2幕 飛都の子ら 8
飛都帝国における歴史で初めて代表二位会議の壇上に立った正后、羅梓依は悲劇の最中にあった。
「私が珠峨と蘭莉の不仲を取りなすよう、久渡に申したばかりに、久渡はあのような変わり果てた姿に。私がそう申したばっかりに。」
羅梓依は声を詰まらせ壇上で泣き崩れた。扇で顔を覆う羅梓依に女官たちが駆け寄り慰める様子を、灯己は円形議場の最後列に座り眺めていた。議会での発言は禁止されているが、見ているだけなら良いという燈羨の許可をふんだくったのだった。灯己は議場を見渡したが、珠峨の姿はなかった。
珠峨の下女久渡は羅梓依の頼みで珠峨との仲を取り持つために蘭莉を羅梓依の花園に招き、そこで蘭莉に殺されたという。なぜ殺されたのか、知る者はいない。憶測のみが飛び交う。珠峨からはこの事件の概要と悲嘆を述べた一筆の文が差し入れられただけであった。なるほど、と灯己は思った。珠峨はこの事件の主役の座を羅梓依に譲り渡したのだ。端からそうするつもりだったのだろう、そのために蘭莉との和解の場をわざわざ羅梓依の庭にしたのだ。しかし、なぜ、何のために、羅梓依を悲劇の主人公にするのか。
「このような惨劇が私の庭で起こるなど、恐ろしくて夜も眠れない日が続いております。本来私と帝を守る役目の帝軍が、このように私を苦しめるとは本末転倒。軍部の方が珠峨の何を疑わしきとされているか、私は存じませんが、これは帝の御命令ではなく、蘭莉の私的な疑念によるものであったと聞きます。私欲でこのような事件を起こすとは、軍部には失望しました。」
玉座に座る燈羨がうんざりしたように、后、と声を掛けた。
「后、そのくらいで良い。そなたの申すことはよくわかった。」
いいえ、と羅梓依は答えた。
「帝には、いいえ、この千城を取り仕切る皆様にも私の嘆願をお聞き届けいただきたく。」
羅梓依はゆっくりと円形の議場を見渡し、その視線を燈羨に留めた。
「私は私の奥宮に新たに信用のおける近衛隊を置くことを要求します。帝の軍ではない近衛隊を。」
議場がどよめきに揺れた。灯己は体重を背もたれに預け感嘆の声を上げた。なるほど私兵の要求か、これはいくら天下の一位殿でも無理なことだ。燈羨を見ると、扇で顔を隠しているが肩が震えている。笑いを堪えているのがわかる。
「后よ、どのようにして集めるというのだ。」
心底呆れたというような燈羨の声に、羅梓依は顔を赤くし声を張り上げた。
「千城の民衆から取り立てますわ。いいえ、飛都中から探しても良いでしょう。この世にはたくさんの民がいるのですから、十人や二十人、いえ百人を探すのだって簡単なことでしょう。」
困惑に顔を見合わせる文官の中から、夕凪が進み出た。
「畏れながら。」
申せ、と燈羨が促し、夕凪は低頭し言葉を続けた。
「畏れながら正后様。帝軍の軍士は六位以下の者でも帝王直属の配下という特別な地位を持っております。というのも非常時には軍士に身分はなく、皆が帝のお側に仕えお守りするからです。そのために士官学校の試験では、武道はもちろんのこと、帝のおそばに置くにふさわしい精神の持ち主かどうか、帝への忠誠心が厳しく審査されるのです。そして士官学校では帝への礼儀と忠誠をたたき込まれ、士官学校から帝軍へ入軍するときには最も厳しい審査が課されます。そのように時間と労力と金銀をかけて選び上げ、剣を持つことを許されたものだけが帝軍士として帝のお側に参じることができるのです。正后様のお側に寄るものとて同じことでございます。千城の民衆からひょいと簡単に選んだ者を正后様のお側に置くことなどできません。」
「それならば同じように時間と労力と金銀をかけて選べば良いでしょう。」
畏れながら、と叫ぶ者がもう一人あった。管財官一位磁樹が歩み出た。
「良い、申せ。」
と燈羨が促し、磁樹は低頭し言葉を続けた。
「女官長殿が仰いましたように、軍官の選別は一朝一夕にできるものではございません。士官学校入学審査と入軍審査を経て、はじめて千城宮に入ることができるのです、それを経ぬ者に武具を持たせ千城に入れるなど恐ろしいこと。それに、新たにつくるには時間も費用も必要でございます。どうか、ご身辺の警護は軍士殿からお選びください。」
