒号が轟き、麗威は思わず耳を塞いだ。珠峨が進み出た。
「皆様、よくぞこの千城にお集まり頂きました。」
民衆の中から、珠峨様だ、一位殿だ、という声が上がり、怒号が止んだ。
「執政官一位珠峨にございます。これより、正后様からお言葉を頂戴致します。謹んで拝聴しますよう。」
珠峨が跪き、羅梓依が歩み出ると民衆からどよめきが起こった。思わず跪く者、地に頭をつける者の姿もある。
「皆様、本日はようこそお集まりくださいました。私に申したき儀がございますれば申されませ。」
一人の男が立ちあがった。
「何が申されませだ、こんな安住の城でおれたちの苦しみをわかりもしないで着飾って面白おかしく暮らしてるのに、おれ達から子供を取り上げようってのか、断れば重税を課すなど、それがこの国の上に立つ者がすることか!」
声を上げた男のところへ向かおうと立ち上がった麗威を羅梓依が制した。
「思い違いをされているようです。私は、私を守っていただくために、兵を集めているのです。私を守ることが苦しみと?」
広場に騒めきが広がった。
「私は、悲しんでいるのです。正統なる神苑の遣いである竜胆家の私を蔑ろにするこの帝国は必ずや罰が当たりましょう。しかし、私を守ってくださる方々には神のご加護があるでしょう。私は、この国の民に、その機会を与えているのです。」
「よく言うぜ!それじゃあ、あんたたち神苑の縁者がいままでおれたちに、この国に何をしてくれたんだ?これから何をしてくれるってんだ?」
先ほどの男が再び叫び、そうだそうだと同調する声が広がっていく。
「私を信じる者を、私は必ず救います。信じぬ者には報いを与えましょう。」
「何ができるって言うんだよ。」
「私を信じる者は、耳をお塞ぎなさい。」
ぎょっとした麗威が羅梓依に駆け寄ろうとしたが、珠峨に阻まれた。広場には恐る恐る耳を塞ぐ者もいれば、立ち上がり声高に不満を叫ぶ者もいる。麗威は必死に声を上げた。
「羅梓依様、いけません!」
羅梓依に取りすがろうとする麗威の手を珠峨が振り払い、顎で背後を示した。振り向いた麗威は、千城宮の回廊からこちらへ駆け寄る燈羨と煌玄の姿を認め、顔を青くした。
「帝、煌玄様、こちらにいらしてはいけません!耳を塞いでください!早く!」
麗威の切羽詰まった様子に、煌玄は咄嗟にマントで燈羨を覆い、自分の耳を塞いだ。ほぼ同時に羅梓依の唇が動いた。麗威は絶望に目を瞑り、自らの耳を塞いだ。
羅梓依の可愛らしい声が止んだ時、広場は静まり返っていた。
燈羨は煌玄の腕を振り解きマントを払った。目の前の布が翻り、開けた視界に広がるのは、千の死体であった。
耳を塞いでいた人々は唖然として、隣に転がる屍を見つめていた。羅梓依は高々と手を天に指し、声を上げた。
「私を信じる者へ神のご加護を。」
わあああと人々の悲鳴が幾重にも響いた。口々に羅梓依様万歳という声が上がり、悲鳴に羅梓依を賛美する声が重なっていく。羅梓依に縋りつこうと人々が詰め寄り、軍士達が必死にそれを止める。その様子を、羅梓依と珠峨は満足そうに微笑みながら見つめていた。燈羨は膝から崩れ落ち、その場に蹲った。
「羅梓依を捕らえろ。」
燈羨のその呟きが命令であることを軍士達が理解するのに暫しの間を要した。
「門を閉めろ!」
そう叫んだ麗威の声に我に返った軍士達が羅梓依を取り押さえるようにし、門の中へ引きずり込んでいく。大きな音を立て、門は閉められた。
蹲ったまま顔を上げた燈羨の目に燃える怒りの炎を、珠峨は興味深そうに見つめていた。燈羨に駆け寄ろうとする煌玄の肩に手をかけ、ここに居るようにと目くばせすると、珠峨はゆっくりとした足取りで燈羨の元へ戻った。蹲る燈羨に跪き、手を伸べた。
燈羨は震える手で珠峨の胸ぐらを荒々しく掴んだ。
「おまえ、何をした?僕の国に、僕の民に、おまえは何をしたんだ!」
「あなた様の?」
珠峨の冴え冴えとした瞳が、冷ややかに燈羨を見下ろした。
「私の作った国です。私が作った民です。」
燈羨は目を剥き、奥歯を噛んだ。あまりの怒りに言葉が継げず、肩で息を継ぐ燈羨へ珠峨は歪な微笑みを向けた。美しい装飾の施された長い爪が輝く指で、飼い犬をなだめるように燈羨の髪を撫でた。
「私は、あなた様の望むものを連れてきて差し上げたではありませんかあなた様の元へ。」
「僕だって、おまえに与えたはずだ、おまえの望んだ地位を。」
「そうですとも。ですから、これで互いに貸し借りはなし。あとは、奪い合うだけにございますよ。」
燈羨の振り上げた腕を、珠峨は軽く受け止め、頬を寄せた。
「私からこの国を奪ってごらんなさい。最も不出来な帝王よ。」
珠峨は高らかに笑うと、燈羨を振り払うようにして立ち上がった。
「この、呪い憑きめ。」
背を向け去る珠峨の姿が燈羨の視界の中で涙に歪んだ。ああ、と燈羨の唇から漏れた悲嘆は叫びとなり、燈羨は天を仰ぎ叫んだ。叫び続けた。