羅梓依はきっぱりと拒絶した。
「軍部には失望しているのです。士官学校の生徒とて一味同体。私の為だけに忠誠を誓うものを新たに取り立てなければ意味がありません。」
「しかし、近衛兵を新たに雇い入れるには、選別機関のほかにも莫大な費用がかかります、武具を揃えるにも、食事も、それに給金も。」
「ならば今いる軍士を解雇すればよいでしょう。」
「それはできない。」
美しくよく通る声に胸を掴まれ、皆が燈羨を見上げた。燈羨が立ち上がり、壇上の羅梓依へ歩みを進めた。
「軍士は皆、私の為に命を懸けているのだ。それも今日昨日に覚悟したものではない。士官学校への入学を志した幼き頃からずっと私の為だけに生きてくれている。その志を、この私が手折ることがどうしてできる?后よ、何も知らぬそなたが出しゃばる場ではない。」
ぞわりと肌を撫でる燈羨の神々しさに、皆が息を飲むのを灯己は見て取った。窮するかと思われた羅梓依は、しかし退かなかった。
「お言葉ですが帝、帝こそご存じ無いのではございませんこと、正后には帝王の五分の一に当たる議会での発言権がありますのよ。」
小さなどよめきが起こった。そのような議律があることを燈羨の他には誰も知らなかった。燈羨が芝居がかった身振りで溜息を吐いて見せた。
「その議律に則りたいのならば、即刻黙ることだ。そなたはすでに私の十倍、言を述べている。」
燈羨の奴羅梓依を見くびっていたな、と灯己は面前で繰り広げられる夫婦喧嘩に口角が緩んだが、燈羨を睨んでいた羅梓依の視線がゆっくりと宙を切り、こちらへ据えられたことに気付くと口元を引き締めた。羅梓依は灯己を見ていた。
「では、元帥灯己は。」
灯己は静かに羅梓依の瞳を見つめ返した。
「帝のお傍に寄る軍士が特別でなければいけないと仰るのに、士官学校も出ていなければ入軍審査も受けていない、汚らわしい裏街の者を軍部の最高司令官として帝のおそばへ剣を携え仕えさせることが危険ではないと?」
丸い議場にざわめきが波紋を描いて広がっていく。
「后。あれは私に危害を加えることはできないのだよ。そのようにできている。灯己はこの世で最も安全な配下だ。そう、信じるに値する人物だ。」
燈羨の言葉に、強い眼光を携えて灯己を見据えていた羅梓依の瞳から光が失われていく。
「疑うならば軍士に訊くと良い。一人残らずこう答えるだろう、彼女を敬い尊ぶと。」
光を失った羅梓依の瞳から、涙が溢れ流れ落ちた。
「私には奥宮の主として奥宮に仕える女官たちを守る責任があります。彼女たちの怯えようを皆様にお見せすることができたら、私のこの苦しみも分かっていただけるでしょうに。」
間違いの始まりが何であったか、燈羨は思い出そうとしたが、もはや靄がかかるほどに、緒の端は遠く手繰り寄せることができない。羅梓依が落とす涙の一滴ごとに、議場の同情が羅梓依に傾いていくのが、手に取るようにわかった。燈羨は扇を閉じ、振った。
「后。もう良い、下がれ。」
「畏れながら。」
その声に皆の視線が議場の前方へ注がれた。立ち上がったのは執政官二位木槌だった。
「畏れながら、陛下。正后様のお嘆きはごもっともと拝聴致しました。お庭での惨事、まことにおいたわしきこと。」
燈羨は息を飲んだ。いけない。木槌がそれを述べたら風向きが変わってしまう。燈羨は扇を振り、木槌を制止しようとしたが、それより早く木槌の口は開いてしまった。
「神格家のご一族であらせられます正后様はこの帝国においてまさに信仰の具象。その正后様がこの千城で軽んじられるなど由々しきことでございます。民衆が許しはしません。是非に、慈しみ深きお計らいを。」
決壊した溜池の水が止めようもなく田畑を飲み込んでいくように、議場の気配が木槌へ同調してく。木槌の周りの文官たちが立ち上がり、是非に、是非に、と口々に唱え始める様を、燈羨は呆然と見渡した。
「それで、蘭莉ってひとの審議はどうなったの。」
達は灯己に呼び出され、中街霜町で雨寂が切り盛りする飯屋「松江」の隅で昼飯を食べていた。
「どうもこうもねえよ、保留だ保留。議題はすっかり羅梓依の私兵新設の話にすり替わっちまった。」
ぶすりとして達と向かい合い飯を口に運ぶ灯己は軍服ではなく商家の下男のような恰好をしていた。商家の下男にしてはやけに威圧感のある灯己と、娼妓見習いにしてはやけに上背のある達の取り合わせはまわりからどう見えているだろうかと達は思ったが、灯己は全く気にしいない様子で、がつがつと飯を食い続けた。
「なんでそんな恰好してるの?軍服着なくていいの?」
「謹慎中だからな。」
「謹慎中なのに外出ていいの?それ変装のつもり?」
貴族御用達の商家の立ち並ぶ表街からひとつ裏へ入った中街は千城一の繁華街である。庶民的な店が軒を連ね、昼時の「松江」は商人や職人で大いに賑わっていた。
「ここらの連中におれが帝王の犬だと知れたら殺されるかもしれないだろ。」
「殺される?灯己が?殺すの間違いでなくて?」
灯己は鼻を鳴らし、黙って飯を口に運んだ。黙々と飯を食っていると周りの会話が耳に入って来る。話題は専ら羅梓依の悪口であった。羅梓依の泣き落としと文官たちの懇願に、燈羨は首を縦に振るよりほかになかった。正后の発した突然の徴兵令に、飛都の国民は困惑を極めた。
「ひどい言われようだね、お后様は。」
「ここらの商人からしたら、せっかく育てた働き盛りを正后に横取りされるわけだからな。頭にくるさ。でも、子だくさんの貧しい家じゃ喜ぶ親もいるだろ。食事に寝床付きで給金ももらえるんだからな。士官学校で厳しい訓練を積まずに正后お抱えになれるのをしめたと思う輩もいるだろうな。」
珠峨の狙いがはじめから私兵を持つことであったなら、蘭莉はそのために利用されただけということになるが、と灯己は考えた。それだけならば簡単な話だ。しかし、グレイスが麗威へ示唆したように神言反呪が関わっているなら、簡単な話ではないのかもしれない。
「そういえば、第二妃の話は無しになったんだってね。お店のお姉さんたちが噂してたよ。」
「ああ、私兵を雇わなければならないほど危うい奥宮へ新たに后を迎えるのは忍びないって羅梓依が泣いて訴えてね。笑らわすな、卯杏は軍士だぜ、刺客が入ったって自分で仕留められる。」
「まあ、でも、ほら、前の帝王も刺客に殺されたんでしょ?どんなに守りが堅くったってそういうことだってあるわけだし。」
あれは、と灯己は口を開きかけ、やめた。食器を置き、本題に入ることにした。
「うまくやった、と思わないか。」
達が、え、と聞き返す。
「羅梓依さ。第二妃の話が流れて、おれはなるほど、と思った。全部羅梓依の作りごとだとしたら、羅梓依はだいぶうまくやったってね。」
望みを叶えるために愛猫を殺せる羅梓依ならばそうすることを厭わないだろう。
「どういうこと?」
「おまえが捕まった刺客騒ぎ、そして、おまえを逃がしたあの呪文も。すべて卯杏属する帝軍の信用を失墜させるためだとしたら辻褄が合う。」
達は腕を組み首を捻った。
「うーん、でも、おれが捕まった刺客騒ぎは、グレイスの仕業でしょ?それにカラスも。お后様とカラス、それにグレイスがグルだっていうわけ?それはどうよ?」
「神苑とつながりのある竜胆家の者なら神苑のグレイスと何らかの接触がってもおかしくない。」
「だけど、神苑の信者の間ではグレイスみたいな邪神を信仰するのは禁じられてるってペルが言ってたよ。正当な神苑信者の娘が、その掟を破るかな?それにあの呪文だって、当主しか知らないんだろ?」
「可能性の話だ。」
達、と灯己は真っ直ぐに達の目を見つめた。
「千城宮へ行ってみるか?」
「え?」
「千城へ潜り込むいい機会だ。達、羅梓依の近衛兵に志願しろ。」
「え!?」
困惑する達に、灯己は顔を寄せ、声を落とした。
「おまえにあの神言反呪を送ったのが羅梓依かどうか調べて来い。それを確かめられるのは声を聞いたお前しかいない。」
達は灯己から身を引き、いやいやと首を振った。
「ちょっとちょっと冗談でしょ?だって、あの呪文の紙くれた女は、おれのこと殺そうとしたのかもしれないんだよ。そんなのにまた近づいたら今度こそ殺されるでしょ。」
「それはわからないぜ。逆に逃がしてくれたのかもしれないしな。」
「いやいやいやいや。待って、要するに、囮になって真相を確かめろってこと?」
達の呑み込みの早さに、灯己は感心し晴れ晴れと笑った。
「そういうことだ。」
「おれを殺すつもりだったかもしれない、しかも唱えるだけで人を殺せる、とんでもない呪文持ってる人のとこに、灯己はおれを送り込むわけ?」
「あの呪文の紙の女が羅梓依だと決まったわけじゃない。」
「いや、その可能性かなり高いじゃん。」
「だろう?だから確かめて来いと言っている。」
「ねえ、リスクありすぎるから。おれ、声しか聞いてないんだよ?それもものすっごい小さい声。たぶんもう覚えてないし。」
「聞けば思い出すだろ。」
まるで取り合う気のない灯己の様子に、達の背を冷汗が伝った。これはもう、灯己の中で決定事項なのだと、達は悟った。
「おまえが行ってくれるなら、今羅梓依の警護についてる麗威に事情を話しておまえのことを護らせる。あれなら神言反呪を操れるし、万が一、羅梓依がお前を殺そうとした時に助けてくれる。たぶん。」
「おい、たぶんって、おい。」
「麗威は羅梓依に嫌われているからな。麗威がこれからも羅梓依の警護が出来るのかどうかは定かじゃない。ははは。」
「はははって、笑い事じゃねえよ。」
「近衛隊ができたって、素人の集まりに過ぎない。しばらくは今まで通り、彰豼と麗威を羅梓依の警護につける。これは帝王の命だ。それに、いくら嫌いだって、麗一族は神格家の歴とした縁戚。当主からも帝王からも信頼されている縁者を、正后と言えど一存で無下にはできないよ。」
達は息を吐き、考えようとしたが、やめた。考える余地はないのだ。
「わかったよ。声を確かめるだけだ。そうしたら、おれは抜ける。」
「いいだろう。それはなんとかしてやる。」
灯己のこういう気風の良さだけは好ましいと達は思う。
「だけど、おれまだ帝軍に追われてるんだよね?大丈夫なの?千城に入って。」
「あのときおまえの顔を見たのは麗威の隊の者だけだ。将の麗威にはおまえを泳がせていると言ってあるから大丈夫だ。」
「でも牢入るときに似顔絵描かれたんだけど。そんでそれ帝王に見せるって言ってたよ。」
灯己は、はは、と乾いた声で笑った。
「おまえのような得体の知れない近衛兵が帝王に拝謁する機会などあるものか。」
「それ、灯己が言う?自分だって得体の知れない元殺し屋でしょ。」
達の皮肉に灯己は真面目くさった顔で答えた。
「おれはあれのこの世で一番安全な配下だよ。おれはあれを殺すことはできないようになっている。」
なっている?と達は訊き返した。
「どういうこと?」
「おれの体には帝王の呪いがかかっている。」
「呪いってどんな?」
「信じているんだ。」
「は?」
「あれはおれを信じている。」
達はぽかんとして、大真面目な灯己を見つめた。
「それを、呪いだって灯己は言うの?」
灯己は頷いた。
「そのせいでおれはあれの傍にいなきゃならない。そのせいで、生きてなきゃいない。」
「つまり灯己は、帝王が嫌いなの?」
ん?と灯己は眉間に皺を寄せ達の瞳を見返した。
「そうじゃないなら、生きていたくないのか?」
僅かに灯己の瞳孔が広がり、ぽかんと口が開きかけたが、灯己は達から視線を逸らしその表情を隠した。軽く鼻で笑い、顔を上げた灯己はいつもの隙のない顔つきに戻っていた。
「常日頃から生きたいなんて思うのは、よっぽど考えることのない暇人だけだ。ひとは、死ぬ危機に瀕して初めて生きていたいと思うものだからな。」
はぐらかされたようだと達が気付いた時、灯己は席を立っていた。
「おれはもう戻るがゆっくりしていけ。」
達の分も小銭を置こうとする灯己を、達は止めた。
「働かざる者食うべからずですから。あんたに借りがあると怖いんで。」
今回の近衛隊潜入だって灯己に借りを作ってしまったために引き受けざるを得なくなったのだが、灯己は達の嫌味を意に介さないような素振りで話を続けた。
「徴兵の件、ペルには言ってく。あとでペルを華巻にやろう。世話になった姉さん方には自分で挨拶を、」
達は灯己の袖を引いた。
「だから、言われなくてもそうするから。おれもう十七だし。大丈夫だから。意外に世話焼きだな。」
灯己は片眉を上げ苦々しく笑った。二度達の肩を軽く叩き、灯己は達から離れた。
厨房にいる雨寂という店の主人と二三言葉を交わし店を出ていく灯己の姿を、飯を頬張りながら達は見送った。もしかしていわゆるツンデレというやつなのだろうか、と思った。そう思えばこれまでの灯己の不遜な態度もいくらかはかわいく思えないこともない。いくらかは。
華巻に帰った達は早速嬋紕の部屋へ徴兵令に志願する報告へ向かったが、嬋紕の部屋の前まで来たところで姉様方に見つかり茶挽きの間まで引きずるようにして連れ戻された。
「今日は大姐様のお部屋に近づいてはなりんせんとあれだけ申したのにこの子は。」
「どうして。」
姉様方に叱られ達はぶすりとして口を尖らせた。
「今日は黒のお方がおわしでごんす。」
「黒のお方?」
「大姐様の、ですから、」
一番年季の長い姉様が辺りを憚るように見渡してから声を潜めた。
「時々おわしになる方で、わちきらは黒のお方と読んでおりんす。それが、つまり、大姐様のお色さんじゃと。」
「お色?あ、恋人ってこと?」
姉様方はしいっと赤い唇に白い指を当て、達に顔を寄せた。むうっと強い香がいくつも混ざり、達は頭がくらくらした。姉様方は達の耳元で黒のお方の噂話に花を咲かせた。
「黒のお方がおわしの日は、姐様は他のお客さまを取りんせん、そうにきまっておわしんしょ。」
「そうそう、そうして部屋には誰も近づけんようおっしゃりんす。」
「何者なのか誰も知りんせん。」
「ただ、いつも黒いお召し物だもんで、黒のお方、と。」
「ああ、最近はお連れになりんせんけど、前はよくお付きの女の子を。」
「そう、黒のお方が姐様のお部屋にいる間、よく遊んであげんしたね。」
「あれも不思議な少女でごんしたね。色が白くて。」
「そうそう、確か口が利けんした。」
「髪が長くて、瞳が翡翠のようで。」
「あれは奇鬼児でありんしょ。」
皆がわっと沸き、すぐにしいっと指を立て再び額を寄せ合った。
「それを言ってはなりんせん!」
黒い服の男、緑の目の女の子、口が利けない奇鬼児。達は馨しい匂いの中で、ぼんやりと記憶を手繰り寄せた。なんだったろうか、黒い服の男、緑の目の女の子、口が利けない奇鬼児。妙に引っかかる。
奥の廊下から歩いてくる人の気配に姉様方が一斉に口を閉じ、身を竦めるようにして聞き耳を立てた。嬋紕の香と、嗅いだことのない不思議な匂いが足音と共に、部屋の前を通り過ぎていく。達ははっとして、転げ出るように障子を開け廊下に飛び出した。黒い服の男、緑の目の女の子、口の利けない奇鬼児。振り向いた男の姿に達は唾を飲んだ。カラスだ。左手がなく左目に眼帯をつけているが、灯己に見せられた記憶の通りのカラスだ。
「達、どうしたえ?」
嬋紕の柔らかい声に、達は我に返った。じっと達を見下げるカラスの闇のような瞳から、目を逸らすことができない。何とか取り繕わなくては、と達は焦った。
「あ、大姉様にお話したいことが。正后様の徴兵に志願しようと思いまして。」
まあ、と茶挽きの間の姉様方から驚きの声が上がった。嬋紕は美しく微笑み、頷いた。
「こちらのお客様をお見送りしたらすぐ参りんす。」
嬋紕はカラスを促し背を向け歩いていく。カラスは背を向ける際の際まで、達から目を離さなかった。二人の後姿が廊下の角を曲がり見えなくなると、達は背がびっしょりと汗に濡れていることに気付いた。あれが一度死んだ者の目だろうか。灯己の目に見つめらるより、数倍怖ろしい。達は立ち上がると、店の裏庭へ駆けた。華巻の裏戸から外に出ると建物に伝い隠れながら表に回り店の正面を覗いた。
嬋紕とカラスが言葉を交わしている。達はもう一度建物の裏に回り、鬘を取った。水場で濡らした手拭いで顔を擦り、化粧をふき取りながら表に回った。表を覗くと、頭を下げる嬋紕にカラスが背を向け歩き出すところだった。達は娼妓の衣装を脱ぎ捨て、嬋紕が店に入るのを確認すると、そっと押し戸を開け、表通りに出た。繰弄の後をつけていく。大門へ差し掛かり、顔なじみの門番の前を通るのには緊張したが、少しも気付かれずに過ぎた。ほっと息を吐き、再び気を引き締めカラスの背中を追った。カラスは花街から表街に入った。夜も更けかけ人気の少ない大通りを、カラスは颯爽と歩く。このまままっすぐ行くと、千城宮の大門に着く。まさか千城へ入るつもりか。達は物陰に隠れ、じっとカラスを見守った。カラスは大門に差し掛かると門番と二三言葉を交わし、門を潜った。達は絢爛と明かりの灯される千城の大門を見上げた。その奥に続く大階段、そしてその向こうに聳え立つ、千もの館と帝王の住まう緋天殿。なぜ、カラスが千城に入っていったのか、達には考えてもわからないことだった。門番と顔見知りの様子から、幾度も訪れていることがわかる。ここにカラスがいるということは、あの奇鬼児の女の子も、もしかしたら薫も千城にいるのだろうか。もしそうならば近衛隊に入るのは正しい選択だと思えた。とにかく、今日のところは灯己に報告しなくては、と中街の方角へ踵を返した達の喉元に、鋭利なものが突きつけられた。達は息を飲み、その突きつけられたものを見た。細い刃物だ。細い刃物は刀であり、その柄を握り達の目の前に立ちはだかるのがカラスだと理解するのに、いくらか時間がかかった。だが、その時間をカラスは殺さずに待っていた。つまりこれはパフォーマンスなのだと達は理解した。
「追尾のカラスってのを知らねえのか?」
カラスの声は低く、堅気ではない圧力があったが、は?と訊き返すだけの心の余裕が達にはできていた。
「追尾のカラスを追尾しようなんざ、間抜けのやることなんだぜ。」
何を言っているのだろう、と達は目の前の黒尽くめの男を見つめた。不思議な匂いが鼻をくすぐる。
「おめえが灯己の犬か。おれを探せと言われているのか?」
「正直、あんたのことはどうでもいい。おれが探しているのは、アルの女だ。グレイシー・ディティが連れてきた女。あんたがグレイシー・ディティと薫となんの関係もないなら、おれはあんたを追ってもしょうがないんだけど。」
達の動じない様子にカラスは面食らったようだった。達はそうっと剣先が喉に触れない位置へ足をずらし、上目遣いにカラスを見上げた。
「そこんところどうなんですか?」
カラスはしげしげと達を見下ろした。
「へえ。なるほどね。なかなか骨があらぁ。てめえのようななんの力もねえ小僧が、この千城でどこまでやれるか見物するも一興。」
カラスは刀を鞘に戻した。
「その女に会いたいなら正后の近衛隊に志願するのは悪くない選択だと思うぜ。」
「どういうこと?女って、薫のこと?」
色めき立つ達に、急に興味が醒めた様子で繰弄は背を向け歩き出した。
「せいぜい足掻けよ。」
「おい。」
行ってしまうかと思われたカラスがふいと振り向いた。
「でもタダで見逃してやったんじゃおれが怒られるわな。」
なんなんだ、情緒不安定か?と達は眉を顰めた。
「どっちだよ。」
カラスは口角を上げ、犬歯を剥き出しにした。個性的な笑い方をする、と達は思った。
「交換条件といこうぜ。灯己にも、あの小鬼にも頼らずに、おめえ一人の力で目当ての女を救うことができたら、おめえには手出ししねえ、無事にアルへ帰してやる。どうだよ?」
「そりゃあ願ったり叶ったりだけども、それであんたになんの得があるんだ?」
カラスは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「損得勘定ばっかしてっとろくな人生送れないぜ。女を救いたけりゃとっとと灯己の前から失せな。迷う余地あるかよ?」
達は口を結んだ。カラスの言う通りなら、乗らない手はない。
「わかった。その代わり約束は守れよ、いいな。」
「ああ、行けよ。」
闇に混ざり小さくなる達の足音を聞きながら繰弄は背を向けた。背を丸め、大階段を上がっていく。外套の高い襟に埋めた口元が緩んだ。
「馬鹿が。一人でできるかよ。死ね。」
独り罵詈雑言を並べ、繰弄は笑いに身を震わせながら千城宮の階段を上って行った。




